2009年08月14日

明日は終戦記念日4

a1e56530.JPG ここのところ、続けている、国語シリーズは、ちょっとお休みさせていただいて、

 明日は、64回目の終戦記念日だ。


 先日、テレビがおもしろいことを言った。

「『戦争を知らない子どもたち』で、最年長の方は、64歳になりました。」

 ほう。わたしは、『戦争を知らない世代』なのか。

 確かに、物心がついたときは戦後だったが、わたし自身は、『戦争を知っている最後の世代』と思っていた。


 今日は、そんな、わたしの記憶にある、『戦後』を振り返ってみようと思う。


 そのまえに、最近の読者の皆さんには、拙ブログにおける戦争にかかわる過去記事をご覧いただきたく思うので、さっそくそれにリンクさせていただこう。ここでは一つの記事を紹介させていただくだけだが、そのリンク先から、さらに、いろいろな記事にたどりつけるようになっている。

    63回目の終戦記念日にあたり、


 話を戻して、

 生後7ヶ月が戦争中だったに過ぎないわたしが、なぜ、『戦争を知っている最後の世代』という意識だったかというと、

・子ども時代、両親に限らず、身のまわりの大人たちが、何かというと、『戦前、戦中のことを話題にすること』が多かったことと、

・我が街には、進駐軍(占領軍)兵士が大勢いて、『袖振り合うも多生の縁』と言っていいような体験が少なからずあったことと、

・今振り返れば、何より貧しかったころの日本を体感していたこと

などがあげられるだろうか。

 だから、戦争を知っているというよりも、『戦後を知っている。』と言った方が正しいかもしれない。



 その1


 今も米軍基地は日本各地にあるが、彼らが日本の街を歩くときは平服なのではなかろうか。しかし、当時は連合国の占領下にあったから、軍服姿であった。みんな背が高いし、体格もいいし・・・、

 そして、当時の日本人の大人は、貧しい身なりでうつむき加減な人が多かったから、その軍服姿は実に格好よく映った。

 そして、その数の多いこと。繁華街に出ると、日本人より、彼ら兵士の方が圧倒的に多かった。


 子ども心に屈辱を感じることもあった。

・『日本人、立ち入り禁止』の看板は、英文字とともに、街のあちこちにあった。

 『ここは日本なのに。』と思うと同時に、やはり戦争に負けたことの意味を、子どもとはいえ、感じていた。

・アメリカ人の市民生活を紹介した絵本があった。

 まだ日本にテレビのない時代に、大きなテレビを囲んで、ソファに座りながら家族で談笑している様子や、高速道路を疾走する自動車、それに、広々とした芝に、点在する家々、さらには、その芝の上で遊びたわむれる子どもたちの姿が描かれていた。

 当時、屈辱と同時に、アメリカはあこがれだった。このような姿がやがて日本でも当たり前になってくるなど、当時のわたしは夢にも思わなかった。


 でも、わたしの知る限り、進駐軍兵士は皆やさしかった。


 たとえば、


・あれは、まだ小学校に上がる前だっただろう。

 こみ合う電車に、父と乗っていた。

 なんか、外の景色で気になることがあったのだろう。わたしは身を乗り出してそれを眺めようとした。

 そのとき、目の前には進駐軍兵士が数人すわっていた。

 にこにこしている兵士が目に入り、それで気づいたのだが、わたしは何と、その目の前の兵士のひざに手を置いて、外を眺めていたのだった。

 その兵士は、笑顔のまま、わたしに席を譲ってくれた。英語で何やら言って。

 後ろで、父が、やはり笑顔をふりまきながら、『サンキュー』と言った。

 まわりの兵士も皆温かな雰囲気で、わたしに声をかけてくれた。もっとも、何を言っているのかはまったく分からなかった。


・次は、小学校高学年のころ。

 もう日本は独立をはたしていたから、進駐軍ではなく、米軍ということになるのだろうが・・・、

 これは、もう、今の保護者の皆さんは驚かれるだろうが、当時、通学時間帯、横断歩道での誘導は、週番と称し、わたしたち子どもがやっていた。原則、車の通行の途切れるのをねらって旗を出すのだが、わたしはうっかり、米軍のジープを止めてしまったことがあった。

 思ったより早く到達してしまったのだよね。

『きゃあ。しまったあ。』と思ったが、ときすでに遅し。下級生たちは皆渡りだしていた。

 でも、このときも、ジープの運転手は、にこにこしながら、『どうぞ。』と身振りで好意を示してくれた。


 あとで、道路の反対側で旗振りをしていた友人が、先生に言ったのであろう。

 先生にからかわれた。

「toshiはすごい。米軍の車を止めてしまったのだってなあ。戦争で日本は負けたけれど、toshiは、アメリカに勝ったなあ。」

 いやあ。まいった。まいった。


 それにしても、今、このようなことを子どもにやらせているところなど、日本広しと言えども、皆無だろうね。大変なことになる。



その2


・当時、我が家は、祖父と同居していた。この祖父は人情に厚い面があった。

 その一例だが、いつも納豆を売りに来る姉、弟がいた。姉はわたしより少し年長のようだった。

 祖父は、その姉弟が来ると、いつも呼び止めて、納豆を買っていた。

「かわいそうだよ。あの子たちは、戦災孤児なんだよ。」

納豆を買うたびに、それを言っていた。


・この祖父の嫌いなものが2つあった。

 ジャズと美空ひばりだった。

 ラジオをかけていて、この2つが流れると、『ジャズか。』『ひばりか。』と舌打ちして、プツンとスイッチを切ってしまうのだった。

 ジャズはともかくとして、美空ひばりがなぜそんなに嫌われていたか、今の若い人たちには分からないだろうなあ。


 ひばりが有名になった経緯は、特異である。これも、戦争と無縁ではない。
 
 当時日本中の都市は、まったくの焼け野原。生活は困窮を極めた。戦争が終わり、とりあえず空襲にあう心配はなくなったから、人々に笑顔は多かったが、明日のくらしにもこまる日々。

 人々に楽しみなどはまったくなかった。

 そんな折、ひばりの住む街では、

「よう。〇〇に、とびっきり歌のうまい女の子がいるんだってよう。」
「そうかよ。聞いてみたいものだな。」

 娯楽のまったくなかったとき、そのまちの人々はひばりの歌を聞きたがった。

 ひばりは、焼け野原にチョコンと置かれたみかん箱の上に立ち、集まった人々の前で歌ったと言う。それが口コミで広がり、どんどん人が集まるようになった。

 当時、ひばりは、小学校低学年くらいではなかったか。

 しかし、こうした経緯だったから、ひばりの歌う歌は、大人の歌が多かった。そんな幼児が、愛だの、恋だの、そういう歌も歌うものだから、『聞きたい。』と思う人と、『嫌いだ。』という人と、両方にわかれてしまったのである。

 それは、全国的に有名になってからも、同じだった。


・当時、NHKラジオには、『尋ね人の時間です。』というのがあった。その放送のすべてが、戦争の影を落としていた。

『旧満州、〇〇方面の〇〇連隊に所属していた〇〇さんを、〇〇にお住まいのお母さんがさがしていらっしゃいます。心当たりのある方は、NHKまでご連絡ください。』

 そんな放送だった。

 それが延々と続く。しかも、毎日だ。

 いったいいつまで、この放送はあったのだろう。


 ついこの前まで、『逢いたい』という、やはり尋ね人の番組があったよね。でも、事情はまったく異なる。



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 今、美空ひばりの、『川の流れのように』にリンクさせていただきましょう。ここには、歌とともに、ひばりの幼少期からの画像が映し出されています。

    『川の流れのように』

 まさに、この世も、『川の流れのように』推移してきました。
 
 

rve83253 at 09:49│Comments(0)TrackBack(0)むかし | エッセイ

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