2010年01月06日

道徳教育のあるべき姿は!?3

a8e053fa.JPG 前記事に、『反道徳的』と書いて思い出したのだが・・・、

 もう30年くらい前になる。

 当時、我が勤務校は、道徳と社会科で授業研究を進めながら、学級経営の研究をしていた。


 そのときの、ある道徳の講師の指導で、忘れられないことがある。

 指導といっても、道徳の授業そのものの指導を覚えているのではなくて、指導が終わり、雑談となったときの、その雑談が忘れられないのである。

 講師の先生方、ご指導いただいた本筋ではなくて、ごめんなさい。


 そうした先生は、何人かいらした。そして、そのお話は、毎回、毎回、ズシンと心にひびくので、わたしたち教員は、それを楽しみにしていた。心の栄養になったとも言えよう。

 その講師の方々には共通する何かがあった。だが、それは、後に譲らせていただこう。


 ここでは、その、雑談のなかから、一つだけ紹介させていただく。



 それでは、どうぞ。


 ある日曜日、A先生は、当時小学生だったお嬢さんと一緒に、繁華街を歩いていたそうである。

 そこで、募金を呼びかけている人たちと出っくわした。

 A先生は、何くわぬ顔で通り過ぎようとしたが、お嬢さんから呼び止められてしまった。

「お父さん。募金を呼びかけている人がいるよ。」

「うん。そうだね。」

「募金しないの。」

「ああ。・・・。

 ああいう人たちはね。みんな、いい人ばかりではないんだよ。なかには、インチキして自分たちの飲み食いに使ってしまう人もいるのだ。それは見ただけでは分からない。だから、お父さんは募金しないのだよ。」

「ふうん。そうなの。・・・。だけど、お母さんは、いつもこういうとき募金しているよ。」

 A先生は、それがショックだった。

『そうか。妻はしているのか。・・・。知らなかった。』

 そうしたら、次々と、いろいろな思いが重なってきたという。


・自分は学校の先生だし、まして、道徳を専門としているのに、娘にまずいことを言ってしまったか。担任として、自分のクラスの子どもたちに向かってだったら、このようなことは言わないであろう。

・だけれど、妻だって、募金に応じるのは、娘と一緒に歩いているときだけではないのかな。

・娘への教育という意味では、黙って募金した方がよかったかな。募金に応じたところで、たかが10円。仮にその人が自分のために使ってしまったとしても、娘への教育効果を考えれば安いものだ。

・ああ。だめだ。こんなことを考えること自体が、もう、道徳的ではない。


 しばらくのあいだ、そのような葛藤から抜け出せなかったとおっしゃる。また、自己嫌悪にも陥ってしまった。



 その後、その先生がおっしゃったことは、もう、記憶の限りではないけれど、たぶん、このようなことではなかったか。


 人間て、弱いんだよ。そんな立派に生きられるものではない。悪の行為にまではいかなくても、ずるさ、手抜き、そういったものはいくらもある。人間の宿命だ。その弱さを見つめ、葛藤し、悩み、よりよい生き方について考える。道徳ってそういう時間ではないのかな。

 しかし、『いや。人間は強くなければいけない。そのような心の弱さは克服しなければいけない。そのために、道徳教育がある。』そういう人もいるよね。

 その人は、たぶん、立派に生きているのだろう。

 でもね。そんな考えで、子どもの教育はできないよね。弱さへの共感、弱さを受容すること。それが愛だろうし、それがあって、初めて、道徳教育を論じることができるのではないか。


 ごめんなさい。講師の名を借りて、今のわたしの思いを書いてしまったような気もします。



 今になって思う。


 いやあ。これは実に大きな違いだ。道徳教育に限らず、大きく教育観の違いといってもいいだろう。いや。そもそも、それは、人間観の違いからきているのではないか。


 『人間は強くなければいけない。そのような心の弱さは克服しなければいけない。そのために、道徳教育がある。』

 そういう講師の先生は、子どもの実態を軽く見て、道徳的価値の押さえに傾斜のかかる指導をされていたように思う。『どの子にも、本時ねらいとする道徳的価値をしっかりおさえなければいけない。』とされた。おさえれば、どの子にも道徳的価値が身につく。もしそうでなかったら、それは、押さえが弱かったのだ。

 そうおっしゃっていたように思う。


 ここで、象徴的な場面を紹介させていただこう。すでに過去記事にある。

 授業と、その後の研究討議の様子を簡単に記させていただいた。下記リンク先記事のなかほど、『その先生の道徳の授業である。』からがそれにあたる。


    子ども一人一人の基礎・基本(1)

 授業で押さえたい道徳的価値は、『不撓不屈』だったのだが、それを、『勇気』ととらえた子がいて、その『とらえ』をどうみたらいいかといった話し合いだった。


 今のわたしに言わせれば、簡単なことだ。


 学ぶ主体は、子どもなのだ。

 馬を水場に連れて行くのはたやすいが、水を飲ませるのはむずかしい。

 馬自身に、水を飲む気持ちがなければ、周りはいかんともしがたい。

 せいぜい、水を飲む気にさせるにはどうしたらいいかを考えるくらいだ。


 それだから、結論ははっきりしている。この場合、『勇気』ととらえた子に対して、『それで十分。この子は成長した。』と担任が満足しているのであるから、それ以上無理する必要はない。

 子どものことを一番よく知っている担任をさしおいて、まわりがとやかく言っても、それは・・・、

 そうだ。いつも『はーと&はーと』ブログでお世話になっているkeiさんがおっしゃっている、『初めに子どもありき』にはならない。


 
 A先生は、当然のように、その子にとっての基礎基本は何かを大切にして、ご指導くださった。

 ひるがえって考えるに、A先生のようなタイプの方は、皆さん、柔和な表情をされ、笑顔がたえなかったように思う。まあ、そのような表情ばかりが印象として残っているのかもしれないが。

 逆に、一律な基礎基本という考えの先生は、どうも、苦虫をかみつぶしたような表情ばかりが印象に残る。

 ごめんなさい。決してそのような表情ばかりしていたわけではないと思うのだが、総じて無表情が多かった。


 
 さて、最後に、


 我が校はそのとき、道徳的な心情を養うことのみを研究の目的としていたのではなかった。冒頭述べたように、学級経営の研究だったのである。

 いわば、研究そのものは、人間性豊かな学級集団づくりをねらいとしていたのだ。もちろん、そこでは、道徳的な心情を育むことも不可欠となる。そういうとらえだった。


 してみると、どの子にも共通して押さえるべき基礎基本というとらえでは、学級経営上、こまった事態になることもあったのではないか。

 子どもの言葉で言わせてもらえれば、

「だって、本当のことじゃん。」
「〜ちゃんだけじゃないよ。ぼくだってやったよ。」
「だってこの前、先生、〜って言ったじゃん。」

 子どもにそう言われて、二の句がつげなくなることがないか。それは、子どもの言うことが正論(?)だからだ。ちょっと生意気なところはあるかもしれないけれどね。


 学級生活に限らず、実生活で、何が道徳的かは、むずかしいことがある。


 正直必ずしも、常に良いとは限らない。『バカ正直』という言葉もあるしね。

 また、『うそをつく』ことが、必ずしも悪とは限らない。人への思いやりがうそをつかせることもあるしね。

 また、同じことを言っていると思うのだが、『付和雷同』と『心の柔軟性』、あるいは、『首尾一貫・初心貫徹』と『頑固』というように、性格とか言動は同一(?)であっても、その言葉から受けるイメージはまったく逆になる場合もある。

 あげればきりがないね。


 だから、実生活においては、それこそ、柔軟性がほしいのだ。

 その際、金科玉条のごとく大切にすべきなのは、決まりきった杓子定規の道徳的価値ではないだろう。

 『人間性の豊かさ』。『心の温かさ』。それに尽きるのではないか。

 そして、そうしたかまえで、道徳の授業を行うことこそ、真の道徳教育になるのではないか。


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 つい最近も、自分の道徳の授業を紹介させていただきましたが、ここでも、また、紹介させてください。わたしの方から、葛藤場面を演出しています。

    正直に言ったら、すっきりしたよ。

 また、次は、道徳ではなく、子どもの大変な問題行動に対して、どのような指導をしたか、それをご覧いただきたいと思います。ホームページですので、文字は大きくなっています。

    コンパス事件 Aさんは悪くない



 

rve83253 at 23:53│Comments(13)TrackBack(0)学級経営 | 道徳指導

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この記事へのコメント

1. Posted by YK   2010年01月07日 17:51
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

数回、この道徳というテーマを読ませていただきましたが、どうも私のなかでしっくりこないのが、「公教育において道徳とは何であるか」ということです。まず、A先生の議論は、道徳に関する議論なのかという疑問はあります。例えば、私は収入のいくらかを海外の生活に困った女の子の教育のために送金しています。それは、10円、20円のレベルの額ではないです。私はこれを道徳的行為だと思っていない。単に、世界に対する理解力があって、同情心を示すだけの感性があるから行っているに過ぎないと思う。
2. Posted by YK   2010年01月07日 17:54
確かに、この同情心は、自分の弱さや限界を知ることで磨かれるでしょう。それによって、他人のために何かをしようという気持ちになるのですから。が、私は公的機関で道徳教育を受けたから送金をするのでなく、軍事政権の下でも勉強がしたいと願う子にとって、何よりも生活の支えになるのが金だと知っているからそうしていると考えるに過ぎない。そこには、金の力の限界も知らなければならないでしょう。私も収入がなければそれすらできないのですから。問題は、果たしてこれは、道徳的な問題なのかということです。これが倫理に関わる問題であることには間違いないが、道徳教育とはそういうものなのでしょうか。
3. Posted by YK   2010年01月07日 18:08
道徳とは何であるか。それを東洋では、仁義礼智といった言葉で表してきたと思います。私は、公立小学校の道徳教育では、仁義礼智を教え込んでよいのではないかと思います。ただし、それを教えるには、学習指導要領から離れて、自分の思考と言語によって、それをきちんと子供に説明できる人間でなければならないという条件がありますが。役人でありながら、役人以上の資質を持たなければ、形式化する。その矛盾を越える人間でないと無理ですね。しかし、率直に言えば、その問題を乗り越えないと、公立の学校は、あるいは、日本において、中高年の人々は、子供の手によって自分の首を絞められることになるようにも思います。
4. Posted by toshi   2010年01月08日 00:21
YKさん
 あけましておめでとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします。

 うううん。すごいですね。拙ブログにも、『NPO法人かものはしプロジェクト』からリンクの依頼が数年前にあり貼らせていただいていますが、わたし自身は、YKさんのような送金活動はしていません。ですから、感服しました。
 同情心というのはちょっと気になりますが、でも、人に思いを寄せることには違いなく、これは立派に道徳的行為と、わたしは思います。
 ただ、『公教育における道徳教育の結果ではない。』とおっしゃられれば、それは理解できます。 それは、人によって、また受けた道徳教育によって、人さまざまなのではないでしょうか。
 また、これは、記事にも書きましたが、わたしは、公教育が行う道徳教育は道徳的価値を教え込むものではなく、子ども自身が自分の内面にある善の部分を引き出したり、深めたりするのを支援すると言ったらいいでしょうか。そのようなことだと思っています。具体的には、リンク先に示した授業をご覧いただければと思います。
 それは、道徳に限らず、すべての授業はそういったものだと思うのです。
5. Posted by YK   2010年01月09日 01:02
返信ありがとうございます。

『かものはしプロジェクト』というのは、カンボジアの少女売春の問題のNPOなのですね。私も初めて読みました。私が送金しているのはミャンマーの女の子なので、カンボジアは遠くはない話ではあります。このNPOは月1000円でサポーターになれると書いてありますね。確かに1000円もあれば、カンボジアでは直接的なかたちで救われる子もいるでしょうね。もっとも、こうしたところで活動する人々は、問題意識を行動に直接移せるタイプの人々で、私とは少し異なるタイプの人々です。こうした行動ができなければ教師になってはいけないというわけではないでしょう。逆に、こういう行動ができれば教師ができるというわけでもない。私は一種のイマジネーションの問題だと思うけれど、日本における児童虐待の問題と、カンボジアにおける児童買春の問題と、本質的に異なるんですかね。無関心によって、助長するという意味では、あまり違いを覚えないですね。
6. Posted by YK   2010年01月09日 01:56
無関心を越えて、意識レベルを高めて、世の中を眺めるということが、どれだけ大切か、理解している先生方は多いでしょう。しかし、「1cmの目線」と私は呼んでいるけれど、1cmだけでも、目線を高めることが、自分を死ぬほど見つめなければ無理だということを自覚している先生がどれだけいるでしょうか。しかし、これを乗り越えなければ無理な課題が21世紀にはたくさんある。企業倫理、地球環境、コミュニティの再生、そして、高齢社会への対応。これらは全部、道徳教育と絡んでいます。私が公立の教育では、仁義礼智を教え込めばいいと言ったのは、人間の善を信じていないからではなく、そこまで公立校に求めるのは酷だと思うからなのです。公立の先生にそこまで求めるのは無理かなと思うので、私は自分の教え子だけには、大切なことを伝えておきたいですね。
7. Posted by toshi   2010年01月09日 09:31
YKさん

《無関心を越えて、意識レベルを高めて、世の中を眺めるということが、どれだけ大切か。》
 これはもう、おっしゃる通りと思います。そして、わたしが目指す道徳教育では、こうしたことに無関心ではいられない心情を養うことも大切と思っています。
 『1cmの目線』も分かるような気がします。でも、わたしの思うそれは、無関心を超えるレベルから、意識レベルを高めること、さらには、送金も含め支援活動を行うことまで、また、人間、あれもこれも行うわけにはいかないので、各人が各人の自覚のもとに、やれることをやるという範囲で、不断の努力を重ねるというような、そんな目線なのです。
 21世紀の課題がたくさんあるし、そのすべてが道徳教育に絡むというご主張には、全面的に賛成します。
8. Posted by 道   2010年01月12日 21:39
道徳教育って難しいですね。

私は教員になる前、人が混雑するホームの椅子に置き去られた飲み物を捨てたり、電車内の人が包帯を巻き直している姿をみて一人では困難と判断したため手伝った経験などがあります。勿論、周囲を見て誰も行わないと判断したためです。心拍数は上がり、赤面する自分を、第三者の自分が「これは必要とされる場面、おせっかいではない、まして偽善者と責められない」と言い聞かせながら行っていました。
何故、こんな心境にならなければならなかったか、今はこう思います。「余計なことをするな」「迷惑をかけるな」「偽善は罪だ」「人は人だ」「自分のことは自分でしなさい」「目立とうとするな」「自分本位だ」、など教育(家庭や学校)で教えられてきたために、「さまざまな思考が働いて」それが本当にその人のためか「混乱」したからだと思います。

私は、道徳教育によってこのような混乱を多くの子どもたちに感じてほしくないなと思います。実は私も今は教員なのですが。。。


9. Posted by toshi   2010年01月13日 16:39
道さん
 道徳教育はどうあらねばならないか、新たな視点を与えてくださった思いがしています。ありがとうございました。
 今という時代は、道徳的価値が人それぞれで、さまよっているのかもしれませんね。雑音も多そうです。それで、道徳的な行為が行いにくくなっているのかもしれません。
《道徳教育によってこのような混乱を多くの子どもたちに感じてほしくないなと思います。》
 家庭における幼少期のしつけは別として、学校において、言って聞かせる式の道徳教育(?)が横行していると思います。そのため、自ら主体的に考えることなく成長し、それによって混乱が起きるのではないでしょうか。
 道徳的価値は人それぞれが持つものなのですから、多様でいいと思います。しかし、自ら主体的に考えることの積み重ねが大切と思います。
10. Posted by 道   2010年01月13日 23:28
返答をありがとうございます。
道徳教育の実際は、教員が求める方向に誘導しやすく、言い聞かせる方式になりやすいです。
自ら考えることの積み重ねが大事だと、その通りと思います。価値観の多様化、情報過多の社会では、それにまどわされないように「自己の思考」を鍛える必要があります。
実はこの話は30歳代のこと。そして、伝えたいこととして、「その行動をする」としたのは「まぎれもなく主体的である」ことです。心拍数が上がり赤面する自分を見つめて、「そうしようと思っただけでしなかった」のか、「そうしようと思ってした」のかの「行動面」の違いがあり、前者は消極的であるのに対し後者は積極的です。また、その自己の考えについて、「そうしようと思った」のは受動的か、能動的かを考えると、能動的です。
そのことに混乱していることは、つまり「思考がフル回転していること」で、「思考停止の状態」ではなく、「考えすぎて自分のこれからしようとする行動に制限を与えようとする思考が働く」ことだと思います。
私は、何も深く考えずに困った人に手を差し伸べられる道徳性があったらなと、思っています。
11. Posted by toshi   2010年01月15日 06:42
道さん
《価値観の多様化、情報過多の社会では、それにまどわされないように「自己の思考」を鍛える必要があります。》
《何も深く考えずに困った人に手を差し伸べられる道徳性があったらなと、思っています。》
 道さんもおっしゃっているように、『自己の思考(力)』をきたえるには、自ら考えることの積み重ねが大切なのですね。
 道さんがおっしゃる、『深く考えずに』は、自己の道徳的行為に自信をもってということではないでしょうか。深く考えること自体は大切だと思うのです。しかし、いろいろ他の反応に惑わされることがよくないということではないでしょうか。
 道さんも、今は、心拍数が上がり、赤面するということはないのではないかと推察します。しかし、それには自己改革の努力が必要だったのではないでしょうか。もしそうなら、それはすごいことだと思います。
 冒頭の記述に戻りますが、やはり、小さいときからの、『自己の思考(力)』を養う積み重ねが大切なのだと思いました。

12. Posted by 道   2010年01月15日 20:06
ありがとうございます。
まさに、『自己の道徳的行為に自信をもってということではないでしょうか』、そのとおりですね。
書いていて、また返事をいただいて思うことは、思考力の育成と同時に自己肯定感の育成が必要なことだと思いました。
私は養護教諭です。教科教育に携わらない立場でありながら、保健室には道徳的な課題を要する場面もあり、考えさせられます。
今後に生かしていきます!
13. Posted by toshi   2010年01月17日 22:31
道さん
 『自己肯定感の育成』
 いやあ。ほんとうにその通りですね。それがまた、道徳的な価値を我がものとすることにつながるのですね。
 養護教諭でいらっしゃるとのこと。
 道徳は、授業としての道徳とともに、学校における全教育活動を通しての道徳教育も大切です。授業は、それらを深化統合するものと位置づけられています。ですから、《保健室には道徳的な課題を要する場面がある》ということ、とてもよく分かりますので、どうぞ、自信をもって道徳教育にも取り組んでいただけたらと思います。
 《今後に生かしていきます!》
 大変うれしい思いで読ませていただきました。

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