2009年08月11日

国語の授業がおかしくなっている・・・かな!?(2)4

519e1ace.jpg 本シリーズは、わたしの担任時代だった平成3年度までと今とをくらべ、国語の授業が、よくない方向へ変わってしまったのではないかという問題(危機)意識がもとになっている。
 
 ただし、わたし自身は、すべてを理解した上でこのシリーズを開始したわけではなかった。幸い、読者の皆さんのご協力、ご示唆をいただくことができて、かなりのところ、その全貌をつかめるようになってきた。

 まずは、その点、感謝申し上げたい。ほんとうにありがとうございます。


 本記事も、そのような読者の皆さんからいただいたコメントなどをご紹介しながら、書き進めていきたいと思う。


 その前に、前々記事をご覧でない方へのお願いだが、本記事は、その続きとなっているので、まずは、そちらからご覧いただけたら幸いである。

    国語の授業がおかしくなっている・・・かな!?(1) 


 さあ。本記事は、その前々記事で提起した問題の5点目、

 『教科書の読み物的性格が薄くなった。』をとり上げたい。


 
〇まずは、現状認識だが、 

・物語が半分近く減ったことは、すでに述べた。

 さらに申し上げると、

・物語以外でも、6年生でみると、かつては、説明文、生活文、報道文、論説文、詩・短歌・俳句など、読み物的な教材文は、実に多彩で豊かなものがあった。今は、そうした教材も減ってきている。


 前々記事では、我が娘の話を載せさせていただいた。でも、これは決して我が娘だけではなかったようだ。皆さんからいただいたコメントを拝見すると・・・、


・まず、モニママさんは、『(今の)教科書がつまらない。』とおっしゃる。(6番)

 かつては、教科書が配られると、一両日のうちに全部読みきってしまいたくなる教科書。それが今は、つまらない教科書と言われてしまう。

 どちらが読む意欲を育むか。あらためて言うまでもないだろう。


・Tomさんも(7番)、

 『確かに物語が少なくなりましたね。娘の学校の先代の校長先生もそう嘆いておられました。』
と書いてくださっている。

 そう。わたしも、我が地域で、そういう声はずいぶん聞きますよ。

 それだけではない。ある国語を専門とする校長は、

「今の国語教育は変ね。子どもが国語を学びたくなくなることばかりやっているわ。知識にかたよって、おもしろみがないのよ。」


・また、yokoさんも(9番)、

 『私は、小さい頃から読書好きで、国語の教科書は教科書というより『本』という感覚でした。まず、3つ上の兄の国語の教科書を兄より先に読みつくし、3年後また自分の教科書で同じお話しに再会するのがなんだか嬉しくて。

 残念ながら授業の記憶は全くないのですが、教科書に載っていたお話しには思い入れのようなものがあります。

 だから娘の教科書でまた再会できるのを楽しみにしていたのです。でも、毎年4月、新しい教科書を見る度に寂しくなります。もう載っていないものが多いからです。難しいことはよくわかりませんが、読み物が多い方が、国語は楽しい科目になる気がするのですが…。』

とおっしゃってくださった。


 これはすごい。我が娘の上を行く。3年上のお兄さんの教科書を読んでいらしたとは。

 ただ、『残念ながら授業の記憶は全くないのですが、』は、文字通り残念だ。

 でも、これは、仕方ないかな。

 ほんとうに、申し訳ないことだけれど、前々記事に書かせていただいたように、

 『お話を読むのは好きだったけれど、授業はつまらなかった。読書感想文を書かせられると思うと、いやになった。』という声はものすごく多い。

 
・さらには、kawaさんも(11番)、

 『私も(toshiの)娘さんと同じで、国語の教科書はすぐに読んでしまっていました。本当に読書と同じで、しかも、それぞれの作品の一番いいところを集めていましたから、あっという間に読んでいました。

 そして、気に入った作品を図書館で探したり、同じ作者の作品を読んでいったりしていました。今思うと「読書案内」という位置づけだったように思います。今の教科書はそうなっていないということでしょうか。』

とおっしゃっている。


 いや。『読書案内という位置づけでなくなった。』ということはないのだよね。むしろ、今の方が、そうした内容にページを割いている。しかし、肝心の、『物語の世界にひたる。』学習が軽視されているから、実質、『本をたくさん読もう。』という意欲を培っていることにはならないのだ。



・以上、まとめると、

 ああ。皆さん、やはり、教科書の読みもの的性格が薄くなったことを、嘆いていらっしゃる。



〇でも、いかがだろう。

 ここは、どうして、読み物的性格が薄くなったか、原点に立ち返ってみよう。


 いくら学校5日制がスタートし、授業時間数が減ったと言ったって、それだけでこんな、半減と言ってもいいほど減るわけはないよね。

 そこには、逆に増えたものがあるのだ。


 それは何か。

 小学生のお子さんをお持ちの方は、お子さんの教科書をパラパラとご覧になっていただきたい。


 実は、今、手元に、A社の3年生国語上があるのだが、何が増えたか、一目瞭然だ。

 言葉・漢字の学習、国語辞典の使い方、主語・述語・修飾語、同音異義語、図書館での本の探し方、反対の意味の言葉、インタビューの仕方、聞く人に分かりやすい本の読み方、招待状の書き方、道案内の仕方など、など。

 上巻だけでも、これだけ、読み物的でない内容が占める。実に、教科書の半分近くだ。これが、モニママさんをして『教科書がつまらない。』、yokoさんをして『さびしい。』と言わしめる原因だろう。

 ああ。ごめんなさい。保護者の方がどう思われるかではないのだよね。

 問題は、子どもだ。むかしのように、教科書が配られると、すぐ読み切ってしまうというお子さんが、どのくらいいるか。

 yokoさんもふれてくださっているが、わたしのまわりも、お寒い限りだ。

 やりきれなくなる。

 

〇むかしも、もちろん、言語事項的な力は養っていた。

 ただ、それは、教科書の多くのページをさくかたちではなく、それぞれ読み物的な扱いの単元のなかで、『その読み物をより深く味わったり、理解したりしやすくするために必要な知識・技能』というかたちで、学んでいたのである。


 今は、知識・技能だけをとり出し、独立させて学ぶかたちが中心となっている。


 こうした学習形態は、知識注入型、教員主導型、教え込みの教員にとっては、やりやすいことだろう。

 しかし、子ども主体の学習を標榜する者にとっては、実に学習問題を作りにくく、学ばせにくい単元になってしまうのである。(このあたりのことは、次回以降で詳述する。)


   
〇わたしは、初め、このことは、国の『PISA型読解力』重視と関係あるのかと思った。

 というのは、『PISA型読解力』とは、いわゆる日本的な解釈の『読解力』とは異なり、実用的な学力、すなわち、社会にでて役立つ学力重視という立場で言われるからだ。

 もう少し分かりやすく言うと、『PISA型読解力』とは、文章の読解力だけではなく、図表・グラフなど、広汎な資料を含めての読解力も意味しているのである。

 そのため、『知識・技能』のみをとり出した単元構成をするのかもしれない。


 しかし、もしそうなら、それは誤解だ。


 なぜか。 

 PISAは、そうした図表・グラフ・広汎な資料だけをとり出し、独立させて設問を作ったりはしていない。多くは、読み物的な問題文が提示され、それを解決するために必要な資料を、いろいろなかたちで提示しているのだ。


 このことについて、ある、国語を専門とする校長に尋ねた。そうしたら、

『それは関係ないのではないか。PISA調査は、第1回が2000年実施だ。そして、2000年時点では日本の学力は世界一と言われたから、ほとんど、『いわゆる学力低下』は、問題視されていない。

 それに対し、国語のこうした傾向は、平成14年(2002年)実施の学習指導要領から始まっている。』

 つまり、別な言い方をすれば、ゆとり教育全盛の時代に、今のような教科書の改訂が進んだことになる。これは、皮肉だ。

 『ゆとり教育』が大きく叫ばれたときに、国語だけは、それに逆行する教科書ができたのだから。

 ああ。暗礁に乗り上げる気分になった。

 なぜ、こんなことが起きたか。



〇PISA調査がきっかけでないことが分かった。それでは、何か。


 そんな思いでいたら、救いの神が現れた。

 昨日のことだ。

 実にタイミングよく、いつもお世話になっているドラゴンさんが、明快なコメントをくださった。リンク先の23番である。

 ほんとうに、ありがとうございました。
 

 そこには、平成10年の教育課程審議会答申がリンクされていた。そのなかに、まさに本テーマにかかわる重要な文章が入っていたのである。


 わたしは、元来、この種のものにほとんど興味・関心がない。それは、いつも総花的だし、似た表記がなされているからである。

 しかし、ドラゴンさんのコメントからは、ショックを感じ、リンク先をあらためて読む気になった。


 そこには、次の文字がおどっていた。ドラゴンさんも引用してくださっているが、あらためて再掲させていただこう。


「〜。互いの立場や考えを尊重して言葉で伝え合う能力を育成することに重点を置いて内容の改善を図る。特に、文学的な文章の詳細な読解に偏りがちであった指導の在り方を改め、自分の考えをもち、論理的に意見を述べる能力、目的や場面などに応じて適切に表現する能力、目的に応じて的確に読み取る能力や読書に親しむ態度を育てることを重視する。〜。」


 ここには、矛盾があると思う。

 だって、

 物語や説明文などが豊富にあり、配られるとすぐ読み切ってしまう子どもが大勢いた読み物的な教科書を、『文学的な文章の詳細な読解に偏りがち』とみて、

 それでいて、『読書に親しむ態度を育てることを重視〜』とは・・・、


 なんたることだ。これは、軽視そのものではないか。


 『互いの立場や考えを尊重して言葉で伝え合う能力を育成することに重点を置く』のなら、また、『自分の考えをもち、論理的に意見を述べる能力、目的や場面などに応じて適切に表現する能力、目的に応じて的確に読み取る能力』を育むなら、

 子どもたちが興味・関心をもって読む教科書を、つまらない教科書にすべきではなかった。


〇教育課程審議会が大切とする学力は、読み物教材を大切にしてこそ、身につく学力である。

 その証明と言っては何だが、

 本シリーズでは、我が実践例(先輩の実践も含む。)を、紹介させていただいている。

 たとえば、

 『自分の考えをもち、論理的に意見を述べる能力』は、先日も紹介させていただいたが、我が先輩の授業が、いい模範例となるのではないか。再度、紹介させていただこう。

    過去記事のやまなしの授業


 さらにもう一つ、『自分の考えをもち、』にかかわる授業を紹介させていただきたい。これも、つい先日リンクさせていただいた授業で申し訳ないのだが、その記事ではふれなかったことを書かせていただきたいので、ご了解いただきたい。

 わたしが担当した初任者の授業である。

    育つ初任者 スーホの白い馬 

 この記事に、次の記述がある。再掲させていただこう。


 (担任のなげかけ)「これまでのみんなの発言では、『白馬は、殺されてしまってかわいそう。』と、『でも、スーホに会えたのだから、その点はよかった。』という意見とがあったわね。」

 もう、そのように担任が言っただけで、子どもから、

「殺されたっていうのは、かわいそうだよ。言い方がひどいよ。死んだって教科書にも書いてあるし、それがいい。」

「『命を落とした』の方がもっといい。」

そんなやりとりの後、子どもたちの総意で、『命を落とした』という表現がいいということになり、担任はそう板書した。


 以上だ。

 つまり、教科書には、『死んだ。』と書かれているのだ。

 それなのに、子どもたちは、もっとこの場面にふさわしい言葉として、『命を落とした』という表現の方がいいと主張する。

 『2年生の子どもが、教科書の記述を超えて、表現しようとしている。』と言ったら言い過ぎか。

 しかし、『自分の考えをもち、』を、見事に具現しているとは、言えるのではないか。
   


〇視点を変えてみる。

 前々記事でも、少しふれさせていただいた、

・『物語が減った。それだけではなく、物語をどのように学ぶか、その学び方も、多くは変わってしまった。』

をもっと深めさせていただこうと思う。


 ここで、一つのホームページ(論文)を紹介させていただきたい。

 それは、日ごろ大変お世話になっている田村利樹氏が書かれたものである。

    ことばの理解を深める表現よみ

 このなかに、『かつてわたしが初任者指導をしていて、驚愕したこと』が書かれている。

 『2 読解を軽視する最近の動き【2】 教科書では』をご覧いただきたい。

 
 3年生の『ちいちゃんのかげおくり』。

 同氏は書かれる。すみません。事後承諾をいただくかたちになってしまいますが、一部、引用させてください。


 それは、

『教科書の教師用指導書では、〜、読解をしないで、いきなり、「音読の聞き合い」や「戦争や平和に関する物語の紹介文を書く」などの表現(活動)が展開例となっているのです。』

『文章の読解をしないで、朗読発表会・紹介文を書く・・・・・・など表現活動先行の国語科指導、これでは、国語科の学力として大切にしてきた『コトバの力』を着けることや「文章を読む力(読解力)』は、着かなくなります。』

 引用は以上だ。くわしくはリンク先をご覧いただきたい。


 今、『ちいちゃんのかげおくり』のお話に、読解指導がないこと。これはもちろんわたしも知っていた。


 ここで、しつっこいようだが、前々記事に書いたことを繰り返させていただく。

 これを、教科書会社のせいにしては気の毒だ。教科書会社が、自ら率先して、『読解指導なし』にしたとは、とうてい思えない。

 これは、やはり、上記、教育課程審議会答申を含め、検定など、国の指導(?)のせいとしか言いようがない。


 話を戻して、

 わたしも、初任者指導にあたり、教師用指導書を読んで驚愕した。ほんとうに読解指導の時間をとっていないのだ。

 わたしは、『このようであってはいけない。』と、信念にも似た思いをもった。それで、初任者には、『ただでさえ少なくなった文学教材だ。長い教員生活、ぜひとも、読解の指導を大切にしてほしい。』と思い、わたしの責任で、他の物語同様、ちゃんと読解に時間とった初任者指導をさせていただいた。


 それは、一つの授業を紹介したに過ぎないが、

    問題解決学習とPISA調査(2)

の記事にくわしい。


 わたしは、このリンク先記事にある、子どもの発言、

 「うん。食べ物もなくなっちゃうしな。平和だったら、家族みんなでかげおくりもできるけれど、戦争になると、かげおくりが、『いのちおくり』みたいになっちゃうよな。」

 この、『いのちおくり』という言葉に、しびれてしまったのだ。


 以上、読解の指導がいかに大切か、実践的に述べさせていただいた。


 結論は、バナーの下に書かせていただきます。


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 教育課程審議会は、答申を間違えたようです。

 『文学的な文章の詳細な読解に偏りがちであった指導の在り方を改め、』などというのではなく、

 『文学をはじめ、読み物教材が多数採用されているにもかかわらず、必ずしも、読解指導が十分行き届いているとはいえない状況にかんがみ、子どもがより意欲的に興味をもって深く読もうとする指導法の開発に努めることによって、自分の考えをもち、論理的に意見を述べる能力、目的や場面などに応じて適切に表現する能力、目的に応じて的確に読み取る能力や読書に親しむ態度を育てるようにする。』

といった感じになるでしょうか。

 これが、本記事の結論です。


 皮肉なことに、今、全国的に、地域・PTAの皆さんなどによる本の読み聞かせ教室や、全校読書タイムなどが盛んです。それは大変ありがたいことです。

 しかし、読解力を軽視し、ただ、ムード的に読書の雰囲気を高めようとしても、それは、限界があるというものでしょう。地域・PTAの皆さんの支援を身のあるものにするためにも、教科書、及び、授業の改善が望まれます。

    (3)へ続く。

rve83253 at 17:21│Comments(8)TrackBack(0)教育制度・政策 | 教育観

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この記事へのコメント

1. Posted by みっきーまま   2009年08月13日 00:18
お久しぶりです。
最近はまとめ読みばかりですみません・・・
さて、最近図書館でたまたま見つけた本ですが、
『学力と新自由主義』佐貫浩(大月書店)
2009年2月
という本で、子どもの主体性について、とても共感する内容でした。
そもそも学力というものは何であるか?
資本主義の行き過ぎが格差社会を生み、そのまま子どもの世界にまでそれを持ち込む社会。
日本の学力が落ちたことに対して、単に繰り返し訓練のような勉強方法でいいのか?
など、私は与えられた課題をこなし、基礎をつくった上で、次の段階に進むというものは何か終わりのないものを追いかけるようなキリのないような感じを抱いていたのですが、この本を読んで、胸にストンと落ちました。
自分が日常、疑問を持ったものを自分なりに追求してゆく、それが勉強であり、全ての学校が、やらされる勉強から自らやりたくなる勉強に早くスライドしないかな?と思いました。
とにかく、うちでは、疑問を持ったことに対して、(私もわからないことがたくさん!)共に考えてみたり、話し合ってみる。そのことは大事だなと改めて思いました。
2. Posted by toshi   2009年08月13日 09:25
みっきーままさん

《最近はまとめ読みばかりですみません。》

 とんでもありません。こうしてコメントまでいただき、ありがとうございます。

《そもそも学力というものは何であるか?資本主義の行き過ぎが格差社会を生み、そのまま子どもの世界にまでそれを持ち込む社会。》

 学力とは、『子どもの外にあって子どもに押し寄せるものではなく、子どもの内面にあって成長とともにほとばしりでるようなもの』。

 そういうとらえであれば、社会はもっともっとすばらしいものになるでしょう。子どもというよりも、人間が人間らしく生きていかれる世の中にしたいですね。

 お子さんの「読書が面白くないねん。」「だんだん書けなくなってきた。」あたりのこと。

 拙ブログの本シリーズと深くかかわると思いますので、リンクと引用をさせていただきたく思います。よろしくお願いします。


 
3. Posted by みっきーまま   2009年08月13日 23:11
こちらこそ、よろしくお願いいたします。

その後、長男は好きな本を今までどおり読んでいて、昨日、「自分がふと書きたいなと思うときがある。それは、自分の中で何かが生まれてくるねん。自分の中から書きたいという気持ちが湧き出てくる。自然に。そういうときがある。それは、いつかはわかれへんねん。でも、急にそういう気持ちになるときがある。」と言っていました。

私は、子どもに、宿題したの?とか読書感想文はまだなの?という質問はいかに子どものそういう内から自然と生まれてくる何かを潰していると長男の話を聞いて改めて思いました。
待つという姿勢も親には大切だと、それは子どもの主体性を伸ばすということにつながると思います。
待つというのは、子どもを信頼していないと出来ないことでもあると思います。

子どものひとつひとつの発言からも親はいろいろ学ばされます。


4. Posted by 今日   2009年08月14日 14:39
論文のご紹介、ありがとうございます。

貴ブログのように教育を良くしようとして、前向きに取り組んでおられる紙面で、相手にしてもらえることはうれしいです。

10日~14まで留守にしましたので、お礼の返信遅れました。
5. Posted by toshi   2009年08月15日 23:17
みっきーままさん

 こちらこそ、みっきーままさんからは、いつも学ばせていただいています。

 ほんとうに、『信頼』とはどういうことか、考えさせられます。

 学級だと、20人以上、子どもはいますから、『待つ』姿勢に徹しても、誰かやる子はいるわけで、その子をほめることによって、その輪が広がることもねらえるのですが、家庭ですと、1人か2人しかいませんから、なかなか待てないのですよね。

 でも、みっきーママさんは待つことができる。それがすごいと思います。

 まあ、『待つ』と言っても、何もせず待つのではないわけで、『みっきーままさんとお子さんとのやり取りがすてきだな。そこに、『待つ』ことの秘密がありそうだな。』と、いつも思っています。
6. Posted by toshi   2009年08月15日 23:26
今日さん

 ごめんなさい。ご旅行中かななどと、気楽に考えていたのですが、入院、手術されていたとは。

 そんな大変なときに、メールなどいたしまして、ほんとうに申し訳ありませんでした。

 経過は順調なようで、よかったですね。早期全快を祈ります。

 本シリーズでは、引き続き、リンク、引用をお願いいたしたく、よろしくお願いします。

 
7. Posted by 今日   2009年08月28日 08:00
引用させていただきました。
ご了解いただけますとうれしいです。

2009.08.27

私たちが目指す表現よみ(朗読) [ ・・表現よみ(音読・朗読)の指導の実際 ]

http://plaza.rakuten.co.jp/zyx1830/diary/200908270000/
8. Posted by toshi   2009年08月29日 11:15
今日さん

 引用していただいたり、拙ブログに貼り付けていただいたり、大変光栄です。
 ありがとうございます。

 今日さんのブログを読ませていただくことにより、自分の思いを、『ああ。やっぱりなあ。』とか、『うん。うん。なるほどな。』とかいった感じで、再確認させてもらったり、目を開かせていただいたりした思いがしております。

 『表現よみ』の大切さについて、これからの初任者指導にあたり、いっそう力を入れていきたいと思っています。

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