2009年06月18日

分けられる数!?4

53318f7d.JPG 初任者の授業中、わたしが口をはさむことは、基本的にはしないように心がけている。

 しかし、例外はあるのであって、今回も思わず、大声を出してしまった。

 
 3年生の算数。割り算の授業である。

 『6÷3=2』と板書されていて、『6は割られる数、3は割る数』をおさえようとしていた。


 そのとき、Aちゃんから、『6は分けられる数、3は分ける数』という発言があった。


 他の子たちから、『違う。』『おしい。』の声。

 『おしい。』の声は、おそらく、ひらがなで言えば、一文字よけいなものが入ってしまったという意味だっただろう。

 そして、そのあと、『割られる数、割る数』と、正しく(?)おさえることができたのだが、・・・。


 一件落着しかけたときである。わたしは思わず、後ろから声を出してしまった。

「それでいいのだけれど、でも、さっきのAちゃんの、『分けられる数、分ける数』も合っていると、わたしは思う。」


 一瞬、シーンとしてしまった教室。初任のBさんも、『toshi先生は何を言うのだろう。』とばかり、好奇心の感じられる表情だ。


 そうしたら、Cちゃんから、
「割り算は、みんな、分けているから。」
の発言あり。


 そこで、これまでの割り算の教科書の記述をふり返ってみる。

 Cちゃんの言う通りなのだ。どのページも皆、『分けると、〜。』『まだ、分けられる。』『分けます。』のオンパレード。割り算はみんな、分け算(?)なのであった。


 
 以前も書かせていただいたように、

 小学生の学習は、大人がつくり上げた学問体系の基礎を学ぶのではない。子どもの生活経験のまとまりが『単元』であり、そのまとまりをもとにして価値を深めていくのだ。

 したがって、『割り算とは分ける計算』としてしか学んでいないこの段階では、『分けられる数』も正解としてやらないと、子どもがかわいそうなのである。


 いや。ただ単にかわいそうというだけではない。

 『数学的な思考力』を養うという観点、そして、もっと言わせてもらえれば、『学び方』『学ぶ態度』『真理の追求』という観点から、この問題を考えたとき、

 これを、『正解』として扱ってやることは、とても大切なことなのではないか。


 いや。もっと言ってあげなければいけないね。

 だって、『分けられる数、分ける数』なんて、教科書にはもちろん書いてないし、すでに多くを学んでいる大人にしてみれば、誰もが、思いつくはずもない言葉だよね。

 この、Aちゃんが、真剣に学んでいるからこそ、そして、自らの学びに忠実だからこそ、出た言葉だ。

 わたしは、実は、感動すら覚えてしまったのである。


 こうした学びには、大人は誠意をもって応えなければいけない。それでこそ、『真の納得』『真摯に学べば報われる。』という気分を養うことができる。

 大人は、子どもの学びのまえで、正直でなければいけない。飛躍があってはいけない。謙虚でなければいけないのだ。


 違った見方をすれば、この教科書に注文をつけたい。


 このあとすぐ、『DはEの〇倍』の学習をする。

 ここで初めて、『分け算でない割り算』を学ぶ。

 だから、『割られる数、割る数』のおさえは、そのあとの方がよくないか。


 いや。現状でもいいか。

 この、『分け算でない割り算』を学んでいる、ある段階で、教員はすっとんきょうな声を上げればいい。

「あれ。この問題は、分けていないね。それなのに、割り算でいいのだ。」

 その方が、割り算の意味を、深く理解することになるのではないか。



 さて、以上述べてきて、教え込み主義者からは、反論されるかもしれない。

 「そのようなことをしたら、子どもが混乱するだけではないか。どうせすぐ修正を図るのなら、最初から、『分けられる数、分ける数』は、誤答として扱った方がいい。」

 そう。ある意味ではその通り。

 それは、子どもが言いもしていないのに、指導者側から、『分けられる数、分ける数』などともちかけることはない。それは確かに混乱につながることもある。

 あくまで、日ごろ、自ら学ぼうとする態度、意欲的に学ぶ態度が養成されていて、試行錯誤により価値を深め合うことに喜びを感じる雰囲気が学級にある場合に、また、そうした学級づくりを目指している場合に、こうしたことは有効に機能するのである。


 そして、教え込み主義者に、あえて警告したい。

 「あなたこそ、指導者側から、一方的に、先行して、ある種の知識を与え、子どもを混乱させてしまうことはありませんか。」
と。

 おうおうにして、自分は知っているものだから、よけいなことまでおさえようとしてしまうことがあるのだ。気をつけたい。

 
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 つけたしですが、

 わたしは、本記事において、『分け算』なる言葉を使いました。そして、本記事の読者の方は、この言葉の意味を、瞬時に理解してくださったことだと思います。
 
 しかし、あらためて申し上げる必要はないくらいですが、このような言葉は、一般に通用する言葉ではありません。『知識・理解』からすれば、意味のない言葉です。もちろん覚える必要もありません。


 それならムダでしょうか。

 いえ。思考を助ける意味では、実に有効ですね。

 別な言い方をすれば、『学級の中だけで通用する言葉。』とも言えます。

 そういう言葉を、大切にしたいものです。
 
 一見ムダのようで、実はムダではないのですね。


 ちなみに、本授業のあと、子どもたちは、盛んに、『分ける算だ。分ける算だ。』と言っていました。    

rve83253 at 06:03│Comments(9)TrackBack(0)指導観 | 算数科指導

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この記事へのコメント

1. Posted by こだま   2009年06月18日 09:44
ご無沙汰しております。今回の問題、算数の問題のみならず、日本の教育のあり方に大きく関わっていると思います。ある概念を定義するために、言葉を使うしかないのですが、具体的状況によって意味が変わることって多いですよね。ですから、本当はそれを包括的に表す言葉を使わなくてはいけないのですが、なかなかそれば見つからない(たとえば、英文法の世界で、継続しているのに、「現在完了」といってみたりとか…。)定義は無理に覚えさせるよりも、「これが一応、定義として、こういう言葉が当てられているんだけど、この言い方のおかしな所、さぐってみようか?」という指導もおもしろいかも。
2. Posted by こだま   2009年06月18日 09:44
今回のテーマで言えば、割り算。これはつっこみどころ満載だと思います。何かを割る場合、たとえば、ガラスを割る、せんべいを割る、これなどはまずもって等分になりっこないですね。割ると、切り口がぎざぎざになりやすいから、本当はもっとも適さない言葉かもしれません。だから、場合によっては、「分ける算」もしかして「切り算」「中身調べ算」とかいろいろ出てきそうな感じがします。そのようにして、概念を深めていく方が、余程大切だと思います。現に、「割られる数」「割る数」という言葉で、ふつうの大人の方に解説すると、ほとんどの方が首をかしげます。教室で使っている言葉は、日常から遊離した言葉であることを現場で教える方々は知っておかれた方がいいと思うのです。
3. Posted by toshi   2009年06月19日 06:51
こだまさん
 お久しぶりです。お元気そうで何よりです。
《具体的状況によって意味が変わることって多いですよね。》
 はい。指導者は、常識にとらわれたり惰性に流されたりせず、具体的な状況に敏感でありたいと思います。
《教室で使っている言葉は、日常から遊離した言葉であることを現場で教える方々は知っておかれた方がいいと思うのです。》
 それはとりもなおさず、目の前の子どもの考え、思いに忠実であれということですよね。
 わたし、こだまさんに目を開かされた思いがしたのは、
 わたしは、子どもの『分ける、分けられる。』も正解だと思っただけで、『割る』が不適とまでは思っていませんでした。
 そう言えば、文章題を読むと、すべて、『分けると、〜。』であって、『割ると、〜。』という表記はまったくありません。
 当たり前なのですね。等分になりっこないからです。
 ありがとうございました。
4. Posted by ドラゴン   2009年06月20日 11:54
いつも勉強させていただいております。

私のよく見る授業でも、子どもたちにネーミングさせているものがよくあります。そのネーミングには、子どもの考えの本質が表れていることもありますし、またそういう活動を通して、理解を深めるということもあります。
例えば、この子どもの「分け算」という言葉は、等分除を表す言葉ですね。この言葉から、この子は、わり算の本質を等分除と考えていることが読みとれます。そして、包含除の場面でものこの「分け算」が通用するか考えると、わり算の理解がより深まると思います。
図形なども勝手に名前をつけさせると、形全体に着目しているのか、辺の数や長さに着目しているのか、頂点に着目しているのかがよくわかります。「痛い形」というと頂点に注目して、尖っている鋭角に注目していることがよくわかります。
その他では、例えば単位、長さの単位を子どもたちにいろいろと作らせます。1ドラゴンとか1toshiなどです。それぞれの単位で学校のものを測って、どれが長いか議論させると、やはり単位は統一されていた方がよいとか、単位の便利さを実感し、単位そのものへの理解を深めます。そういう授業もよくあります。
5. Posted by ドラゴン   2009年06月20日 11:54
公式などを作らせる場合なども、例えば台形の面積の求め方をそれぞれ考えて、A君の公式、B子の公式などをつくり、それを実際につくって確かめていく、という授業もあります。
それぞれ、子どもたちの中から出てきたものを大切にし、それを生かして授業を進めるためには、その子どもの考えに名前をつけるというのは非常に重要だと思います。分数のわり算でもC子式とD男式ではどちらがいいか、などを話し合うと、なぜひっくり返してかけるのかが、理解できるようになります。
6. Posted by ドラゴン   2009年06月20日 11:56
もう一つ、『学級の中だけで通用する言葉。』は、非常に重要になる考え方です。
まだ、概念としては固まっておりませんが「ローカルな知」という考え方が広まりつつあり、私も注目しております。
今まで、世界標準の「グローバル」がよいとされ、「グロバールな知」を身につけることが求められていました。そうではなく、地域、家庭、学校など様々な集団で育まれてきた「ローカルな知」を重視しようという考え方です。
例えば、環境問題を解決するにも、世界標準をもってくるのではなく、その地域に根付いた方法の方が有効だろうということでもあります。例えば土砂災害を防ぐにも、ある地方ではコンクリートで固めるのではなく、大きな竹籠を編んで中に石を入れて固定するというのを新聞で見たことがあります。コンクリートがグローバルだとすると竹籠がローカルな知でしょうか。自然にもやさしく、ローカルな知が有効な場合が多くあります。
7. Posted by ドラゴン   2009年06月20日 11:56
教育の場面でも、それぞれの学校文化、教室文化というのもあります。秋田県が学力向上で成功したから、自分たちの学校文化も変えて、無理に秋田県方式にしようとしても難しいでしょう。あるクラスで成功したから、自分のクラスもそうできるとは限りません。
TOSSのやっていることも、実は、こうしたそれぞれの教室文化を排除して、TOSSの価値観を教室に持ち込もうというようにも思います。
そういう意味でも「学級の中で通用する言葉」は、まさにローカルな知であり、大切にしてもらいたいと思うのです。
8. Posted by toshi   2009年06月20日 16:39
ドラゴンさん

 コメント、ありがとうございます。
 今回も、大いなる刺激を受けました。算数はけっこう子どもの生活を重視しているように思います。

 長さを測るのでも、重さや容積をはかるのでも、いきなり、リットルやセンチメートルを教えることはしませんよね。
 まずは、消しゴム〇個分の長さなどとやるわけです。そうやると自分だけしか分からなかったり、学級の中でしか通用しなかったりするわけです。そういう過程を経るからこそ、単位の便利さを実感できるわけですね。

 また、Aちゃん方式、Bちゃん方式というのも、子どもたちに発見の喜びをもたせたいからやるのですね。

 
9. Posted by toshi   2009年06月20日 16:40
ドラゴンさん。一つ、学ばせていただきました。

『学級の中だけで通用する言葉。』とは、普遍性ある言葉への架け橋というか、通過点というとらえをわたしはしておりました。でも、ドラゴンさんのおっしゃるそれは、単なる通過点ではないようですね。『学級の中だけで通用する言葉。』そのものに価値を見いだしていらっしゃる。なるほどと思いました。

 特にこれは、社会科においては重要な気がしました。先日の『学習問題とは(5) 社会科の教材発掘』にも書かせていただきましたが、歩道橋を通学路から除外する例だってあるわけですものね。

 「ローカルな知」。それは、一人ひとりの子どもの思いを大切にすることにもつながると思いました。

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