2009年08月28日

国語の授業がおかしくなっている・・・かな!?(5)4

47460304.JPG 本シリーズも終末が近づいてきた。

 本記事では、

・『話す・聞く』の授業が、『話す・聞く』の学習内容をおさえるようになっていないのではないか。

をとり上げる。



 ところで、この、『話す・聞く』力の育成に関しては、授業以前の問題があまりにも多いと思われるので、前段は、その点にふれさせていただきたい。



 初めに、拙ブログでは、もうすでに何回か、『話す・聞く』について、記事にしているので、それにリンクさせていただこうと思う。

 それで、最近の読者の方々にお願いだが、

 本日は、これらリンク記事に沿い、それをさらに深めたり、発展させたりして、書かせていただこうと思うので、

 お手間をとらせてしまい、まことに恐縮してしまうが、まずは、そちらをお読みいただければ幸いである。

  
    国語『話す・聞く』の指導(1)
    

 いかがだっただろう。


 ここでは、子どもの問題であるかのように書いているが、実は、大人にもけっこうこうした問題があるのではないか。


 たとえば、

・あがったり緊張したりしてしまって、人前でなかなか話すことができない。

・それで、あらかじめ、話すとおりに原稿を書き、それを読むことによって、話した気になる。

 また、

・人前で話すことは苦手で、ディスカッションなど、フリートーキングの機会があっても、聞く一方になってしまう。


 そして、これを、自分の性格が故にとか、不慣れなためにとか、そういう問題にしてしまう。


 ここでは、『それは違うと思いますよ。教育がそういう力を育むことをおろそかにしてきたからです。』と言いたいと思う。



 わたしは、うっかり忘れていたのだが、国語の学習指導要領から、『話す・聞く』の学習内容の抜けている時期があったのだ。つまり、『話す・聞く』は、学力として認知されていなかったことになる。

 やはり、(1)に書かせていただいたように、日本は、『読み・書き』重視の文化なのだね。

 その結果、どういうことが言えるか。今、二点、ふれてみたい。


 
・総選挙も大づめとなり、各党首の演説もヒートアップしている。

 みんな、絶叫し、声もかれてしまっているが、はたして、あれは、話しているのかね。物理的には、確かに話しているのだけれどね。

 言いたいことは、

 その党、その党の、決まり切った言葉をただ繰り返しているだけのようにみえる。
つまり、そこに書いたものはないけれど、それは、ただ暗記したものを読んでいるだけではないのか。

 そう思うのである。


 その点、麻生さんはちょっと違ってみえる・・・、ことがある。

 聴衆に話しかけている。

 でも、彼の場合は、違った問題があって、それに気をつけるあまり、最近は、他の党首と似たり寄ったりになってしまった・・・かな。


 小泉さんははっきり違っていたよね。

 必ず、その土地の、その演説会の雰囲気をまじえ、その場のみに通用する言葉で話していた。聴衆に話しかける調子も抜群だった。間のとり方、感動を感動っぽく伝える力。これらには迫力があった。それに、一言、一言が短い。


・長女から聞いたことがある。

 孫が幼稚園に通っているのだが、そこの園長さんの園児への話が、まるで大人に話すような調子なのだそうだ。ときには、『あんな言葉、園児に分かるわけがない。』というような、そんな言葉もとび出してしまうのだという。 

 
 園長さんというのは、園の経営者だから、必ずしも教員免許をもっているとは限らず、したがって、教育のしろうとさんもいることは分かる。

 しかし、ご自分にお子さんがいた場合、その子に向かって、大人同様の語りかけ方をするわけはなく、

 これはやはり、相手意識が欠如、あるいは、軽くみてしまっている結果であろう。

 
 
 やっぱり、日本の場合、大人に根本的な課題がありそうだ。



 そこで、思う。

 未来に生きる日本人。子どもたちには、なんとか、そういう力を身につけて育ってほしいと。



 でも、現状は、お寒い限りだ。


 話すのを苦手としている大人だから、子どもに対しても、いかにも日本的な指導法をとってしまう。


 今、わたしが思う、問題点を列挙しよう。


〇日本人の多くは、『話す力』の育成を、学習とは考えていない。しつけの問題にしてしまっている。


 これについても、過去記事がある。楽しく読んでいただけると思うので、ご覧でない方はぜひどうぞ。

    マニュアル 

 ねっ。楽しかったでしょう。小学校のうちからマニュアルどおりではね。


 『聞く力』にしてもそうだ。

 日本では、『つまらない話、分からない話でも、がまんして、しっかり聞きなさい。』この理屈が、通用してしまっている。やはり、しつけの問題なのだ。


 でも、ちょっと考えれば分かることだ。

 これでは、『聞く力』を育んでいることにはならない。ぜんぜん聞いていなくても、黙って、話している人の方を向き、態度よくしていれば、それで、聞く力が養われたと錯覚してしまっている。

 だから、ぜんぜん聞いていなくても、『お話の聞き方が上手でしたね。』などと言って、ほめてしまう。


〇ちょっとまえに、敬語のことで、『強制はダメ』という記事を書かせていただいた。

 ちょっと物議をかもし、ご迷惑をおかけしてしまったが、

 この、『話す力』『聞く力』に関しても、日本では、『強制』が蔓延してしまっている。

 たとえば、学校という教育の場なのに、マニュアルができると、それを強制してしまう。

 ひどい場合、ちゃんと聞こえているし、要領よく話しているから、用件もしっかり伝わっているのに、『マニュアルどおりでない。』という理由だけで、やり直しをさせる。 


〇その結果、子どもはどうなるか。

 このように、話すことも、聞くことも、しつけの問題にしてしまったら、それらの力は一向に育たない。むしろストレスがたまる分、意欲は減退し、力はなえてしまう。

 たとえば、『マニュアル』の例では、もう、『職員室へなんか行くものか。』という気になってしまうわけだ。

 『聞く力』にしても、ひたすら聞いているふりをする力を養っているだけだから、真に聞こうとはしなくなってしまう。


〇そうではないだろう。

 もっと、『話そうとする』『聞こうとする』意欲を育むことを考えようではないか。


 たとえば、

 声が小さくて聞こえないこともあるだろう。要領が悪くて、何しにきたのか分からないこともあるだろう。

 でも、学校なのだ。教育の場なのだ。

 声が小さければ、こちらから寄っていってあげようではないか。

 何しにきたのか分からなければ、必要なことだけ、やさしく、あたたかく、聞けばいいではないか。


 ただし、この段階にとどまって、いつまでも同じことの繰り返しをしていたのではダメですよ。

 それでは、進歩がない。


 リンク先記事の後半に書いたように、ちゃんとできたとき、何がすばらしいのか具体的に指摘しながらほめてやるようにする。


 これによって、職員室に行くのを楽しみにできる、そんな気分にさせてしまうのが一番いいはずだ。

 以上、『話す力』『聞く力』にかかわって、その学習の土壌づくりともいうべきことについてふれてきた。



 それでは、いよいよ、今は、学習指導要領で、国語の学力としてしっかり認知されている、『話す・聞く』力に焦点を当ててみよう。

 
 これも、問題だらけだ。


 どうも、『話す・聞く』にかかわる学力観が定まっていないように思う。これも、伝統的な日本の学力観からきているのであろう。


〇『話す・聞く』力を養いたいのに、メーンは違う学習になってしまう。

 なにしろ、冒頭に述べたように、日本では、人前で話すとき、『あらかじめ、話すとおりに原稿を書き、それを読むことによって、話した気になってしまう』お国柄だものね。


 その姿を、国語『話す・聞く』の指導(1)でふれた単元で考えてみよう。


〇今、この部分だけ再掲させていただく。低学年の例だが、

・『ウォーリーをさがせ』のような絵を見る。
・大勢描かれている人物のなかから、一人の迷子を想定する。
・その子の服装、持ち物、特徴などに着目して、迷子探しの放送原稿を作る。
・放送をしているつもりになって、それを発表する。
・みんなで迷子の子を当てる。

 教科書編集者の意図は、『こういう、楽しいゲーム的な要素をとり入れることによって、要点を落とさず話そうとしたり、聞こうとしたりする力を養うことができるだろう。』ということだろう。

 
 しかし、これまで授業を見て感じたことは、

 
・子どもたちは、そういうことより、『誰を迷子に想定しようか。見つけにくい子にしよう。』とか、『早く見つけよう。あっ。見つけた。』とか、

 とにかく、『話す・聞く』というよりも、そういうゲーム的な扱いの方に、関心が集中してしまう。

 だから、『しっかり話そう。』『聞こう。』とはするけれど、それで、『話す・聞く』力が養われたといえるか、疑問が残ってしまう。


 ついでに言わせていただくと、
 
 中学年も似たようなもので、『分類すること。』という単元がある。

 これも、『話す・聞く』よりも、『どのように分類したらいいか。』『こんな分類の仕方もあるよ。』の方に関心が向いてしまう。


・『話す・聞く』と、『読む・書く』がごっちゃになってしまう。

 放送原稿なるものが曲者だ。『放送しているつもり』と言っても、実質それは、読んでいるに過ぎない。それは、指導する側が、『読み・書き』と『話す』とを混同している場合に起こる。

 要点だけメモして、話すときに自由さがあればいいのだけれど、でも、それは、低学年ではなかなかむずかしいのではないか。


・こういう場合、話す(?)内容を、暗記しようとしたりさせようとしたりすることも多い。暗記がいけないわけではないけれど、話す(?)内容まで暗記にしてしまったら、それはもう、『話す』学習にはなっていない。

 これは、冒頭書かせていただいた、各党首の選挙演説を思わせる。



〇それでは、次に、学習指導要領にご登場いただく。以上述べてきたような問題が起きるのも、やっぱり学習指導要領に問題があるからではないか。

 そういう思いで、検討させていただく。


・まず、何より、学習指導要領があまりに細かく、しかも、硬直していることに気づく。


 以下、これは保護者の方もびっくりされるのではないかな。

 『話すこと・聞くこと』の学習内容だが、あらかじめお断りしておきたい。これは、高学年ではない。低学年の内容なのですよ。


 それでは、ご覧ください。



 (1) 話すこと・聞くことの能力を育てるため,次の事項について指導する。

ア 身近なことや経験したことなどから話題を決め,必要な事柄を思い出すこと。

イ 相手に応じて,話す事柄を順序立て,丁寧な言葉と普通の言葉との違いに気を付けて話すこと。

ウ 姿勢や口形,声の大きさや速さなどに注意して,はっきりした発音で話すこと。

エ 大事なことを落とさないようにしながら,興味をもって聞くこと。

オ 互いの話を集中して聞き,話題に沿って話し合うこと。


 (2) (1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動を通して指導するものとする。

ア 事物の説明や経験の報告をしたり,それらを聞いて感想を述べたりすること。

イ 尋ねたり応答したり,グループで話し合って考えを一つにまとめたりすること。

ウ 場面に合わせてあいさつをしたり,必要なことについて身近な人と連絡をし合ったりすること。

エ 知らせたいことなどについて身近な人に紹介したり,それを聞いたりすること。

 というように、実に緻密(?)なのだ。



 なお、是が非でも、付記しておきたいことは、

 今、学習指導要領は、最低基準を示しているとか、発展的な取り扱いも可とか、学力低下論以降、ちょっと神経質な傾向が出ているよね。


 だから、指導する側は、あたかも、漢字であるとか、計算であるとか、それらと同じように、上記、指導要領に記載された内容を、どの子にも一律におさえようとする。



・そうすると、どのような事態となるか。

 『話そう。聞こう。』とする意欲を養う以前に、低学年の子たちに、

『順序だてるのですよ。』
『〜の言葉の違いに気をつけるのですよ。』
『姿勢は。』
『口の開け方は。』
『声の大きさや速さは。』・・・・・・、


 もうきりがない。

 こうしたことを、しっかり教え込もうとするわけだ。


 ああ。もう、こうなると、大人でも、話す意欲をなくしてしまうよね。

 まして、人前ではよけいだ。


・そうではないだろう。低学年など、

 『身近なことや経験したこと』に決まっているじゃないか。それ以外のことを話せるわけがない。わざわざ、このようなことを書くから、指導する側は、枠にはめようとする。

 順序だてられなくったっていいじゃないか。

 また、ていねいな言葉だって、ふつうの言葉だって、無意識のうちに使い分けている子どもはいるはずだ。そういう子をほめてやればいいじゃないか。ほめることによって、その輪が広がるのをねらう。それでいいじゃないか。

 それをわざわざ書くから、『どの子にもおさえるべき基礎・基本』となってしまう。

 わたしには、使い分けられない子に、使い分けを強制したり反復訓練したりするような姿が目に浮かぶ。

 それでもできなかったら・・・、ああ、叱りつけることになってしまうよね。


 ああ。これももうきりがない。長くなった。これ以上、書くのをやめよう。




 さあ。それでは、いよいよ、わたしが考える、あるべき授業の姿に移らせていただく。


 誰かさんになぞらえて、わたしが思う、『理想の教科書』は、


 あっ。その前に、わたしが、初任者に指導した内容を記事にしたものがあるので、それを紹介させていただこう。


 ごめんなさい。自分で自分の実践を、『理想の・・・』などというのは、なんとも気が引けるが、でも、〇〇氏はそれをやったのだから、お許しください。わたしは、ただそれをなぞっただけだ。


 それでは、どうぞ。お願いします。

    『話す・聞く』の指導(2)


・こうした題材を教科書にとり上げるようにする。

 ゲーム的なものではダメだ。そうではなく、リンク先記事のような、学級朝の会での日直さんのスピーチなど、日常の生活場面をとり上げる。

 そして、スピーチする子には、いろいろの能力の子がいることを前提とし、

 どのスピーチに対しても、学級の子たちは温かい評価の言葉をかけてやり、

 そして、それが次にスピーチするときへの意欲づけとなる。その結果、スピーチが上達していく。

 そんな教材文にするけれどね。 


 そして、学ぶ子たちが、

・上達の観点て、いろいろあるものだなあ。

・でも、すぐ上達しなくったっていいのだ。

・よし。今度、ぼくは、わたしは、この点でがんばってみよう。

 そういう意欲をもつように、そんな、教師用指導書を作る。


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 冒頭、述べさせていただきました。

 『人前で話すのは苦手。』

 これを、自分の性格が故にとか、不慣れなためにとか、そういう問題にしてしまう。


 どうでしょう。それはまったくないというわけではないが、それ以前に、教育の問題として、あまりにもそういう力を養っていないのではないか。

 それが一番いいたいことでした。


 そう。そう。大事なことを忘れていました。

 話には、ユーモアも必要ですよね。

 これも、『理想の教科書』に書き込むことにしましょう。指導要領にはありませんけれどね。


 実は、過去に、落語が教科書に載ったことがあるのです。

 それも過去記事に紹介しています。ある落語家の講演の要旨を掲載しています。

 どうぞ、ご覧ください。

    『話す・聞く』そして、『思い描く』

(6)へ続く。


rve83253 at 18:42│Comments(6)TrackBack(0)教育観 | 国語科指導

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この記事へのコメント

1. Posted by しれとこまま   2009年08月29日 20:28
マニュアル化しているかどうかは別として、さっきテレビを見ていた1年生の次男。テレビの女優さんが取材していて、最後にインタビュー相手のおばあちゃんに「ありがとう」と心をこめて言っていたときのことでした。
「ありがとうじゃないだろう、ありがとうございました、だろう」
と突込みをしてました。おそらく、学校でそう指導され、友達同士でも言い合いしているのだろうと思いました。
すごく軽く冗談ぽく言っているので、何も言いませんでしたが、かえってこれが日常になっているんだろうなあ、と思います。これから、「時と場合」というのを身につけてくるんでしょうけれども、私には普通に「ありがとう」と言ってくれるので、自然でいいかなと感じています。
2. Posted by toshi   2009年08月30日 07:45
しれとこままさん

 そうですね。心を大事にせず、言葉だけの指導になってしまっているのでしょうね。
 『ありがとう。』という言葉にしても、だいたいは、心がこもっているでしょうが、口先だけの場合もあるわけですよね。
 そういうことが関心事となり、心を大切にしていこうとする教育が望まれるのですが、なかなかむずかしい現場が多いようです。
 口先だけ、あるいは、マニュアル化が、楽だからでしょうか。
 でも、そこには感動がないし、叱ることがふえるだろうし、教職がつまらない仕事になってしまうと思うのですがね。
3. Posted by しれとこまま   2009年08月30日 17:42
ちょっと追加させてくださいね。
次男の担任の先生は、熱心なとてもよい先生です。まだお若いので、突っ走ってしまうところもある感じですが、いい状態だと思います。
「話す」というのも力が入っていて、「大きな声で、正しい言葉で」発表するというのが評価に入っていました。
ただ、「ありがとう」の件でも(前に親の私に対しても言いなおしをさせたことなど)、かたくななのかなぁ、と。
低学年ですし、まずは気持ちがあって「ありがとう」と笑顔で伝えることが大事ではないかと思います。
もちろん、学年が上がれば、年上や先生には「ありがとうございます」になるのは当然だと思います。
息子が「ありがとうございました」と言ったとき「上手に言えたねえ」と先生が大げさに褒めていた時、息子の緊張しながら言っている姿とちょっと嬉しそうな姿で複雑でした。
4. Posted by toshi   2009年09月01日 13:35
しれとこままさん
 ほめることは大切なのですが、留意点はありますね。ほめられたいあまり無理するとか、ほめられるようにしないといけないという緊張感があるとか、そういうのは、自由な雰囲気とは違いますから、指導者側が気づかなければいけません。

 それで思い出したのですが、言葉ではほめているのですが、その言い方や表情は、まるで叱っているようにみえる教員もいましたね。
5. Posted by rabbitfoot   2009年09月14日 02:31
大人として、子どもが「聞く」お手本にできるような、正しい日本語が話せているかどうかは自信がないが、最近、小学4〜5年生になっても、「て、に、を、は」が、感覚的に分からない子がちらほらいて、驚いている。
また、敬語についても、年配者と話していて、「はい」と返事ができないで、何度言い聞かせても、「うん」としか言えない子も多い。いわゆる、「ため口」で話すのは、当たり前だ。少し厳しい口調で諭すと、「ああ、分かった、分かった!(ウルサイ!」という感じでいなされる。
それでもまだ、「うん」と言えるのはマシな方で、こちらが一生懸命に個人的に名指しで話していても、相槌も返事もしないのはおろか、視線さえ合わせないという、「人の話を受け止められない」子も少なくない。親とどういうコミュニケーションを取っているのだろうか、と疑問に思っている。
これも、一方通行でまくし立てるような、テレビの影響なのだろうか?
6. Posted by toshi   2009年09月15日 08:34
rabbitfootさん

 子どもを取り巻く環境のなかで、言語生活が変化しているということだと思います。
 テレビにお守りをさせていたり、親子の言語のやり取りが減っていたり、近隣との関係が薄れていたり、学校においても心を通わす会話が減っていたり、いろいろな要因があるでしょう。
 共通しているのは、一人ひとり孤立していても物理的には生きていかれる世の中になったために、人間関係を築くのに努力が必要になったということでしょうか。
 子どものそばにいる人は、子どもと接している時間、それを自覚して、努力するしかないと思います。 

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