2009年12月31日

子どもへの愛を!4

97f3120a.JPG 前記事において、

 『基本的に大事なのは、愛ではないか。しかも、それは、相手に伝わる愛でなければならない。』

と書かせていただいた。


 その、肝心な『伝わる愛』についてだが、これがどうして、なかなかのくせもの(?)だ。


 子どもを愛していないなどという教員はいない。どの教員だって、子どものよりよい成長を願い、日々奮闘している。

 それはそうなのだが、現代という時代、特に問題となるのは、教員の愛を、どの子も感じ取っているかどうかだ。もっと言えば、子どもの背後にいる保護者にも伝わっているかどうかだ。

 前記事に書かせていただいたように、むかし流のやり方では、なかなか子どもに伝わらない時代になった。それどころか、よかれと思ってやったことが、受け入れられなかったり、逆に、反発を招いたりしてしまう。


 問題行動の少ない子は、まだ伝わりやすいだろう。それどころか、感謝の気持ちとか素直な態度とか、そういう子どもであれば、変な言い方でまことに申し訳ないが、誰だって愛情を伝えることができる。


 問題なのは、問題行動の多い子に対しても、『伝わる愛』を示すことができるかどうかだ。

 問題行動だけではない。反発しているのは目に見えているのに何を考えているのか分からないとか、しょっちゅう人のあげ足取りをするとかいった、そういう子の場合だと、教員の方も愛を示しにくくなるのではないか。

 わたしのかつての経験でも、こうした子に対し、苦手意識しかもてないことがあった。

 そう。苦手意識だね。

 さらに、白状してしまえば、担任である自分のこだわりがもとで、子どもの問題行動を増やしてしまうこともあったと思う。

 今、心より申し訳なく思う。ごめんなさい。


 こういう子どもに対してこそ愛を示すことができなければいけないのに、まして、現代という時代、それは、切実であるのに、そうすることができないとすれば、混迷はますます深まってしまう。



 今、ここで、2つの話を示させていただこう。そして、うまくいく秘訣・・・、いや、そのようなものはないが、少しでもヒントになればうれしいと思う。



 その1

 いきなり、大変な話題で恐縮してしまうが、

 数年前、イギリス人英会話講師の殺害事件があった。容疑者は早くから特定されていたが、長く逃亡生活を送った末、つい最近、逮捕された。

 その数日後である。あるテレビ番組での、評論家の言葉に感動してしまった。

「こういう事件が起きると、容疑者を極悪人のように言う人がいるし、それも無理からぬことと思うのだが、しかし、今回の容疑者の場合、違った面もあることに気づく。

 と言うのは、ふつう、これだけの重罪を犯してしまうと、もう、やぶれかぶれとなり、それ以上犯罪を重ねてもどうということはなくなってしまうものだ。だから、逃げていてお金がなくなれば、てっとりばやい、窃盗とか、万引きとか、ひったくりとか、そういう簡単にお金が手に入る手段を選ぶようになってしまう。そういう例は多い。

 しかし、この容疑者の場合は、一切そういうことをしなかった。それどころか、徹底して人目につかないように気をつかうとともに、まじめにコツコツ働いて、金をつくった。さらには、仕事を覚えようと必死になっていたようだ。

 この二つに、どうしてもギャップを感じてしまう。根はすごくまじめな性格なのではないか。

 殺人を犯したのだから重罪には違いないが、

 なぜこういうことを言うかというと、

 これはおそらく裁判員制度によって裁かれることになると思う。

 市民の判断もとり入れて、量刑を決める時代になった。そうであれば、法によればこうこうということだけではなく、個々の犯罪の様相をじっくり見つめ、それこそ、市民の感覚を生かした刑を科すことが大事なのではないか。

 その際、裁判員の方には、こうした見方も大切にしていただきたいと思う。」


 『そうだ。その通りだ。』と思った。

 とかく、罪の部分ばかり見つめ・・・、この場合は、長期逃亡も量刑を決める際、重視されるだろう。しかし、長期逃亡の事実だけに目を向けるのではなく、その内実にまで考慮することができたら、


 いや。いや。この場合は犯罪だ。しかも、重罪。そんなこと、考慮に入れる必要はない。そういう裁判員がいたっていいと思う。


 わたしが感動したのは、そういうことではない。


 そうか。これは、子どもが問題行動を起こしたとき、『その行動のみを問題とするのでなく、その背後に見えかくれする、子どもの内面にまで眼を向けて、指導しなければいけないよ。』と言っているのと、まったく同じではないか。

 その見方を、『このような重大犯罪でも適用しなさい。』と言っているのだ。

 そういう驚きと、感動だった。それなら、その評論家から、

 『学級経営にあたるのなら、もっともっと、こういう見方を大切にしなさい。
 だって、あなたがたは、教育に当たっているのでしょう。よりよい子どもの成長を願っているのでしょう。』

 そう言われているような感じがした。


 わたしたちは、学級経営にあたり、子どものすばらしい成長をまのあたりにし、感動することも多いが、同時に、子どもの問題行動やトラブルも多々あり、日夜その指導にもあたっている。

 そのようなとき、わたしたちは、この評論家の言うように、『問題行動やトラブルのなかにも、子ども本来がもつよさとか、善意とか、思いやりとか、そういうものはあるのだ。』という信念のもとに、子どもの指導にあたらなければいけない。

 そのようなことを思った。


 冒頭、『問題行動の多い子どもにこそ愛を示さなければならないのに、〜。』と書かせていただいた。

 そうなのだ。問題行動の多い子どもでも感じ取ることのできる教員の愛。それは、まさに、こうした見方ができるかどうかにもあるのではないか。


 
その2

 自分の書いた記事だが、一つ、いまだに気になっていることがある。

 それは、『子どもの暴力多発をどうみるか。』の記事だ。同記事の末尾近く。『一つ。雑ぱくな記述で申し訳ないが、提案させていただこう。』から始まる部分である。

 わたしは、この記事の中で、

 1年生の教室で、担任が、一人の子を、『あかちゃん。』と言って指導している場面を紹介した。



 いかがだろうか。

 こういう指導について、違和感をもたれた方もいらっしゃるのではないか。

 それが気になっている。


 こう言われかねない。

・子どもにレッテルを貼るのか。
・いくらなんでも、1年生に向かって赤ちゃんと言うのはひどいのではないか。クラスの子たちは、赤ちゃんと言われた子をバカにしないか。
・人権上、問題ではないか。

など、さまざまな思いがあるかもしれない。


 しかし、ここで申し開きさせていただこう。


 記事からも感じていただけると思うが、決してそのような意味ではなかった。

・相手が1年生ということを考えた場合、この言い方は、ことの本質を共通理解する上では、一番分かりやすかったと言える。

・分かりやすかったからこそ、あとの保護者の声にもあるように、『Aちゃんがこのクラスにいてくれたおかげで、クラスのみんなにやさしさが生まれた。』という理解をいただくことができた。

・その結果として、クラスの子の思いやりやさしさに包まれ、Aちゃん自身も成長することができた。Aちゃんの保護者も、担任に感謝の言葉を伝えてくれた。


 実は、わたし、先日の『障がいの理解(4)』の記事にいただいたきゃるさんのコメントに対する返事(1〜3番)を打たせてもらっていたとき、この、『あかちゃん』なる記事がものすごく念頭にあった。

 問題は、『赤ちゃん』と言ったか言わないかにあるのではない。その言葉にこめられた思いが、子どもたちに正しく伝わったかどうかにあるのではないか。

 伝わらなければ、これは差別につながりかねない。

 伝われば、心温まる学級経営につながる。


 もしかしたら、これは、担任にとって勝負(?)をかけた言葉だったかもしれない。子ども、もっと言えば保護者との信頼関係があったればこそ、そして、そこに自信があったからこそ、言わせた言葉ではなかったか。

 もう、10年以上も前のことだけれど、あらためて、この担任のすごさに、敬意と感謝の意を表したくなった。

 『伝わる愛』。それは大事である。


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 上記、2つは、ちょっとすごいことを書いてしまいましたが、

 日々の日常茶飯事の、『伝わる愛』については、

 いい意味の楽天主義が必要ではないかと思います。いい意味の開き直りと言ってもいいでしょうか。あまりなんでもかんでも自分の責任とは思わないことです。

 失敗はつきもの。そして、問題行動はなくならなくても、減少すれば、それを我が喜びとする心境。

 そう。なくなってはいなくても、喜びとする。

 
 わたしは、初任のころ、ほんの数人ではありますが、学級内に苦手な子をつくってしまっていました。修業時代直前には、それが急激にふえてしまったと言えそうです。

 しかし、やがて、修業時代を経て、そのようなことがなくなると、『ああ。かつての自分は、〇〇ちゃんのようなタイプの子とは、うまくいかなかったのだよな。それが今は、実にうまくいっている。うれしいなあ。』と思うようになりました。


 ああ。2009年も、もうすぐ終わろうとしています。

 今年、1年、ご愛読賜り、厚く感謝申し上げます。

 来年が、皆様にとり、よい年でありますように。

 そして、拙ブログも、これまでにもまして、よろしくお願い申し上げます。 

rve83253 at 15:20│Comments(4)TrackBack(0)学級経営 | 人権教育

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この記事へのコメント

1. Posted by しょう   2009年12月31日 20:48
5  こんばんは
 コメント欄ではお久しぶりです。

>(・・・)わたしたちは、この評論家の言うように、『問題行動やトラブルのなかにも、子ども本来がもつよさとか、善意とか、思いやりとか、そういうものはあるのだ。』という信念のもとに、子どもの指導にあたらなければいけない。

 教員の「精神疾患の多発」という現実に対して「どうすればいいのか」ということは私も考えます。行政機関のできること、現場での職場づくり・職員間のコミュニケーションなど大切なことはいくつもあると思います。

 ただ、上記記事は個人の発信としては現場の教職員(多忙化や様々な困難にゆれる教職員)に対する最高のメッセージだと思います。

 今年はtoshiさんのブログに訪問させていただくようになって色々学ばせていただきました。

 来年もよろしくお願いいたします。
 よいお正月をお迎えください。
2. Posted by toshi   2010年01月01日 00:18
しょうさん
 あけましておめでとうございます。
 しょうさんはじめ、皆々様のご健勝を祈念します。
《今年はtoshiさんのブログに訪問させていただくようになって色々学ばせていただきました。》
 いえ。いえ。わたしこそ、フィンランドの教育、子どもの貧困など、しょうさんのブログから、多くを学ばせていただきました。
 教育改革は、教育行政など、個人ではどうしようもない問題と、教員一人ひとりの双肩にかかっている部分とがあると思います。
 子どもにしてみれば、目の前の学級担任等、教職員しか見えておりませんので、今年も、初任者指導にがんばっていきたと思います。
 本年もどうぞよろしくお願いします。
3. Posted by kei   2010年01月01日 12:50
toshi先生、新年あけましておめでとうございます。

『その行動のみを問題とするのでなく、その背後に見えかくれする、子どもの内面にまで眼を向けて、指導しなければいけないよ。』

内面を見ることなんてできっこないのですが、見ようと心を寄せることができます。そして本人ととことんまで話し合うことはできます。そういうことを大切にしていくことが、「はじめに子どもありき」なのだなと思っています。

教育はやはり「愛」だと思っています。そして見返りを求めるわけではないけど、その愛が相手に伝わるようにしていきたいなって思います。

toshi先生の記事からはいつも、愛をいただいていますよ。今年もよろしくお願いします。
(私、1月10日は箱根の関東集会にいこうと思っているので、お会いできるといいのですが・・・)
4. Posted by toshi   2010年01月02日 11:26
keiさん
 あけましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願いします。

 keiさんのブログを読ませていただくと、子どもたちへの愛がいっぱいだなと、いつも感じています。指導者の愛あればこそ、子どもたちは安心して行動し、驚くばかりの主体性をもって、生きる力を自分のものにしていくのですね。
 感動がたくさんあることでしょう。
 今年もご活躍のほど、祈念しています。

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