2009年11月12日

子育てや教育は、社会全体でも支えるもの!?4

1a090f23.JPG 前々記事では、ふつうの人の自然な感情で、教育施策を講じることの大切さを述べた。こんなことは、きわめてあたりまえのことなのだが、それができにくくなっている、現代という時代の特性にもふれさせていただいた。


 やはり、子育てにしろ、教育にしろ、社会が複雑化するなかでは、

 人々は、いろいろ考えこんだり、悩んだりすることが多く、そうなると、自然体に構えることができにくくなるのかもしれない。


 そうか。その原因だが、

 一つの傾向として言えることは、専門化、分業化がすすんでしまうからではないか。その結果、経験、体験も限定されてしまう。

 そのため、『他は知らないよ。』とか、『自分には関係ないよ。』とか、そんな意識になってしまうのかもしれない。

 
 むかしは誰もが自然にやっていた子育てや教育なのに、今は、かかわりのない人が増えたり、そのために、無関心が増えたり、頭の中だけで考えたり・・・、


 だから、『ふつうの人の自然な感情』からはなれ、頭の中だけの子育て論や教育論が横行してしまうのかもしれない。


 子育ては家庭がやるもの。教育は学校がやるもの。

 それはそうなのだが、現代においても、もっと社会全般が、子育てや教育を、直接経験し、活動してもらうことはできないものか。

 そのようなことを考えてしまう。

 

 そんな折、民主党が政権を獲得した。
  

 民主党は言う。


 『子ども手当の創設や、高校の授業料無料化などは、決してバラマキではありません。

 これまでの日本は、子育て、教育などの多くを保護者や学校のみの責任にしてきました。

 しかし、少子化といわれる今、もっと、社会みんなで子育てや教育を担うようにしようではありませんか。』


 これはいい。


〇なにしろ、先進諸国の中で、日本は、国の総予算の中で教育予算の占める割合が、あまりにも低いのだものね。逆に言えば、家庭の負担がものすごく多いということになる。

 それでも、高度経済成長期は一億総中流社会などと言われ、このことはあまり問題にならなかった。

 しかし、今は、格差社会の中で、『子どもの貧困』などとも言われるようになった。


 子どもの世界にまで格差があってはならない。

 したがって、格差社会と言われる今、これまでのように家庭に負担をかけることは、許されなくなったのである。

 
〇しかし、どうだろう。

 『子育て、教育に関する社会の責任』といった場合、それは、お金の面だけでいいのだろうか。

 体や頭脳を使って貢献する部分も、必要なのではないか。

 『子育てしていなくても、学校と無縁でも、体を通してかかわる。』ようにしたい。それが、『社会全体で』の真の意味ではないか。



 そう思ったとき、参考になったのは、裁判員制度だった。この制度は、国民が直接的に司法にかかわろうとする制度である。それを、子育て、教育に応用することはできないか。


 裁判員制度がスタートして3ヶ月余。今のところ、順調なすべり出しのようである。

〇裁判員になった方の次のような言葉がある。

「人生観が変わった。」
「他人のことをこんなに真剣に考えたことはなかった。」
「『裁判員を立派に務めたのだから、』ということで、職場でもいっそう重要な職務を担当するようになった。」

など、わたしが知りうるのはマスコミ情報だけだが、裁判員になった方から、こうした声が寄せられている。

 市民の意識改革を迫り、また、それがうまくいっている証左のように思った。

〇『市民感覚を大切にした判決』がだされるようになったと思う。

 それは、けっこううまく機能しているようだ。これまでの量刑等の常識がくつがえされ、軽くなったり重くなったりしている。

 以前、裁判官の下す判決に、『ええっ。何でこんなに不当な量刑なのだ。』と思うことは少なからずあったから、その点、よかったと思う。

 これは、『ふつうの人の自然な感情で』裁判が行われるようになったことを意味する。言ってみれば、市民感覚と専門家の常識との融合だ。

〇公判中も、裁判のしろうとである裁判員を意識して、分かりやすい裁判を心がけているようだ。検察、弁護側とも、言葉のつかい方から、資料の提示に至るまで、工夫しているようである。

〇裁判員選定にあたっては、無理のないよう工夫している。どうしてもできない事情があれば、それも勘案しているようだ。

〇先に述べたように、市民の良識がいかされているように感じる。やはり、国民が、直接的に政治、司法などに参画する気運は盛り上がっていたのだろう。これは、日本の民主主義の発展にとって、とてもいいことだ。これによって、市民の意識、自覚が、かなり進化していくのではないか。



 さて、

 それでは、この、裁判員制度が、『社会みんなで子育てや教育を担う。』ことに関し、どのように参考になるだろうか。



 それは、民主党がマニフェストにいう、『学校理事会』の活用だ。

 同マニフェストによれば、

『公立小中学校は、保護者、地域住民、学校関係者、教育専門家等が参画する「学校理事会」が運営することにより、保護者と学校と地域の信頼関係を深める。』

とある。


 わたしには、この『学校理事会』の理事が、裁判員と同じ性格をもつようにみえる。

 つまり、こういうことだ。


〇子育てに縁のない方であろうと、学校にかかわりのない方であろうと、『未来の日本社会を構成することになる市民を育てる。』という観点で、一定の役割を果たしていただく。

〇冒頭述べたように、国民は、お金の面だけで、子育て、教育を支えるのではなく、知恵を出したり、よりよい子育て、教育を模索したりする面でも、支えていただく。

〇何よりも、『ふつうの人の自然な感情』が、教育に反映されるようにする。


 そうすれば、前々記事でみたような、一部地方教育行政府の者による、恣意的で尋常でない教育施策も、市民の目にさらされることになるから、未然に防ぐこともできるだろう。また、とかく批判される、一部教員組合の独走も防ぐことができる。

 また、そういう欲求、関心は、市民の方にもあると思う。

 こうして、よりよい学校教育の実現のために、教育の質、中身にまで、一般市民の方々に関心をもっていただくことは、教育の発展にとっても欠かすことができない。

  
 
 しかし、 

 そのためには、学校理事会のメンバーは、裁判員同様、無作為抽出で決めるようにしてほしいものだ。


 現行の学校評議員制度は、学校長が人選するようになっている。

 この方式だと、学校の御用組合的になる可能性があるし、逆に、地域ボスのような人が恣意的な動きで選ばれることもありうる。

 それに第一、『国民みんなが、』という視点が軽くなってしまう。


 地域住民代表や教育専門家は地方行政府で、

 保護者代表と教員代表は各学校で抽出する。

 いかがだろう。


 まだ、民主党は、学校理事会云々にまったくふれていないのだから、選出方法まで言及するのは、時期尚早なのだが、早く実施に移してもらいたいものだ。



 ただ、課題はある。


〇公立校は、小中合わせて、全国に3万校くらいあるかな。その各校に理事を置くわけだから、その数たるや、とても裁判員の比ではない。

 しかし、未来の国民すべてにかかわることを担当するのだから、本格的にスタートとなったら、関心は、裁判員制度以上となるのは間違いない。


〇学校理事会の主体性で、学校運営を行うといっても、現実にどこまでそれが可能かという問題もあるだろう。

 これは数々の先行的実践を繰り返す中で、につめていく必要がある。


 裁判員制度もそうであったように、いきなり施行というわけにはいかない。何年も前からの普及宣伝活動が必要である。そのためにも、国は早急にこの問題に取り組む必要がある。

・現状、前々記事でふれたように、一部地域で、独善的で、恣意的、示威的な教育施策が実行に移されているので、ことはのんびりしていられないのだ。
  
・さらに、時間をかけ、不断の努力を積み重ねることによって、『子育て、教育を社会全体で、』が、国民世論にまで高まるよう、努力したいものだ。


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 数十年前までは、我が子がいようといなかろうと、子育て、教育に縁のない人はほとんどいませんでした。近隣に、子どもは、うようよいた(変な言い方でごめんなさい。)からです。

 その辺は過去記事でくわしくふれています。どうぞ、ご覧ください。

    子育て、受難の時代か。


 もう一つ。

 非常にさめた言い方になってしまい、申し訳ないのですが、

 『子育て、教育を、もっと社会全体で、』といった場合、見のがせない要因があるのです。

 それは、年金にしろ、健康保険にしろ、若い人の力によって支えられるということです。


 学校はともかくとして、子育ての責任を家庭にばかり負わせ、

 さあ、『未来の利益の享受は国民みんなが』というのは、やはり、おかしいでしょう。


 さらに言わせていただければ、

 これこそ、友愛社会の象徴ではないでしょうか。一般市民の方と街で見かける子どもたちとのふれ合い方も、きっと変わっていくと思いますよ。

 それが、少子化を防ぐことにもつながるでしょう。


 最後に、

 民主党マニフェストには、学校理事会の創設をうたい、学校主権を導入しようとしながら、他方では、現行の教育委員会をなくし、教育に関する権限を地方行政府の首長に集中させようとする、時代逆行の施策もあります。

 すでに、記事にしておりますが、最近の読者の方は、ご覧いただけたら幸いです。


   民主党マニフェスト教育編(4) 教育委員会をめぐって 

 
 

rve83253 at 09:51│Comments(5)TrackBack(0)教育風土 | 教育制度・政策

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この記事へのコメント

1. Posted by redu06   2009年11月16日 00:24
おっしゃられていること、よくわかります。
私の上司であった退職校長さんも、「退職したら学校の中のことなんか全く無関係になってしまうよ」とおっしゃられています。

たくさんの人が教育に関わることができる環境づくりを進めていかないといけませんね。ただ、これがなかなか難しいです。前任校で「地域取り入れ」のしくみを作ろうと様々な取り組みをしましたが、結局学校、つまり職員にしわ寄せが来ます。12時を過ぎても職員室に明かりがともっている状態が常態化しました。あるいは、地域で責任のある立場になられた方の負担が大き過ぎ、誰も引き継ぐことができないサイズになってしまった事業もあります。

冷静に成功例と失敗パターンを分析して、「持続可能な開発Sustainable Development」を考えていかないといけませんね。

2. Posted by toshi   2009年11月16日 14:57
redu06さん
 ご理解いただき、ありがとうございます。新しい時代の、学校教育のあるべき姿を、お互いに模索していきましょう。

 ただ、『12時を過ぎても職員室に明かりがともっている状態が常態化しました。』とは、驚きました。
 よほど、仕事量を増やしてしまったのでしょうか。あるいは、一部の教員に仕事が集中してしまったのでしょうか。
 かつて記事に書いたこともあり、本コメントのHN欄のtoshiをクリックしていただければ出るようにしましたが、わたしの勤務校も、かつて、こうした取組をしました。でも、会議の時間の分だけ遅くなったに過ぎません。やれる範囲でがんばればいいのだと思います。
 おっしゃるように、『持続可能な開発』が大事でしょうね。 
3. Posted by HeliPilot777@YouTube   2009年11月18日 00:51
教育が社会的共通資本である理由:
   マクロ経済学によると 経済の発展には教育と医療を行き届かせた上での人口増が必要とのこと。
すなわち、経済の発展の為には 国民に対して その時代の国の競争力に必要な教育を施し 付加価値、生産性、差別化のある仕事に従事させる必要がある。  グローバル化の中、 組み立て産業中心の経済から サービス・知識産業経済の時代になっており、 教育の内容も知財、Innovation, 差別化, Digital Content等 自らが優位性と儲かる仕組みを創出可能なProfessional 人材育成プログラムが必要である。
  教育を受けることが困難な状況な国民が存在するという事は、可処分所得、生産性、付加価値の面から、長期的に経済が停滞することにつながる為、 教育は無料で国民に提供されるべきものである。 
  教育が国の経済の発展につながり、その結果、国民全体の生活レベルが高くなることから、 教育は社会共通資本であるという認識が 世界の多くの国での教育の無償化につながっている。
  グロバル化により日本の競争力が低下している中、経済発展には 教育の底上げと 海外の人材と競争可能なブローバル人材を育てる 複数の施策が必要である。
4. Posted by HeliPilot777@YouTube   2009年11月18日 00:56
21世紀の日本の教育制度、更新中です!

21世紀の日本の教育システムへの提言: Overhauling Japanese Education System 教育のガラポゴス化からの脱却
5. Posted by toshi   2009年11月18日 17:30
HeliPilot777@YouTubeさん
 なるほど。純粋に経済学的観点でみても、教育の無償化は喫緊の課題だということ。よく分かりました。大人の格差が子どもにもろに影響しないような政策をとることの大切さが、経済学的視点からもいえるのだと思いました。
 このままでは、日本は、世界の中で取り残される運命となりそうですね。
 

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