2009年10月25日

個別支援学級の授業で、4

6aff3878.JPG 個別支援学級の授業をみる機会があった。

 授業開始前、若い方の担任がわたしに言う。

「toshi先生。個別支援学級の授業って、子どもが7人しかいないので、ゆったりゆったりなんですよ。間延びしているようにみえるかもしれません。」

「いやあ。それでいいのだよ。ふつう級はどうしてもせかせることが多い。『あと、5分。』などと言ったりしてね。ほんとうは、ふつう級の子どもだって、ゆったり学ばせてやりたいものだ。」


〇体育の授業だった。

 長縄を跳ぶ。縄を回すのは2人の担任だ。

 そのゆったりとした授業の流れをみて、わたしは感動してしまった。


・Aちゃんは上手だ。調子よく、『1・2・3・4・・・』。Aちゃんも、見ている6人の子も、跳ぶリズムに合わせ、調子よく数えている。

 なんと、24回も跳んだ。すごい。みんなから拍手が起きる。


・Bちゃんは、最初跳べなかった。

 縄に入ることはできるが、入った後、跳ぶのが自分のペース。縄の回るスピードと違って、『1・2・3・4・・・』。とにかく早過ぎる。

 4〜5回やってもひっかかる。

「Bちゃん。跳ぶのが早いよ。もっとゆっくり、跳ぼう。」

 しかし、ゆっくり跳ぶようになったのだろうか。相変わらずだった。


 すると、ベテランの担任が、

「2回跳んで、一回縄を通すようにしましょう。」

 2人の担任の方が、Bちゃんのテンポに合わせる。


 何回目だっただろう。やっとうまく合うようになった。

 それでも、連続5回くらい跳ぶのがせいぜいか。でも、担任も、Bちゃんもうれしそう。そして、見ている6人の子たちから拍手が起きた。


・Cちゃんは跳べないよう。初めから、大波小波。

 しかも、縄は床をはうように動かしている。そして、Cちゃんは、跳ぶというより、縄をまたぐ感じだ。それでも、うまくまたげず、縄にひっかかってしまうときがある。

 ある瞬間、5回うまくまたげた。

 先生たち、「うわあ。Cちゃん。跳べた。跳べた。」

 またまた、これも、見ている6人から、拍手が起きた。みんな笑顔だ。


・次はDちゃん。

 Dちゃんは、回っている縄にうまく入ることができないようだ。

 それで、2人の担任は、縄を静止したまま、中央にDちゃんを立たせ、『そおれ。』というかけ声とともに、縄を大きく回し出す。

 すると、調子よく跳ぶことができる。例によってみんなで数えたが、10回以上跳ぶことができた。もちろん、またまた拍手。


 それ以後の3人も、Aちゃんほどではないが、上手に跳ぶことができた。
 
 子どもの跳ぶ位置がずれると、ベテランの担任は、縄を回しながら、自分の体を跳ぶ子のずれる方向に移動させ、跳びやすくしてやっていた。


〇次は個別指導の授業だ。

 Cちゃんは5年生。やや言語不明瞭で、個別支援学級担任は理解できるようだが、わたしは、自分自身の耳鳴りのこともあり、聞き取れないことがある。

 そんなCちゃんが、かけ算九九のドリルをやっていた。


 若い先生が、わたしに声をかける。

「toshi先生。すみませんが、Cちゃんの九九を見てやっていただけませんか。手不足なもので。」

「はい。いいですよ。」

 
 これは、よかった。ものすごく勉強になった。


 Cちゃんがやっているドリルは、5の段。しかし、それが、『5・1が5』から順番に並んでいるのではなくて、順不同である。

 Cちゃんは、今まさにこれを学習しているところで、おはじきが欠かせない。


 わたしは、まず、Cちゃんがやるおはじきの操作を見守ることにした。


・5ずつきれいに並べていくことができる。

・最初の問題は、5×6だった。Cちゃんは、まず5ずつを4列並べた。そこでちょっと並べるのを止めて、指で列を数え出した。4列あることを確認したあと、さらに、2列並べた。

・それから、指を2列目の一番上に置き、一つ一つ数え出した。

 わたしは、『あらっ。』と思った。2列目の一番上から数えるのでは、5×6が25になってしまうのではないかな。そういう危惧を抱いた。

 しかし、書いた答えを見て安心した。ちゃんと、30と書くことができた。

 その後の、操作を見て納得だ。

 Cちゃんはもう、1から5までは数えなくても分かるのだね。だから、『6・7・8・・・、』というように、いつも6から数え始めるというわけだ。

・次は、5×4だ。

 Cちゃんは、今並んでいる5ずつ6列のうち、5・6列目をちょっとだけ移動させた。このときはもう、列を数えるしぐさはしなかった。そして、また、6からていねいに数え出した。ドリルには20。正解だ。

・次は、5×7。

 これまで並んでいた5ずつ6列をそのまま利用し、さらに7列目の5個を付け足した。そして、また、6から数えていく。そして、答えは35。


 このようにして、すべての5の段を書き終えるまでに、20分以上を要した。

 もちろん、すべて正解。

 「やったあ。」

 わたしは大きな拍手を贈った。それまで無表情で、真剣だった顔が、ニコッとほほえんだ。


 それにしても、感心したのは、数え間違いがまったくなかったことだ。そして、Cちゃんの一定したペースで、根気強く、最後までやりきったことだ。


 この間、Cちゃんはまったく無言。

 だから、わたしは、Cちゃんの手、指の動きを見て、それから、エンピツをもって答えを書き込むのを見て、

「すごいねえ。数え間違いがまったくないよ。」
「ようし。これも、合っている。」
など、要所、要所で、励ましや称賛の声をおくり続けた。



 わたしは、何とも言えず、ほのぼのとしたものを感じながら、先の記事、『教員採用試験に合格、おめでとう。(1)』の授業を思い出した。

 だって、リンク先記事は、ふつう級の授業だけれど、どちらも、子どもは無言で、わたしは、手や指の動きだけで、子どもの思いや考えを想像したのだものね。


 ふつう級と個別支援学級とでは、自ずと学習内容は異なる。しかし、具体物を用意し、操作活動を伴いながら学習していくことの大切さは、どちらにも共通しているわけだ。

 また、指導者は、子どもの操作の様子から、その意味、価値などを的確に判断して受容、共感してやることが大切だ。

 そんなことを思った。


 この日は、給食も、個別支援学級でいただいた。

 Bちゃんはクイズを出すのが好きだった。

「toshi先生。クイズだよ。・・・。スイミーは何匹いるでしょう。」
「一匹でしょう。」
「ピン、ポン」

「じゃあ、次ね。赤い魚は、〜?」

 いっぱい出たが、みんな簡単だった。しかし、最後は、

「スイミーは、なぜ、教科書に載っているのでしょう。」
「ええっ。それは分からないなあ。」
「ダメですかあ。スイミーは頭がいいからです。」

 参った。
 
 
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 わたしは、本記事の授業をみせてもらった日の夜、夢を見ました。

 どうも歳をとると、まったくの絵空事の夢より、生活に密着した夢を見るようです。

 この日見た夢で、わたしは現職校長でした。

 そして、上記授業がそのまま再現されていました。


 授業を見ているのは、わたしのほかに、学校理事会のメンバーが大勢いました。その方々は確かにいるのですが、顔は皆ぼやけています。


 その方々に向かって、わたしは一生懸命授業の説明をしていました。

 何を話していたか。

 『教育の原点』『一人ひとりの子どもの実態に即して、』『手だて』など、など。

 断片的にしか思い出せませんでした。



 最後に、

 個別支援学級の授業は、これまでも、掲載させていただいています。

 ここでは、思い出深い記事2編をご紹介させてください。いずれも、話し合いあり、多様な活動ありの、楽しい授業です。


    個別支援学級の授業に感動!

    個別支援学級 命の授業 

rve83253 at 16:52│Comments(7)TrackBack(0)授業 | 個別(特別)支援教育

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この記事へのコメント

1. Posted by 柴田勝征   2009年10月25日 17:37
特別支援学級の体育の授業の風景、ほほえましく読ませていただきました。大学でも、特別支援教育に取り組んでいます。私の勤務校の話は出てきませんが、以下のサイトに大学での取り組みが紹介されています。
http://harue.no-blog.jp/forteachers/2008/02/post_fd9e.html
http://kyoiku.jirco.jp/archives/1022
2. Posted by kei   2009年10月26日 21:01
二人の担任の先生の言葉と、縄の回し方に大切なことを改めて教えていただいたような気持ちがします。

現職のうちに、一年間でよいので、「特別支援級」の担任となって仕事をしたいということが夢です。できるだけ、空き時間におじゃましたり、お話を伺ったりしているのですが・・・。
3. Posted by ドラゴン   2009年10月27日 18:43
よく言われますが、やはり教育の原点とも言えますね。
私は、教育観、子ども観が常に大事だと思っております。そこで私の障害観について触れたいと思います。
私は、めがねをかけておりますし、背も低いです。おそらく、パイロットの基準の社会やプロバスケットボール選手の基準の社会では、障害者となるでしょう。
障害のあるなしは、そうした基準に因っているだけだと思うのです。たまたま、社会の基準に私が合っていたので、電車のつり革も届きますし、駅の掲示板も読めて、不都合のない生活ができています。その基準をちょっと広げるのが、ユニバーサルデザインではないかと思います。
ところが、細かなところを見ていると、それぞれ誰もが、そうした基準に合っていないということがあります。
私は、算数教育にかかわっておりますが、立体が頭で描けません。平面は完璧で地図もOKです。ところが立体はダメです。
そういう話を大学の先生方との宴席でしましたところ、みなさんそれぞれ合って、大発表大会になりました。コップに飲み物を注げないという方もいました。予測がうまくできないので、少ないかこぼれるかどちらかだそうです。いくら練習してもできないので、おそらくそういう能力自体が欠如しているのではないか、という話でした。
4. Posted by ドラゴン   2009年10月27日 18:58
つまり、誰もが障害をもっているのです。
大学の先生であっても、偉い人であっても、そうです。
それが、たまたま生活に支障がない部分なので、健常者と言っているだけにすぎないのです。
障害は個性だと考える考え方もありますが、私は、誰もが何らかの障害をもっていると考えています。
そのように考えて、特別支援学校や特別支援教室へ行くことは、普通のことなんだと、そういうふうになればよいかなと思います。

柴田先生
大学での取り組みはこちらでしたね。
貴重な話題ですね。
5. Posted by toshi   2009年10月28日 21:56
keiさん
 お久しぶりです。
 わたしは、個別支援学級の経験がないのですが、管理職になってからは、密度濃くふれ合うようになりました。
 でも、やっぱり担任ではありませんので、しろうとっぽさはなくなっていなかったと思います。ですから、いまだに勉強中なのです。
 よく言われる、『教育の原点』という言葉。
 学ぶべき点はたくさんありますね。
6. Posted by toshi   2009年10月28日 22:22
柴田勝征さん
《大学でも、特別支援教育に取り組んでいます。》
 リンク先記事を拝読しました。あらためて、特別支援教育の重要性を認識いたしました。まさに、障害は個性であると。そして、特性としてとらえることが大切だと思いました。
 
7. Posted by toshi   2009年10月28日 22:31
ドラゴンさん
 基本的にわたしもドラゴンさんと同じようにとらえておりました。そして、過去において、そうした記事を書いたこともありましたが、やはり現実に差別や偏見がある実態を知りますと、その克服のための努力は欠かせないと、今はその両面から、障害をとらえています。特に、『差別、偏見は、子ども時代にできてしまう。』ことをしっかり認識し、日ごろの指導に取り組んでいかなければいけないと思っています。
 ほんとうに、《特別支援学校や特別支援教室へ行くことは、普通のことなんだ。》という意識に、国民みんながなることを目指さなければいけませんね。
 そう考えると、『特別』という言い方が気になってしまいます。

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