2009年06月26日

小中学校では、いまも「号令」をしていますか。3

21a36061.JPG ライブドアブログの投稿欄に、『質問をさがす』というコーナーがある。

 何気なく、そこの『教育&学問』欄を読んでいたら、標題の、『小中学校では、いまも「号令」をしていますか・・・?』なる質問を見つけた。


 そこには、2種類の号令がとり上げられていた。

〇一つは、整列時、担任が『番号!』と叫び、子どもたちが、順番に、「1・2・3・・・・」と叫んで、人数を確認するもの。

〇もう一つは、授業開始、また、終了時に、日直がかける『始めます。』『終わります』のかけ声。

 
 どうだろう。市民の方の中にも、なつかしく思い出す方もいらっしゃるのではないかな。


 さて、一口に号令といっても、この2種類はかなり趣を異にするので、分けて考えてみよう。



1.まず、授業開始や、終了の、日直がかける号令のこと。

 わたしは、
 『ああ。それなら、今も大部分の学級がやっているな。』
まず、そう思った。

 
 わたしが担当する初任者の学級でも、すべての学級が当たり前のようにやっている。

 ただし、上記質問コーナーのそれとはちょっと趣きが違う。質問者のそれは、『起立・礼・着席』だが、我が地域では、ほとんど、すわったままでの、『気をつけ。今から〇時間目の〇〇の授業を始めます。礼。』である。

 もっとも、中学校のことはよく分からない。


 わたし自身は、この号令には違和感があり、若かったころは別として、ほとんど、かけないようにしてきた。

 だから、ほんとうなら、初任者指導に当たっている今、『号令はやめなさい。』と、その理由とともに言うべきだろう。

 しかし、あえてこれまで、それを言ったことはない。


 なぜか。

〇これはもう、ほとんどの教員が、当然のようにやっているから、初任者だけに言っても、かえって初任者が気の毒なことになりかねない。

〇初任者の場合は、授業中と休み時間とのけじめをつけるという意味で、号令をかけた方がいいケースも少なからずあると認めざるを得ない。

〇やってまずいということも、特にないので、だまっている。

 
 それでは、『なぜ、号令をかけることに違和感があるか。』にふれさせていただこう。


 これについては、過去記事がある。わたしの学級担任時代の、A校長先生の話である。わたしはこのA校長から多くのことを学んだ。

 今、それにリンクさせていただこう。

    慕われる校長(1)


 要するに、

・授業では、子どもの生活経験を重視する。それに関連して、多くの教科に、『〜あそび』と称する単元がある。子どもにとって、遊びと授業は混然としているのだ。だから、いちいち、『はい。授業です。』『はい。休み時間です。』というのは、ほんとうはおかしいのだ。

・学習だって切れ目なく続いている。『さあ。家へ帰ったら、今日の学習問題について、調べよう。』そう思う子を養っているとき、『これで終わります。』では、意味をなさない。学習意欲は持続させたい。

・授業の初めもそうだ。『これについて調べてきたよ。発表したいな。』そう思っている子にとって、意識を切られる思いになるのではないか。


 また、我が地域では、今、ほとんどの小学校がノーチャイムとなっている。授業の開始、終了ごとにチャイムがなる学校は、今やほとんどないと言っていい。

 それは、

・時間の管理ができる子どもを育てたいという願い。

・学校のチャイムがまちにまで鳴り響いてしまい、迷惑がられることもある。

・そういう理由もあるが、他方、上記A校長と同じ趣旨で、『子どもの生活は続いている。』という意味あいも、理由にあげていいだろう。
 

 次に、今、わたしが、示範授業をする際、そのあたりのことをどうしているか、その点にふれさせていただこう。

 だいたいは、授業開始以前から、教室にいる子と雑談している。そして、子どもがどのくらい意欲的になっているか。どんな発言をしたいと思っているか。そのようなことをさぐりながら、自然に授業に入るように配慮している。

 まあ、そんなことを申し上げても、いつもそのようにうまくいくとは限らず、『それでは始めましょう。』とさりげなくわたしが言って、授業に入る場合もある。

 

2.それでは、もう一つの、整列時の番号に話題を移らせていただこう。
 
 こちらの方は、我が地域では、ほとんどもう行われていない。

 でも、わたしが初任のころは、やっていた。わたし自身も、自分の子ども時代からあったから、自然にやっていた。

 でも、先輩教員の『号令』に、違和感を感じたことはあった。

 たとえば、『番号』の声が小さいと、「声が小さい。やり直し。」と言われ、再度、1から始めさせられる。

 また、「おなかに、力、入れてぇ。やりなおーし。」などということもあった。

 高圧的で、そこまでやることはないではないかと思った。

 わたしはもちろんしなかったが、うっかり声を出すのを忘れる子がいたりすると、

 そういうときは、初めからやり直しをさせていた。今、あやまろう。ちゃんと声を出していた子たち。ごめんなさい。

 これに関しても、過去記事があるので、紹介させていただこう。

   『やり直し』について


 いつのころからだっただろう。今となってはもう分からなくなってしまった。やはり、高圧的、威圧的なやり方が、時代に合わなくなってきたということではないかな。自然にやらなくなった。

 ところが、冒頭の、『質問をさがす』コーナーの回答をみると、今もやっている地域があるのだね。ちょっとびっくりした。

 やっぱり人数確認は、教員の仕事だろうと思う。自分で数えればいいことだ。それに、そのほうが早いし、正確だと思う。


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 整列時の号令などは、もう完全に忘れていました。『そうだ。むかしは、そのようなことをやっていたなあ。』と、なつかしく思い出しました。

 ほんとうに、今、初任者指導をしていながら、自分の初任時代を思い出すと、申し訳なかったなと思うことが多いです。

rve83253 at 00:14│Comments(10)TrackBack(0)エッセイ | 児童指導

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この記事へのコメント

1. Posted by フルタ   2009年06月26日 22:33
子どもの通う学校は、ここ数年で昔化が進んできました。
チャイムが復活し、朝礼は立った状態で行われるようになりました。
以前は子ども達からの信頼も厚く尊敬されていた先生が、今では担任する子ども達の多くに怒るだけの怖い先生と思われているようです。学校の教育目標にある言葉がかかげられてから、先生方が変化してきました。先日も、裁縫箱をロッカーに戻す際、ゆっくり行動していた子が数人いたために、全員にやり直しを命じたそうです。先生方の変化に、教育も流行なのかなぁと感じることもあります。
都立高での職員会議での挙手や採決の禁止などの報道があると、こういう傾向は、日本中で強まってきているのではと思っていましたが、toshi先生の地域では、そうではないのですね。少し安心しました
2. Posted by toshi   2009年06月27日 16:00
フルタさん
 ちょっと、話がかみ合うか、心配なのですが、ちょうど昨日のことです。
 本ブログでも、数回授業の様子をとり上げさせていただいているクラスですが、
「どうだ。最近、先生が怒りっぽくなっていやしないか。どうも、子どもの様子がおかしい。ぎすぎすした感じに見えるよ。」
 すると、やはり・・・、正直に言ってくれました。
「ええ。ちょっと急に暑くなってきたせいか、怒りっぽくなっていたかもしれません。気をつけます。」
とのことでした。
 子どもって、微妙、繊細、ちょっとした指導者の変化で、雰囲気が変わるものです。
 気をつけたいものですが、フルタさんのコメントはそんななまやさしいものではなく、学校の構造的な変化ともいうべきもののようですね。
 校長の存在が大きいということでしょうか。子どもに寄り添う学校経営でありたいものです。
3. Posted by フルタ   2009年06月29日 22:36
クラスの様子を感じるままに伝えて素直に応えるという、toshi先生と初任の先生の関係もとてもいい感じがします。
こちらの学校の管理職の先生とクラス担任の先生方の関係はどうなんだろう?と思いました。もっとも、それは保護者の私にはどうにもできないことですが、もし、先生方が子ども達に対応するような態度で、管理職の先生が先生方に対応しているとするなら、子ども達が感じるのとは別のストレスもおありだと思います。

>子どもって、微妙、繊細、ちょっとした指導者の変化で、雰囲気が変わるものです。
そうですね。うちの子もそうです。怖い先生が、愉し気にしていたりすると、子どもにはとても嬉しいようで、家で話してくれます。私としては「安心して空きを見せるなよ。明日には元通りだから」とはもちろん言いませんが、しょげることになる子どものことを想像すると心配でならなくなります。

とにかく、子どもがゆっくりくつろげる家庭を提供できるよう、そのことに私は集中しようと思っています。
4. Posted by toshi   2009年06月30日 02:15
フルタさん
 最後に、
《子どもがゆっくりくつろげる家庭を提供できるよう、そのことに私は集中しようと思っています。》
と書いていただき、なんか、ありがたいような申し訳ないような、そんな感じがしました。
 教員とて人間。その日、その日の気分といったものはありますが、しかし、子どもの前では、役者になることも大切と思います。
 喜劇役者は、親の死に目にあっても、喜劇を演じなければならないのですものね。それは厳しいものだと思います。
5. Posted by フルタ   2009年07月01日 15:02
toshi先生には、とても感謝しています。
このブログを読むだけでも、安心した気持ちになれます。
だから、
<<申し訳ないような、そんな感じがしました。>>と
言われると困ってしまいます。

いつか我が子も、toshi先生のような校長先生や、ブログの
お話に出てこられる初任の先生に出会えるような
気がしています。

また、望むことではありませんが、良くない経験も
含め何事も、きっと、子どもの成長には欠かせないものと
思って、同時に家庭でなるべくフォローして、親子にとっての
考える材料にしたいと思います。

toshi先生、これからも、素適な学校の様子を全国に伝えてくださいね。
6. Posted by ドラゴン   2009年07月01日 18:46
toshi先生の記事には、本当に刺激を受け、勉強になります。また、いろいろな方がコメントを書かれるので、それも勉強になります。ここが学び合いですね。
私は、号令も、給食も、ここで問題にされていることの多くが、目的を見失っている、目的を理解していない、ことがあるのだろうと思います。
号令をかける場合は、「何のためか」がはっきりしていないと意味がありません。「言うことを聞かせるため」なんてのは論外です。「誰もがやっているから」も論外です。
ちゃんと目的をもって、そのために行うのであれば、よいと思いますが、目的がはっきりしていないのであれば、どんなことでもだめだと思うのです。
7. Posted by ドラゴン   2009年07月01日 18:52
給食についても、学校給食法では給食の目的に「日常生活における食事について正しい理解を深め、健全な食生活を営むことができる判断力を培い、及び望ましい食習慣を養うこと」とあります。食べさせることが目的ではありません。
食事についての正しい理解を深めることができれば、無理強いは不要です。
意外と知られていないのが運動会の目標です。指導要領特活ではこうあります。「心身の健全な発達や健康の保持増進などについての関心を高め,安全な行動や規律ある集団行動の体得,運動に親しむ態度の育成,責任感や連帯感の涵(かん)養,体力の向上などに資するような活動を行うこと。」
規律ある集団行動の体得のために、行進などがあるのですが、そうした目的を理解していないので、やらせっぱなし、なんてこともよくあるようです。
 一般の方には、結構、この目的が理解されていないので、いろいろな誤解を生むことがよくあるようです。
8. Posted by ドラゴン   2009年07月02日 12:21
補足です。
先に紹介しました給食の目標、運動会の目標は、法律や指導要領に書かれている目標です。
私が特にこれを支持しているわけではありません。
教育活動には、必ず目標が必要で、それに基づいて行うことを言いたいと思いました。
そして、それを見失っていることも多くあるのだろうと思います。
9. Posted by toshi   2009年07月03日 08:33
フルタさん
 過分なお言葉、ありがとうございます。
 わたしも、思いのままを書かせていただいているだけですので、どうぞ、お気になさらないでくださいね。
 今後とも、よろしくお願いします。
10. Posted by toshi   2009年07月03日 08:38
ドラゴンさん
 こちらこそ、何回も引用させていただくなど、お世話になっております。
《号令も、給食も、ここで問題にされていることの多くが、目的を見失っている、目的を理解していない、ことがあるのだろうと思います。》
 いやあ。ほんとうにそうですね。
 直感的にではあっても、おかしさ、不自然さを感じたら、その目的からして、吟味した方がいいですね。惰性でやるのがよくない。そう思います。
 給食についても、指導の過程では、必要な残しもあると思うのですね。
 

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