2009年12月22日

障がいの理解(4)3

56537d6a.JPG ああ。もう、かなりむかしになってしまった。

 本シリーズを掲載させていただいたのは、拙ブログを開設して数ヵ月後、もう、3年半も前のことになる。

 そのころは、本シリーズとともに、障害者への差別の問題についても、やはり、シリーズとしてとり上げさせていただいた。

 双方を通じて、確かに言えたこと。

 それは、ブログを運営させていただいているわたし自身が、障害、及び、障害者の理解について、一番学ばせていただいたのではなかったかということだ。双方に、障害のあるお子さんをお持ちの保護者の方から、たくさんのコメントをいただいた。

 世間の無理解、無知、偏見などに対し、理解を求める気持ちやあきらめの気持ちなど、そうした思いをせきららにつづってくださっていた。それらを通し、交流教育の必要性を強く感じたものだった。

 また、明るい未来を予感させる記事も書かせていただいた。それは、子どもをも巻き込み、地域社会において、自然体の交流ができている事例だった。下記リンク先冒頭に記している。

    差別のない社会へ


 ところで、3年半ぶりに、なぜ、このシリーズをとり上げたかというと、先日、ある視覚障害者のための施設に勤務されているAさんから、メールをいただいたのである。 

 ここには、『障害者への差別』という文字があった。しかも、それは、ある公教育における障害者理解のための取組が、教員の理解の仕方によっては、逆に、障害者差別を招きかねないのではないかというご指摘だった。

 大変重要なご指摘と思われたので、Aさんには、拙ブログに掲載させていただくとともに、共に考え合うことができたらとお願いした。幸い、許可をいただくことができたので、とり上げさせていただく。

 よろしくお願いします。

 
 
 それでは、さっそくメールを掲載させていただこう。




 (公立小学校の)子どもたちに視覚障害について授業を行うということで、どうしたら良いでしょうかとの教員の声に対し、当初(教員のたてた)案は、正直、正しく理解をするには無理だろうという内容でした。

 そこで、子どもたちに、視覚障害者がカレーライスを作るためにどんな不便があるか考え、発表し、次にその不便をいかに解決するか考え発表する。

 その内容について、私どもがフォローという授業を提案しました。

 結果、先生が驚くほどさまざまな考え・意見が出され当初想定していた時間が押してしまいました。

 私どもの子どもたちに対するフォローの時間は極短くなってしまいましたが、最低限のことは伝えたつもりです。


 その後、こんな話があったそうです。(どこかの学校の校長からの声だそうです。研究授業?か何かで多数の教職員が後ろにいました。)

 『子どもたちに「不便」を考えさせるのではなく、一生懸命に生きて輝いている障害者について理解をさせることが大切じゃないか。』と。

 同日、こんな声もありました。また、別な校長の声です。「障害者の方と話をして、『自分は不便を感じたことはない。』と言っていた。そのことは今までの考えが間違っていたということを気づかせてくれた。」と。


 職場に戻り、障害者のある職員にこのことを話しました。

 その答えは次のようでした。

「障害者・健常者も関係なく、人それぞれ。障害内容も人それぞれ。視覚障害者と一言で言っても、全く見えない人もいれば、少し見える人もいる。生まれながらの人もいれば、中途の人もいる。不便も人それぞれ。不便があるから、それをフォローする用具や機器があるんでしょう。人の手助けが必要なんでしょう。

 それを一人の声で不便はないと言ってしまうことは、とっても問題だよ。そして、輝いている障害者を理解させるということが、その輝いている一部や瞬間を切り取って伝えるということならば、障害者にはそのことが差別につながることなんだ。」

ということでした。



 いただいたメールは以上だ。

 わたしは、このメールを拝読して、言うに言われぬ複雑な思いになった。


 わたしは、今、Aさんからいただいたメールを読んでいる。

 だから、『障害の不便さを学ばせることは大切なことだ。』という認識になるのはたやすい。

 しかし、何の予備知識もなく、いきなり、メールにあるような、ある校長の話を聞かされたら、『子どもたちに「不便」を考えさせるのではなく、一生懸命に生きて輝いている障害者について理解をさせる。』という話に、簡単に同意してしまうかもしれない。

 そういうこわさだった。

 
 ああ。つい先日も、記事に書かせていただいたのだった。あの講演をされた元養護学校長は、『無知は偏見を生み、偏見は差別を生む。』とおっしゃった。


 わたしは、あらためて、自戒する思いだ。

 何が無知か。何が偏見となるか。『差別はしていない。』という心の中に、実は差別意識が巣くっている。



 それでは、メールから学んだことを書かせていただく。


〇このメールの冒頭部分の教員は、問題なかったのではないか。

 それは、とり上げ方が子どもにはむずかしすぎるという問題はあったようだが、Aさんたちと検討を重ね、いい実践となったようだ。

〇次の、ある校長の、『子どもたちに「不便」を考えさせるのではなく、一生懸命に生きて輝いている障害者について理解をさせることが大切じゃないか。』という発言についてだが、

 これは、上記のように、いい加減に聞いていたら、思わず同意してしまうかもしれない。心して聞かなければいけないと思わせた発言だ。

 この校長の発言の意図は分からないので、推測するしかないが、

 障害、あるいは、障害者の理解とか、交流の大切さというよりも、一般的な道徳教育と混同してしまっているのではないだろうか。

 確かに、障害があるとかないとかとは関係なく、すばらしい生き方をしている人はいる。その人々の生き方から、わたしたちが学ぶべきことはたくさんあるはずだ。
 
 でも、それで、障害者の理解がなったとするなら、それはやはり違うよね。Aさんからのメールにもあるように、障害があるとかないとかとは関係なく、いろいろな生き方をしている人がいるのは当然だもの。

 一面的な見方しかしていないと言えそうだ。

〇さらに、別な校長の、「障害者の方と話をして、『自分は不便を感じたことはない。』と言っていた。そのことは今までの考えが間違っていたということを気づかせてくれた。」

 これはもう、いかに鈍感なわたしでも、『おかしい。』と気づくことのできる発言だ。

・かつて、乙武さんがヘレンケラーの言葉を紹介していたよね。

「障害は不便ではあるが、不幸ではない。」

・やはり不便なのだ。そして、そこにこそ、障害者理解へのスタートがあるのではないか。

 障害のない者が、障害の不便さを知ることによって、ともに生きながら、それをいかに軽減したりなくしたりしていけるかを考えることが大事なのではないか。

・そして、そのあとで、『不便ではない。』とか、『不幸ではない。』とか言える人々の姿から、その生き方を学ぶというのなら、それはまったく正当であろう。

・それに、『不便ではない。』とか、『不幸ではない。』とか言っても、それは、そうした障害者の生き方ということもあるけれど、それとは別に、『共生の考え方がうまく機能している社会背景があってこそ、』という側面もあるだろう。
 
・さらに、障害者の職員の方がおっしゃるように、

 一人の方が、『自分は障害を不便と思ったことはない。』と言ったからといって、『障害は不便と思っていたのは間違いだった。』などと言うのは、あまりにも一面的な見方ではないか。多様性を認めていない。そこに、この感じ方の一番問題な点がありそうだ。

 これは、無知ということを越え、科学的な見方の欠如をも思わせる。


 以上、公教育に携わるものの責任として、少なくとも、自分の見方、感じ方が、差別する心を生み出してしまうことのないよう、研鑽に励んでいかなくてはいけないと実感させていただいた。



 ここで、思い出したことがある。今、2つの過去記事にふれさせていただきたい。


前々記事に書かせていただいた、元養護学校長の講演に、次のような言葉があった。今、再掲させていただく。


 ある日、B小学校の1年生の朝の会におじゃまし、
「養護学校の子とどこが違うの。」
と聞きました。
「違うところは、話ができない。かけっこもできない。・・・。」
違うところがいっぱい出てきました。

 それでね。次は、こう聞きました。
「同じところはない。」
すると、
「がんばるゾウという心は同じです。」
と答えてくれました。それを聞いてね。すごくうれしかった。そこにいるみんなが拍手しました。

 

 そう。違うところと同じところ。

 それを子どものうちからしっかり考えることができるということ。それが大切なのではないか。
 そして、このことは、障害者の理解にとどまらず、広く、他者理解の大切さの気づきへと、発展深化していくと思われる。
 

〇もう一つは、個別(特別)支援教育の授業実践である。

 これも、ある部分だけ再掲させていただく。

・一つは、冒頭に書かせていただいた、『ふつう級と個別(特別)支援学級とでは、自ずと学習内容は異なる。しかし、具体物を用意し、操作活動を伴いながら学習していくことの大切さは、どちらも共通しているわけだ。』

 ここからは、ふつう級と個別支援学級とで、指導法や学習内容などに、やはり、同じ点と違う点があるということがうかがえる。

・もう一つは、

 『個別支援学級において、Cちゃんがやった操作活動。これは、仮にCちゃんがふつう級に在籍したとしても、ちゃんと価値ある学習ができそうなのである。

 つまり、5×6をやっているのだが、Cちゃんがやった、『まずは、4列あることを確認し、それに、あと2列をつけ足した。』ということをふつう級の子が見た場合、

「あら。4列並べてやめちゃったよ。Cちゃん、5×4じゃないよ。5×6だよ。まだ、2列たりないよ。」
「ああ。よかった。2列ちゃんと付け足した。」
「そうか。4列並べたところで、確かめたのだね。6列並んでいるかどうか。」
「それで、まだ、2列たりないから、つけたしだのだ。」
「ああ。よかった。Cちゃん。合っているよ。」
「Cちゃん。すごいね。おはじきを並べ過ぎたら戻さなければならないし、それでは、時間がかかっちゃうから、確かめながらやったのだね。」

というように思考をめぐらせるだろうし、

 その結果、5×4と5×2をやるということは、それを合わせると、5×6をやることになるという、
 つまり、『5×4+5×2=5×6』をストンと胸に落ちるかたちで、学び取ることができるのだ。』

 再掲は以上だ。


 ここからは、共生の姿として、

 『障害のない者が、障害のある者の不便さをいかに軽減したりなくしたりしていくか。』ということを学ぶということだけでなく、『障害のない者が、障害のある者から、いかに大切なことを学んでいるか。』という学習もあることを示している。 



 わたしには確信がある。

・こうして小さいうちから交流が行われていれば、そして、そこに指導者の適切な指導や配慮があれば、この子らが大人になったときは、障害のある人もない人も、無知なるがゆえの先入観も、こだわりもなく、自然体で接することができるようになるであろう。

・もちろん、他者理解に、『これでいい。すべて理解できるようになった。』ということはありえない。これはもう、不断の努力、研鑽が必要である。そうしたことも学んでいくに違いない。


にほんブログ村 教育ブログへ
 ninki



 Aさんからのメールには、記事のこととは別に、次のようなことも書かれていました。


 我が職場では、福祉教室を積極的に開催を行い、特に小学校から人権教育や総合的学習の時間でお声掛けいただくことが多くなっています。

 学校の雰囲気や教職員の子どもたちに対する態度で、困惑することも多々あります。

 軍隊のように整列をちょっとでも乱すと強烈に叱る(怒る)子どもが委縮しているクラスがあるかと思うと、まったく注意せずこちらの話を聞くどころではないクラス、先生がいなくなってしまうマル投げクラスなど・・・


 メールの引用は以上です。


 こういう実態があるということ、教育現場に身をおくものとして、痛いほどよく分かります。

 交流、人権教育をおし進めながら、その学習以前の問題として、交流、人権の心をないがしろにしている実態があるということ、公教育に携わるものとして、まず、自分の身のまわりから点検し、注意し合い、直していかなければいけないなと痛感しました。

 Aさん。ほんとうにありがとうございました。 

rve83253 at 08:49│Comments(3)TrackBack(0)人権教育 | 自己啓発

トラックバックURL

この記事へのコメント

1. Posted by きゃる   2009年12月23日 08:24
勤務校では「特別支援教育の視点による授業改善」という研究を続けています。
研究紀要や教育論文を作成する際、「障がいのあるなしにかかわらず…」という文言を書いて、はて、このセンテンスはおかしくないか?と迷うことがありました。
それは、「障がいは個性」というとらえ方から、「個性」が無い人間なんていないのに、「障がい」が無い人間がいるのか?ということです。
「障がい」という、福祉という観点からどうしても線引きをしなければいけないときに使う言葉を、視覚障がいだろうが発達障がいだろうが一括りにすることは、やはり間違っていると…。
それまで、「困り感」「困難さ」「不便さ」「不自由さ」とかマイナスの言葉で「同じところ」「違うところ」を明らかにして、個に応じた支援を進めてきましたが、人間を「同じところ」「違うところ」で分別することは人権上どうなのでしょうか。
アドバイザーとなった大学の先生からは「認知特性」という言葉を教えてくださいました。
まだまだ研究の途中です。いろいろと勉強させてください。
2. Posted by toshi   2009年12月25日 00:07
 きゃるさん

 すべての子どものニーズにこたえるという意味で、「特別支援教育の視点による授業改善」は大事と思います。わたしもこの考えを大切にして実践してきたつもりです。『障害のない人間はいるのか。』というとらえも、素直に受け取ることができます。

 しかし、それとは別に、『障害のあるなしにかかわらず』という見方は、きゃるさんのおっしゃる、まさに、福祉という観点からみたときに、大切な視点と思います。それは線引きとかひとくくりとかとは違います。点字ブロックがあるとき、どうしたってそれを必要とする人がいるのだという視点です。また、そこに手助けを必要としている人がいるとき、助ける人もいるのは当然という視点です。

 もう一つの、『同じところ、違うところ』についても、別に分別しているわけではありません。
 養護学校の子どもと小学校の子どもが交流しているとき、ともすれば、違いばかりに目がいってしまうでしょう。目に見えやすいからです。
 しかし、『がんばるゾウという心は同じです。』ととらえることができたとき、相互理解はさらに進んだと言えるのではないでしょうか。それは『心』という、目に見えない部分への気づきだからです。
 
3. Posted by toshi   2009年12月25日 00:08
 違いを大切にしなければいけないときと、同じという部分を大切にしなければいけないときとがあるということではないでしょうか。
 それをはき違えると、たとえば、『障害のある人はかわいそう』という思いにとどまってしまったり、たった一人の言う事で、『障害は不便でないことが分かった。』などという理解になってしまったりして、それがけっきょく差別意識につながってしまうのだと思います。

コメントする

名前
URL
 
  絵文字