2009年10月21日

大先輩の熱い思い5

364d14dd.JPG つい先日も、記事に書かせていただいた大先輩のC氏。

 今は、学級補助として勤務されているが、夏休み前は入院加療中だった学級担任の代替として、約3ヶ月間担任同様の仕事をされた。わたしより10歳くらい年上だから、ほんとうに頭の下がる思いだ。

「いやあ。もう体が動かなくなりましてねえ。」

とおっしゃるが、どうして、どうして、

 今も体育の授業はもちろん、休み時間も子どもと一緒に遊びまわっている。


 わたしの仕事は、初任者指導。だいたいは教室の後ろに座って、初任者の授業を見守る。

 そんなわたしだが、先日は、初任者が一日、最寄の幼稚園で体験研修をつんだので、わたしが当該学級の一日担任を務めさせてもらった。


 たった一日だ。

 それでも、気持ちは若いつもりだが、体がついていかない。

 そうなると、もう、C氏の偉大さに脱帽してしまう。


 もちろん授業はちゃんとやりましたよ。子どもたちも張り切って、大活躍してくれました。

 でも、子どもが下校すると同時に、心地よい(?)疲労感に包まれてしまったというわけ。

 やっぱり、わたしには、C氏のマネはできないようだ。



 そんなC氏は、折々にご自分の思いをおたよりに書かれ、わたしたちにも手渡してくださる。

 これがまた、味のある名文の数々だ。


 ある折のあるたより。

 わたしは、自分がブログをやっていることを話すとともに、掲載をお願いした。


「そんな、わたしの文章などでいいのですか。使えるものなら、どうぞ、使ってくださってけっこうです。」


 そうおっしゃっていただいたので、今日は、読者の皆さんにぜひ、ご紹介させていただこうと思う。

 毎回、俳人の俳句から始まる。


 それでは、どうぞ。



 思ひ出し 思ひ出しひく 鳴子かな        子規


 このところあちこちの学校にいって、代替した先生の担当していた委員会やクラブ活動に参加しています。学校の勤務が切れ切れなので、きちんとした指導ができず、未体験のクラブ・委員会もあるので、十分なことができない場合もあります。今年はバドミントンクラブになりました。

 高校2年生のとき、同級の親しい友人がバドミントンをやっていて、是非にと勧誘され、あまりスポーツ系の活動に興味がなかったのに入部したのは、当時はマイナーなスポーツであったことにひかれたのです。余り熱心ではなく一年で退部したけれど、結構楽しんだ記憶はあるし、大学の体育の授業でいくつかの種目から選んで半年やったのも高校時代の記憶によるのです。

 50年余ぶりのバドミントンでしたが、それでも、打ち込みやサーブの手頚のかえしなどそれなりに自然に動き、子どもとラリーを楽しみました。身についていたものが、長い年月を経て鳴子の音を思ひ出したのでしょう。


 このところ2年生から6年生までの子どもたちと、あえて気張ることもなく臆することもなく授業できるのも(最後に学級担任をしてから24年になりますが、)それまで28年間に繰り返し繰り返しひいてきた鳴子の紐の手応えや音が残っているからで、授業の組み立てや発問、指示のよい音になってます。


 授業は、子どもたちに知識や技能を確かに身につけるための指導技術が必要です。さらに、その活動を通して、その知識や技術が子どもの日常において、人格の形成や機能に働きかける意識、意欲を喚起する意力を持つことが望まれます。

 「うまい授業」とは、その技術の巧みさをいい、「よい授業」とは人格形成への視点や働きかけがあることなのです。それを考えるとき、「よい授業」をなすためには、技術の発達とともに教師の人格の向上が必然となります。そこに教化と感化の併立した教育が成り立つと言えるのです。


 このところ授業をしていて、国語・社会・算数・理科の授業は、指導要領の目標や内容には変化があるでしょうが、教科書の教材、題材を読めば、いかに指導・授業すべきかは推察できるし、指導書を見ても、テストの出題をみても要点は外していない(非常勤のスタンスは「落とさず・遅れず・出っ張らず」です。)です。

 図工は新しい単元があって、それは指導書を見たり、ポイントを教えてもらったりしています。体育は副読本や教育課程をみたり、同学年の先生に教示してもらいます。(学校によっては合同体育をしてくれます。)家庭科はほとんど専科でしたが、40年余以前に一度自分でやりました。これも一昨年、鳴子の音を懐かしみました。音楽は1・2年生を担任したときに、速成でピアノを練習して指導しましたが、ほとんどは専科にお願いしています。


 こうして授業を楽しむことができるのも、昔引いた鳴子の紐の手応えや、音の響きを思ひ出しているからです。その時々に、子どもと学習を楽しむというあり方が、教科の目標の達成、知識・技能の発達をなすとともに、学習とは何かという「学習論」をつくり「教科論」との平衡を維持しようとしてきたことにあるのです。

 その時々の鳴子の音色をしっかり聞き、紐を引く強弱を確かめながらしてきたことを思ひ出し思ひ出し、今でも鳴子の紐を引きながら、いつかの思ひ出につなげ、「よい授業」をしようとしています。


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 先日、C氏は、『60歳になる教え子が同窓会を開いてくれた。』と、うれしそうに語っていました。

 また、ひょんなことから分かったのですが、同氏が教職についたのは、わたしが中学生のときだったということも、ほんとうに驚きでした。

 若々しく見えただけに、『10歳くらい上』と思っていなかったのです。


 本たよりにある、鳴子の音色や紐。

 それはただ単に、指導技術や経験を指しているのではなさそうですね。

 
 確かな教育観、学力観、さらには、『教育は人格形成のためにある。』という信念ともいうべき思い。

 そんな感想を持ちました。


 C先生。ますますお元気で、ご活躍ください。

rve83253 at 17:25│Comments(0)TrackBack(0)エッセイ | 教育観

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