2009年08月25日

物語の世界を、どう読むか。3

d6791fa7.JPG 前記事に、6年生が書いた、ごんぎつねの感想を掲載した。

 それを再掲させていただこう。


 ごんはきつねだけれど、このように、分かり合おうとすればするほど、分かり合えなくなってしまうことは、人間の世界にもあるなあと思った。分かっているはずとか、分かっていなければおかしいとか思っても、分かり合えないことはたくさんある。
 
 人間はきつねと違って話せるのだから、『ぼくだよ。ぼくが持ってきたんだよ。』と言えばいいのに、やっぱり言えないことってある。でも、それではいけないと思った。 


 そう。

 この感想文を書いた子の言うとおり、

 多くのお話では、登場する動物が自由におしゃべりするのに対し、この話の『ごん』は、『動物だから話すことができない。』存在なのだよね。

 ただし、人間の子ども(?)と同じように、思ったり、考えたり、人間の話を聞いてうなずいたりすることはできる。そういう存在として描かれている。


 その肝心なところにかかわって、いつもお世話になっている柴田勝征さんから、ご質問をいただいた。

 まあ、ふつう、物語の世界では、動物もお話していることが多いわけで、それについてのご質問だ。(リンク先の11番)



 当然すぎるほど当然ですが、やはり、『きつねがしゃべるなんて変。』といった発言は出てきますよね。それを、「(toshiの回答にある、)こうした過程は、低学年のうちに通過する」とは、具体的にどのように「通過する」という意味なのでしょうか? 
 それが私にとってはもっとも重大な関心事なので、詳しく解説していただけると、とても嬉しいです。

 既に大人の「常識」を身に付けてしまっている子供と、「変なんて言う方が変」という子供も混在していると思うのですが、それをクラス集団の共通了解事項として、どのように合意に達してゆくのか、あるいはバラバラの「言い放し」にさせておくのか、ものすごく興味があります。



 これに対し、さっそく、これも、いつもお世話になっている今日さんから、国語の立場からのご回答をいただいた(同じくリンク先の14〜16番)。これは大変ありがたかった。『物語書き』の効用など、わたしが思いもつかないことが書かれていた。わたし自身が勉強になった。

 ほんとうにありがとうございました。



 しかし、わたしも、感じたり実践したりしてきたこともあるので、今日は、それを記事にさせていただこうと思う。



 まず、『(動物が話すのは)変。』という発言についての解釈だが、

 わたし自身は、こういうことを言う子は、『大人の常識を身につけた子』というよりも『理屈の世界』を愛する子。

 それに対し、『変なんて言う方が変』という子は、『情緒の世界』を愛する子というようにとらえていた。

 だから、そのはんちゅうなら、どちらも、その子らしさ、つまり個性なのであり、それは、どちらも尊重されなければならない。

 まずは、基本的にはそういう考えだ。


 しかし、そう言ってすましているわけにはいかない。


 今、現実に、物語の世界を味わっているのだとすれば、やはり、どの子も情緒の世界にひたってほしいと思う。


 ところで、

 わたしには、『動物が話すなんて変。』という子にしても、どの話でもそれを言うわけではないという思いがある。

 第一、こういう子も、幼稚園、保育園のときから、そういう世界に遊んだ経験を豊富にもっているはずである。

 絵本だけではないだろう。たとえば、人形劇にも動物は出てくるだろうし、紙芝居だって、その他もろもろ。


 それでは、なぜ、それを言うか。

 やはり、何らかの違和感を抱いたからではないか。物語そのものに感じたのかもしれないし、あるいは、友達の意見を聞いて感じたということもあるかもしれない。


 だから、まず、一つ目に言えること。

 子どもに違和感を抱かせないくらい、お話の世界にのめりこませてしまえばいい。

 それには、子どもの発言を肯定的に受け止めてあげる。そして、登場人物(動物かな。)の心情にのめりこませる。その際、挿絵も重要だ。クマさんが、花がいっぱい咲いたと喜んでバンザイをしている絵を見て、『くまさんが万歳するわけはない。』という子はいないだろうと思う。

 しかし、うわっすべりで、羅列的で、表面的なことしかでてこない授業だと、『動物が話すわけがない。』などという意見が出やすくなってしまう。

 そういうことがあるのではないか。


 
 いや。でも、

 そうは言っても、

 深みの感じられる授業でも、『動物がしゃべるなんておかしい。』がでることはありうるよね。

 
 そこで、二つ目に言えることは、

 指導者側の構えだが、

 その発言を否定的にとらえるのではなく、『理屈の世界』に生きる子に、『情緒の世界』のよさを感じ取らせるチャンスがやってきたととらえる。


 先述のとおり、わたし自身は、子どもの個性と考えているし、それは尊重されなければいけないと思うから、『こう考えるべき』とか、『こうあるべき』みたいなことは言わない。(ただし、留保しておきたい点はあり、それは後述する。)

 子どもたちに、思いのまま話し合わせる。柴田さんがおっしゃるように、『変なんて言う方が変』という子も必ずいるから、話し合いは盛り上がる。

 そう。指導のチャンスがやってきたのだ。


 子どもは口々に言うであろう。

「これはお話なんだからいいの。」
「お話なんだから、クマさんとかリスさんとか、動物がいっぱい出てきたほうが楽しいじゃん。」
「夢を見ているようで楽しい。」
「夢の中なら、動物だってしゃべるかもしれないよ。」

 『理屈の世界』に生きる子がそれで納得するとは限らないけれど、でも、それは、長い目で見るようにしよう。


 三つ目だが、先ほど、『留保しておきたい点がある。』と述べた。

 いくら子どもの主体性尊重だからといって、まったく放置し、何のはたらきかけもしないのでは、そこに指導性があるとはいえないだろう。


 そこで、たとえば、次のような心構えをもつ。

 それは、先ほども述べたように、『理屈の世界』に生きる子も、常にそれを言うわけではないだろう。逆に、物語によっては、『情緒の世界』に遊んだ経験もあるに違いない。だから、それを、指導者が指摘してやることは有効なように思う。

「そう言えば、今は変て言っているAちゃんも、このまえは、『クマさんはこう言っているからやさしい。』などと発言していたよね。あのとき、わたしは、『うわあ。Aちゃんて、すごい。そんな、クマさんの気持ちまで想像できるんだ。』って思ったよ。」
などと言ってやる。


 四つ目。

 わたしは、道徳の授業などが有効だと思う。

 低学年の道徳の話には、よく動物が出てきて活躍する。しかし、道徳では、『動物が話すなんて変。』はあまり出ないように思う。

 なぜだろう。

 それは、主人公を自分自身や友人に同化させているからではないか。それが違和感を感じさせないのではないか。

『このお話のオオカミさんは、このクラスのBちゃんにそっくりだ。』

そんな思いをもって、お話を聞いたり発言したりすることもある。


 そして、道徳の授業のあと、ふだんの生活の場面で、担任なら、

「うわあ。Cちゃんて友達の気持ちが分かるのだね。すごい。この前の道徳のお話に出てきたきつねさんを思い出しちゃったよ。」

などと言うようにする。

 つまり、『情緒の世界に遊ぶこと』の生活化を図るわけだ。


 最後に、五つ目を書かせていただこう。

 これまで述べてきたことにかかわるが、指導する側が、感動してやることだ。動物の心情を深く読み取っていたり、動物の言動そのもののすばらしさに思いを寄せていたりしたとき、そうした姿に感心してやることだ。

 これは大きい。



 そうしたことの積み重ねにより、

 たとえば、高学年になると、

 冒頭の6年生の感想文の事例でも、お分かりいただけると思うが、

『お話だから、動物だってしゃべる。』を超え、『ああ。このお話では、きつねは、まるで人間のように思ったり考えたり人間の言葉を理解してうなづいたりするけれど、多くのお話とは違い、話すことはできない存在として描かれているのだ。』ということをとらえ、

 そして、冒頭の感想文では、そこまでうかがい知ることはできないが、

 そうした設定が、最後の場面で、『分かり合おうとしても分かり合えない悲しみ』をきわだたせる役割を果たしているとまで思いを寄せるケースもありそうだ。



 しかし・・・、話を変える。

 このことでは、むずかしさもある。わたしも結論めいたことは言えないが、

 
 それは、これまでの論旨とは逆に、『理屈の世界』に、『情緒の世界』を持ち込むこともあるということだ。


 低学年の子たちは、この点、未分化だ。


 たとえば、生活科で、アサガオの観察をした。一つ咲いている。あとはまだつぼみのままだ。それはしっかり観察して描けている。


 しかし、お日様を、何と、3つも描いている。


 わたしは、

「うわあ。すごい。お日様が三つもある。早くたくさん咲いてほしいんだね。」

と言って、子どももうれしそうだったけれど、

そして、このケースでは、多くの読者の方も共感してくださると思うけれど、 



 では、次はどうか。

 聞いた話だが、

 ニワトリを飼っている子がいて、ニワトリの足を、なんと4本も描いている。
 

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 ここで、柴田さんにお詫びをしなければなりません。

 先のコメントへのお返事に、わたしは、『〜、学級経営、児童理解の側面から、記事にさせていただこうと思っています。』と書かせていただきました。

 しかし、いざ、書き始めてみると、事情の細かい点で分からないことが多く、書ききれない思いになってしまいました。


 そこで、事例は異なるのですが、

 わたしが担当した初任者のクラスで、子ども同士のトラブルが起きたとき、わたしがどう初任者に指導をしたか、また、どう子どもに対応したか。

 その事例はありますので、それにリンクということで、お許しください。

 申し訳ありません。

 よろしくお願いします。

    トラブルの対応法


rve83253 at 11:44│Comments(6)TrackBack(0)国語科指導 | 児童観

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この記事へのコメント

1. Posted by 柴田勝征   2009年08月25日 12:34
5 toshi先生、丁寧なご説明、本当にありがとうございました。
>ここで、柴田さんにお詫びをしなければなりません。
> 先のコメントへのお返事に、わたしは、『〜、学級経営、児童理解の側面から、記事にさせていただこうと思っています。』と書かせていただきました。
> しかし、いざ、書き始めてみると、事情の細かい点で分からないことが多く、書ききれない思いになってしまいました。
とんでもありません。『大人の常識を身につけた子』というよりも『理屈の世界』を愛する子。なるほど、まさに「目から鱗」でした。ちょっと高学年向きになり過ぎるかもしれませんが、「シートン動物記」の「狼王ロボ」などの作品は非常に写実的で、動物が喋ったりはしませんが、狼のロボは人間顔負けの知恵を持っていて、猟師を翻弄するのですね。狼が知恵を巡らせる様子が作者の推測となって書かれているので、これならどんなに「理屈の世界」を愛する子どもでも「動物が考えるなんて変」とは言わないと思います。「理屈の世界」を愛する子どもには、そういう子向けの本などを利用したりしながら、だんだんと「情緒の世界」も愛するように指導してゆくとよいのですね。
2. Posted by 柴田勝征   2009年08月25日 12:46
以前、私のHPに引用紹介させていただいた
http://www1.rsp.fukuoka-u.ac.jp/kototoi/2008_8.html#383go
無藤隆編著「理科大好き! の子どもを育てる / 心理学・脳科学者からの提言」(北大路書房)でも、まず第1章の「理科大好きの子どもを育てる12の原則」の先頭に、「1.身体的動きの原型から発する」「2.自然への気づきは恣意的なものではない」「3.驚異の念を保持する」...となっていて、第2章は「自然に対する感性と驚きから理科へ」となっています。その第2章で、「空はただの空。美しいとかそういうのはない」と言い切った「理科好き」の中学生男子生徒のことを取り上げて、「このような発言へと生徒を導いたのは教室内外で優勢な科学観や推奨されている『科学的態度』ではないだろうか。ひょっとすると、現在の理科の授業自体に、自然に対する感性や情緒を否定的に扱う傾向があるのかもしれない。」と危惧しています。
****************************************
こういう「理科好き」の中学生が「動物物語も大好き」になるような授業があるといいですね。
3. Posted by toshi   2009年08月25日 14:14
柴田勝征さん
 記事には書きませんでしたが、わたし自身が、子どものとき、『理屈の世界』を愛するタイプだったと思います。なんとなく、物語は、ほんとうにあったことを書いているのではないという意味で、軽くみていたように思います。
 文学のよさ、価値を心から理解したのは、大人になってからだったと思います。
 ですから、初任のころは、物語の指導って、苦手だったです。あまり読んでもいなかったですしね。

《こういう「理科好き」の中学生が「動物物語も大好き」になるような授業があるといいですね。》
 バランスということでしょうか。わたし自身がバランスのとれていない子どもだったですから、ほんとうにこれは大切と思います。
 しかし、これは、教え込んで何とかなるものではないですね。(大学生なら、何とかなる可能性はありますが、)わたしは、やはり、まずはあるがままを認め、よさを引き出し、各教科指導しているわけですので、そうしたなかで身につけさせることができるのではないかと思っています。
4. Posted by 今日   2009年08月25日 14:31
そうですね。

toshi先生の <子どもに違和感を抱かせないくらい、お話の世界にのめりこませてしまえばいい。>

これが、すべてでしょうね。

表現よみ・朗読は、

入る
なりきる
のりうつる

と、師が言っていました。それと、共通する面がありますね。

ここで、僕らの

低学年のその実践をご紹介させて戴きますね。



2006.09.22

ふきだし・子どもの内言を出せる工夫 [ 文学文の読解 ]

http://plaza.rakuten.co.jp/zyx1830/diary/200609220000/

上記は、『おおきな かぶ』の実践ですが、最後で、
いぬ・猫・ねずみになって、書いています。


下記は、2年生『スイミー』です。

2006.09.23
ふきだし(2)子どもの内言を出させる工夫 [ 文学文の読解
5. Posted by 今日   2009年08月25日 14:32
http://plaza.rakuten.co.jp/zyx1830/diary/200609230000/

子どもたち、一人一人が、赤い魚になって書いています。

貴ブログ、


2009年08月21日
国語の授業がおかしくなっている・・・かな!?(4)で、斉藤 孝氏の引用を書かせて戴きました。

    ・・・・・・・・・ 


2. Posted by 今日 2009年08月22日 11:55

* 教師側が、発想をさえ変えればやりやすくなると思います。

どんな難しい内容の授業だとしても、今日はシエクスピアを読んだというだけで前進なんです。

「今日は、マクベスを読んだ。とにかく読んだよ。お母さん。なんか悪いやつが出てきたよ」
でいいと思います。

     ・・・・・・・・
これは、toshi先生が、お書きになられた

<・・・・しかし、うわっすべりで、羅列的で、表面的なことしかでてこない授業だと、『動物が話すわけがない。』などという意見が出やすくなってしまう。・・・>

と、共通するものがあると思っています。


なお、『変』発言をもっと、高めるには、どうしたら良いか、いつか、書きたいと思っています。
6. Posted by toshi   2009年08月26日 07:00
今日さん
 貴ブログを拝読しました。
 吹き出しの数々。子どもたちの素朴でかわいらしい言葉がいいですね。いきいき、躍動している感じです。なりきる姿が見られますね。

 読んだだけで前進。

 いや。前進などというのは、斎藤氏の思い込みでしょう。もともと読書好きの子にしか通用しない理屈じゃないでしょうか。また、読書そのものへの関心の高まりなど期待できず、外発的動機づけがないと前進などしないと思います。

 逆に、後退だっていっぱいあると思いますよ。読書に関心のない、薄い子たちの多くは、アレルギー状態になるのではないでしょうか。

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