2009年07月30日

公教育の使命は!?3

6f237a9a.JPG 前記事に引き続き、教職という仕事の責務について考える。

 今日は、『公教育の使命』を念頭において述べてみたい。


 公教育と一口に言っても、それを取り巻く環境は、むかしとずいぶん変わった。

 
『息子の勉強のことは、先生にお任せします。うちでは何にもしてやれないのですもの。』
『先生。うちの子、悪いでしょう。もう、ちっとも言うことをきかないのですから。生意気なことを言うようだったら、どんどん、ひっぱたいてください。』

 いまや、そのようなことを言う保護者はいない。

 もっとも、いらっしゃらなくてけっこうなのだが、もう、今という時代、『子どものことは、何もかも学校にお任せ』という時代ではなくなったのだ。


 そのあたりの社会の変化の意味については、過去記事で述べている。

   真の主権者は?

      

 学校の指導方針や教員の学級経営は、地域・保護者との相互理解なくして成り立たなくなった。今や、教員の独断専横、思い込み、唯我独尊による教育は認められないのだ。


 そんな今、あらためて、公教育の使命を考えることは、重要であろう。

 これからの学校はどうあらねばならないか。教員に求められる資質は何か。


 それは、保護者や子どもの声に応えられる柔軟性ではないか。

 そうした柔軟性を身につけ、教員自身が自分をみがくこと。それ以外にはないのではないか。


・目の前の子どもが思うとおりにならない。

・保護者のニーズは多様である。そのすべてに応えることはできない。

 そんなことがあったとしても、心の張りと生きがいをもって、教員生活を送っていくためには、また、それを子どもの側から見ると、充実した学校生活を送っていくためにとなるのだが・・・、

 急がば回れ。

 ある保護者の方からいただいたコメントにある、『やっぱり、いかに周りの大人が子供一人一人を総合的に、多面的に見て、察してやることが大事ですね。』

それしかないように思う。
 
 
 わたしが、

 担任として、子どもの思いを軸に授業をおし進めるのも、
 校長として、できるだけ保護者のニーズに応えようとするのも、

 これからの公教育のあり方と無関係ではない。


 今、最近の読者の皆さんのために、過去記事を2つ、紹介させていただこう。

    正直に言ったら、すっきりしたよ。(道徳の授業)

    保護者の声に応えて


 それに対し、柔軟でない教員は言うのかもしれない。

 そんな態度では、自分の教育的信念は捨てなければならないのかと。


 そうではない。

 子どもの思いや保護者のニーズを把握し、活発なコミュニケーションを交わし、信頼関係で結ばれるからこそ、自分の信念を発揮することができるし、有効に機能するようになるのだ。

 また、自分自身を磨いていく覚悟も必要だ。明日の、よりよい自分を構築するために。

 

 今回の記事に関し、何人もの保護者の方から、コメントをいただいた。

 ありがたいなあという思いになると同時に、小学校にまで、『強制』の波が及んでいることには、心が痛んだ。


・小学校って、まだ子どもが小さいから、『強制』が通っちゃうのだよね。一見うまくいっているように見えちゃうのだよね。
 
 でも、心ある保護者にとっては、たまったものではない。家で見る姿とはまるで違い、子どもらしさもない、そういう我が子の姿を見せつけられてしまうのだもの。悲しいくらいに。


・また、逆な事例もあった。

 わたしは、保護者が我が子に『強制』しているとは思わないが、しつけの一環として礼儀正しさを教えようとされているのではないかと思った。

 わたしは、保護者の願いは、多様であっていいと思うから、これに関し、とやかく言う気はないが、ただ一点、我が子の表情であるとか、態度であるとか、そういうことには敏感であってほしいと思った。


 ああ。でも、ここで言いたいことは、そういうことではない。

 ことほどさように、保護者の教育的ニーズは多様なのだ。その多様性をしっかり受け止め、どの保護者のニーズにも応えられる教員の資質。それが、これからの公教育に要請されるものだと思う。


・また、別な保護者の方からは、『学校でどのような教育をされても、家庭がしっかりしていれば大丈夫。』(ごめんなさい。ちょっと言い過ぎかな。えらく意訳してしまっています。)というご意見もいただいた。

 わたしは、かねて申し上げたことがあるが、一人の子どもの人格の形成をみるとき、家庭教育と学校教育は、織物の縦糸と横糸の関係ではないか。どちらがゆるんでもいい織物にはならない。

 だからこそ、お互いの連携が望まれるのだ。

 これも、これからの公教育にとって、ますます重要となる教員の資質といえよう。


・ああ。もっと身につまされたのは、ご自分の中学生時代の、荒れた学校に身をおいた経験を語ってくださったコメントだ。ご自身の大変だった思いを察することができてが、それだけに、

 『(そういう学校であっても、)先生方の温かかったこと!成績の悪い生徒は、なんとなく、冷たくあしらわれている感がした前校に比べ、この中学校は、人間味が溢れ、その中では優秀だった(笑)私にも、どうしようもない不良にも、接し方は違えど、愛情の度合いは同じものでした、間違いなく。』


 には、感動した。

 何とも言いようのないくらい感動した。


 あの、バンキシャのテレビ画面を思い出した。


 ここは、保護者のコメントにある、『やっぱり、いかに周りの大人が子供一人一人を総合的に、多面的に見て、察してやることが大事ですね。』に、謙虚に耳を傾ける必要があるなと思った。

 そうでないと、『現実』は一向に改善されないどころか、ますます深みにはまってしまう。



・最後に、小学校教員の方からもコメントをいただいた。

 きわめて自然に読み取れて、ホッとする思いになった。

 これぞ、上記の、『いかにまわりの大人が子ども一人ひとりを総合的に、多面的に見て、察してやる。』具体例だろうという気がした。

 

 『強制』には、必ず反発する子が出る。

 反発できない子もいる。そういう子は、その場では素直に(?)したがうが、ストレスがたまるため、他でそれを発散する。

 それが、さらなる荒れの原因となる。


 目の前の子どもから学ぼうとする姿勢がなければならない。

 どの子に対しても、『その子なりの姿』が、昨日より一歩改善された姿を目指す。できそうなところに目標を置く。


 これからの公教育の使命。最後に言いたいのはこのことだった。


にほんブログ村 教育ブログへ
 ninki



 今、社会は、大きく変わろうとしています。

 学校のみ、むかしのままでは、生き残ることはできないでしょう。


 わたし、前記事の末尾に、『私学、塾、習い事などとは違った、公教育の使命があるはずです。』と書かせていただきました。

 そう。これが、私学、塾、習い事などだったら、強制は認められるかもしれません。

 なぜなら、そこは、自ら選択し希望して入った世界です。いやになればやめてもいいのです。

 もちろん、すべてをいっしょくたに論じることはできませんが、そういった側面からも、公教育の使命を考えることは、あっていいと思います。

 今日は、それにはふれていず、申し訳ありませんでした。


 最後に、

 わたしが少しだけかかわった、中学校初任者の、悩みながらも、みごと、自分自身を変容、成長させていった事例を紹介させてください。

    初任者の成長(3) 中学校の事例 光が見えてきた

 このなかに、初任者の言葉ではありますが、示唆にとむ言葉があります。

 それは、

「〜。自我にとらわれないということ。自我を解き放つということ。それに気づかない人、また、それがどういうことだか分からない人だっていると思うのですよ。」



 

rve83253 at 11:42│Comments(7)TrackBack(0)教育観 | 自己啓発

トラックバックURL

この記事へのコメント

1. Posted by しれとこまま   2009年07月31日 18:08
私達夫婦は、「子どもが悪いときは、びしびしやって下さい」と言って来ました。
また、他の親御さんも近い感じだと思っていましたが、実情は違うようでした。
しかし、先生からは「今は、体罰になってしまいます。給食を無理に食べさせても、居残り勉強させても、体罰です。文句が出たら、僕がクビになります。」と新任だった担任の先生に言われたことがあります。
また、問題が出るとクビになると、機嫌が悪くなると授業にならない生徒の機嫌をとるようなこともして、大変でした。
「強制」には「反発」がある、ということですが、それは「反発」を表現していいんだと思うんです。
ただ、親がそれを受け止めて冷静に話をすることが出来るなら、先生と生徒、大人と子どもとしての立ち位置が見えてくると思うんですけれども。
その先生がいた頃の子ども達は大変荒れていて、「さようなら」も言わず、「むかつく、むかつく」と言いながら帰っていました。
先生も大変だったんだとは思いますけれどもね。
2. Posted by 中   2009年07月31日 20:15
先生方は、
躾の中の、やむ負えない強制、
あるいは子供の心への共感、
黙って様子見…などなど、
色々、接し方?を変えて、子供を見てらっしゃるのだと思います。

我が子の今のクラスは、それが、
とてもバランスよく保たれているため、
子供達は生き生きしているのが、
参観でも、見てとれます。

うちは、再テストの居残りもありますし、
宿題忘れも、居残りです。
牛乳嫌いの子も涙目で、ある程度までは頑張っています。
夏休みに勉強の苦手な子は、先生が勉強を見てくださっています。
昔の先生って、こういう方多かったですよね。
親も何も言わなかったし。

前回もブログで取り上げていただいた、先生のお誕生日の話にもあるように、
みんな先生のことが好きなんです。
笑顔が素敵なんだそうです。
もちろん保護者も、先生を信頼しています。

数年前の我が子のクラスは悲惨でした。
優しい先生でしたが、
寄り添いすぎて、完全に子供に舐められていました。
おかげで、あっというまに学級崩壊状態に。
保護者の心も、学校ではなく、塾やお稽古に期待をしていました。


厳しいだけでも、優しすぎても、
だめですね。
特に幼、小時期というのは。






3. Posted by toshi   2009年07月31日 22:00
しれとこままさん

《「今は、体罰になってしまいます。給食を無理に食べさせても、居残り勉強させても、体罰です。文句が出たら、僕がクビになります。」》

 若気の至りという言葉があるけれど、もっと真摯に子どもから学ぶ気持ちをもってほしいですね。

 無理に食べさせるのも放任するのも教育的ではないし、残し勉強など必要のないように授業に取り組まなければいけないし、

 それは急には無理だろうけれど、そういう方向性を目指してほしいのですね。

 次はしれとこままさんへの言葉ではないのですが、
 保護者の方々には、そういう姿勢をもっている担任なら、師弟同行、子どもにもその姿勢がいい影響を与えているはずですので、応援するなど、長い目でみてほしいと思います。 

4. Posted by toshi   2009年07月31日 22:01
《「反発」を表現していいんだと思うんです。》
 その通りです。反発してくれるから、学べるのです。また、そういう意味では、今の子は、むかしの子に比べれば比較的表現してくれると思います。それに対し、さらなる強制で向かうか、そこから学ぼうとするか、そこが問われるのだと思います。

 すぐ強制しようとする教員には、『受容と甘やかしは違うのだ。』という認識をもってほしいです。どうもその辺をごっちゃにしている感じです。

 『甘やかしと受容は違うのよ。』 という過去記事があります。前コメントのHN欄にURLをはりつけさせていただきました。よろしくお願いします。
  
5. Posted by toshi   2009年07月31日 22:35
中さん
 厳しさの中にも、受容、共感など、子どもの心をひきつける何かがあるのでしょうね。
 逆な例は、やさしいように見えますが、実際は、ただ子どもがやりたいようにやらせているだけで、要するに放任だったのでしょう。
 学級経営って、人間洞察なのかもしれないなと思いました。
6. Posted by しょう   2009年08月01日 23:22
 ブログ記事をご紹介いただきありがとうございました。

>教員に求められる資質は何か。

>それは、保護者や子どもの声に応えられる柔軟性ではないか。

 まさに、私自身が初めての担任で大失敗をした時に必要だと痛感した姿勢、ですね。

>そうした柔軟性を身につけ、教員自身が自分をみがくこと。それ以外にはないのではないか。

 そのとおりですね。そして、個人として自分をみがくだけでなく、それを学校として共同の取り組みにしていくことが必要なのでしょう。

 実は、本日「高生研全国大会」で、以前拙ブログ記事
http://plaza.rakuten.co.jp/shchan3/diary/200903140000/
 で紹介した I さんが大会基調を執筆・提起し、そのような実践を各地で広げていくことの大切さも含めてしっかり論議を行いました。

 高生研のメンバーにはtoshiさんの記事
http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/1243032.html
 などを紹介しましたが、I さんも「読ませていただきました、反応をいただくとうれしいですね」と喜んでおられましたよ。

 本日も、応援して戻ります。
7. Posted by toshi   2009年08月02日 14:20
しょうさん
 拙ブログを高校の教員のお仲間に紹介してくださったとのこと。ほんとうにありがとうございます。
 しょうさんとコメントのやり取りをさせていただくようになって、『ああ。高校も小学校も理念は一緒だな。』と思うようになりました。
《個人として自分をみがくだけでなく、それを学校として共同の取り組みにしていくことが必要なのでしょう。》
 ほんとうにその通りだと思います。研究って個人のものというより、その学校の財産という意味合いが強いと思います。
 ふり返ると、研究仲間だった教員の皆さんは、いまだに、わたしが30代のときにいた学校のイメージが強いらしく、『むかしA小にいたtoshiさん』と言ってくれます。

コメントする

名前
URL
 
  絵文字