2009年08月19日

国語の授業がおかしくなっている・・・かな!?(3)4

755efc71.JPG 本シリーズのタイトルは、『国語の授業がおかしくなっている・・・かな!?』というように、最後に、『・・・かな!?』をつけさせてもらっている。

 当初は、『おかしい。』と断定するほどの自信がなかった。『気になる。』という程度だった。

 しかし、今は、読者の皆さんから多くのコメントをいただき、確信するようになった。


 そう。やはり、今の国語教育はおかしいのだ。



 そのことにふれる前に、

 たった今、拙ブログ、本シリーズの(1)に、ドラゴンさんと、今日さんから、たくさんのコメントをいただいている。それには資料へのリンクも複数あり、大変感謝している。

 ほんとうにありがとうございます。


 しかし、現段階では、申し訳ないが、消化し切れていない。これからじっくり読ませていただこうと思っている。

 また、それら、コメントをいただく前に、本原稿のかなりの部分はできあがっていたので、そのまま記事にさせていただこうと思う。

 ドラゴンさん、今日さん、申し訳ありません。


 
 それでは、話を戻させていただいて、

 本記事では、前にお約束したなかの

・音読発表会などをはじめとして、音読中心の学習がふえている。

にふれさせていただく。



 
 これにかかわって、我が現職最終校のことで、思い出すことがある。わたしも、教頭も、その学校へは同時に着任したのだが、その1年目のことである。


 ここでは、それにふれた過去記事にリンクさせていただくが、本記事にかかわる部分のみ、そっくり引用させていただこう。
 
 
 それでは、どうぞ。



 ある日、教頭が、職員打ち合わせで、次のようなことを言った。

 「昨日は、PTAの運営委員会がありました。その席で、ある保護者から、『うちの学校の授業参観は、ほとんどが、◎◎発表会とか、○○大会とかばかりで、つまらない。わたしたちは、ふだんやっている授業を見たいのです。』という要望が出ました。

 明日は授業参観ですね。どうぞ、そういった意見もあることを念頭において、どんな授業をするかお考えいただければと思います。」

 
 そのとき、ある教員が、教頭に文句をつけるように言った。

 「保護者から、そういう声があったとき、教頭先生は、どうお答えになったのですか。保護者に言いたいことを言わせっぱなしでは、いけないと思うのです。教頭先生は、『どの子にも活躍の場を与えたい。』という、わたしたちの気持ちを伝えていただけたのでしょうか。」

 「いえ。わたしは、保護者の言う通りだなと思いましたから、『そうですね。よく先生方には言っておきます。』と答えましたよ。・・・。『どの子にも活躍の場を。』というのは、当然のことだと思います。ふだんの授業でも、どの子にも活躍させることができるよう、授業改善に努めていただきたいと思います。」



 引用は以上だが、これには、後の話もある。

 
 わたしも、『音読発表会をはじめとして、とにかく〇〇発表会が多いな。これでは、子どもたちの真の学び合いはみられない。』と感じていたから、このとき、教頭先生に感謝した。

 そうしたら、打ち合わせ後、一人の若い教員が教頭先生のところへやってきて、次のように言ったのである。

「教頭先生。ありがとうございました。

 わたしは、まだ、経験〇年目ですが、『授業参観て、〇〇発表会のようなものをやるのだ。ふだんの授業ではいけないのだ。』そう思っていました。

 ふだんどおりの授業で、どの子も活躍できる授業って、むずかしいし大変ですけれど、がんばってみます。」


 わたしは脇で、その話を聞いていたから、教頭先生への感謝の念がますます増大した。

「いいねえ。やっぱり、これでいいとは思っていない教員もいるのだね。

 どの子も活躍することのできる授業って言ったって、『どの子も前に立って音読すればいい。』なんて、そんな軽いものではないはずだ。」

 それからというもの、この若い教員を中心に、教頭の指導を仰ぎにくることがふえた。授業改善は、だんだんすすみ、その輪も広がり、授業参観の様子も徐々に変化していったのである。

  

 わたしは、退職後、初任者指導に携わっているわけだが、常に、このときのことが念頭から離れない。

 だから、授業参観でも、ふだんどおりの、子ども同士の話し合いによって学びを深め合う授業を中心にして行うよう、口には出さないが、具体的な指導を通して理解してもらっている。

 今のところ、どの子も活躍とまではいかないが、その輪は広がっている感じだ。




 音読は大事だ。

 それは否定しない。

 成果を発表する発表会だって、全否定するわけではない。数多くある授業形態なのだから、たまにはやってもいいのではないか。

 しかし、音読発表会と銘打って、一時間の授業のすべてを音読に使い、やれ、『声が大きかったから聞きやすかったです。』とか、やれ、『登場人物の気持ちがよく現れた読み方ができていたと思います。』とか、そのような感想で終えてしまうような、そんな授業ばかりでいいとは、とうてい思えない。

 おまけに、本シリーズの(2)に書かせていただいたように、ろくに読解指導に時間もとれないで、浅い読み取りのままでの音読である。『音読のための音読』にしかなっていない場合が多い。



 ここで、前回に引き続き、日ごろ大変お世話になっている、田村利樹氏のホームページに再度リンクさせていただこう。なお、田村氏は、教育ブログの『日本の教育は、これでよいのかな』の管理者でもいらっしゃる。

    言葉の理解を深める表現読み 三色ボールペンで何が得られるか


 ここで、ふれたいのは、同氏論文のタイトル後半部にある、『三色ボールペンで何が得られるか』である。


 今、国語教育において、音読とともに、この三色ボールペン(まあ、小学校においては、ふつうに鉛筆を使うと思うが、)というのも、流行しているようだ。要するに、音読したあと、『大事だと思うところ、おもしろかったところに、線を引きなさい。』ということを指している。


 
 もう、これも、弊害は実に大きい。

 初任者は、これで、授業がつっとってしまうことも多い。もちろん、初任者の責任ではない。

 ろくな読解指導もないまま、線を引かせるようになっているから、子どもたちは、もう、10人いれば、10人とも違った箇所に線を引くことがめずらしくない。

 また、読みへの関心も興味もなく、『先生が引けというから、とりあえずこのあたりに引いておこう。』というわけで、いざ発表となっても、『大事だと思ったから線を引きました。』しか言えないケースも多い。

 ようするに、収拾がつかなくなってしまうのだ。



 どうしてこうなってしまったか。


 前記、田村氏のホームページをご覧になった方は、もうお分かりだろう。

 
 上記、音読発表会も含め、これは、『声に出して読みたい日本語』また、『声に出して読む理想の国語教科書』の著者 斎藤 孝氏の主張が、大幅にとり入れられてしまったからである。

 音読重視、そして、読解軽視。



 ここから先は、教師用指導書を見てのわたしの想像なのだが、


 教科書会社は、苦慮しているのではないか。


 国が賛同してしまっているから、斎藤氏の主張にそわなければならない。

 でも、従来からある読解も大切にしたい。

 そのハザマで苦しんでいる。


 たとえば、次のような文章がある。

「音読を中心にした(指導計画)案であるが、内容の読み取りがしっかりとされなければ、よい音読にはならないことを忘れてはならない。

 ゴールの活動(音読発表会のこと)を意識させて意欲を持続させながら、「なぜそう読むのか」を大切にして、指導する必要がある。」


 でも、いかんせん、田村氏ご指摘のように、音読、音読のオンパレードだから、肝心の読み取りに時間をかけていられないのだ。矛盾である。


 また、音読発表会が、子どもの意欲を持続させるための手だてとなっている。

 なるほど。だから、父母授業参観での音読発表会が増えてしまうのだね。しかし、意欲づけを、そのようなところに求めるのは、邪道だろう。(しつっこいようですが、全否定するつもりはありませんよ。たまにはあってもいいでしょう。)

 元来、意欲づけは、読書そのものの楽しさでなければならないはずだ。
 


 先ほど紹介させていただいた田村氏の論文だが、その冒頭で、学ばせていただいたことがある。

 音読重視、そして、読解軽視。

 これは、表現重視で、理解の軽視なのだね。

 
 
 分からない。

 ちまたで学力低下論が騒がれているこの時代に、なぜこのような、論理がまかり通ってしまうのだろう。


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 わたしが初任者だったとき、国語の指導書に『読む』とあると、朗読をイメージしたものでした。それで、何かの折に、先輩に笑われてしまったことがあります。

「toshiさんは、何、言っているの。『読む』ということは、読解をすることよ。」


 しかし、今は、文字通り、音読をさしていることが多いのですね。



 他教科は、まだいいのです。

 たとえば、

 あれだけ、公教育の現場に侵食してきた百マス計算ですが、少なくとも、算数の教科書まで、百マス計算に毒されているということはありません。

 多少、ゲーム感覚をとり入れたり、クイズぽかったりするのは気になりますが、しかし、考える力を養うことも大切にしています。


 しかし、国語は違いますよ。

 ほんとうに考える力や、味わう力を軽視している状況があります。
 
 
 次回は、田村氏がお寄せくださったコメントにある、斎藤氏の主張を、わたしなりに考察してみたいと思います。

 どうぞ、よろしくお願いします。

    (4)へ続く。 

rve83253 at 06:42│Comments(26)TrackBack(0)教育観 | 国語科指導

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この記事へのコメント

1. Posted by きゃる   2009年08月19日 07:46
新しい学習指導要領の国語科改訂について、私はこのように理解しています。

【これまでの授業】には、おかしい授業、しかしありがちな授業を、
【これからの授業】には、新学習指導要領に解説してある授業をまとめてみました。

◆◆物語文◆◆

【これまでの授業】
場面ごとに登場人物の「気持ち」を聞くばかりの授業
【これからの授業】
作品全体を貫いて追究すべき課題を明らかにし、
見通しを持って、読解作業で課題を解決していく

◆◆説明文◆◆

【これまでの授業】
ロードローラー式の授業
言語内容のみの読み取りに偏っている
【これからの授業】
具体的な目的を持って読む
「説明されている内容の理解」と「説明の仕方の読み取り」が重要

これまでの授業が「そうなのか?」と驚かれるかもしれませんが、実際はこの程度です。子どもどうしの「学び合い」が重視されて(実践されて)いたかというと、必ずしもそうではありません。
私は、それを解決すべく改訂が行われていると思うので、より良い道しるべとして活用したいと思います。
2. Posted by 今日   2009年08月19日 08:33

引用、ありがとうございます。
元校長先生が、このように基本的な問題を直視し、貴重なブログで取り上げて、お書きくださったことうれしいです。

このように重大な問題がありますので、黙っているわけにはいかないので、このような小論を書きました。

それを、実践的にご検討下さっていることに感謝いたします。

お書きになっていることの幾つかについて、経験や感想を書かせて戴きます。


先ず、<教科書会社は、苦慮・・・・>のご指摘です。
そうなのです。僕は、この時期の教科書の2社で、教師用指導書を書きました。

貴ブログでお書きになっているように、編集部は、苦慮していました。書く者としては、このまま、現場に下ろされたら、先生方に迷惑をかけるので、編集長とかなりの激論を交わしました。

しかし、上から、そうなっておりてきているので、どうしょうもないのでした。そのことは、僕のブログで書いています。

この指導書の問題は、重要なので、僕のブログでは、カテゴリーとして(・指導書(7))、設定しています。
3. Posted by 今日   2009年08月19日 08:38
(続きです)

その中の主なものをここに書かせて戴きます。

2006.05.04
指導書をどのように扱っていますか・子ども達の手が槍のよう(授業参観で)F・やる気を継続させるには(15)
http://plaza.rakuten.co.jp/zyx1830/diary/?ctgy=35


2006.05.03
だから子どもを託しているのです・子ども達の手が槍のよう(授業参観で)D・やる気を継続させるには(13) http://plaza.rakuten.co.jp/zyx1830/diary/?ctgy=35



2006.05.02

中学校まで続けたい、子ども達の手が槍のよう(授業参観で)C・やる気を継続させるには(12)http://plaza.rakuten.co.jp/zyx1830/diary/200605020000/ [ 指導書 ]



次は、恐ろしくなったり悲しくなったりしたことです。
貴ブログで、下記のようにお書きになっています。

・・・・・・・・

 <わたしが初任者だったとき、国語の指導書に『読む』とあると、朗読をイメージしたものでした。それで、何かの折に、先輩に笑われてしまったことがあります。

「toshiさんは、何、言っているの。『読む』ということは、読解をすることよ。」


 しかし、今は、文字通り、音読をさしていることが多いのですね。>
       ・・・・・・・
のとろです。
この実態が、できているのですね。


4. Posted by 今日   2009年08月19日 08:39

(続きです)


最後です。誤植があります。

『ことばの理解を深める表現よみ
三色ボールペンで何が得られるか』の

【3】 小学校教育の対象は子ども

の中の

<氏は、指導要領作成に決定的な影響を与える文化審議会の国語文化会委員をし
ています。氏の『理想の国語教科書』では・・・・・・・・・?の<国語文化委員>は、「分科委員」です。
これは、僕のミスです。お詫びいたします。
5. Posted by toshi   2009年08月19日 14:59
きゃるさん

 そうですか。どうしてそのように思われるのでしょう。
 これまでの授業が、『場面ごとに登場人物の「気持ち」を聞くばかりの授業』とか、『言語内容のみの読み取りに偏っている授業』といった程度の授業というのも驚きです(そんな授業もあるということなら分かりますがね。)が、そういう授業をやる教員なら、新指導要領のもとでは、『ああ。音読さえさせておけば何とかかたちがつく(あくまで一例ですよ。)から、楽でいい。』となるのではないでしょうか。
 その程度とおっしゃる授業が、新学習指導要領のもとでよくなるとは、思えません。
6. Posted by toshi   2009年08月19日 15:13
今日さん

 いえ。こちらこそ、大変お世話になっております。また、今日は、拙ブログをご紹介いただき、感謝しております。

 ほんとうに国語の授業は、様変わりしています。

 そして、今回のシリーズで、これではいけないという思いを強くしています。音読や言語事項ももちろん大切にしますが、それ以上に、子どもたちが国語大好きになるよう、読解指導にはいっそう力を入れて初任者指導をしていきたいと、気持ちを新たにしているところです。
7. Posted by yo   2009年08月19日 20:37
今日さんのところから失礼します。

私は、今小中連携研究を中学校を含む複数校でやっています。
専門外の国語部会に所属しています。

「読み」に関わって、いろいろ文科省の資料なども含めて調べまくったのですが、自分なりに研究して来た「読み」と、それにともなう指導というのが一番しっくりきます。
私は小学校なので、目的意識がどうのとか学び合いがどうのとか、それはそれで大切なのでしょうけれど、読む力というのは、そういうことなのではないと思っています。
読み、味わい、自分の世界の広がりを実感できることが大切なのではないでしょうか?

同じ小学校の先生方に主張したのですが、やらせっぱなしの音読指導(特に音読カード)は音読の質を下げるとか、スキーマの交流を生活(学習生活=例えば場面の話し合い)にひきよせることでイメージの定着がはかられて行くとか、そういうことです。
同じ校種の先生方にはよくわかってもらえませんでした。
指導にきていた国立研の国語調査員の人は、うなずいていましたが・・・。
意味深げに「大村はま」のような実践は、もうありえないのですよ、ともつぶやいていました。
8. Posted by yo   2009年08月19日 20:37
逆に、中学の先生方からの受けはよく、そういった授業がしてみたいものだと嘆いていました。
彼らの授業も参観する機会があったのですが、(受験のために)時間に追われ、しっかりと読み取らせるという活動が貫徹できない苦悩の様子がうかがえました。

教科書会社もそうなのでしょうけれど、私などは、教科書こそ使えども、指導書や教科書の表示なんて見ません。
指導要領もちらっとは見ますが、それは自分の禁じ手を知るためだけです。

教員養成系の大学で国語教育を教える人が多く執筆を担当している「国語教育」という雑誌がありますが、あの手の雑誌から伺える主張は、文章作品を読み・味わうことの否定です。

国語の授業がおかしくなっている・・・は、私の感覚でもあります。
長文、失礼しました。
9. Posted by toshi   2009年08月20日 00:54
yoさん

 よその研究事情は分からないというのが正直なところですが、yoさんの悩みは深いと想像しました。

《読み、味わい、自分の世界の広がりを実感できることが大切なのではないでしょうか?》《スキーマの交流を生活(学習生活=例えば場面の話し合い)にひきよせることでイメージの定着がはかられて行く》

 yoさんの、『読む力』のとらえは、すばらしいのではないかと感じました。どうぞ。ご自分の信念に自信をもって、目の前の子どもの目や学びが、yoさんの実践の証明だくらいの気概でがんばっていただければと思いました。

 わたしは社会科を専門とするものなのですが、我が地域の場合、社会科研究会は、実践はともかく、『問題解決学習を目指すべき』という理念は一致しています。しかし、どうも、国語研究会は、理念においても、考え方は多様なように感じています。

 
10. Posted by toshi   2009年08月20日 00:54
わたしのように、初任者指導に携わっていると、やはり、初任者は、指導書にたよる部分がありますから、ときに気になる部分もあり、指導書と違うことを言ったりもします。
 でも、それも大事だなという気がしています。『指導書にばかりたよってはいけないのだな。』という気づきも、指導内容になるからですね。

《意味深げに「大村はま」のような実践は、もうありえないのですよ、ともつぶやいていました。》
 これはどういう意味なのでしょう。逆説的に申せば、『わたしが指摘させていただいた今の国語教育のおかしさ』を証明してしまっているということなのでしょうか。

《文章作品を読み・味わうことの否定です。》
 国語を研究している人たちがこれでは、国語嫌いな子がますます増えそうですね。驚きました。これも想像ですが、時流に合わせているということなのでしょうか。
 
11. Posted by Tom   2009年08月20日 10:55
toshi先生、みなさま、こんにちは。
「ちいちゃんのかげおくり」において、読解指導がないというのは大変驚きでした。娘の学校では、前に学校公開時に授業を見学しましたが、ある場面の読み取りで、心情や背景について、子どもたちが様々な意見を言っているのを、成長したな〜と感慨深く聞いていたのでなおさらです。
トピずれになっていたら、申し訳ありませんが、娘の通う公立小の取り組みを、その是非はともかくとして、書かせていただきますね。
音読については、全くしないというのもどうかと思いますが、授業時間を割いてというのには、疑問を持ちます。
ただ、娘の通う学校の児童はのんびり屋さんが多いせいか、「文章を読む」ことに不慣れなお子さんが多いのも事実で、高学年でもつっかえつっかえでしか読めなかったり、長い文章になると拒否反応を示して全く読まなかったり、テストのときなど、設問すら読まないお子さんもいるほどで、校長先生はかなりの危機感を抱いておられました。
そこで、月に1回ほど校長先生からの暗唱の課題が出るようになりました。これは、プリントは全児童に配られますが、強制ではなく、やりたい子だけが取り組んでいます。
12. Posted by Tom   2009年08月20日 10:56
それは、現代詩だったり、論語や平家物語、枕草子などの古典の本の一節だったりと、内容は様々ですが、暗唱できた子は、校長室に行って一人ずつ、校長先生の前で暗唱します。それで、校長先生はおほめの言葉とサインをプリントに書いてくださいます。
はたしてそんなことしている子がどのくらいいるのかなと思っていたところ、なんとなんと、用事で学校に出かけた際、休み時間に校長室前に長蛇の列ができていて驚きました。もちろん、たまたまかもしれませんが。
それでも、ほめてもらい、サインをもらった子どもたちは、一様に輝くような笑みを浮かべて校長室から出てきていました。
こんなふうに、授業時間の外の枠で、音読を楽しみながらできているのだなぁと、微笑ましくその光景を見ていました。
13. Posted by Tom   2009年08月20日 10:57
私自身、音読は大好きで、それはそのまま読み聞かせ活動に直結しています。
音読は、理解する等の学習効果もあるのかもしれませんが、何よりも、日本語のリズム感を味わう、自分の声の強弱で表現する、雰囲気・空気を作る、そんな楽しみ方があると思っています。
ですから、授業で何となく皆で○読みする音読はつまらないと感じていたので、校長先生の取り組みは、個人的にはありがたく受け止めております。
そしてその分、授業では、読解中心をやっていただけていると思いたいのですが…。
そうではない指導要領になっているというのは、大変驚きました。
長文失礼いたしました。
14. Posted by SZK   2009年08月20日 12:36
朗読を大人の人向けに講座を開いている方々も、
音読で止まってしまって、朗読に進まない現状を苦々しく思っているそうです。
ただの発音でなく、意味をも伝えるのが、話すということなのだから。
読解することの大事さを、大切にして欲しいと思います。
15. Posted by Tom   2009年08月20日 13:21
SZKさん
はじめまして。
貴コメントならびに貴ブログ記事を拝見して、はたと気づきました。
音読音読、と言いながら、私の中では音読=朗読となっていました。
私の小4時代、読解後に朗読大会があって、言葉の一つ一つを大切にしていたので、すっかり「声を出して読むこと」はそのまま朗読の世界に入っていると思い込んでいました。

でも、現実は音読≠朗読なのですね。
これで、音読ですませてはいけないとの意味がよくわかりました。
大事な点に気づかせていただき、ありがとうございました。
16. Posted by 今日   2009年08月20日 17:39

音読・朗読・表現よみについて、語り合われていて、うれしいです。

これを授業に取り入れる研究をしています。少し、参考になりそうだと思わるるものを下記にご紹介させて戴きますね。




2008.09.02

音読・朗読・表現よみ・読み聞かせは、見る・聞く・やるが一番
http://plaza.rakuten.co.jp/zyx1830/diary/200809020000/




2008.03.22

詩の授業はリズムを味わえばいいと思っていたが・・・。指導要領 [ 読みきかせ・表現よみ(音読)の工夫 ]

http://plaza.rakuten.co.jp/zyx1830/diary/200803220000/



17. Posted by 今日   2009年08月20日 17:42

(続きです)


2007.12.22

読み聞かせ・表現よみ・朗読のあらまし [ 読みきかせ・表現よみ(音読)の工夫 ]
http://plaza.rakuten.co.jp/zyx1830/diary/?PageId=2&ctgy=5


2007.08.29
「かさこは売れたのかね。」の表現よみと高学年・中学・高校での学習 [ 読みきかせ・表現よみ(音読)の工夫 ]
http://plaza.rakuten.co.jp/zyx1830/diary/?PageId=3&ctgy=5



なお、もっと、詳しくは、僕のブログのカテゴリーから「表現よみ」に関するところをのぞいてみてください。

* toshi先生の貴重なブログをお借りして、ご紹介させて戴きました。失礼しました。
18. Posted by まい   2009年08月20日 19:36
こんにちは。うちの子どもは「きのくに子どもの村学園」という体験学習を中心とする、いまの日本ではたいへん変わった教育方法の学校に通っていますので、わが子のことはいったん置いておきます。同年で公立校へ通っている子を持つお母さんから聞いた話ですが、毎日の宿題で教科書の音読が出て、その出来具合によって親が三段階に評価するそうです。また、他の方からは夏休みに本を10冊読むという宿題が出たと聞きました。

自発的ではない音読がそれほど大切なのでしょうか?
親が評価することが必要なのでしょうか(かえって子どもを本嫌いにしてしまうように感じます)?
本を10冊などという「数値目標」が小さな子どもの学習に重要なのでしょうか?何冊でもいいから、本当に楽しんで読んで、心のなかに残る読書を目指すべきではないでしょうか?

私のなかでこういったたくさんの疑問が浮かんできてしまいました。ちなみに、わが家では母である私が絵本や児童書の楽しさ、奥深さにはまってしまい、どんどん本を買ったり借りたりして、子どもと楽しみたくて毎晩一緒に本を読んでいます。子どもは私の勢いにつられている感じです(笑)。
19. Posted by ドラゴン   2009年08月21日 17:20
今日さん、資料を有り難うございます。勉強になります。私は、背景から物事を考えてしまうので、参考になります。

まいさん
その公立学校の目的は、よくわかりません。よく考えないでやっているのでは、意味はないでしょう。
ついでに評価について、理解していただきたいと思います。学力テストも評価ですね。なぜやるのか。
評価は、子どもを選別、区別するためではありません。社会全体で誤解しているところがあります。
「ほめる」ことも立派な評価です。「しかる」ことも評価です。子どもの良いところ悪いところを発見して、より伸ばし、是正することが、本来の評価です。
評価がない学習は、やらせっぱなしで意味がありません。音読をさせた場合にも「声が大きくてよかったね」とか「もう少し気持ちが表れるとよかったね」と評価してあげることで、次によりよくなれるのです。
学力テストも本来は、そのように活用すべきで、全国で何位などの順位は意味がありません。
その公立学校の3段階とか、数値目標とかについては、どんな意図があるのか、よくわかりません。意味がないようにも思えます。
20. Posted by ドラゴン   2009年08月21日 17:26
実は、私は、あまんきみこさんが朗読した「ちいちゃんのかげおくり」のテープを持っております。
10年以上前に関西で公演されたときのものを主催された方より譲ってもらいました。
知り合いの先生方に聞いてもらいましたが、みなさん泣かれるほど、すばらしいものです。
当たり前ですが、作品を一番理解した人の朗読ですから心がこもっているのでしょう。
音読が目標というより、よりよい音読をするために、作品を深く読解するというのは、意味のあることだと思います。深く読解しないまま、音読にはしっていると、上滑りをしているのではないでしょうか。
あまんさんが、講演(対談)の中で、自宅に電話をしてきて、ちいちゃんの気持ちを聞く教師が結構いると話されました。その際には、「あなたが感じたとおりでいいんですよ」と答えています、と言われていたことが印象に残っています。
21. Posted by toshi   2009年08月21日 20:42
Tomさん
 
 ベテラン教員は、これではいけないと読解指導もすると思いますが、問題は、初任者など、指導書にたよらざるを得ない教員ですね。
 それも学校体制がしっかりしていれば、大丈夫だと思うのですが、とにかく、大変な事態です。
 
 そう。強制でないというのがいいですね。強制でなければ、やる子をほめることができます。それによって輪も広がろうというもので、多大な効果をあげることができます。
 校長先生とも、いいつながりができているようで、ほほえましく感じました。

 読解あっての音読であり、それでこそ、いい音読ができるのだと思います。
22. Posted by toshi   2009年08月21日 20:50
SZKさん
《音読で止まってしまって、朗読に進まない現状を苦々しく思っているそうです。》
 ほんとうにそういう状況はあるでしょうね。分かる気がします。指導するとしても、声の大きさとか、テンポとか、抑揚とか、その程度にとどまる指導がけっこうあるように思います。
 それで、読解がいい加減では・・・、
 ちょっと心配になりますね。

 
23. Posted by toshi   2009年08月21日 21:07
SZKさん、Tomさん
《音読音読、と言いながら、私の中では音読=朗読となっていました。》
 いやあ。わたしもそうでした。わたしのなかでは、むかしは朗読、それを今は音読というのだくらいにしか思っていませんでした。
 そう言えば、例の齋藤氏も、音読と言うばかりで朗読とは言っていないようです。
 皮肉ですね。豊かな読解があれば、自然に朗読になるのでしょうね。

24. Posted by toshi   2009年08月21日 21:11
今日さん
 ほんとうに、本シリーズではお世話になっています。
 紹介された貴ブログ拝見しました。わたしも若いとき、夏休みに研修会に参加したときを思い出しました。むかしは、クーラーなどもきいていなくて、せんすであおぎながらの研修会でした。なつかしいです。
 でも、これが、有形、無形の研究財産になっていくのですよね。
 今は、どうも、アンチョコ主義が流行でしょうか。
25. Posted by toshi   2009年08月21日 22:57
まいさん
《自発的ではない音読がそれほど大切なのでしょうか?
親が評価することが必要なのでしょうか(かえって子どもを本嫌いにしてしまうように感じます)?
本を10冊などという「数値目標」が小さな子どもの学習に重要なのでしょうか?何冊でもいいから、本当に楽しんで読んで、心のなかに残る読書を目指すべきではないでしょうか?》
 もうおっしゃるとおりです。わたしは、子ども主体の学びを目指していますので、内発的動機づけを大事にします。『お母さん、聞いて。聞いて。』と言ってやる音読ですね。そういう学級づくり、学校づくりができれば、こんな楽しいことはないのですけれどね。しかも、結果的にこうしたやり方のほうが、多大な成果が上がります。
 数値目標については、格好の過去記事があります。URLをHN欄に貼り付けましたので、よろしかったらご覧ください。なお、リンク先ではテレビの画像も見られますよ。
 わたしはもちろん、『設定する目標の中身が違うだろう。』という考え方です。

 
26. Posted by toshi   2009年08月21日 23:10
ドラゴンさん

 すごい。うらやましいです。聞いてみたいなあ。

 音読から朗読へと考えた場合、それは豊かな読解がなければ無理なのですね。今、一般的には、読解軽視ゆえの上滑りの音読になってしまっているのではないでしょうか。

「あなたが感じたとおりでいいんですよ。」
 どなたの言葉だったかは忘れてしまったのですが、わたしもこの話は聞いたことがあります。文学に限らず、作品は、作者の手を離れたら、それを鑑賞する側の思いにゆだねられるのですよね。

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