2009年08月08日

国語の授業がおかしくなっている・・・かな!?(番外編) いただいたコメントから3

64d91fcc.JPG 本シリーズは、まだ(1)を書かせていただいたばかりなのに、早くも番外編を書かせていただく。

 その理由は、

・読者の皆さんから、すてきで示唆にとんだコメントをたくさんいただいたので、それにふれさせていただくことが急務と思ったことと、

・読者の皆さんからいただいた問題点の多くは、わたしも若いころ、やっていたことが多い。この連日の猛暑にもかかわらず、何回も冷や汗をかく思いになったことと、

・それに、何よりも、危機感を感じたのは、
『通りすがりの教育学を学ぶもの』さんからいただいたコメントの3番に、

 『〜、私は読書感想文こそが子どもを読書嫌いにする原因の1つであると思っています。また、自由に作文を書きましょうなどというのも子どもに書けないという恐怖感を植え付けるものだと思っています。』
とあり、

 前項のように、これはわたし自身、むかしを振り返ると心当たりがあり、

 他の方からのコメントとあわせ考えると、今も、こうした問題点は持続していると思われるからである。


 わたしは、同氏へのお返事のコメント(5番)に、

『このこと、よく分かります。 わたし自身若かったころは、『どうしたら子どもたちは楽しく意欲的に読書感想文を書くようになるのだろう。』と悩んだものでした。
 
 これは、学習指導要領の問題ではありません。指導法の問題です。』

と書かせていただいた。

 そんなわけで、今、懺悔と共感の思いをこめて、記事にさせていただこうと思う。



〇初めに、わたしも20代のころは、やってしまっていたことの数々を。


・まずは、先に紹介させていただいた、通りすがりの教育学を学ぶものさんからいただいたコメントを詳述させていただこう。リンク先の2・3番である。

 『私は読書感想文が大嫌いでした。自分が好きで読んだ本について母親と話をするのは好きでしたが、なぜそれを原稿用紙に綴って先生に見せなければいけないのか全く理解できませんでした。

 真っ白な原稿用紙を前にして、何を書けばいいのかわからず、いやそもそも書きたくなどなく悶々と時間だけが過ぎていく。そして、時間内に書き終わらなければ居残りをさせられ、頭を振り絞ってマス目を埋めたことが思い出されます。』

とある。


 ああ。わたしが初任者のころ、わたしのクラスでも、子どもたちの、
「先生。また、感想文を書くの。」
「物語を読むのはいいけれど、感想文を書くのはいやだな。」
「そうだよ。感想なんて特にないよ。」
などという声はあった。

 ただ、居残りをさせることはなかったと思う。宿題にはしていたが、・・・。


・もう一つ。

 次は、Tomさんの(コメント8番)『何かあると反省文を書かせる。』という事例だが、これもわたしはやっていた。

 まことに申し訳なかったのだが、若かったころのわたしは、疑いもなく、『心から反省してほしい。』と思ってやっていた。

 しかし、これは、一般的には、
・罰として書かせる。
・教員の自己満足に過ぎない。
こともあのではないか。

・また、『いけないことを誰がやったのか、口ではなかなか言えない場合でも、原稿用紙に向かえば書いてくれる子がいるかもしれない。』と思ってやらせることもあるかもしれない。

 そんなふうに思って書かせることもあるのではないか。


 ああ。いずれにしても、振り返れば、忸怩たる思いだ。申し訳なかった。



〇次は、『わたしでも、そこまではしていませんでしたよ。』という例だが、


 それは、しれとこままさん(1番)の、
 
 『文集や学級通信に載っているのですが、書き方の指導があって、娘の時などは、真っ赤になって返ってきていて、「自由な表現」なぞなかったことを覚えています(あまりいい感じじゃなかったので)。

 娘は卒業した今も、同じ学年の子ども達は、皆同じ書き出しで、同じような内容です。

 非常につまらないと思いながら読んでいます。』


 これには、驚いた。

 作文て、何のために書くのだろう。

 作文は、『このように書きなさい。』というような、誰が書いても同じ内容になるような、そんな基礎・基本てあるのだろうか。子どもの個性を認めないのでは、書く意味がなくなってしまうよね。(このあたり、最後に一つの授業実践を掲載させていただくので、それとくらべていただけたらありがたい。)

 それにしても、担任は、朱を入れるのが大変だろうな。

 いずれにしても、『自分がよし』とする作文以外は、全部、自分で決めたパターンに直してしまうという、そういう姿勢を感じる。


 
〇以上の話から言えることは、


・先述の言葉を繰り返させていただくが、『これらは皆、学習指導要領の問題ではありません。指導法の問題です。』ということだ。

 学習指導要領にないことをやっている事例もあるし、

 読みたいとか、書きたいとか、そのような、子どもの切実感、必然性を養うことなく、慣例のように書かせている事例ばかりだし、

 これでは、感想文に限らずだが、書くことを嫌いにさせてしまう結果となるのは、それこそ、必然か。

 
・ただ、わたしの場合、反省文はともかくとして、感想文を書くことを好む子もいたから、当時、自分の指導性に問題を感じることはなかった。

 今思えば、もちろん問題だったのだけれどね。


 そこからは、こういうことが言えるだろう。

 『好きな子は好き。嫌いな子は嫌い。そういう、あるがままの子どもの姿は示されるけれど、その子どもたちの変容を願ったり、期待したりする授業にはならない。』と。

 また、こうも言えよう。

 好きな子をもっと好きにさせることができたかと言われれば、それは不明だけれど、『いやな子には、ますますいやにさせてしまった。』のではないかという心配がある。


・そして、もっと子どもの側にたって考えれば、 

 担任はよかれと思ってやっていても、子どもは、『先生の気に入る作文、先生がよしとする作文を書かなければいけない。』と思うようになるわけで、自分の個性の発揮を、無意識のうちにあきらめてしまう。

・これは、卒業後にまで、影響を与えてしまう。さらに、嫌いとか、もんもんととか、恐怖心とか、おそらくトラウマになるほどの負の影響を与えてしまうのではないか。



〇ここにも、ある種、強制の教育の弊害を見る。

 
 わたしは、先の、『敬語は強制するものか。』なる記事で、基本的な立場として、公教育に厳然としてある『強制』を批判した。そこでは、教員が子どもに、『教員に対して敬語を使って話すこと』を指導(?)するとした事例をとり上げた。


 が、どうだ。

 読書感想文だって、書くことを『強制』すれば、それこそ、通りすがりの教育学を学ぶものさんが書かれたような弊害を生むことになる。

 いや。もう、あらゆる場で、それは言えることになるだろう。


 わたしは、自らの反省も含めて、このことを強く訴えたい。

 公教育に携わる教員なら、子どもに強制することなく、子ども自ら、意欲的に学ぶ姿を目指し、努力しなければいけないのではないか。


 このことについても、すてきなコメントをいただいた。

 kawaさん(コメント11番)である。

 『私も日本にいるときには国語教師でしたが、読書や考えることが好きになって、言葉に興味を持ってくれたら、教師が「教えること」なんてほとんどないと思っていました。今、それを言ったら指導力不足と言われそうですね。

 こちらの日本語教育もそうですが、「何かを教えた」というアリバイよりも、学習者が実際にどのように変化したのかということのほうが大切な気がしています。』


 もう、ほんとうに、おっしゃるとおり。

 『アリバイ』とは、うまい言い方だと、感心させられた。

 指導者は、強制であれ教え込みであれ、とにかく授業のなかでとり上げた。話して聞かせた。あるいは、子どもにやらせた。その事実のみが、『アリバイ』だね。

 それで、指導がなったとする。

 しかし、子どもの側にしてみれば、それが身についたどころか、逆に、嫌いになったり、恐怖心を感じたりしてしまう。

 わたしは、これを『指導』とみなさない。


 もう一つ。

 これもkawaさんはおっしゃっているのだが、今の、ペーパーテスト的学力重視(?)の時代は、ますます、強制しての『アリバイ』づくりが盛んになっているのではないか。心配である。

 子どもを意欲的に学ばせることのできる指導者は、ほとんど教えることはない。

 これは、ほんとうだ。そして、それは、断じて指導力不足ではないし、逆に、子どもにとっては最良の先生となるだろう。


 
 どうしたら、子どもが意欲的に、読書感想文を書くようになるか。

 その答えも、いただいたコメントの中にある。

・それは、Tomさんの8番だ。

 『先生に過剰にほめていただいたことが原因かもしれません。

 めいめいが思いのたけを素直に書いたものを、先生が褒めてくださる、共感してくださる、それだけで、文章を書くことが苦痛に感じなくなってくると、そう思います。

 予め枚数を決められてしまうと苦痛ですが、始めは書きたいことだけでよいのだと思います。それを見て、「そうなんだ。いいことが書けたね。○○についてはどうかな、先生、●●さんがどう感じたか知りたいな」などと声掛けしていけば、自然と原稿用紙は埋まっていくものかもしれませんね。』


 そう。どのような感想も、ほめてやること。小学生だったら、過剰にほめてやることもあっていい。

 また、共感してやること。『あっ。先生も同じ思いなんだ。』とか、『あっ。先生もわたしの気持ちを分かってくれた。』とか、そのように、思いの共有をはかってやること。

 たとえ、どんなに稚拙であっても、そういう態度で臨むこと。それが、その子なりの一歩成長した姿を導き出す。その積み重ねで成長をねらう。


 そして、さらに言わせていただければ、

 一人ひとりの思い、感想を、授業の流れに位置づけてやることだ。『Aちゃんの思いをみんなで深め合う。』とか、『みんなで共感し合う。』とか、逆に、『みんなで共感し合える言葉を模索する。』など。



 それでは、最後に、かつて、わたしが担当した初任者の授業を紹介させていただこう。過去記事にあった。

    育つ初任者 スーホの白い馬


 この授業には、

〇子ども同士が、きびしく言葉を吟味し合う姿がみられる。授業者の問いかけから始まるのではなく、子どもたちが主体的に、『殺される。』『死ぬ。』『命を落とす』のなかで、どの言い方がこの場面にふさわしいかを考え合っている。

〇また、感想を書くのを嫌がるどころか、『いいよ。時間延ばしても。・・・。書きたいことがいっぱいあるから。』と言って、時間がないなか、延長してでも書きたがる姿が見られる。

 もっともこの場合、原稿用紙ではなく、ノートに書くのだけれどね。

 つまり子どもたちに、書きたくなる必然性、切実感があるのだ。なぜなら、自分たちの思いを、授業に生かしてもらえるし、授業が自分たちの思いによって流れていくからであろう。

 この場面で、指導者は、あらたまって、『読書感想文を書きましょう。』などと言っているわけではない。それこそ、Tomさんの言葉のように、『書きたいことだけでよいのだ。』いっぱい書く必要はない。


 さあ。このように、子どもの意欲を育むことを大事にして、

 読書好きの子、感想文を書くことを好む子を、育てていこうではないか。


にほんブログ村 教育ブログへ
 ninki



 通りすがりの教育学を学ぶものさんは、もう一つ、大事なことをおっしゃっています。

『自由に書けと言いつつ、正直に書くと、それを否定するという大いなる矛盾、欺瞞。』

 ほんとうに、こういうことはあってはいけません。子どもをだますことにつながります。それだったら、『自由に書け。』などと言わなければいい。


 最後に、モニママさんとyokoさんにお詫び申し上げます。

 本記事では、引用させていただく場面がありませんでしたが、次回の(2)では、紹介させていただこうと思っています。

 よろしくお願いします。

    (2)へ続く。


rve83253 at 09:31│Comments(17)TrackBack(0)国語科指導 | 指導観

トラックバックURL

この記事へのコメント

1. Posted by くま   2009年08月08日 11:01
5 初めまして。
福井県で講師(2年目)をしています、
くまと申します(^-^)

ただ今、教採まっただ中w

面接対策で、、
色々な記事の検索をかけていたところ、
先生のブログにやってきました。

一つ一つの言葉に感動し、、
改めて、自分の子ども達への
態度を省みていました。


時間がたつのも忘れて、、w

いろいろと勉強になりました。


また、見に来ます(^-^*)


採用されたら、、
先生のようなすてきな方に、
初任研の担当になっていただきたいなぁ。。

なんて思いました。

ありがとうございました。

2. Posted by 居眠り猫   2009年08月08日 23:10
前回「通りすがりの教育学を学ぶもの」という名前で投稿した者です。一回しか投稿するつもりがなかったのですが、今後も投稿しようと思い、名前を短くしました。

>>どのような感想も、ほめてやること。小学生だったら、過剰にほめてやることもあっていい。また、共感してやること。『あっ。先生も同じ思いなんだ。』とか、『あっ。先生もわたしの気持ちを分かってくれた。』とか、そのように、思いの共有をはかってやること。<<

これは全くその通りと思います。すべては子どもが書いたものを認めてあげることから始まると思います。頭から否定することなどあってはいけない。それをやってしまったら子どもはすぐにやる気をなくすでしょう。まず認めてあげて、そこから発展させていく、それが教師の仕事だと思います。難しいとは思いますけど。

>>一人ひとりの思い、感想を、授業の流れに位置づけてやることだ。<<

これもすごく重要なことと思います。もしかしたら授業で取り上げられることをいやがる子もいるのかもしれませんが、自分の書いたものが取り上げられる、多くの反応があるというのはうれしいことではないでしょうか。(私の前回のコメントに反応があったことはとてもうれしいことでした。)
3. Posted by 居眠り猫   2009年08月08日 23:11
kawaさんのコメントには私もとても共感しました。
>>読書や考えることが好きになって、言葉に興味を持ってくれたら、教師が「教えること」なんてほとんどないと思っていました。<<
これはよく私も考えることです。教師にできることは出発点を与えてあげることなのではないか。子どもがこれから先の人生の中で、多くの本に出会い、色々と考えを深めていくその出発点を。
>>学習者が実際にどのように変化したのかということのほうが大切な気がしています。<<
これも大事なことだと思います。誰が言ったか忘れてしまったのですが、「何かを学ぶことは、学んだことによって自分が変化することだ」という趣旨のことを思い出しました。人は日々色々なことを経験し、知り、毎日ちょっとずつ変化していて、決して昨日の自分と今日の自分は同じではない。そんなことを思い出していました。
4. Posted by 居眠り猫   2009年08月08日 23:23
>>これらは皆、学習指導要領の問題ではありません。指導法の問題です。<<
これがおそらく一番難しいというか厄介な教育における問題なのではないかと思います。
教師の中には熱心に指導法を研究し、ほんとうに子どものことを考えて授業をする方ももちろんいることでしょう。しかし、残念ながらすべての教師がそのように熱心であるわけではありません。指導法に何の発展も研究の成果もなく、いやそもそも研究などせず、ルーティーンワークとして授業を行っているような教師がいることも事実でしょう。残念ながら私は授業について熱心に工夫・改善をしている教師に出会えませんでした。かつて「でもしか先生」ということが言われましたが、これは今でもなくなっていないと思いますし、それどころか増えているのではないかとさえ思います。これからもやる気のない先生というのはいなくならないでしょう。
これまで、数多くの魅力ある教育実践が熱心な教師によってなされてきました。しかし、なかなかそれらの実践が共有され、普及していくことがすくないように思えます。これはとても残念なことです。
5. Posted by 居眠り猫   2009年08月08日 23:23
教師がどのような考え方、あるいはビジョンを持っているかによって、とても魅力的な実践になったり、とても残念なものになったりする。そういう自由度があるというのは教育のいいところであり、同時に難しいところだと思います。多くの教師たちはきっと日々悩みながら授業を行っているのでしょう。志の高い教師が少しずつ増えていくことを願うばかりです。

長々と失礼しました。
6. Posted by toshi   2009年08月09日 06:55
くまさん
 教員採用試験に挑戦中とのこと。いい結果になりますよう、祈念しています。
 くまさんのように、これから教員になろうとしている方、また、若い教員の方に多数読んでいただけるのが、わたしの願いです。
 あとからいただいたコメントですが、居眠り猫さんが、4番で、
《教師の中には熱心に指導法を研究し、ほんとうに子どものことを考えて授業をする方ももちろんいることでしょう。しかし、残念ながらすべての教師がそのように熱心であるわけではありません。》
とおっしゃっています。
 どうぞ、教員になられましたら(今も講師としてご活躍中なわけですね。)、子どもとの豊かなふれあい、子どもの成長を、我が喜び、生きがいとすることのできる、すてきな教員になられますよう、これも祈念しております。
 なお、今後とも、拙ブログをよろしくお願いしますね。
7. Posted by toshi   2009年08月09日 07:25
居眠り猫さん

 これからも、コメントをいただけるとのこと。どうぞ、よろしくお願いします。

《すべては子どもが書いたものを認めてあげることから始まると思います。頭から否定することなどあってはいけない。》

 そうなんです。記事にも書かせていただきましたが、たとえ稚拙であっても、そこにその子なりのよさを見つけられるかどうか、子どもが喜ぶような、また、伸びようとするようなほめ方ができるかどうか、共感してあげられるかどうか、それこそが、教員としての資質と思います。

《授業で取り上げられることをいやがる子もいるのかもしれませんが、〜》
 そう。これへの心構えも大切なことです。嫌がる子だったら、『誰が書いたか忘れちゃったのだけれど、こんな素敵な考えがノートに書かれていたよ。』と、教員が提起し授業の流れにのせてやればいいのです。それでも、子ども主体の授業であることに変わりはありませんものね。

 
8. Posted by toshi   2009年08月09日 07:25
そして、これは発表力のない子も、授業に参加できるわけですし、それが、自己変革ではないけれど、発表できるようになる契機にもなりうるわけです。

 こうした積み重ねが子どもの学ぶ意欲、主体的に学ぼうとする生活、生き方にまで、いい影響を与えていくのです。 

《「何かを学ぶことは、学んだことによって自分が変化することだ。」》

 そうです。その通りです。わたしは、『自己を確立させることと柔軟性との両立』こそが大切と思っています。これは一見矛盾するかのようですが、両者の融合こそが、よりよい自己の確立に向かっていけるのだと思います。
 かたくななことと付和雷同は、どちらもダメですね。

 そして、そういう資質を身につけた教員こそが、そういう子どもを育めるのではないでしょうか。

9. Posted by toshi   2009年08月09日 07:26
《教師の中には熱心に指導法を研究し、ほんとうに子どものことを考えて授業をする方ももちろんいることでしょう。しかし、残念ながらすべての教師がそのように熱心であるわけではありません。》

 ほんとうにおっしゃるとおりです。わたしがブログをやらせていただいているのも、『自ら伸びようとする教員、自ら自己変革しようとする教員を増やすことができたらいいな。また、そういう教員のお役にたてたらいいな。』と思う気持ちがあります。

 ですから、本コメント1番にいただいた、くまさんのような教員が増えることが願いです。
10. Posted by 今日   2009年08月09日 15:54
お書きになられていることには、全面的に賛同します。

TBをさせて戴きたいのですが、うまくいかないので、URを記載させて戴きます。

http://plaza.rakuten.co.jp/zyx1830/diary/?PageId=0&ctgy=6

2009.06.23
書く力を着ける決め手は、日記 [ 誰もが書ける作文教育(文ちゃん人形) ]


2006.07.20

説明文(理論文)の読み方・書き方(1) 田村 利樹
http://plaza.rakuten.co.jp/zyx1830/diary/200607200000/
11. Posted by 夏宗 なつ   2009年08月09日 22:49
いつも、知識にあふれ、熱意あるブログで頭が下がります。私は、それこそ、文章を書くことは好きだったけれども、人より高い評価などしてもらった記憶がありません。
小学校の時、一番記憶に残っているのは、ブログにも取り上げていらしたコメントにもあったように、「朱が満遍なくちりばめられている」原稿用紙が帰ってきたときのことですね。
でも、今は、その「朱に染めてくれた先生」に感謝しています。35年以上たった今です。本を書いて、感謝することができました。「朱」の記憶が、次から次に原稿用紙のルールを教えてくれたのです。その時は、わからなかったのですが、私の原稿用紙を染めていた「朱」は、原稿用紙の使い方を正す目的を持っていた「朱」だったのではないかということに気づくことができました。だからこそ、書くことが嫌いにはならなかったのかもしれません。
今日、私は自分のブログに【将来をイメージする教育】について書いたのですが、このブログでも示されているように、芽を摘んでしまうような指導は改善されるべきであると思います。
12. Posted by toshi   2009年08月10日 06:02
今日さん

 いつもお世話になります。
 貴ブログ記事をご紹介いただき、ありがとうございました。
 東京都世田谷区で行われている、小学1年生からの古文の扱いなど、貴ブログを読ませていただき、あらためて危機感を感じました。
 なお、拝見させていただきます。
 今後ともよろしくお願いします。
13. Posted by toshi   2009年08月10日 06:12
夏宗 なつ さん

《私の原稿用紙を染めていた「朱」は、原稿用紙の使い方を正す目的を持っていた「朱」だったのではないかということに気づくことができました。》

 なるほど。こういう朱の入れ方なら、個性を発揮させなくするということではないですものね。

 それにしても、『今、もし、全国各地で原稿用紙が使われなくなっているとしたら、こうした知識は習得できなくなるなあ。』と、日ごろ知識より思考力と言っているわたしも、心配になりました。

 
14. Posted by 夏宗 なつ   2009年08月10日 08:24
私のブログにお越しいただき、また過分なコメントまでいただき、恐縮に存じます。
社会科の授業、私も思い出させていただきました。色々な職業を知ることで、ワクワクしたり、尊敬したり、たくさんの想いを胸に抱きました。
人生の中で、子どもの頃の気持ちをたくさん思い出すこと、それはとても大切なことであることを改めて実感しました。ありがとうございました。
15. Posted by Tom   2009年08月10日 14:18
toshi先生、こんにちは。
温かく拙コメントを取り上げていただき、ありがとうございました。
反省文としての作文も、自己に向き合うという点を考えれば、有効とも思うのですが、文を書き慣れていないお子さんだと、書くのが嫌いになる確率の方が高いかもしれないですね。
それにしても、作文、感想文、国語のみならず、生活面の指導においても、「共感」することはなんて大事なんだろうかと、toshi先生のブログを拝見して改めて感じ入っております。
16. Posted by toshi   2009年08月12日 18:18
夏宗 なつ さん

《人生の中で、子どもの頃の気持ちをたくさん思い出すこと、それはとても大切なことであることを改めて実感しました。》

 ほんとうにその通りだなと思いました。

 子どものころの心を思い出せるということ。
 わたしの場合は、教員になってすぐ、そういうことがありました。

 『このようなことを言ったり、したりしたら、子どもは、このように思うのではないか。』そう思って子どもと接したら、子どもとの信頼関係が築けそうですね。

 保護者の皆さんにとっても、どれだけ、子育てにプラスになるか分かりませんね。

17. Posted by toshi   2009年08月12日 18:25
Tomさん
 
 いやあ。夏宗 なつ さんの、コメント14番ではないですが、わたし、Tomさんのコメントで、忘れていた自分の初任者時代を思い出したのです。

 そうすると、『何であのようなことをしていたのだろう。』と、自責の念にかられ、当時の子どもたちに、ほんとうに申し訳ない思いがしました。

 もし、今、担当している初任者がそのようなことをしていたら、自分のむかしを引き合いに出しながらも、なぜいけないのかをしっかり話そうと思います。

 そのようなきっかけを与えてくださいました。ほんとうにありがとうございました。

コメントする

名前
URL
 
  絵文字