2009年10月30日

個別(特別)支援教育は、教育の原点 4

55e2e81e.jpg わたしは、前記事『個別支援学級の授業で、』を書いていたとき、一つ、ハッとさせられることがあった。衝撃を受けたといってもよい。

 それは、同記事の、次の記述にかかわる。

 『ふつう級と個別(特別)支援学級とでは、自ずと学習内容は異なる。しかし、具体物を用意し、操作活動を伴いながら学習していくことの大切さは、どちらも共通しているわけだ。』


 そう。

 一つは、『教員採用試験に合格、おめでとう。』シリーズに登場した、4年生ふつう級に在籍するBちゃんのこと。

 Bちゃんは、小数の学習の際、『数直線上に、1、8を指し示す問題』を解くとき、いきなり1、8を指すのではなく、まず、1、5を指したのだった。そして、順次、1.6、1.7と指を移動させ、最後に、1.8を指し示したのだった。


 もう一つは、前記事に登場してもらった、個別支援学級のCちゃんのこと。

 Cちゃんは、おはじきを使って5×6に挑戦しているとき、

 まずは、5ずつを4列並べ、そこでちょっと並べるのを止めて指で列を数え出し、4列あることを確認したあと、さらに、2列付け足すように並べた。


 『ハッとした。』とか、『衝撃を受けた。』とかいうのは、まさに、このことである。

 わたしは、この2つの操作活動が、ほとんど同じことをやっていると感じた。


 一方は、ふつう級における小数の学習。

 もう一方は、個別支援学級におけるかけ算九九の学習。

 まったく違う学習内容なのに、つまり、知識・技能のおさえとみたときは、まったく共通するものがないのに、

 思考力といおうか、それも具体物を使った具体的思考だね。はたまた、思考の筋道といおうか。

 そういう観点でみたとき、双方は、まったく同じことをやっているのではないか。

 つまり、まずは大体のところを指し示し、そのあと、あたかも微調整するかのようにして、正答にたどり着くということだ。



 ところで、

 わたしは、Bちゃんが登場する、『教員採用試験に合格、おめでとう。』シリーズで、『どのレベルの子にも合わせた授業を行わなければならない。』と述べた。


 とすれば・・・、

 分かったのである。いや。確認できたのである。


 『どのレベルの子にも合わせた授業』は、知識・技能のおさえ一辺倒の授業では成り立たないということを。

 しかし、子ども主体の、思考力を育む授業においては、これは、個別支援学級をも含めたかたちで成り立つということを。


 もっと言おう。

 個別支援学級において、Cちゃんがやった操作活動。これは、仮にCちゃんがふつう級に在籍したとしても、ちゃんと価値ある学習ができそうなのである。

 つまり、5×6をやっているのだが、

 Cちゃんがやった、『まずは、4列あることを確認し、それに、あと2列をつけ足した。』ということをふつう級の子が見た場合、

「あら。4列並べてやめちゃったよ。Cちゃん、5×4じゃないよ。5×6だよ。まだ、2列たりないよ。」
「ああ。よかった。2列ちゃんと付け足した。」
「そうか。4列並べたところで、確かめたのだね。6列並んでいるかどうか。」
「それで、まだ、2列たりないから、つけたしだのだ。」
「ああ。よかった。Cちゃん。合っているよ。」
「Cちゃん。すごいね。おはじきを並べ過ぎたら戻さなければならないし、それでは、時間がかかっちゃうから、確かめながらやったのだね。」

というように思考をめぐらせるだろうし、

 その結果、 

 5×4と5×2をやるということは、それを合わせると、5×6をやることになるという、

 つまり、『5×4+5×2=5×6』をストンと胸に落ちるかたちで、学び取ることができるのだ。


 ああ。さらに言わせていただこう。


 厳密に言えば、この操作活動において、Cちゃんは、かけ算をやったとはいえないよね。

 確かに、5こずつ6列に並べてはいるが、実際にやっていることは、6から順に数えているだけだ。これでは、かけ算とは言えない。


 しかし、どうだろう。

 ふつう級の子は言うのではないだろうか。・・・。それを夢見る。

「先生。すごいね。Cちゃんは、1から5までは数えなかったよ。5・1が5はできるのだね。」
「それなら、ぼくたち、わたしたち、Cちゃんを応援するよ。5・2・10もできるようになってほしい。」
「そうなれば、11から数えればいいのだものね。早く解けるようになるよね。」
「よし。応援しよう。」


 ねっ。今は、夢見ているのだけれど、

 これが現実となれば、Cちゃんをも巻き込んでの、『どのレベルの子にも合わせた授業』が成立する。


 わたしは、ここまで、こうした授業を、『夢見る。』と書かせていただいた。

 しかし、わたしはかつて、こうした授業を経験したことがあるのだ。今、過去記事にリンクさせていただこう。

 ただし、その記事の趣旨は、『子ども同士の教え合い』がテーマであり、本記事とは異なるが、しかし、本記事の趣旨にかかわる部分も、読み取っていただけると思う。
 記事の中ほど、『ところが、一つ、課題があった。』あたりから始まる。

    かわいい先生
      


 さて、それでは、

 ずいぶん長い前置きで、申し訳なかったが、

 ここで、標題の、『個別支援教育は、教育の原点』にふれさせていただきたい。

 これは、わたしたち、教育現場に身をおく者が、よく耳にする言葉である。また、わたし自身も、管理職だったとき、および、退職後の初任者指導に携わってからも、ずいぶん口にしてきた。

 しかし、どうだろう。わたしたちは、これを言うとき、この言葉の意味するところをよく理解しているだろうか。観念的、情緒的に使っているだけということはないだろうか。



 そこで、具体的、実践的に、教育の原点たるゆえんを考えてみよう。


〇まずは、これまで述べてきた例。

 小学生は、基本的に、具体的思考だ。そのためには、具体物を用意し、それを操作する活動を大切にしていかなければいけない。それは、授業の『命』と言ってもいい。そうしないと、『どのレベルの子にも合わせた授業』は成立しない。


〇次、具体物を用意し、それを操作する活動を大切にしていけば、どうしたって時間はかかる。『個別支援学級で』の冒頭に書かせていただいた、『ゆったりゆったりなんですよ。』の精神は、ふつう級においても大切にしたい。

 子どもには子どものペースがある。一人ひとりそれは違うとも言えるし、学級集団としてみた場合でも、その集団としての頃合いというのもある。

 担任であれば、それはかなり把握できるはずのもの。

 『あと、5分でやりなさい。』などと、指導者側の都合に子どもを合わせさせるのではなく、子どもがもつ生来のペースを大切にしていきたい。


 『時間がない。』

 そういう声も聞こえてきそうだ。それは確かに言える。だから、『学習指導要領の弾力化』。これは喫緊の課題だ。国に期待したい。

 しかし、指導者の、『時間を生み出す努力』の問題という側面もある。意味不明の発問をしたり、発問と子どもの活動が食い違ってしまうなどのムダを排除する努力。

 これも大切である。


 なお、これにかかわる過去記事を紹介させていただこう。リンク先の中ほど、『また、これは、教員の指導力にかかわるが、』からが、それにかかわる。

    教育再生会議の提言に思う。(1)


〇縄跳びの例を書かせていただいた。

 特別支援学級の7人とは違い、30人以上の場合が多いふつう学級においては、とても、同じように指導の手を行き届かせることはできないだろう。

 それはそうなのだが、・・・、しかし、どうだろう。

 同記事の個別支援学級の担任がやったような、『子どもの力に応じた手だてをまったく講じてやることができない。』ということもなかろう。

 跳べる子に対しても、なかなか跳べない子に対しても、同じような縄の回し方しかしていないということがあれば・・・、

 ふつう級だって、『個別支援』の精神は大事である。できる範囲で、最大限の努力はするようにしたい。


〇また、これは、教員の資質の問題ともいえるが、

 わたしは、かつて、次のような先輩校長の言葉を記事にさせていただいたことがある。今、リンクとともに、再掲させていただこう。

    人権教育(4) 交流教育

 わたしが尊敬している方だが、ある先輩校長が、職員朝の打ち合わせで、次のようなことを言った。

「うちの学校に、個別支援級の子どもが寄り付こうともしない先生がいる。個別支援級の子に、『先生。先生。』と言って寄ってきてもらえない先生は、問題である。どうか先生を続ける以上は、自分自身の人間性からふり返って、何によって子どもに遠ざけられているのかを考え、自分自身をつくりかえる努力をしてもらいたい。」

 わたし自身は、ここまで自校の教職員に言えたことはなかった。すごいリーダーシップだと思った。

 確かにこういう先生は、ふつう級においても、子どもとの一体感がない。

 事務的というのとも違う。心が通い合わない。」
 

〇拙ブログにおいて、何度も書いてきたことであるが、個別支援学級の担任は、実によく子どもをほめている。ほめて子どもを伸ばすコツをよく知っている。

 今回、記事を書くにあたって感動したのは、縄跳びをやっているときのCちゃんへの言葉かけだった。


 Cちゃんは、客観的にみれば、縄を跳ぶことができないのだ。

 縄をまたいでいるのだ。

 それでも、縄を見事またぐことができたとき、先生たちは、『うわあ。Cちゃん。跳べた。跳べた。』と言って喜んでいる。

 だからであろう。縄を24回も跳ぶことのできるAちゃんも、Cちゃんに対し、心からの拍手を贈っている。


 ここで、唐突だが、鳩山首相の所信表明演説にふれさせていただきたい。

 鳩山首相は、あるチョーク工場を訪ねたときのエピソードにふれた。

    今、それにもリンクさせていただく。『<3>「居場所と出番」のある社会、「支え合って生きていく日本」(人の笑顔がわがよろこび)』とあるところから始まる。

    鳩山首相:所信表明演説 全文(その1)

 そう。養護学校卒業生に限らずであろう。

 大人だって、
「人間の究極の幸せは四つです。愛されること、ほめられること、役に立つこと、必要とされること。働くことによって愛以外の三つの幸せが得られる。」
のである。


〇個別支援教育では、一人ひとりの子どもの実態を把握し、『どういうねらいをもって指導していくか。』についても、保護者と協議の上、一人ひとりのニーズに応じたねらいを設定し、それに立脚した教育計画をたてて実践する。

 ふつう級においても、学校によっては、『個別支援』の観点も、学級経営案に記載するようにしている。

 どの子にも共通したねらい、学習内容をもってどの授業も行うなど、もしそのようなことをしたら、指導の効果を上げることは期待できなくなるであろう。

 

 以上、るる、『個別支援教育は、教育の原点』ということについて、述べてきたが、これは、そのように言うことによって、ふつう級における指導に警鐘を鳴らす意味合いがあるのだと考える。


 少なくとも、双方の指導をまったく別物ととらえていたのではダメだ。『ふつう級は人数が多いから。』『ふつう級は一斉指導だから。』

 それは確かに言える。

 でも、それを、個別支援の観点を持ち得ない理由としたら・・・、それはよくない。

 個別支援学級の指導から、多くを学ばないといけないだろう。


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 わたしは、前記事の末尾(バナーの下)に、『夢』を書かせていただきました。

 そう。

 学校理事会が設置されたら、本日の記事の標題である『個別(特別)支援教育は、教育の原点』を、市民の方々に強くアッピールし、理解いただくよう努力したいものです。

 夢を正夢にしましょう。


 わたしのブログの友であり、また、現実にお会いしたこともあるkeiさんが、前記事にコメント(2番)をお寄せくださいました。

 そこには、

 現職のうちに、一年間でよいので、「特別支援級」の担任となって仕事をしたいということが夢です。できるだけ、空き時間におじゃましたり、お話を伺ったりしているのですが・・・。

とありました。


 わたしは、申し訳ありません。

 恥ずかしながら、学級担任のとき、そのように思ったことはありませんでした。

 でも、管理職となってからは、人手不足のこともあり、直接かかわることがふえました。

 そこで勉強させていただきましたし、いまだ、勉強中です。


rve83253 at 05:58│Comments(6)TrackBack(0)個別(特別)支援教育 | 教育観

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この記事へのコメント

1. Posted by toshi   2009年10月30日 08:46
智己さん
 せっかくのコメントでしたが、本記事にまったく関係ありませんし、特定の団体の宣伝のようにお見受けしましたので、削除させていただきました。
 ご了解のほど、お願いします。
2. Posted by 柴田   2009年10月30日 10:33
「人間の究極の幸せは四つです。愛されること、ほめられること、役に立つこと、必要とされること。働くことによって愛以外の三つの幸せが得られる。」

すばらしい考え方ですね。それにもうひとつ(五つ目)付け加えさせて下さい。
「感動すること」

私は教職課程を含むすべての授業で、このことを強調しています。教職課程の授業なら、「君たちは教師になったら、生徒たちに感動を与える授業ができるように、常に適切な教材を探してアンテナを張っていなければならない」と強調しています。「そしてそのためには、君たち自身が、ものごとに深く感動できる人間にならなければならない」と。
3. Posted by 柴田勝征   2009年10月30日 10:35
 これは「微分積分」や「行列と行列式」のような数学の授業でも同じです。たとえば、このような深い数学の理論は、18世紀の江戸時代に、日本の「和算家」と呼ばれた武家の出の人たちが、イギリスの数学者とまったく同じ時期に、世界で最初に考え出した数学なのだ。なぜ、西洋と東洋(日本)で、まったく同じ時期に、このような複雑な計算をするような数学を考え出したかというと...と言うようにして、このような数学の理論を考え出した人たちの人生や考え方の筋道を理解させる事によって、学生たちが少しでも、自分たち自身も江戸時代の和算家たちと同じ学問の高みを共有できる喜びを分かち合えるように努力しています。
 最近、非常に感動した話を以下に書きました。ぜひ見てください。
http://www1.rsp.fukuoka-u.ac.jp/kototoi/2009_10.html#421go

4. Posted by せきちゃん   2009年10月31日 14:19
特別支援教育の視点のある学級づくりが,今後は基本になるように考えています。もちろん,人権教育の要素も含まれています。

わたしの教え方で,学ぶことが難しい子どもには,その子どもの学び方で,教えたいって,心がけています。

わたしがつくる学びの型(と言っていいのか分かりませんが……)でつまずくのなら,その子どもの学びの型を見つけて,その方法を中心とした個別指導を行いたいと。

まだまだ修業の身ですが,忘れずに取り組みたいです。
5. Posted by toshi   2009年11月02日 07:42
柴田勝征さん
 「感動すること。」確かに大事ですよね。
 感動は人の心がもたらすもの。
 教育現場において言えるのは、子どもたちが、主体的、意欲的に、学びに取り組んでいれば、感動は後からついてくるものだと、
 そして、その感動は、毎日のように起きるものだというのが、わたしの実感です。
6. Posted by toshi   2009年11月02日 07:48
せきちゃんさん 
 学びの主体である子どもを大切にする姿勢が、ひしひしと伝わってきます。
 わたし、過去に拙ホームページに記載した記事を元に、このたび、エデュペディアに投稿させていただきました。『とらわれの心からの開放』と題しています。
 貴コメントと思いを共有できるのではないかと思い、紹介させていただきました。よろしかったらご覧ください。
 本コメントのtoshiをクリックしていただければ、出るようにしました。

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