2009年12月04日

子どもの暴力多発をどうみるか。4

f22d4c2a.JPG 1日、新聞の一面トップ記事は、『小中高生の暴力 6万件 08年度 3年間で7割増』だった。

 『ああ。やっぱりなあ。』かねて心配していたことがあたってしまった。くらい気持ちになった。

 報道によれば、文科省や教育委員会は、
「感情がうまく制御できない。」
「コミュニケーション能力が足りない。」
といった子どもの変化が背景にあるとみる。

 同じ子どもが何度も暴力に及ぶケースも目だつという。

 これらは、教育現場にいるわたしから見ても、ほぼ妥当な分析だと思う。(本記事末尾では若干ニュアンスの違うことも書かせていただく。)


 さらに、社会面では、

 小学生の、怒りの感情を制御できない暴発の事例をいくつか上げたあと、次の記述がみられる。

・暴発した後、取り押えられても、目はすわり、自分でも何をしているのか分からない様子。「落ち着け。」と声をかけられているうちに、正気に戻り、「先生、ごめん。」などと言うようになる。

・こうしたケースを親に知らせると、たいていは、「信じられない。」「うちではそんなことはまったくない。」という答えが返ってくるという。


 これらも、すごくよく分かる。管理職当時から今に至るまで、わたしも何回か経験しているところだ。

 今の暴力の背景をうかがわせる過去記事がある。リンクさせていただこう。お読みいただけると、上記新聞記事の内容とよく似ていることがご理解いただけると思う。

    『発達段階に応じて』


 さて、むかしも子どもの暴力はあった。そう思えば、暴力は何も目新しいことではない。

 しかし、その様相は、かなり今と違う面をもっていたと思う。

 たとえば、過去記事の『温故知新(5) 父の実践から』などが参考になるのではないか。

 この実践記録の『4.この単元を設定した理由』のなかの、『(4) 社会の実態からみて』と、『(5) 生活指導の立場から』に、そうしたことが少しうかがえる部分がある。

 そこには、『腕白ぶり』『野性的な』『粗暴性』などという言葉がある。

 粗暴性という面では、今と共通するかもしれないが、『腕白』『野性的』などは、今、あまりみられないのではないか。


 そう。今の子どもの粗暴性は、突然きれるのだ。人格が突然変わってしまったかのように感じる。
 
 上述の、親の言葉にある、「信じられない。」「うちではそんなことはまったくない。」というのも、近年の特長のように思う。


 ところで、これの意味するところは何か。

 上のリンク先、『発達段階に応じて』に書かせていただいた、わたしの分析を引用させていただこう。

 つまり、

 『すぐきれる小学生は、幼児期に、この段階(きれるという段階)を通過できなかったのではないか。きれようにもきらせてもらえなかった。そのまま、つまり欲求が満たされないまま大きくなってしまった。その結果、(きれることが)許されるとみた学校という場で、遅ればせながら、行動に移してしまっているのではないか。』

 これは、いただいたコメントのなかにも、同様の趣旨とみられるものがある。

 リンク先コメント KGさんの3、4、11番だ。

 同氏のコメントの言葉を引用させていただければ、『最近の親は、やってはいけない事の幅が大きすぎるのではないかと思います。』ということになる。


 再度、『発達段階に応じて』に戻らせていただくが、

 しろうとの思いながら、

 2歳の孫のきれた姿と、小3の教室で見た一人の子どものきれた姿が、あまりによく似ていたことは、ほんとうにショックだった。

 過去記事には、似た姿を、『きれるときの表情、しぐさ』と書かせてもらった。

 しかし、今、思い出したのだが、もう少しくわしく書かせていただくと、

 きれて物を投げたとき、その効果(?)に自分で驚いているような感じがあるし、投げた後冷静になって(ほんとうは冷静になっていないと思うが、)、投げた結果を確認しているようにみえるときもある。

 そこまでよく似ていたのである。


 さらに、ショックなこと。

 これも、同記事に書いてあるのだが、
 
 わたしが見た、小学生のきれる子は、調子のいいとき、楽しくて仕方ないとき、4年生なのに、何と、幼児語がとび出すのだ。

 それだけではない。ほんとうに、2・3歳の幼児が親に甘えるような表情、しぐさをみせる。

  
 このことからは、幼児期に、『きれたくてもきれさせてもらえなかった。』だけでなく、『甘えたくても甘えさせてもらえなかった。』のではないかと想像できる。

 上記、KGさんの言葉を引用させていただくと、

 『子供は自分で体験し、体験した事から学んでいくので、子供の行動に親が制約をかけすぎると子供は親に聞かないと行動できない、という事を学んでいくと思います。
 そうすると自分の行動を制約する相手がいないところ(この場合、それは学校ということになる。)では、自分の好き勝手にやっていい、と学習しているのではないでしょうか?』

ということになる。

 学校における、現代的な意味での暴力の本質を、みごとに言い当てているように感じた。



 さて、ここで、冒頭の新聞記事に戻らせていただく。

 ここに、「コミュニケーション能力が足りない。」という分析があった。

 しかし、ここまで分析してくると、それは、大筋で合ってはいるのだが、なんか、しっくりこないものがある。

 『コミュニケーション能力』といった技能的学力のレベルを越えているように思う。もっと、人間らしさというか、もちろんそれは、子どもらしさといってもいいのだが、人間性そのものが育っていないと感じる。

 考えてみれば、かわいそうなことではある。



 さあ。それでは、対策をどうする。

 学校として手をこまねいているわけにはいかない。なんとか、暴力を減らしたい。

 ここで、また、過去記事の『温故知新(5) 父の実践から』を引用させていただこう。

 何らかの、改善のためのヒントがあるのではないか。


 これは、昭和24年の事例。敗戦後たった4年。日本は一億総貧困の時代だった。このときは、家庭の教育力そのものが崩壊していたといっても過言ではないだろう。多くはその日暮らしだ。明日の食料を確保するのに必死だった。

 そんな時代だったが、亡父の実践をみると、『そういう社会背景、家庭環境だから、すさんだ生活はやむをえない。』というのではなく、

 そういう実態のなかで、いや、そういう実態だからこそ、学校が何とかがんばって、集団行動のとれる、規律ある生活態度を身につけてほしいと努力する姿がみられる。

 ちょっと長いが、その部分をそっくり引用させていただこう。1年生の事例である。

 なお、蛇足ながら、この年わたしは4歳。父は35歳。そして、この年の1年生は、今67歳。

 もう一つ。こんな時代だから、幼稚園、保育園に通っていた子はほとんどいないはず。小1が初めての集団生活ということになる。



 それでは、どうぞ。


 〜。

(3) 児童の発達段階によれば

 未分化の時代であるから社会性はきわめて希薄である。ただわずかに認められるものは対人関係についてである。いわゆる仲間遊びをするようになる。しかし、

イ その仲間と数人で一緒に遊んだとしても、多くはそのなかの一人二人を相手に交渉するという関係をもつだけで、他はその場に近接していたという意識しかないのである。

ロ また、少し早生な子は、数人のグループ化への傾向に向かうけれども、時に腕力の強い、体の大きい子に従属するという傾向もこの学級に見受けられるようになってきた。

 それゆえ、こういう状態を有効に導いていくには、集団で遊ぶという活動をできるだけ多くして指導する必要がある。
 前単元のままごと遊びでは、家族グループを作っても、その集団のなかで個別的活動が行われやすいし、大きい子や出しゃばりな子がしばしば父や母の役を取って、従属的な関係への傾向をいっそう助長しやすくなり、集団の一成員としての協力的な対等な活動ができにくいのである。
 電車ごっこなら、全員がいやでも一緒に行動せねばならないし、みなが等しく交互にその位置を守って協力しなければ遊べないという場を作ることができるものであるから、この単元活動が望ましいとみたのである。

(4) 社会の実態からみて

 学区域の実態調査の一つに、本市のような新興都市は、市民の協力態勢が非常に浮薄であるとし、また長い歴史がもつ封建社会の慣習は民主的な社会性にことに欠けているという一般的傾向が指摘されている。さらに、本校学区はその半数近くが多忙を理由にして子弟の家庭教育に適正を欠くものがあり、学校以外の生活はきわめて放任の状態にあるので、品性の醇化、道徳的な行動の修練はどうしても学校生活の秩序にまたなければならないので、社会科の学習では集団的協力的ごっこ遊びによる経験の指導の機会を特に多く必要とするものである。

(5) 生活指導の立場から

イ 一学期の初頭はどの子もおとなしかった。五、六月となれてくるに従って、友達ずれのしてきた子は、その腕白ぶりの本性を発揮してけんかが多くなり、やかましく騒ぎ立てる子が増加してきた。かように不安な状態になったが、子どもにはまだ社会意識も協力の態勢もできていないから、その乱れだした行動は、しだいに奔放さを加えてきて、わがままが主となる無統制ぶりに追い込まれようとする。従ってこの時期に集団共同生活のしつけを団体遊びの経験指導によって強力におし進める必要がある。

ロ 家庭のしつけが不十分なためか、一学期に苦心したしつけも夏休みを終わるとすっかりもとの野性に立ちかえっている。秋に入って身体活動がますます旺盛になり、これに加えて運動会の練習やらで、落ち着かない一ヶ月を送ったので、いっそう粗暴さが見えてきた。そこでこの運動場せましと駆け回っている野性的な子の活動意欲をそのままにし、おさえないようにして、これをしだいに集団的な学習生活の態勢へとうまく引き入れて、粗暴性だけを取り除いていく方法をとりたいと思案した。

 これは教室に静坐してできる単元活動などでは、到底達せられない。電車ごっこの単元なら、この活発な活動を全面的に展開させながら、社会生活へのしつけへと導くことができるから、というので設定したものである。

 
 引用は以上だ。

 
 さあ。

 現代においても、60年前に学ぼうではないか。

 現代的な意味での、暴力、粗暴さ、幼児化。

 小1プロブレムとも言われる。

 『鉄は熱いうちに打て』とも言う。

 
 それなら、60年前同様、1年生段階が大事。この時期なら、学校が豊かにやれることはあるはずだ。成長すればするほど、こうしたことの改善は困難さを増す。



 一つ。雑ぱくな記述で申し訳ないが、提案させていただこう。

 わたしの校長時代、あるベテラン教員の実践である。


 入学してすぐ分かったのだが、このクラスには、明らかに行動の幼い子がいた。

 席に座っていられない。授業中でも、気ままに教室を動き回る。手当たり次第に、着席している友達を小突く。

 登下校の途中でも、ちょっといやなことがあると、道路に寝そべってダダをこね、上級生、同級生をこまらせる。

 担任も、初めは、いささか驚き、どう指導したものかと、思案を重ねたようだ。


 5月になって、クラスの子どもたちに、

「Aちゃんは、あかちゃんだから、先生もがんばるけれど、みんなも面倒みてあげようね。」

「Aちゃんがちょっとでも赤ちゃんでなくなったら、教えてね。」

 B先生の温かな学級経営のおかげで、子どもたちは、楽しむ気分で、Aちゃんの世話をしだした。ダメなことはダメとしながらも、Aちゃんの成長を支え合う気分が学級に育まれた。

 保護者の皆さんは、『Aちゃんがこのクラスにいてくれたおかげで、クラスのみんなにやさしさが生まれた。』と言ってくれた。

 そして、そうした視点を加味しての生活科の指導計画を作成した。



 さあ。今の学校教育を取り巻く環境はどうなっているだろう。

〇学力狂騒(競争)など繰り広げているときではないだろう。そんなことをしているから、子どもはあれる。

 子どもの心の豊かさを育む競争でもやったらどうだ。(もちろん、冗談ですよ。)

 もっとも、よく考えれば、これも『学力』だよね。それこそ、『生きる力』そのものだ。

 
〇授業時数増だ。

 席にじっとしていられない子が増えているというのに、子どもを教室に拘束する時間を増やしてしまった。(過去記事の『小1プロブレムの心配は?(続・番外編)』をご参照ください。)

 もっとも、これこそ、60年前に学べるよね。

 『これは教室に静坐してできる単元活動などでは、到底達せられない。

 電車ごっこの単元なら、この活発な活動(粗暴さなどを含む。)を全面的に展開させながら、社会生活へのしつけへと導くことができるから、というので設定したものである。』

 増えた授業時間は、こうした考えでいきたいものだ。生活科が重要になる。


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 すみません。新聞報道があったため、緊急に内容を変更させていただきました。

 事業仕分けは、次回にさせてください。


 報道によれば、いじめは減っているとのことですが、暴力と根はつながっているはずで、根本的解決をみたとは、とても思えません。

 また、全国各地で見られる対策としては、新聞記事によると、『上手に誘いを断るには、』とか、『友達に泣き虫といわれてどんな気持ち?』とか・・・、

 まあ、やらないよりはいいかもしれませんが、こんなスキル的なことが、すぐきれる子に通用するとは思えません。やっぱりおざなりな感は否めず。


 最後に、拙ブログの過去記事、また、いただいたコメントには、子どもの暴力の要因について、本記事とは別角度からとり上げたものもあります。それを紹介させていただきましょう。

〇まず、小1プロブレムの記事に、なおみさんからいただいたコメント(1番から多数)があります。 ここでは、暴力に限定してはいませんが、発達障害の問題をとり上げてくださっています。

〇もう一つ、これは恥ずかしながら、我が勤務校で起きた、教員の体罰が子どもの暴力の原因になった事例です。悔悟の気持ちをこめて書いています。

    信頼の教育とは、


rve83253 at 07:02│Comments(13)TrackBack(0)教育制度・政策 | 子ども

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この記事へのコメント

1. Posted by rusie   2009年12月05日 08:32
5 今,クラスの子供達を見ていて感じていたことの答えを得たようでとてもありがたかったです。
4年生を受け持っていますが,とても幼い子が何人かおり,暴力にはいたっていませんが,いじめに近いような行動も見られます。
遊びの中で育ってきていない,集団で何かをすることができない,また自分から行動を起こすことができない,という感じです。とても手のかかる4年生です。高学年に近づいてぐっと成長してきている子供たちとのギャップもあります。お父様の60年前の実践に学ばなければ,と思いました。4年生で電車ごっこはダメでしょうけど,みんなで体を使ってできる何かを考えたいと思いました。(もっとも問題の子供達は運動も苦手です。)
本文中に暴力への対策としての「スキル的なこと」ではだめだということが書いてありましたが,同感です。このごろこの「スキル的なこと」がとても多い気がします。やってみようかな,と思い取り組むことがあるのですが,どれもその奥に深い考えがあるように思えず,その場その場に対応しての浅い取り組みになってしまうようです。
60年前の30代のお父様のように,深く人間を信じた確かな取り組みを語ることができる教師でありたいと今はずかしながら思っています。
2. Posted by kei   2009年12月05日 19:21
私も勇気をいただきました。
1年生を担任させていただいて、改めて低学年の大切さがわかってきました。
心を豊かにということは、数値では出てこないんですけど、大切にしなくてはならないですね。

toshi先生のお父様の実践に学べるということ。大切なバトンをいただいた気持ちがします。ありがとうございます。
3. Posted by toshi   2009年12月06日 00:04
rusieさん
 もう4年生になると、かなり大変だろうなと思います。幼時段階の子も体は大きくなっていますし、まわりの子も、『あの子はああいう子』という思いで4年間を過ごしていますので、今さら見方を変えるのも困難になっています。
 大変ですが、少しでも良好な友人関係が築けますよう、祈念しています。ご苦労はお察しします。

《問題の子供達は運動も苦手です。》
 そうか。そうですよね。
 この点も、60年前とは異なっているのだと思います。

《このごろこの「スキル的なこと」がとても多い気がします。》
 そうですね。職員研修でも、そういうのがはやっているのではないでしょうか。
 ある程度育っている子には、よりよく生きるヒントになるでしょうが、あくまでその程度ですよね。
 
4. Posted by toshi   2009年12月06日 00:09
keiさん
 いつもありがとうございます。
《心を豊かにということは、数値では出てこないんですけど、》
 ほんとうにその通りですね。今は何でも数値で表そうとする傾向がありますね。これが教育を軽くしているような気がします。
 数値でなど表さなくても、保護者には、担任がどのようなバトンを持っているか、ちゃんと伝わるものだと、わたしは思います。
5. Posted by YK   2009年12月08日 16:22
暴力と一口に言っても、「粗暴性からくる暴力」と「突発的にキレる暴力」は意味がかなり違うように思います。昔の粗暴性の暴力というのは、「社会が悪い」という感じで、窓ガラスを割ったり、肉体的な暴力もあったんでしょうが、社会に対する被害者意識から来たものが多い気がします。これは「責任を求められる」→「責任を放棄する」という流れがあった。言い換えれば、学校という権力機構とそれに対する反抗という意味があったと思うんです。今は状況が違う。権力機構としての役割を学校は果たしていないし、もしも学校がその役割を果たそうとしたところで、それに対する抵抗がある。大雑把にいえば、PTAと教育委員会なんでしょうが。
6. Posted by YK   2009年12月08日 16:51
現在の暴力は、学校における一部の逸脱者ではなく、おそらく、「普通」の子供が起こしているのだと思います。この普通、というのは、良い意味ではないです。「普通に」主体性のない、責任感のない子供、何よりも、今の風潮に見られるように、自分に対する責任感を失った子供が起こしていると思う。人間的なつながりを求めず、現在の享楽的な生き方を改めようとはしない子供が他人から不快なことを言われて「何で自分だけが」と被害者意識を持って暴力に走らないわけがないです。しかし、これは残念ながら、学校教育の対象ではないと思います。自制の問題ですから。可能性としては、偶発的な出来事によって経験的に学ぶことはできるかもしれないですが、教育課程によって学ぶ質のものではないように思います。
7. Posted by toshi   2009年12月08日 20:30
YKさん
 なるほど。分かるような気がします。
 むかしは反社会的、今は非社会的という感じでしょうか。
 わたしは、小学校低学年のうちに何とかしたいと思うのです。
 記事に書きそこねたのですが、初任者のクラス(小4)でのできごとです。
 授業中に、手に負えない暴れ方をした子がいました。担任が体格が良かったせいもありますが、その子を抱きかかえ、緊急避難的に校長室に連れて行きました。
 最初こそ担任の腕の中で暴れていたのですが、そのうち、相変わらず足はバタバタさせていたものの、担任に抱きつき、すごく甘えた表情でほほずりなどし出したそうです。実にうれしそうだったとのことでした。
 ここからも、甘えられないまま大きくなってしまったということが言えそうです。
 このように、学校で甘えられる機会があればまだいいのですが、学校でも家庭でも、そういう機会のないまま大人になってしまったらと思うと・・・、
 ちょっとぞっとしてしまいます。
8. Posted by YK   2009年12月10日 23:04
toshi先生

お返事ありがとうございます。この問題については、私としては、若干悲観的にならざるを得ないです。万引きで捕まっても、「何て悪いことをしてしまったんだ」ではなく、「運が悪かった」と自分を可哀そうがる子供が出てくる時代ですからね。ただ、先生のおっしゃることを読むと、難しいながらも、そうだな、と考えます。キレる子というのは、ある程度は、一定割合でいるかもしれないですね。小学校低学年の内に、つまり、暴力にしても、そこまで痛くない段階だったら、先生も対処できるかもしれないです。反省の機会を得たとも言えるわけですから。しかし、これが中学校、高校となると、少し手に負えなくなってくる気もします。衝突した時点で、大怪我をしてしまうようなケースもあるかもしれないですね。小さいうちに、甘えや不満をぶつけることで、暴力の限度というか、自制が効くようになるというケースもあるのかなと思いました。
9. Posted by toshi   2009年12月11日 00:33
YKさん
 おっしゃるとおりと思います。ほんとうに大きくなればなるほど、大変なのですよね。それだけ、長い年月経過してしまっているからでしょうね。
 中学生ともなると、わたしが、『〜しているのを見た。』と言っても、『〜していない。』と言い張る子もでてきます。
 『低学年のうちが大事。』という、全教員共通のとらえをもって、みんなでがんばっていきたいものだと思います。
10. Posted by T.K   2009年12月15日 21:45
5 はじめまして,先日ネット検索をしていたところ,先生のブログに出会いました。
すごく考えさせられ,勉強をさせていただきました。ありがとうございます。

私は現在,某教職大学院に通っています。
先日小学校で教育実習(高学年担当)をさせていただいたところ,現代の教育の問題である『子どもたちの荒れ』に直面しました。
低学年の頃十分にしつけられ,学校の規則や制約に縛られて育ってきたために,学年が上がるにつれ徐々に反抗してしまうのかなと感じました。子どもたちにとって,意味が見出せずに,『荒れる』という形をとってしまうように思いました。
また,子どもたちが『甘え』や『キレる』ことに対して,その背景や思いを受け止めながら,接していかなければならないと思いました。

経験不足ながら,失礼なコメントを書いてしまい,申し訳ございません。
これからも先生のブログを楽しみにしていきます。
11. Posted by toshi   2009年12月16日 06:27
T.Kさん
 お越しいただきありがとうございます。失礼などということはありません。これからも、どうぞ、よろしくお願いします。
《低学年の頃十分にしつけられ,学校の規則や制約に縛られて育ってきたために,学年が上がるにつれ徐々に反抗してしまうのかなと感じました。》
 おっしゃる通りと思います。正しい意味のしつけは大事だし必要なのですが、今は、しつけ過ぎと放任とが、二極分化した形であるように思います。
《子どもたちが『甘え』や『キレる』ことに対して,その背景や思いを受け止めながら,接していかなければならないと思いました。》
 そうですね。《その背景や思いを受け止めながら》が、大事です。学校としても、子どものよい面も指摘しながら、『でも、ここはがんばろうね。』といった気配りや、教員の言うことを首尾一貫させることなどが大切なように思います。
 
 
12. Posted by しょう   2010年01月05日 18:16
5 こんにちは

>亡父の実践をみると、(…)そういう実態だからこそ、学校が何とかがんばって、集団行動のとれる、規律ある生活態度を身につけてほしいと努力する姿がみられる。

>(5)生活指導の立場から
>ロ、(…)そこでこの運動場せましと駆け回っている野性的な子の活動意欲をそのままにし、おさえないようにして、これをしだいに集団的な学習生活の態勢へとうまく引き入れて、粗暴性だけを取り除いていく方法をとりたいと思案した。

 当時、実践と研究の積み上げがどうだったのかわかりかねますが、お父さんの考察と実践は「背骨がしっかりしている」と感じます。

 子どもたちの活動意欲や「要求」を大切にしながら「生活そのものを通して学んでいく機会」を創っていくという発想はその後の「生活指導運動」として発展していくわけですが、すでにしっかりとした考察がなされているのは「実践的な直感」によるものでしょうか。

>現代においても、60年前に学ぼうではないか。

 お父さんに実践も含めて戦後の教育運動・実践に学べることはたくさんありますよね。「暴力」の原因探しだけでは先に進むことはできません。

 応援して戻ります。  
13. Posted by toshi   2010年01月06日 10:03
しょうさん

 あけましておめでとうございます。

 当時の亡父の学校の実践について、本気に学ぼうと思ったのは、亡父がボケだしたなと思ったころでした。遅いですよね。もっと以前から学ぶ姿勢をもっておけばよかったなと、悔やんでも仕方ないのですけれど、痛切に思っています。
 また、数年前、ある国大の学生から、卒業論文に亡父の実践を資料として使わせていただきたいという要望があり、その後、その方との親交を深めることができたのも、亡父の実践からの学びを深めることにつながりました。
 亡父の実践については、『温故知新』と題し、シリーズにしたことがあります。よろしければご覧ください。もうすでにお読みでしたらごめんなさい。
http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/889281.html

 話は変わりますが、しょうさんのブログの、『市場原理主義と社会主義』及び、『国家と文明』シリーズを拝読しています。わたしも未来社会について関心があるものですから、興味深いです。ただ、なかなかコメントを入れられなくてごめんなさい。そのうち、思いがまとまったら入れさせていただこうと思っています。

 本年もよろしくお願いします。

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