2009年12月25日

真に道徳的心情を養うには、3

0401b2cd.JPG 先日、ある学校で、道徳の授業を見せていただいた。


 授業そのものは、整然としていた。

 子どもたちはいきいきしていたし、担任の発問によく手を上げ答えていた。意欲的な子どもたちだった。楽しそうに学ぶ様子がうかがえた。

 板書も分かりやすく、よく整理されていた。関係するものを線で結んだり、色チョークを使ったりしていた。また、とり上げたお話に登場する人物のイラストが貼られ、吹き出し風に文字が書かれるなどの工夫も見られた。

 参観している教員からは、『いい授業だ。』と評価する声もあった。



 しかし、待てよ。何か変だ。


〇担任の発問は、あらかじめ決まっているのだろう。こう問いかけ、その次はこうと。

 子どもの発言も聞きっぱなしという感じ。担任がいい答えと思うものについてはほめているけれど、それが深まるとか、前の誰かの発言と関係づくとか、そういう営みはみられない。

 だから、お話に登場する人物Aの行動、思いについての発言がほぼ出尽くすと、次は、Bの行動、思いについて発問するといった感じで、授業の流れは、プツンプツンと切れていた。

〇子どもの発言も、『カンタン、カンタン。』と言わんばかり。ただ、担任の発問に答えるだけ。それも、言葉は短い。

 たとえば、Aがどうしてそのように思ったかを問うと、

「言ったらかわいそうだから。」
「手紙を久しぶりにもらってうれしかったから。」
「言ったら、友達が気にしてしまうと思ったから。」
「大事な友達をなくしたくないから。」

 次、それと反対の行動を主張する登場人物Bについては、

「言わないと、また繰り返してしまうから。」
「他の人にも、やってしまうかもしれないから。」
「分かったとき、何で言ってくれなかったのと言われてしまうかもしれないから。」
「友達をなくしても、正しいことは言うべきだ。」

 子どもたちは淡々と答えているだけで、双方のあいだに価値の葛藤を感じている様子はなかった。

〇そうして、『(主人公の)Cさんはどうすればよかったのでしょう。』という発問に移ってしまった。

 これも、一斉に、『Bさんが言うようにすればいい。』という意見が相次ぎ、それでまとまってしまった。

〇わたしは、その授業をみて思った。

 みんな、『正義感が大切。』と言わんばかりだけれど、ほんとうに心からそう思っているの。もっと言わせてもらえれば、そうした行動がとれるの。

 子どもたちに、そう問いかけたくなった。

〇傑作だったのは、『どちらにも賛成。』と答えていた子が、2人いたことだ。まったく反対のことを主張するAとBなのに、どちらにも賛成ということはどういうことなのだろう。

 しかし、担任はこの発言を無視してしまったから、この2人の心のうちは分からない。



 授業の様子は以上だ。


 わたしからみれば、きれいごとで済んでしまい、これでは、とても、子どもの道徳的心情が養われたようには思えなかった。


 わたしの思いは、

・『正しい行動を』とか、『人に親切であれ。』とか、『規律ある生活態度を、』とか、そういうことの大切さを、子どもたちはよく分かっている。だから、ただ発言するだけだったら、カンタンなことだ。

 それどころか、こうした授業をしていると、『人には親切にしなければいけない。』と立派な発言をする子が、その舌の根もかわかぬうちに、休み時間など、友達にいじわるしたり、いじめて泣かしたりしている状況がある。


 
 授業後、ある友人Dさんと話した。

 Dさんは言う。

「指導者の意図通り、スムースに進んだ授業だったわね。それだけに、底の浅い授業になっちゃったわね。あれで、道徳的心情が養われたと言えるのかしら。

 特に、一人の子が、『言いにくいことだけれどちゃんと言うべきだ。』と『仲良しの友達なのだから、言わない方がいい。』のどちらにも賛成と言っていたのは、理解に苦しむわ。先生も、それについてとり上げなかったしね。」

「確かにそうだね。わたしもびっくりしたよ。でも、あれが、葛藤のあらわれだったら、わたしは評価したい。あの子は、言い方が分からなかっただけかもしれない。」

「それ、どういうこと?」

「うん。確かに、『どちらにも賛成』って言ったのだけれど、ほんとうに言いたかったのは、『ううん。よく分からない。Eさんが言ったことも分かるし、Fさんが言ったことも分かる。だから、ぼくは悩んじゃう。』ということだったかもしれない。」

「なるほど。そうした複雑な心を言い表すことが、あの授業ではできないというわけね。」

「そうだね。あの授業では、Aさんの気持ちを考えているときはAさん、そして、Bさんの気持ちを考えているときはBさんというわけで、思考が分断されてしまっているから、子どもは葛藤する必要がない。

 それなのに、最後は、見事に、『言いにくいことだけれどちゃんと言うべき。』という結論で終わったね。担任の言わせたいことが、子どもに見え見えだったからではないかな。」

「そうでしたね。無難ではあるけれど、子どもたちはあれで納得したのかな。」

「納得したとは思えないね。いや。いつもあのような授業を受けているから、納得したとか、しないとか、そんな思いにすらなっていないと思う。」



 そう。ここは、やはり、子どもの本音、価値葛藤、悩みなど、そうしたもやもやがふんだんに出てくる授業をしたいものだ。

 たとえば、

「正しいことは、やっぱり言うべきだ。でも、なかなか言えない。親友であればあるほど、言いにくい。」

などという意見が出れば、いいのだが。

 正義を貫くことと友情とは、ともに並び立たないことがあるというわけだ。『孝ならんと欲すれば、忠ならず』という有名な言葉があるけれど、こういうことは、実生活において、いくらも起こりうる。

 また、正直必ずしも美徳とは限らないし、うそも美徳となりうる。

 そういうことを真剣に考え合う授業でないと、空疎なのだ。



 ここで、一つの過去記事を紹介させていただこう。

 ちょっと長いし、わたしのやった授業を紹介させていただくので、自画自賛、我田引水のようになってしまうが、上記授業との違いを申し上げ、何が大切かを申し上げたいので、ぜひご覧いただきたい。

    正直に言ったら、すっきりしたよ。(道徳の授業)


 それでは、道徳の授業を行うにあたって、わたしが特に留意したことを申し上げよう。

〇日ごろから、子どもの言動をじっくりみとる必要がある。授業でとり上げる道徳的価値について、子どもたちに何もよさがないなどということはないのだから、そのよさをほめる材料として生かすようにする。

〇指導者の側から、子どもの発言内容を限定してしまうような発問は、極力控える。子どもたちに対しては、何を言ってもいいという態度を貫く。その代わり、本時おさえたい価値に限定できず、価値が拡散してしまう恐れもあるので、その点は、指導者が、整理してかかる必要がある。

〇子どもの自由な発言を大事にするということは、本音を大切にすることでもある。ただし、人権的な意味からも、無理はさせない。言いたくないことは言わなくていい自由も認める。

〇子ども同士で価値の葛藤が生まれれば理想的だが、出ない場合は、指導者側から、わざと反対の価値をぶつけるようにする。またきれいごとばかりになりそうなら、本音をぶつけるようにする。リンク先の授業では、『Dさんがいけない。』という子どもの思いに対して、『そんなにいけないとばかりも言えないのではないか。』とぶつけている。

〇同授業で、子どもたちは、それぞれ、自分の家庭のことを思い浮かべ発言している。これは自分ごととしてとらえているからだろう。だから、とてもではないが、きれいごとで済ますわけにはいかない気持ちになっている。

〇自分のつらかった思いを、勇気をふりしぼって吐露するBちゃん。このときは、泣き顔になっていた。顔を真っ赤にして言ったとも思う。

〇上記の、子どもをほめたくなる言動についてだが、

 何をどのようにほめるか。そこに、おさえたい道徳的価値が含まれる。そして、子どもたちが主体的に授業に臨むなかで、その道徳的価値を身につけることができるようになると思われる。


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 きれいごとで済ませない授業、本音の出る授業、それは、子どもたちにとっては、何でも自由に言える授業、何を言っても、担任や友達がそれを大事にしてくれる(反論も含めて)授業ということだと思います。

 そして、真剣な話し合いの中で、自分の思い、考えをさらけ出すからこそ、道徳的価値が自分のものになっていくのではないでしょうか。

 逆に、建前ばかり、きれいごとで済む授業は、どうしても子どもの発言に軽さを感じてしまいます。


rve83253 at 16:20│Comments(7)TrackBack(0)道徳指導 | 教育観

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この記事へのコメント

1. Posted by まい   2009年12月26日 06:11
こんにちは。>きれいごとで済ませない授業、本音の出る授業、それは、子どもたちにとっては、何でも自由に言える授業、何を言っても、担任や友達がそれを大事にしてくれる(反論も含めて)授業ということだと思います。

おっしゃる通りだろうなあと思います。子どもの学校では、それが日々繰り返されるミーティングに当たるのでしょう。授業中でも何か決めるときにはミーティングの連続です。(宣伝ではありませんが(笑))本当に何を言っても受け止めてもらえる雰囲気のようです。

例えば、作業(私が見たのはキムチ作り)の時に誰とグループを組むかという場面で、低学年の子が「Aくんとは一緒にしたくない」と発言しました。大人としては「えっ?」と思う発言ですが、話をよく聞いてみると仲が悪いのではなく反対に、「仲良しなので一緒に作業するとふざけてしまって集中できないから」という気持ちだったようです。

その希望はみんなに聞き入れられて、Aくんとは別のグループになりました。Aくんも特に気にしたり傷ついたりしている様子もありませんでした。
2. Posted by まい   2009年12月26日 06:22
(続きです)その件を除くとグループわけは本当にスムーズでした。1年生のうちの子はまだ恥ずかしい気持ちが先に立つようで、ほとんど自分からは動かないのですが、さりげなく6年生が「Bちゃん入る?」と誘ってくれて6年生2人、3年生の転入生、1年生のうちの子のグループができました。他のグループを見ても本当に上手に大きな子と小さな子が混ざっていて、年齢や仲良し度でまとまった様子はありませんでした。たぶん、普段からの経験で、そういうふうにわかれた方がみんながうまく活動でき、グループとして仕事が上手にできるということを実感しているのだと思います。

私自身の子ども時代は(もうずいぶん昔になりますが)道徳の教科書を読み物をして楽しんでいました。記憶に残る限り先生も誘導したり押しつけたりすることはなく(少なく)、それなりに楽しんでいました。

でも子どもの授業を見て話を聞いてみると、やはり机上の道徳よりも、日常の場面で実際に起こることをテーマとする話し合いの方がずっと自分も他人も尊重するという気持ちが自然に身につくように思います。
3. Posted by まい   2009年12月26日 06:31
(長文で失礼します)
ちなみに、ミーティングのテーマは本当に何でもありです。午後にはおやつが出るのですが、クラス(プロジェクト)で作った梅ジャムをパンに塗っていいかどうかが話題になりました。梅ジャムはクラス全員のものですので。OKということになり、では塗りたい人は誰か?後片付けはどうするか?など子どもたち主体でドンドン話し合っていました。

子どもに聞いた話ですが、冷房のない夏には「基礎学習(ことばとかず)」の時に床(机よりも多少涼しい)でしたい?という意見が出て、部屋が広くないので場所がなくなるなどの意見が出て、どうも結局、床がいい人は床OKになったようです。

これかそ宣伝ではありませんが、子どもの学校では暴力やきつい言葉での言い争いは本当に見聞きしません。ミーティングを通じて自分の気持ちを出して相手の本心も聞いて、「じゃあ、どうすればみんなが気持ちよく、スムーズに活動できるだろうか」ということが常に考えられているからのように思います。

ちなみに、そういうわけで道徳の一斉授業はありません。
4. Posted by toshi   2009年12月26日 17:31
まいさん

 まず、最近の読者の皆さんのために、まいさんがおっしゃる学校を紹介させてくださいね。

http://www.kinokuni.ac.jp/nc/html/htdocs/index.php

 まず一番いいたいことは、道徳の授業のあるなしが大事ではないということですね。あるにしてもないにしても、大事なのは、
 どれだけ子どもの思い、考えが大事にされているか。生きる主体、学ぶ主体としての子どもが尊重されていれば、道徳性は自然に身につくということだと思います。

 子どもは柔軟です。環境によって、どうにでもなります。それだけに、こわさを感じます。

《低学年の子が「Aくんとは一緒にしたくない」と発言しました。》
 こういうのって、大人が試されているような感じがします。子どもの内面て、言葉だけでは分からないものです。子どもの思いを大切にすることに加えて、日ごろからコミュニケーションを活発にしていないと、すれちがいで終わってしまいそうです。

 
5. Posted by toshi   2009年12月26日 17:32
 問題解決学習のあり方にもかかわるのですが、人間社会の事象について、生きる主体者を大事にすることをのぞけば、『これが唯一ぜったい正しい。』ということはありません。ですから、そういうおさえ方をしている授業をみると、やはり疑問をいだいてしまいます。

 なお、公立校は、道徳の授業をやらないわけにはいきませんので、少し、その有用性についてふれさせてくださいね。

 学習指導要領のうけうりですが、また、ちょっと文章を縮めてしまいますが、
 《道徳教育は学校の全教育活動を通じて行うのであるが、道徳の時間においては,それらと密接な関連を図りながら,計画的,発展的な指導によって、これを補充,深化,統合し,道徳的価値の自覚及び自己の生き方についての考えを深め,道徳的実践力を育成するものとする。》
となっています。

 やはり、話し合い学習によって、子どもたちが、道徳的価値を深め合ったり、関係づけたりすることを通し、生き方を真剣に見つめる時間は意味もあると思うし、大切にしたいと思います。

 本記事でとり上げた授業をふり返ってみますと、このなかの、『日ごろの学校の全教育活動との関連』というのがまったくなかったように思います。それが、授業そのものを軽く感じた一つの要因かもしれません。

  
6. Posted by kei   2009年12月27日 08:26
授業が目に浮かび、苦しくなってしまいました。教師側の落とし所が決まっているのですね。子どもはそれをよくわかっているから、自由に発表ができない。求められていることをお行儀よく話していく。
空虚だなあと思います。見ている教員も、これがよいと思っていたら悲しすぎます。
 ◇◇◇
本音のかりものでない言葉が通う教室を目指していますが、まず教師の構えが大切なのでしょうね。

真剣な話し合いの中で、自分の心の内をさらけだすとき、子どもたちの言葉はとつとつとします。上手にぺらぺらしゃべりはしない。でもそういう言葉がでてきたとき、教室の雰囲気は一変します。お互いの心をゆする瞬間です。そういう姿を私はいつも求めています。

改めて考える機会をありがとうございました。toshi先生、よいお年を!!

7. Posted by toshi   2009年12月28日 10:39

keiさん
 
《空虚だなあと思います。見ている教員も、これがよいと思っていたら悲しすぎます。》
 日本は、大人でも、こういうことが多過ぎますよね。形だけ整える、やったという実績(?)があればいい。
 それを子どものうちから身につけさせてしまうというわけです。
 でも、日本の大人社会もだんだん変わっていると思います。こういうきれいごと、建前を認めない状況になりつつあるのではないでしょうか。こういう点でも、教員の意識改革が迫られそうですね。
 

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