2009年06月30日

地域固有の学力とは、3

610710aa.JPG 前記事『地方分権、地方分権というけれど、』で、『大阪には、大阪人固有の、大阪の子どもに必要な学力というものがあるのだ。』と書いたことについて、しれとこままさんより、『大阪人固有の大阪の子どもに必要な学力とは・・・?と考えてしまいました。』なるコメントをいただいた。(コメント1番)

 記事に書いておきながら、『大阪人固有の大阪の子どもに必要な学力とは、〜です。』とお返事できないことを、申し訳なく思う。

 しかし、わたしには、『どの地域にも、その地域に生きる子どもたちにとって必要な、固有の学力というものはあるのだ。』という確信があるので、そのように書かせていただいた。


 この思いを共有できるコメントもいただいている。『分けられる数!?』なる記事にいただいたドラゴンさんのコメントである。

 ここ(同コメントの6番)には、以下のように書かれている。


 「ローカルな知」という考え方が広まりつつあり、私も注目しております。

 今まで、世界標準の「グローバル」がよいとされ、「グロバールな知」を身につけることが求められていました。そうではなく、地域、家庭、学校など様々な集団で育まれてきた「ローカルな知」を重視しようという考え方です。


 なお、同氏のコメントには、その具体例も書かれているので、関心のある方は、リンク先をごらんいただけたら幸いである。


 ただし、お断りしておかねばならないが、わたしは、世界標準の学力も大切と考えている。特に、現代のように、地球環境の問題、戦争の問題、貧富の問題、経済危機の問題などなど、一国では解決できない問題が山積しているとき、こうした学力観の重要性は、ますます強まっていると言えるだろう。

 その趣旨の過去記事もある。ご覧いただけたら幸いである。

    全国学力・学習状況調査実施(3−3)明日の授業に生かすために 

 だから、ドラゴンさんの言葉を拝借すれば、『グローバルな知』も、『ローカルな知』もどちらも大切なのである。

 そこで、本記事では、『ローカルな知』の重要性、大切さについて、述べてみたいと思う。


 まずは、先ほど書かせていただいた、『どの地域にも、その地域に生きる子どもたちにとって必要な、固有の学力というものはあるのだ。』という点について、もう少しくわしくふれたいと思う。


 それはこういうことだ。

 どの地域においても、人々は、その地域の自然条件(小学校で学ぶ内容で言えば、気候と地形)や社会的条件(同じく交通、産業、公共施設、消費生活、歴史等)を克服したり利用したりしながら生活している。

 したがって、どの地域においても、その生活には個性的な部分があるし、よそにないものをもっているはずだ。

 また、別な言い方をすれば、

 子どもたちは、物心ついたときから、そうした地域のなかで生活してきた。そして、これからも生活していく。それはよきにつけあしきにつけ、無意識ではあるが、制約を受けているはずである。

 とするなら、これは何回も書かせていただいているが、学習が、子どもの実生活、興味・関心をもとにしている以上、『ローカルな知』を大切にしていかざるを得ないはずだ。
 

 そうなのだが、そうそう、理屈ばかり言っていても始まらないよね。

 そこで、本記事では、そうしたことの具体例として、わたしの現職時代、わたしが毎年行った朝会講話のなかから、それをうかがわせる話をとり上げさせていただきたいと思う。

 具体的な事例として、我が地域における『ローカルな知』をご理解いただくことによって、読者の皆さんが、ご自分のお住まいの地域における『ローカルな知』を考えていただければ幸いである。


 それでは、どうぞ。



 おはようございます。

 今日は、わたしたちが住むこのまちについて、お話したいと思います。

 わたしたちが住むこのまちは、全国のまちのなかでは、かなり新しいまちです。日本の中には、千年以上もむかしからまちだったところもあるし、四百年以上も前からのまちなら、もう、全国にたくさんあります。

 しかし、わたしたちのまちは、まだ、〇〇年の歴史しかありません。

 だからね。むかしから、このまちに住んでいるという人は、ほとんどいません。


 みなさんだって、生まれたときからこのまちに住んでいるという人はあまりいないと思います。まして、お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさんということになれば、よけいそうで、生まれたときからこのまちに住んでいる人は、もう、ほとんどいないといっていいでしょう。

つまりほとんどの方が、よそからやってきて、このまちに移り住むようになったのです。


 そのため、このまちの人は皆、よそから来た人にやさしくすることができます。『あなたはよそからやってきて、このまちのことは何も知らないのだから、黙っていうことを聞け。』などとえばったりはしません。自分だって、ちょっと前に来たのだから、みんなおんなじだものね。

 だから、わたしたちのまちの人は、みんな、よそから来た人を大歓迎します。あなたはよそものだなどと言って差別しません。そんなことをしたら、このまちは発展しないのです。

 だから、このまちの人はみんな仲良しです。


 皆さんを見ていても、それを強く感じます。

 つい最近、この学校へ転校してきた人が何人もいますね。でも、みんな、すぐ転校してきたお友達と仲良しになりました。『校長先生。明日、ぼくたちのクラスに転入生がくるんだよ。楽しみなんだ。』と、転入生を待ちかねていたし、転入してきたら、すぐ、多くの子が声をかけて、最初の日から、もう、家が近くの子と一緒に下校していったなどという話も聞いています。

 そのように、このまちに住む子は、みんな、よそからきた子とすぐ仲良しになれるのですね。

 すばらしいことだと思います。


 講話は以上だ。



 さて、このことから、どのような学力が、浮上してくるだろうか。

 もちろん、協調、協力、まとまりなど。そうした『豊かな人間性』自体が、もう、大事な学力である。

 学習指導要領においても、学校教育全体で行う道徳教育のねらいに、

 『人間尊重の精神と生命に対する畏(い)敬の念を家庭,学校,その他社会における具体的な生活の中に生かし,豊かな心をもち,伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し,個性豊かな文化の創造を図るとともに,公共の精神を尊び,〜。』とある。


 しかし、もう少し踏み込んでみよう。

 実は、それは過去記事にある。

    英語教育導入は、異文化理解のために

 記事全体は、国の言いなりになってはいない、我が地域の教育実践について述べたものであるが、その前半からは、我がまち固有の学力観がうかがえるであろう。


 さて、子ども向けには、上記、講話のような話をしたのだが、本記事読者の皆さんへは、もう少し、我がまちについて、補足させていただこう。


〇我がまちは、まちづくりが始まってからというもの、いつの時代も、よそから来た人々によって、発展してきた。したがって、進取の精神に満ちた開放的なまちということができる。少なくとも、よそ者意識がない。それは外国人に対しても同様である。(もっとも、地域によっては、『強いよそ者意識があるよ。』という人もいる。)

〇そのような地域だから、むかしからの伝統的な文化遺産というものはほとんど存在しない。 



 最後に、話は変わってしまうのだが、

 ここ数十年、高度経済成長がなり、中央集権化が進んだことによって、それこそ、どこのまちへ行っても、そのまちらしさがなくなったと言われる。

 そう。どこへ行っても、決まった名前のスーパーがあり、コンビニもありといった具合で、駅前の風景も似たり寄ったり。

 それにしたがい、『ローカルな知』も、消えうせる運命にあるのかもしれない。しかし、それだけに、そうならないよう、せめて、学校教育くらいは、『ローカルな知』を大切にしていきたいものだと思う。

 公立の小中学校は、みな、市区町村立なのだものね。


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 どうでもいいことなので、本文には書かなかったのですが、

 数百年の伝統を持つまちは、むかしからの繁華街というものがあるのではないでしょうか。

 それに対し、わがまちは、時代とともに、繁華街は移り変わってきました。わたしが物心ついてからでさえ、3回入れ替わっています。

 思うに、むかしからのまちに住む人には、そこへ行かないと、遊んだ気がしないとか、買い物をした気がしないとか、そうした心理がはたらくのではないでしょうか。

 それに対し、我がまちは、常によそからやってきた人によって発展してきたため、その時代、その時代ごとの、かっこいいまち、きれいなまちにあこがれるというか、それこそ、そういうまちに行かないと遊んだ気がしないという、そういう心理がはたらくのではないかと思います。

 学力とは関係ありませんが、人々の気質の違いを示すおもしろい例だと思い、あえて書かせていただきました。

    
 一つ、お詫び申し上げます。

 本記事では、まちのことしか書きませんでした。

 全国には、農村、山村、漁村、離島などもたくさんあります。本記事では、そうした地域にはふれませんでしたが、そういうところこそ、まさに、『ローカルな知』は色濃くあるのであり、大事にしたいものだと思います。

 そうした地域での、歴史に残るすばらしい教育実践もあります。

 ここに紹介させてください。

    斎藤喜博


rve83253 at 01:53│Comments(10)TrackBack(0)教育風土 | エッセイ

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この記事へのコメント

1. Posted by ドラゴン   2009年07月01日 18:22
コメントを取り上げていただき、大変恐縮です。

「ローカルな知」自体は新しい概念ですが、その内容は、経験知、身体知などと今まで重視されてきたと思います。
 私は「ローカルな知」が消えゆく運命にあるとは思いません。ネットの中にも実はローカルな文化が生まれています。新しい「ローカルな知」が次々と生まれているのですが、それを多くの人が価値を認めず、見逃していたのだと思います。特に子供には、子供の世界があって、学校の中には、子供の集団それぞれに「ローカルな知」が生まれ、育っていると思います。
 例えば、遊びのローカルルールなど、子供が作り上げますね。三角ベースなど。これにも意味があります。例えば、グランドが狭いなどのいろいろな状況、ルールを決めなければいけない必然性、学年が違ってもできるようなハンディキャップなど、いろいろな工夫があります。そういう価値も認めてあげたいですね。
 先生が言われる「もちろん、協調、協力、まとまりなど。そうした『豊かな人間性』自体が、もう、大事な学力である。」も、そうした子供たちの中で「ローカルな知」として生まれ、育っているんです。
 だからこそ、これから注目していきたいと思っております。
2. Posted by ドラゴン   2009年07月01日 18:22
 小中学校のとき、釣りが大好きな友人がいました。彼の地元の水生生物の知識は、半端ではありませんでした。今は、地元の魚市場で働いていますが、水揚げされる魚の変化を聞いておりますと、誰よりも温暖化を実感しているようです。今の彼を支えているのは、学校で学んだことよりも、経験から学んだことの方が大きいでしょう。ただそれは、学校が無意味ということではありません。学校が、そのような経験知、「ローカルな知」を重視することで、より学習が深まるということでもあります。彼も、自分の経験知に学校での学びを結びつけることができれば、より深く理解することができるようになるはずです。
これからの学校にそういう点を期待したいと思っております。
3. Posted by ドラゴン   2009年07月01日 18:24
 授業のかかわりだと、5年生の産業学習で米作りを扱いますが、教科書はほとんどが庄内です。ここでの学習は、「米の作り方」を学習するのではありません。米作りを通して、農業に従事する方々が工夫と努力をしていることを理解し、日本を支える農業の役割を理解することです(さらにいろいろありますが)。例えば台風がよく来る地域では台風に対してどのような工夫と努力がなされているのか、そうしたことを具体的に実感をもって学ぶことが大事だろうと思います。ただ、残念ながら、台風に対しての工夫などは、テストに出ることはないでしょう。それでも教科書の内容を覚えるだけの学習より、はるかに価値があるかと思います。
 先生がご紹介された歴史に残る教育実践は、まさにそういう実践ですね。
4. Posted by しれとこまま   2009年07月01日 20:20
私の単純な疑問から、toshiさんを悩ませてしまいました。ごめんなさい。
私は30歳目前まで、大阪に住んでいた都会っ子です。勤務もオフィス街でした。
それが、ひょんなことで北海道の専業農家へ嫁いでしまいました。
「ローカルな知」をなんと30にして新たに学習しなければならない状況で、2箇所経験しています。
私が新鮮なことはこちらの人にすると普通のこと。大変もったいないと感じること
(子どもにも素晴らしいことなのに)も多々あります。
画一的に小学校で農園をすることが多いようですが、ここでもそうです。
しかし、農園活動にすれば、子ども達は学校ですることより両親がプロなのです。そこで、あえて親は口を挟むことはしないです(手を出しすぎるので)。
しかし、ちょっとしたコツや基本的なところは教えてあげてもいいのに、と思うこともあります。
5. Posted by しれとこまま   2009年07月01日 20:21
我が家のお兄ちゃんは、「ここでは、芋といえばじゃがいもばっかり。さつまいも育てたい。」と言いました。
私は苗を取り寄せ、ハウスでやってみました。少しさつまいもが採れました。
今年も挑戦中ですが、北海道にずっと住んでいる人からすれば、「できるわけが無い」んです。
これは、私が大阪育ちで、芋掘りと言えば「さつまいも」だったからする気になったのかもしれません。
我が家の子どもは、私の「大阪の知」とお父さんの「北海道の農家の知」に揉まれて育っているようです。お笑いのセンスも磨かれていますし、農作業に耐える体力も備えています。
どこに行っても順応できる、柔軟性も身につけてもらいたい能力だと思っています。
6. Posted by ドラゴン   2009年07月02日 13:55
しれとこままさん
「ローカルな知」はもともと生涯学習の方々が主張されているようです。まだまだ、これからです。どんどん学んでください。

補足です。
私がこういうことを考えるようになったきっかけの1つに秋山仁さんの講演であったグルントビーという教育者の言葉です。
「われわれは死に至る学校をよく知っている。死せる言葉でもって得々とすることを名誉とし,完璧な文法,完璧な学習のみを理想とし,人々の生活や心を無視していた学校をよく知っている。そのような学校に通っても,そこで受けた教育が自分の人生にとってほとんど役に立たなかったことをわれわれは経験的に知っている。たとえ天使が書いた文章であっても,それは読み手や習い手の生活や心に溶け込めるものでなければみんな死んだものだ」
http://www.miyagi-pta.gr.jp/tome2005/kouen.html
ぜひ、ご紹介したいと思いました。
7. Posted by toshi   2009年07月03日 08:54
ドラゴンさん
 「ローカルな知」。
 なるほど。いろいろな概念がありそうですね。
 地域の特性、その地域の生活、子どもの生活経験などなど。それと学校教育との融合など、これで一つのテーマになりそうですね。
 釣りの大好きなご友人のお話。とても、勉強になりました。学校が、ただ単に、知識・技能だけをおさえるのではなく、『学ぶ力・生きる力』を育む場として大事になっていくということだと思いました。
 
8. Posted by toshi   2009年07月03日 09:00
しれとこままさん
 すごい、環境の激変だったわけですね。
 でも、コメントを読ませていただき、拙ブログの先日の記事、『初心に返ることの意味は』を思い出しました。やはり、素人さんの発想(いや。失礼。)には、素朴で素敵なものがありそうですね。
 数十年前までは、大阪の方と北海道の方のご縁というのは、限られたものでしかなかったと思います。
 そういう意味で、お子さんは幸せだなあと思いました。新たな北海道人が生まれるかもしれませんね。北海道の常識が変わっていけば、そこに、『ローカルな知』の変容も期待できそうです。
 いやあ。すばらしいなと思いました。
9. Posted by しれとこまま   2009年07月03日 21:25
そうですね。最近は、本州からのお嫁さんも増えましたが、彼らは田舎のよいところを日々経験しながら、都会の経験も年に1回はするわけです。(里帰りでね)
バスに乗ったり、飛行機に乗ったり、切符をかって電車に乗ったり。こちらでは出来ないことばかりです。
そうした中で、感じることが出てくるのでしょうね。私もまだまだこれから、野菜の作り方なぞ、勉強しなければいけません。
10. Posted by toshi   2009年07月06日 07:04
しれとこままさん
 年に1回ですか。きびしいものがありますね。
 でも、新しいタイプの北海道人という意味では、単に物理的な帰省回数ではおしはかれないような、心の帰省といった部分があるのでしょうね。
 サツマイモのこと、お笑いのセンスなどから、それを感じています。

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