2009年06月22日

分けられる数!?(2) いただいたコメントから、3

c8d60a99.JPG 先の、『分けられる数!?』の記事に対し、こだまさんとドラゴンさんよりコメントをいただいた。ドラゴンさんのコメントには、『いつも勉強させていただいております。』とあるが、どうして、どうして。わたしの方こそ、学ばせていただいている。

 ほんとうにありがとうございます。


 今回いただいたコメントからも、いろいろ学ばせていただいた。


 そこで、本記事では、こだまさんやドラゴンさんからのコメントをもとに、記事にさせていただきたいと思う。


 なお、各項目の冒頭〇印に続く部分は、ドラゴンさんのコメントの一部を引用させていただいた。


 それでは、どうぞ。



〇『私のよく見る授業でも、子どもたちにネーミングさせているものがよくあります。そのネーミングには、子どもの考えの本質が表れていることもありますし、またそういう活動を通して、理解を深めるということもあります。』


 ネーミングと言っても、これらの多くは、自然発生的に、子どもによってネーミングされるのだ。今回記事にさせていただいた『分け算』にしても同様だ。


 きっかけは、わたしが思わず口にした、『分けられる数、分ける数も合っていると、わたしは思う。』だったのだけれど、

 子どもたちは、自然発生的に、『分ける算』『分ける算』と言い出した。


 そう。

 わたしは、今、後悔している。

 わたしは、『分けられる数!?』の記事で、安易に、『分け算』と書いてしまったけれど、子どもたちは、『分ける算』と言っていたのだよね。

 ドラゴンさんがおっしゃるように、言葉には、『子どもの考えの本質が表れる。』のであるから、ちゃんと子どもの言った『分ける算』に統一すればよかった。


 そして、こだまさんは、そうした意味での、ことの本質を見抜かれていたのではあるまいか。わたしの記事を引用される際、わたしがかってに、『分け算』と称した方ではなく、子どもが言った『分ける算』なる言葉を使用してくださった。


 日ごろ、子どもの思いやこだわりを大切にとか、子ども主体の授業とか言っていながら、わたしが子どもの言葉を大切にしていなかった。こだまさんやドラゴンさんからあらためてそのことに気づかせていただいた。


 そして、もう一つ学ばせていただいたこと。


 わたしは、記事に書かせていただいたように、『分けられる数』『分ける数』も、『割り算』同様、正解とは言ったけれど、

 ことの本質を考えた場合、『割り算』というより『分ける算』といった方が、ふさわしい言葉であると、さらに言わせていただければ、本質をついていると、

 そのようには、これっぽっちも考えていなかった。


 この点においても、襟を正す思いで、学ばせていただいた。

 だって、こだまさんがおっしゃるように言葉の概念を深める意味でも、また、ドラゴンさんがおっしゃるように、本質への理解を深める意味でも、子どもの言葉をもっともっと大切にするべきだった。

 我ながら、教材研究の浅さに恥じ入ったしだいである。


 ほんとうに、ありがとうございました。

 今度、子どもの前に立つときは、そう言って、子どもをほめてやりたいと思います。

 いや。初任者のAさんにほめてもらうようにしましょう。



〇『長さの単位を子どもたちにいろいろと作らせます。1ドラゴンとか1toshiなどです。それぞれの単位で学校のものを測って、どれが長いか議論させると、やはり単位は統一されていた方がよいとか、単位の便利さを実感し、単位そのものへの理解を深めます。そういう授業もよくあります。』


 実は、3年前、わたしの担当する初任者が、単位の便利さを実感する授業をやっている。それは過去記事にあるので紹介させていただこう。

    育つ初任者(9) パワフル算数! 


 ここで、『市民の方々に、考えていただければ。』と思うことがある。

 こういうことだ。


 長さの学習は1年生でも行う。しかし、mm、cm、mを学ぶのは2年生である。

 それでは、1年生ではいったい何を学ぶのだろう。


 新学習指導要領によれば、

 『身の回りにあるものの大きさを単位として,その幾つ分かで大きさを比べること。』

とある。

 
 そこでは、『ぼくの、わたしの消しゴム〇個分』などというような表し方をするのである。
 これを任意単位と呼ぶ。

 それが、ドラゴンさんのおっしゃるところの『1ドラゴン』とか『1toshi』のことだ。つまり、1ドラゴンより2ドラゴンの方が長いことは分かるが、1ドラゴンと1toshiではどちらが長いかということになると、これでは分からない。

 つまり、『ぼくの、わたしの消しゴム〇個分』では、それぞれ、もととなる消しゴム一つの長さが異なるので、くらべようがない。不便なのである。

 
 そして、そういう過程を経るからこそ、普遍単位であるmm、cm、mの有用性、便利さを実感することができるようになる。


 しかし、これは、子ども自らが主体的に動いてくれないことには始まらない。すなわち、学習の出発点において、子ども自らが物をはかろうとするとき、切なる思いをもって、『ぼくの、わたしのものさしは、消しゴムの〜。』と言ってくれることが大切だ。

 こんな任意単位を、教員側から与えたのでは意味をなさないし、子どもはかえって混乱するだけだ。だから、子ども自らがその気になるように、教員は学習の流れを工夫する必要がある。



〇『TOSSのやっていることも、実は、こうしたそれぞれの教室文化を排除して、TOSSの価値観を教室に持ち込もうというようにも思います。
 そういう意味でも「学級の中で通用する言葉」は、まさにローカルな知であり、大切にしてもらいたいと思うのです。』


 『学級の中で通用する言葉』というのは、まさに、子どもが創り上げた言葉である。それを大切にする。

 なぜか。

 繰り返しになるが、それこそが、子どもの考えの本質を表しているし、言葉の概念を深めるはたらきをもつからだ。

 TOSSでは、指導者の正解のみが正解で、そうでない考えは、みんな排除される運命にある。TOSSの価値観が正しく、子どもの考え、思いは、TOSSの価値観に合うものだけが受け入れられる。


 それだけでも問題だが、

 わたしがみた授業では、指導者が用意した教材、資料のたぐいも、何でそのようなものを用意したのだろうと不思議に思うことがあった。
 
 さらには、TOSSの価値観そのものが疑わしいと思うようなものもあった。それは、『ええっ。ほんとうかよ。うそだろう。』と言いたくなるようなものだった。


 わたしは、以前、記事にしたことがある。

 指導者1人の考えより、子ども30人、40人の考えの方がはるかにすばらしいことは、いくらもあるのだ。子どもをあなどってはならない。


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 本記事は、先日の、『学習問題とは(7) わけ方はいろいろ!』にも深くかかわると思います。

・子どもの思いの多様性をどう受け止めるか。
・指導者と子どもとの思い、考えのズレをどう受け止めるか。ズレを無視してしまうことはないか。
・試行錯誤、あるいは、互いの思い、考えを出し合っての話し合いをどう受け止めるか。

など。

 こだまさん、ドラゴンさんからのコメントにより、さらに深めることができたのではないでしょうか。

      

rve83253 at 23:53│Comments(3)TrackBack(0)指導観 | 算数科指導

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この記事へのコメント

1. Posted by ドラゴン   2009年06月23日 18:24
toshi先生

コメントを取り上げていただき恐縮です。
おそらく、一般の方々には、なぜそんなことに拘るのだろうと思われるかもしれませんが、とても重要だと考え、コメントさせていただきました。
わり算ができることと、わり算を理解することの間には大きな差があります。ドリルなどで、わり算ができれば、それでOKという方も多いでしょうが、わり算をちゃんと理解していかなければ、高学年の割合や比などでつまずきます。ここのつまずきがいちばん多いですね。
そうした、「計算ができる」ことの背後にある「理解する」ことを見取るためには、やはり子どもの言葉はとても大事ですね。
単位の話題も、ちょうど大学の先生方からこのような話を聞いたばかりだったので、ご紹介しました。
「計算ができる」と同様に、「長さを測ることができる」だけではなく、こうした学習を通して普遍単位の便利さに気づき、単位そのものの理解を深めること、数値化して考えることの大事さを実感してもらうことが大事だととのことです。
そうすることで、例えば社会科でも「さくらんぼ」と「米」の生産を比較する際に、重さがよいのか、金額がよいのか、それとも他の比べ方があるのかなど、活用する力となっていくと思います。
2. Posted by ドラゴン   2009年06月23日 18:27
「ローカルな知」ということについてもtoshi先生が「小学生の学習は、大人がつくり上げた学問体系の基礎を学ぶのではない。子どもの生活経験のまとまりから学んでいくのである。」とお書きになられたこととまったく同じなんです。
大人が作り上げた学問体系が「グローバルな知」であり、子どもの生活体験に根ざすのが「ローカルな知」でしょう。
上から降ってくる知識より、子どもが身の回りから積み上げていく知識の方が、より子どもの血となり肉となるのではないでしょうか。
その原点が教室であり、学校です。教室で子どもたちが作り上げた言葉(概念)は、薄っぺらな知識ではなく、子どもに確実に根付く言葉になると思うのです。
そして、小学校の社会科は、まさに「ローカルな知」を子どもたちが見つけて作り上げていく過程だとも思います。
3. Posted by toshi   2009年06月26日 00:23
ドラゴンさん
《わり算ができることと、わり算を理解することの間には大きな差があります。》
 もうおっしゃるとおりです。このあたりのことは、こだま先生が、『道草学習のすすめ』で、口をすっぱくしておっしゃっています。
 ドラゴンさんのコメントで思うのですが、大人になってからの実生活で役立つ学力という意味では、もう、『計算できる』ではだめですね。こんなのは、計算機がしっかりこなします。
 意味を考えるとか、問題解決に役立てるとか、そういう力を養わなければいけません。
 ローカルな知については、次回記事でふれさせていただこうと思っています。
 よろしくお願いします。

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