2009年08月21日

国語の授業がおかしくなっている・・・かな!?(4) 3

 おかげさまで、本シリーズを開始してから、たくさんのコメントをいただき、感謝しています。

 本記事についても、柴田さんはじめ、ドラゴンさん、今日さんとのコメントのやり取りに負うところが大きく、わたし自身が、大いなる刺激をいただいています。

 ほんとうにありがとうございます。

 
 しかし、そう申し上げながら、また、かつて、『世界標準の学力へ』などという記事も書いているのに、大変申し訳ないのですが、


 このシリーズは、日々、初任者指導中に感じる、国語教育のもろもろが出発点なので、

 ほんとうは、経済界とか、国際情勢とか、それらから考察していかなければいけないのでしょうが、そして、そのあたりについても、かなり感じたり考えたりする点はあるのですが、ここは、やはり、学習指導要領関連、教科書等の問題、日々の授業の問題に限定して、記事を書かせていただきたいと思います。

 お許しください。



 さて、今日さんが、文化庁の文化審議会国語分科会での、齋藤 孝氏の主張をコメントにして送ってくださった。

 それを拝読して、やはりあ然としたのである。


 今日さんのおっしゃるように、齋藤氏の主張の影響を、今の国語教育がかなり受けていることは、間違いないようである。それらが、教科書、教師用指導書、そして、日々の授業に、とり入れられてしまっている。

 

 そこで、今日さんのコメントに現れた同氏の主張(リンク先の40番〜45番)を、熟読吟味し、具体的、実践的に、論評してみたいと思う。



 それでは、どうぞ、よろしくお願いします。



〇彼が繰り返し言う、『現行の国語教科書は幼稚』ということについて、


 いったい、どこが幼稚なのだ。大体こんな主張を繰り広げるということは、児童文学の価値を認めていないのではないか。

 それに、この決め付け方。『家で寝転がって読むような本』とは何という言い草か。これは、児童文学者はじめ、多くの関係者に対し、失礼ではないか。


 わたしは、通算40年の教員歴となるが、そのようなことを思ったことは一回もない。わたしも子どもも真剣に取り組んできた。

 今、それを具体的に申し上げたいと思う。過去記事のいくつかにリンクさせていただこう。


 ご覧いただければ、子どもたちは、あらん限りの力を発揮し、全力を尽くし、物語の世界にひたろうとしていることをご理解いただけるのではないか。
 
 スイミー(ホームページのため、文字は大きくなっています。また、このホームページは、初任者の授業をとり上げ、初任者指導用に作成したものであることをご承知ください。)

 スーホの白い馬(つい最近もリンクさせていただいています。それと同一です。)

 次は、誤読をしている例だ。もっともわたしは、これは誤読というよりも、子どもの発達段階からすれば、教材の程度が高度すぎるのだと思った。同氏の主張とは反対だね。(もっとも、この点、わたしは、国語を専門としているわけではないので、断定はできない。)

 わたしと小鳥とすずと


〇『小学校3,4年生でも,作品を選べば夏目漱石や小林秀雄を十分読める。』について、

 彼はいったい公教育をどうとらえているのだろう。何百人いようと、彼がやっているのは塾だろう。

 塾と公教育とは、違うのだ。

 塾というのは、基本的に、通う通わないは自由だ。いやになればいつでもやめることができる。それに、彼の塾なら、かなり学ぶ意志をもって通ってくるのではないか。

 しかし、公教育は、

 学ぶ意志があろうがなかろうが、集まってくる。そこでは、『学ぼうとする意欲をつちかうこと』も、指導者の大切な仕事になってくる。


 公教育の実態をご理解いただくため、また、一つの過去記事にリンクさせていただこう。『こういう子どもたちに、夏目漱石や小林秀雄を与えたらどうなるか。』そういう思いで、お読みいただけたら幸いである。

 もっともわたしは、『子どもたちが力不足だから。』と嘆いているわけではない。力不足なら、その実態に応じて、子どもたちの意欲向上を図る指導法をとればいい。それだけのことだ。

    アリの行列

 どうだろう。同氏の主張が、いかに子どもの実態を離れ、空理空論を言っているか、ご理解いただけるのではないか。



〇それから、彼の言う、『十分』とはどういう意味だろう。よく分からない。

 だって、『意味は7割,8割分かればいい。』と言った上での『十分』なのだからね。(そういう言い回しが、まだ他にもある。)

 そうか。理解できない言葉があったって放置していいのだね。ざっとつかめばいいのだろう。そういう意味での、『十分』か。

 しかし、『マクベス』なぞ、いかに塾の子とは言え、いかに7、8割でいいとはいえ、ほんとうに理解できるのかね。まあ、その点は信じてやろう。彼がそう主張しているのだから。

 だけれど、このような話を日本の小学生に与えようとする、その意図が分からない。

 わたしが子どものときなど、まったく単純なすじの勧善懲悪ものに胸ときめかせたものだった。


 少なくとも、我々は、『意味は7割,8割分かればいい。』などとは思わない。そんな無責任なことは言わない。ストンと胸に落ちる理解を目ざす。



〇『おもしろいなあ。』と思う言い方がある。ほんとうにそう言ったのだろうか。言ったのだろうねえ。いちおう国のホームページだもの。

 それは、『(子どもの読書にいろいろ問題があるのは、)小学校時代に読んでいるのが小学生用の読み物だからである。』

 おそらく、日本広しと言えども、こんな問題意識をもっているのは、同氏くらいのものではないか。小学校時代に、小学生用の読み物を読むのは、あたりまえではないか。



 話は変わるようで、変わらないのだが、

 かつて、我が勤務校が国語の研究をしていたとき、子どもの読解力の発達をみるために、4年生教科書にのっている『ごんぎつね』を、1年生から6年生までのすべての子どもに読んでもらい、その感想をまとめたことがあった。


 そのまとめは、実に多岐にわたり、発達段階的にも、そんなに単純なものではなかったのだが、

 今、ここでは、代表的なものを一つずつ選ばせていただこう。(なお、読者の皆さんの読みやすさを考慮し、低学年も漢字に置き換えて表記します。)


1年生『ごんは、兵十にあやまりたくて、いっぱい栗やマツタケを持っていったのに、殺されちゃって、ごんは、かわいそうでした。』

2年生『兵十さん。何でよく確かめないで、ごんを撃っちゃったの。あとで反省しても、もう遅いよ。ごんは死んじゃったんだから。』

3年生『ごんは兵十と友達になりたかったのだなと思いました。でも、いけないことばっかりしていたから、兵十に誤解されちゃって、最後は殺されちゃって、かわいそうでした。』

4年生『作者は、最後に、『青い煙が、まだ筒口から細くでていました。』と書いています。ぼくは、ここに、兵十のつらい気持ちやごんの悲しさが含まれていると思いました。ごんはずいぶん変わってきたのです。それがやっと分かった兵十は、ずっと後悔しながらすごすでしょう。それはとてもつらいことです。』

5年生『ごんは、加助と兵十が神様にお礼をするといいと話しているのを聞いて、それで、『へえ、こいつはつまらないな。』と思ったのに、そのあくる日も栗を持っていった。それは、ごんが考えを変えたのだと思った。『つまらないなんて思っちゃいけない。そんなことを思っていたら、つぐないにならない。誰が持ってきているか、分からないままでいい。これからも続けよう。』そう思ったのだろう。だから、ごんは、成長した。
 でも、最後は、そのせいで殺されちゃったのだけれど、でも、分かってくれたのはうれしかったのではないか。』

6年生 『ごんはきつねだけれど、このように、分かり合おうとすればするほど、分かり合えなくなってしまうことは、人間の世界にもあるなあと思った。分かっているはずとか、分かっていなければおかしいとか思っても、分かり合えないことはたくさんある。
 人間はきつねと違って話せるのだから、『ぼくだよ。ぼくが持ってきたんだよ。』と言えばいいのに、やっぱり言えないことってある。でも、それではいけないと思った。』 
    

 さあ。これを齋藤氏の主張に置き換えてみよう。

 『ごんぎつねは、1年生に読ませればいい。』ということにならないか。

 1年生だって、ルビをふってやれば読める。意味は、7・8割、分かればいいのだ。まったく問題ない。

 そして、『4年生には幼稚だ。』と言うのだろう。


 そんなことはない。6年生だって、2年前をなつかしく思い出しながら、一生懸命読み、6年生にふさわしい感想をもったのである。

 
 第一、こんなことを申しては、読者の方に失礼だけれど、3年生の教材文の、『ちいちゃんのかげおくり。』を、涙なしでは読めなかったという保護者の声も、拙ブログに寄せられている。


 きっと、齋藤氏は、読解力を養うことなど眼中になく、『ごんぎつね』の話なら、1年生程度の感想で満足なのだろう。そして、ただひたすら、『むずかしくて、読み応えのある教材を。』と言うのだろう。



 断言しよう。同氏の言う、大人が読む物語等を小学生に与えたら、大部分の子は、読書ぎらいになるだろう。

 それに、第一、子どもが主体の、子どもが生きる授業の創造は困難になり、子どもは受身の学びに追いやられてしまう。



〇齋藤氏の影響は、

 何だかんだ言っても、彼の主張が主張にとどまり、世間へ何の影響もなければ、わたしはこんなとり上げ方をしない。

 しかし、田村氏が同コメント46番でおっしゃっているように、

 齋藤氏の影響は強いのである。

 もう、わたしが、齋藤氏の主張をまのあたりにし、あらためて教師用指導書を見ると、嘆息せざるを得ないものがある。


 そして、自分の過去記事を読んで、

 音読中心主義をなげきながらも、彼の主張(?)に妥協しながら、初任者指導をしている自分がいたことに気づき、愕然としてしまった。

 
 そうした過去記事を紹介させていただこう。なお、その記事の、『1.音読』が、本稿にかかわる。

    『問題解決学習とPISA調査』の補足


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 当たり前のことですが、

 いかに、同氏の主張の影響を受けた国語教育になっていると言っても、小学校の国語教科書が、大人の読み物で満載などということにならなかったのは、よかったと思います。

 でも、前号の結論を繰り返しますが、『音読重視の読解軽視』は、間違いなく彼の影響だと思います。


 ほんとうは、今日さんからご紹介いただいた、文化審議会答申にもふれさせていただきたかったのですが、もうかなり長くなってしまいました。

 申し訳ありませんが、これは、次回以降にゆずらせていただきます。

 よろしくお願いします。

    (5)へ続く。 

rve83253 at 17:45│Comments(28)TrackBack(0)教育観 | 教育制度・政策

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この記事へのコメント

1. Posted by 今日   2009年08月22日 11:51
toshi先生のご指摘、<彼が繰り返し言う、『現行の国語教科書は幼稚>は、氏の根底の一つなんですね。

平成13年度『国語施策懇談会』(文化庁主催)で、「声に出して読む理想の国語教科書」を配布し、これについて、氏は、午前の会で10:10分からから、メインの提言をしています。

この「声に出して読む理想の国語教科書」中には、次のようなことが、書かれています。
        ・・・・・・・・・・・・・

*  現在の小学校の国語教科書のレベルの低さを知る必要がある。・・・・・一瞬、目を疑うほどの、レベルの低さである。例えば、小学校4年生の教科書であれば、平均てきな4年生でも、1・2時間ほどで全文を読み上げることができるであろう。しかも、およその内容を把握することができる。


* 授業中に漢字の書き取りを徹底して反復練習すれば、少なくとも学年配当の漢字を身につけさせることができる。
2. Posted by 今日   2009年08月22日 11:55
* 教師側が、発想をさえ変えればやりやすくなると思います。どんな難しい内容の授業だとしても、今日はシエクスピアを読んだというだけで前進なんです。「今日は、マクベスを読んだ。とにかく読んだよ。お母さん。なんか悪いやつが出てきたよ」でいいと思います。
      ・・・・・・
ここには、
現行国語教科書は、簡単だ。
子どもたちのプライドをくすぐるような教材を。
読めなくてもいい
という考えがあるように見えます。
3. Posted by 今日   2009年08月22日 11:55
* シエクスピアやゲーテ、漱石らの名作は、小学生がすべて吸収できるわけではないが、総量が多い分だけ、吸収できる。

       ・・・・・・・・・・

以上には、斎藤氏の国語教育観が、すべて出ていますね。次に進みます。

どうして、このような発想になるのか、次の資料が、参考になるかなあと思いますので、ご紹介、致します。(『正論』平成14・8)
* そして、次のようにも言っています。

      ・・・・・・・・・

* 子供たちは、深く理解できなくてもいいから、次から次へと弾を撃ちたいんです。・・・中略・・・小学校でやるわけだから、簡単な文章を長々とやられたら、こどもは、参っちゃいますよ。


* それには、プライドをくすぐるような教科書が必要なんです。小学生が例えば、漱石を読んだ、シエクスピアを読んだっていう風になって、家に帰れば「僕、これ読んだよ」なんて言うと、親が「うちの子、もしかして」みたいなね。

4. Posted by 今日   2009年08月22日 18:43
上記、1の漢字の定着についてです。

この定着の課題は、教育の中で、重要なことですのです

資料と紙面の都合で、下記のブログで書かせて戴きました。


2009.08.22

効率的な記憶・定着 [ 大脳生理と教育 ]

http://plaza.rakuten.co.jp/zyx1830/diary/200908220000/
5. Posted by 柴田勝征   2009年08月23日 09:37
 もう30年くらい前のことなので正確には覚えていないのですが、うちの息子が確か小学2年生か3年生のころだったと思うのですが、蒸気機関車が大好きになって、買ってもらった「いたずら機関車ちゅうちゅう」とか「機関車やえもん」とか「さようならよざえむさん」などの絵本を毎日夢中のいなって眺めていました。ところがある日、顔を真っ赤にして学校から帰ってきました。家の中に入ると「よざえむさん」の絵本をつかみ出して床にたたきつけ、「こんな本なんか! こんな本、だいきらいだっ!!」と、それまでこらえにこらえてきた怒りと泣きの感情を爆発させて、「よざえむさん」の絵本を踏みつけています。「おい、おい、どうしたんだ。学校で何があったの?」となだめながらたずねてみると、息子が「よざえむさんの機関車はねっ、夜になると空に飛んでいくんだよ。」と友達に話したところ、みんなの中で「こいつ、ばかだなーっ。機関車が空を飛ぶんだってよ。機関車は地面の上を走るもんだろう。」「機関車が空をとぶわけないじゃん」とからかわれた、と言うのです。それが悔しくて、悔しくて、「わー、わー」泣いています
6. Posted by 柴田勝征   2009年08月23日 09:41
(上の投稿記事中に「夢中のい」=>「夢中に」のタイプミスがありました。)
「それはね、きっと君のクラスの友達は、まだよざえむさんの絵本を読んだことが無いんだよ。よざえむさんの機関車は、みんながぐっすり寝静まったころに静かに空に上って行くから、誰も気がつかないんだよ。このことは、よざえむさんの絵本を読んだ君とお父さんだけが知っている秘密なんだよ。君の友達たちも大きくなってゆけば、だんだんこの秘密に気がついていくと思うけれど、今のところは、よざえむさんのことは誰にも言わないで、二人だけの秘密にしておこうな。」となだめましたが、息子の怒りと悲しみは、なかなか収まりませんでした。
 こういう子供たちが「ごんぎつね」の話を読んだら、「馬鹿だなあ、きつねが人間みたいに喋るわけ、ねーじゃん」とか思うのでしょうか。「かさ地蔵」を読んだら、「へーんなの。お地蔵さんは石で出来ているから、夜になって歩き出す、なんてないんだよ。」と考えるんでしょうね。小学生のころから「常識的な思考」を身に付けてしまう人が多くなると、そうではない人間にとって、世の中、生きづらいですね。
7. Posted by toshi   2009年08月23日 15:57
今日さん
 齋藤氏の言葉にある、『簡単な文章を長々とやられたら、子どもは参っちゃいますよ。』ですが、
 まあ、そういう現実があることは認めなければなりませんね。拙ブログにも、そうしたコメントがありましたっけ。
 だからと言って、ものすごいびっくりするような論を展開するのではなく、指導力アップのための研究、研修に力を入れるよう提言してほしいものです。
《プライドをくすぐるような》
 これもよく分かります。そして、まさに、上と同じですね。プライドのくすぐり方を間違えているのだと思います。
《子供たちは、深く理解できなくてもいいから、次から次へと弾を撃ちたいんです。・・・》
 読解がいい加減でいいのなら、彼の指導を受けた子どもたちは、弾を撃つことが読書の目的で、その結果は、質より量を求め、けっきょく、大人になっても、適当な読み取りで満足し、読書による感動など、味わうこともできなくなってしまうのでしょう。
8. Posted by toshi   2009年08月23日 16:07
柴田勝征さん
 子ども主体の授業をすすめていると、ほぼ例外なく、『きつねがしゃべるなんて変。』といった発言は出てきます。
 こうした過程は、低学年のうちに通過してほしいもの。しかし、子ども主体の学習でないと、そんなことは話題にもなりませんから、柴田さんのお子さんのようなめにあってしまうのですね。
 あと、学級経営の問題でもあります。豊かな人間関係づくりがうまくいっていなかったのでしょう。

 ただ、子どもの世界にはよくありがちなことでもあります。そうしたトラブルを契機に、担任の指導が入り、人間関係の改善にすすめばいいのですがね。
9. Posted by lpsw   2009年08月23日 21:25
『ごんぎつね』の1年生から6年生までの感想のご紹介ありがとうございます。

なんていうか、いいですね、それぞれの年齢で、くぐってきたいろんなことが現れていると思いました。

中学や高校ではまたちがう感じ方でしょうし、大人になったら、子供を持ったら、またちがう感想を持つのだろうと思います。

10. Posted by toshi   2009年08月24日 04:42
lpswさん

 もう30年くらい前のことで、国語の校内研究をしていたころが、なつかしく思い出されます。

《中学や高校ではまたちがう感じ方でしょうし、大人になったら、子供を持ったら、またちがう感想を持つのだろうと思います。》

 ほんとうですよね。記事にも書かせていただきましたが、幼稚だなんて思って読む人は皆無だろうと思います。
 『子どもを持ったら、』というのは、想像するだけで、楽しくなります。というのは、まさに、彼ら当時の子どもたちは、今、そうした年齢になっています。

 
11. Posted by 柴田勝征   2009年08月24日 09:18
5 早速のご回答、ありがとうございました。
*******************************
 子ども主体の授業をすすめていると、ほぼ例外なく、『きつねがしゃべるなんて変。』といった発言は出てきます。
 こうした過程は、低学年のうちに通過してほしいもの。しかし、子ども主体の学習でないと、そんなことは話題にもなりませんから、柴田さんのお子さんのようなめにあってしまうのですね。
********************************
 当然すぎるほど当然ですが、やはり、『きつねがしゃべるなんて変。』といった発言は出てきますよね。それを「こうした過程は、低学年のうちに通過する」とは、具体的にどのように「通過する」という意味なのでしょうか? それが私にとってはもっとも重大な関心事なので、詳しく解説していただけると、とても嬉しいです。既に大人の「常識」を身に付けてしまっている子供と、「変なんて言う方が変」という子供も混在していると思うのですが、それをクラス集団の共通了解事項として、どのように合意に達してゆくのか、あるいはバラバラの「言い放し」にさせておくのか、ものすごく興味があります。
12. Posted by まい   2009年08月24日 10:24
本文で紹介いただいた「ちいちゃんのかげおくり」を昨年初めて読んで、涙が止まらなかった保護者です。3年生の教材ということですが、私がもし3年生で読んでいたら・・・と考えてみました。この話の悲しい美しさは何となく理解していたと思います。ちいちゃんはお父さん、お母さん、お兄ちゃんのいる天国に昇っていったのだなあとしみじみ感じるでしょう。

でも、たぶん涙を流すことまではなかったと思います。これまでの人生で身近な人の死にたくさん出会い、なかなかできなかった子どもをやっとの思いで授かって、家族がみんな揃って元気でいることは奇跡かもしれないという実感を得ています。戦争中の悲しい話も身内や本からたくさん見聞きしました。そういう経験が積み重なっての想いでした。

toshiさんが書いておられるように、1年生には1年生の、6年生には6年生の、そして大人には大人の読み取り方があると思います。良い作品はどの年齢で読んでも心を打つ者があり、また年齢や人生経験によって変わっていくものではないでしょうか。
13. Posted by まい   2009年08月24日 10:25
いま子どもと一緒に読んでいる「おさるはおさる」、「へんてこもり」シリーズや長新太さんの絵本が大好きです。子どもの読後感とは重なる部分もあるし、親子で違うところもあると思いますが、児童文学は幼稚とは一度も感じません。むしろ、子どもと本を読むようになってその奥深さに驚いて、こういう世界を知ることができたことを感謝しています。

児童期には児童文学をたくさん読み、そのうち時期がきたら自然に漱石や鴎外に移っていったらいいと思います。そして児童期に読んで本を大人になって読み返してみて、当時とは違った意味に気づくことも読書の醍醐味の一つではないでしょうか。
14. Posted by 今日   2009年08月24日 10:27
11の柴田さんの
<それが私にとってはもっとも重大な関心事なので、詳しく解説していただけると、とても嬉しいです。>についてです。

このことは、国語教育が言葉の教育で、そのことと結びつく重要なことですので、横入りさせて戴きます。

研究会でも、しょっちゅう、この問題は、必ず、出ます。しかも、高学年の子供からも出るのです。

そんな時、今までの文学作品と振り返って話し合います。すると、『大きなかぶ』『スイミー』・・・・・・・などで、ネコ・犬・魚・・・・・・などが、しゃべっていたことが、話合われます。この時点では、子どもは、分かります。

ただ、この「変発言」は、ここで、そのようなことを意識したのですから、そこから先の指導をどうするか、それが重要なのだと思います。

<ごんに語らせて物語を作り、その中で人間の心書く。>
これが物語であることを認識させるしどうが必要なのではないでしょうか。

ぼくらの研究会では、それを、実体験させると、なお、いいのではないかと思っています。それは、物語書きなのです。
15. Posted by 今日   2009年08月24日 10:28
僕がした作文教育では、このことが、子どもが、一番のった作文教育であることも報告しておきます。物語書きの導入の重要性を、今でも、感じています。
物語、このことは、人間の成長に重要なことを含んでいるからなんですね。

その実践が、下記で書いてあります。

2006.11.20

読解力を着けるには、書く力を・物語を書かせる(1)・分かる楽しい授業で頻繁に起こっている子どもの問題をなくす(26)
http://plaza.rakuten.co.jp/zyx1830/diary/?ctgy=38


2006.11.21

読解力を着けるには、書く力を・物語を書かせる(2)・分かる楽しい授業で頻繁に起こっている子どもの問題をなくす(27)
http://plaza.rakuten.co.jp/zyx1830/diary/200611210000/


2007.10.22

シャツのほころび・文学的表現・田村 利樹 [ ・・・物語を書く ]

http://plaza.rakuten.co.jp/zyx1830/diary/200710220000/
16. Posted by 今日   2009年08月24日 10:30
で、このことは、つきつめると、国語教育の中心である言語の指導をどうするかの課題でもあるとみています。


言語を
・文学言語
・理論言語
・日常言語

に分けて考える考え方がありますが、そのことに入っていく重要なことだと思っています。

(なお、この理論は、下記で、書かれています。)

国語教育 (大久保忠利著作選集) 1・2
大久保 忠利 (著), 大久保忠利著作選集編集委員会 (編集)

(三省堂・絶版・現在は、アマゾンの古書で販売)

この本の論文の選出は、主に、僕がしました。

なお、このことは、重要な課題ですので、いつか、自分のブログで詳しく書かせて戴きます。重要なヒントを戴きましてありがとうございました。感謝。
17. Posted by toshi   2009年08月24日 14:35
柴田勝征さん

 国語の専門的なことについては、今日さんがコメントを入れてくださいました。ありがたかったです。わたしは、学級経営、児童理解の側面から、記事にさせていただこうと思っています。

 次回記事は、このことにさせていただきますので、どうぞよろしくお願いします。
18. Posted by toshi   2009年08月24日 16:04
うわあ。まいさん。
 自ら名乗っていただいて、大変恐縮してしまいました。ありがとうございます。

 拝読しているうちに、去年の、初任者のクラスでの授業を思い出しました。
 もう、読み始めた最初から、涙ぐんでいる子がいました。『戦争って、子どもがかわいそうだよ。まだ、ちいちゃんは3つか4つくらいだよ。』と言っていましたっけ。
 ただ、それとは逆に、読みが浅いというか、ちいちゃんが死んだとはとらえていない子もいました。ほんとうに、『この世で家族に再会できてよかった。』と思っていた子もいたのです。

 
19. Posted by toshi   2009年08月24日 16:04
深め合いの話し合い学習で、子どもたちは、『小さな女の子の命が、空に消えましたって書いてあるから、かわいそうだけれど、ちいちゃんは死んじゃったんだね。』と言う子。
 
 また、現実の世界では、『ふらふらする足を踏みしめて立ち上がった』ちいちゃんが、空に吸い込まれた後は、『笑いながら、花畑の中を走り出す』わけですね。
 そんなところから、ちいちゃんの死を読み取る子もいました。

 〜児童期には児童文学をたくさん読み、そのうち時期がきたら自然に漱石や鴎外に移っていったらいいと思います。〜
 児童期に、児童文学に心豊かにふれるからこそ、自然に漱石や鴎外に移行するのですよね。
20. Posted by toshi   2009年08月24日 16:07
今日さん
 横入りなどとんでもありません。わたしは国語を専門としているわけではありませんので、助かりました。また、わたしも勉強になりました。ありがとうございました。
 今後、今日さんのブログに書いてくださるとのこと。また、コメントにURLを貼り付けてくだされば、うれしく思います。

 わたしは、学級経営、児童理解の観点から記事にさせていただこうと思っています。
21. Posted by YK   2009年08月25日 04:53
ご無沙汰しております。

私も塾の講師の経験があり、小中学校の国語教科書を読みましたけど、駄作と感じた作品は一つもなかったですね。むしろ、国語の文章を選定してる人はきちんと考えているなあ、と思います。

国語が「わかる」というのは、文字通り「分かる」であって、大事な人を失って「ああ、こういうのが悲しいということか」とか、友達を傷つけてしまって「悪いことをすると自分も傷つくなあ」とか、感情の分別が出来るようになるということだと思いますね。だから、悲しいことを悲しいとちゃんと書いている文章を評価すべきであって、音とか、リズムとかは、その後かなと思います。そもそも、児童文学でも、作家はかなり音やリズムにこだわっていると思いますけれども。
22. Posted by YK   2009年08月25日 04:54
私は小林秀雄も森鴎外もシェイクスピアも漱石も好きですけれども、読んで「分かる」子もいると思いますよ。「美しいなあ」と思う子もいるでしょう。でも、やはりパーセンテージは低いですよ。それは、文学というのが、ブランドで選ぶものではなく、自分の気持ちと重ねるものだからでしょう。だいたい、漱石の文章にしたって、文体が簡単でも、金銭問題が絡んでたり、宗教問題が絡んでたり、小さいころ、「こんなの感想の書きようがない」と思ったものです。だからこそ、作家は絵本や児童文学などを通じて、普遍的な問題を比喩などを使ってわかりやすく伝えるように苦心しているのであって、それを考慮しなければ、国語の教科書なんてつまらないに決まってます。
23. Posted by YK   2009年08月25日 05:17
今日、国語の授業がつまらないというのは、現代はゲームとか、TVとか、刺激的なものがたくさんありすぎるから、根本的な感覚が「分からない」のでしょう。私も齊藤氏の問題意識には、共感を覚えますし、なるほどと思いますけど、国語の教科書に原因を求めるのは、少し違うかなと思いますね。国語教育の問題は、本質的なものを知りたいという欲求が少なくなったことに起因するのでしょう。芸能人のブログと比べたら、「舞姫」なんて読みづらいし、「たかが踊り子の為に一生を棒に振るかどうかの選択をするなんてバカみたい」と思うかもしれないですよね。しかし、そっちの方が人生の真相を描いているかもしれない。そういう可能性を指摘するのが国語教育かなと思います。そういうのは、何も古典的名著に限らず、いろんな本でできるわけで。教育の結果として名著に行きつけば、それは一生の財産になるでしょうが、無名な作品より、名著を優先すべきという考えにはならないですね、私の場合は、ですが。
24. Posted by 今日   2009年08月25日 07:58

1で、斉藤氏の引用を次のように書きました。

* 授業中に漢字の書き取りを徹底して反復練習すれば、少なくとも学年配当の漢字を身につけさせることができる。


この斉藤氏の意見に対して、4で僕の意見を書きました。

本日は、その補足です。

それは、以前に僕が書いたブログを、下記で、まとめてくださったものです。

     ・・・・・・・
<みんなでつくる作る教育辞典 
  EDUPEDIA>

『漢字の学習』
原理の「原」は、なぜ書けないか。

http://edupedia.jp/index.php?%B4%C1%BB%FA%A4%CE%B3%D8%BD%AC

     ・・・・・・・
25. Posted by 柴田勝征   2009年08月25日 12:13
今日さん、「物語作り」の写真・記事をリンクしていただき、ありがとうございました。「原理」の「原」は何故書けない、の記事もたいへん勉強になりました。そこで、ちょっと疑問に思ったので質問させていただきたいですが、「きつねがしゃべるのは変」と発言する子どもでも、物語づくりの作業では、動物が喋るようなお話しも作るのでしょうか? そうだとすると、そういう子どもは、「物語づくり」をするときには、「変なこと」も書いていいのだ、いや、むしろ物語とは「変な話でいいのだ」と考えるのでしょうか?
toshi先生、学級経営、児童理解の観点から記事を期待しております。
26. Posted by toshi   2009年08月25日 13:53
YKさん
《文学というのが、ブランドで選ぶものではなく、自分の気持ちと重ねるものだからでしょう。》
 いやあ。もう、ほんとうに、おっしゃるとおりですね。子どもの気持ちと重なるものこそ、しっくり読み取ることができるのですよね。

《作家は絵本や児童文学などを通じて、普遍的な問題を比喩などを使ってわかりやすく伝えるように苦心しているのであって、それを考慮しなければ、国語の教科書なんてつまらないに決まってます。》
 もう、激しく同意します。

《国語教育の問題は、本質的なものを知りたいという欲求が少なくなったことに起因するのでしょう。》
 なるほど。わたしは、担任時代、テレビゲームに負けない学級経営をと、学級だよりに書いたことがありました。テレビゲームはどんなに楽しくても個ですよね。それと、放課後友達と公園で遊ぶ楽しさとで勝負し、後者が勝てばわたしの学級経営の勝ちという感覚だったわけです。
 国語の授業が、世間的な刺激の強いものより、強い感動をもち、本質的なものを求める契機となるような、そういう授業を目指したいものだと、今、あらためて思いました。

 斎藤氏は乱読主義なのですかね。いずれにしても、YKさんの書かれていることなど、眼中にないでしょう。

 
27. Posted by toshi   2009年08月25日 14:04
今日さん
 原と象について、かつて貴ブログ記事で拝読しました。『なるほど』と思い、ほんとうに勉強になりました。
 もう一つ。
 今、どうでしょう。
 新しい漢字や言葉が出てきたときの短文づくり。
 むかしはけっこうやったように思うのですが、今はあまりしていないように思いました。やはり、これは、大事なのでしょうね。
28. Posted by 今日   2009年08月26日 11:21


上記、1の漢字の定着についてです。

下記で、補足的な記事を書きました。

2009.08.26
効率的な記憶・定着 (2)

http://plaza.rakuten.co.jp/zyx1830/diary/200908260000/

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