2010年01月17日

民間人校長を迎えるにあたって、4

a6529586.JPG 教員免許状のない民間人の公立校校長への登用。

 わたしの現職中に、この制度はスタートした。我が地域においても、毎年、ほんの数人ずつではあったが、この人事は続いてきた。


 初めは、ほんとうにびっくりした。


 教員免許をもたず教職経験もない人に、授業のよしあしなど分かるのだろうか。

 また、児童、保護者対応ができるのか。

 それに、わたしのつたない転職歴からみても、企業と学校では風土がまるで違う。

 『うまくちゃんとやっていけるだろうか。』率直にそうした思いをもった。


 ある日、たまたま出張先で、そのうちの一人の方とお会いする機会があった。採用前研修を受けられていた。教育委員会の方もそばにいらして、わたしに紹介してくださった。

 体格のいいのにまず驚かされた。そして、温厚な方だなとお見受けした。笑顔を絶やさなかった。一見して、どこかの品のいい(失礼!)セールスマンといった印象を受けた。その教員らしからぬ風貌に、『ああ。やっぱり民間人だ。』という変な感慨を抱いた。

「どうぞ、お気軽にお電話をください。」

そう言って別れたが、その後、電話がかかってくることはなかった。


 
 さて、以上述べたように、初めはかなり違和感を抱いたものの、だんだんわたしのなかで、この制度を受け入れる気持ちが強まってきた。

 『大変だろうな。』という思いに変わりはなかったが、学校の閉鎖的体質があるとすれば、また、教員の固定観念が強いとすれば、それを打破するうえでは効果的ではないかと思うようになった。

 また、さらに、市民社会の発展という意味からして、その理念については、すでに記事に書かせていただいたこともあり、そうした観点からも、民間人校長の出現は、理解できたのである。

    真の主権者は?

 言わば、『シビリアンコントロールの教育版』ととらえたのだ。

 
 もしかしたら、読者の方は、わたしの、このとらえに違和感をもたれるかな。

 ここに、シビリアンコントロールの概念を持ち出すのは、いささかとっぴではないか。ことは学校、校長レベルであり、国を代表するような文科相や地域ごとの教育長レベルの話ではない。



 でも、わたしは思ったのだ。

 この、民間人校長の出現は、『真の主権者である市民の感覚を大事にした学校経営をしなさいよ。』ということではないかと。


 上記リンク先記事にも書かせていただいたように、

 市民が主張するようになった。もう、『子どものことは学校にお任せ』という時代ではない。

 そういう時代に、学校が『古きよき時代』同様、旧態依然たる教育を行っていたら、学校の閉鎖的体質や教員の固定観念はますます目立つようになり、学校と市民との溝は深まるばかりではないか。 

 そう考えると、『教育のプロのみが、教育行政や学校運営に携わるべき。』とする時代は過ぎ去ったのだと思った。いわば、シビリアンコントロール同様、専門家至上主義は、ある意味、危ういことになったのである。


 ここで、ちょっとわき道へそれてしまうが、学校も市民感覚を大事にした学校運営を行っていくべきとする、一つの事例を紹介させていただきたい。

 かつて、作家でPTA役員もなさっていた川端裕人氏が、『PTA任意加入論』を主張された。下記のブログ記事である。

    『PTA再活用論ー悩ましき現実を超えて』 ブログ版 著:川端裕人
    
 そのとき、わたしは、それを支持する記事を書かせていただいた。今、その過去記事にもリンクさせていただく。

    PTAと学校(11) PTAの未来像は、

 これは、市民感覚をとり入れた学校経営をすべきとする一つの事例と言いうる。現に、このわたしも、川端氏の主張をうかがうまでは、任意加入論など考えたことすらなかった。

 ここにこそ、民間人校長を生み出す土壌があると言えるのではないか。
    

    
 ところが、せっかく民間人校長を登用する制度がスタートしながら、それが一向にふえていかない。時代は変わったというのに、ちっとも広がりをみせない。どうしてなのかな。

 近年、わたしは、そうした思いが強まっていった。


 わたしが思うに、一番の理由は、民間人=企業経営者(管理職)にとどまったからではないか。幅広い階層から採用しようとする努力を、地方教育行政府が怠ってきたからではないか。

 企業経営者も、市民感覚を代表する層であることは確かだろう。しかし、イコールではない。それ以外にも、福祉事業とか、教育関係の諸団体とか、はたまた、専業主婦とか、いろいろな階層が考えられる。それらからも採用すればよかったのではないか。


 で、どうだろう。

 これは、わたしの偏見かもしれないが、

 多くの地方教育行政府は、もしかしたら、努力を怠ったというより、初めから、企業経営者(管理職)しか眼中になかったのではないか。

 それは、企業の上意下達システムを、教育現場にとり入れることにのみ執着したということだ。

 拙ブログでも折にふれ記事にしてきたように、

 近年、多くの地方教育行政府は、上意下達の色彩を強めつつある。それは、大阪府の学力調査騒動世田谷区の教科日本語の例を見ても明らかだ。

 つまり、わたしの考える民間人校長像と、地方教育行政府の考えるそれとでは、明確な相違点があったことになる。


 そのあたりで、これまでの民間人校長の実績が、そごをきたしていることはないのか。あるいは、民間人校長が理念と現実のハザマで苦労させられてきたということはないのか。

 そのあたりのことが、気がかりなこととして思い浮かんだ。

  

 そんな思いでネットを見ていたら、一人の民間人校長の思いがつづられたブログを見つけることができた。別に苦労してきたというニュアンスではないが、『ああ。こういう民間人校長ならいいなあ。』と思った。

 記事でとり上げられている民間人校長は、高校のようである。

 今、それに、リンクさせていただこう。

    教育について思うこと 民間人校長の登用 その5 1年を振り返って

 この校長は、企業と学校をくらべながらも、学校のよさもしっかり認識してくださっていて、その点、ありがたい思いがした。


 特にこのブログを管理運営されているmizunoさんに、激しく共感できるのは、次の記事の内容である。

    教育について思うこと 民間人校長の登用 その3 共感


 この双方のブログから、学校が学ぶべき点を、把握することができた。


〇『教育は人なり。』と言う。あらためて、そのことを実感させられた。上司の部下への心配り。それは、教員の子どもへの心配りに通じると思うが、

 このようなことは、民間人校長を迎えるまでもなく、各教育現場で当然できていなければならないことだろう。

 しかし、わたしたち教職にあるものは、こうした資質を兼ね備えているだろうか。
兼ね備えていれば、大変けっこうだが、

・教育が、いわゆるサービス業ではないこと、
・指導性を強調するあまり、勢いお説教や叱責ばかりが目立つようになり、その結果として子どもへの心配りが欠けてしまうことはないかということ、

 もし、そういうことから、『共感』の念を示すことができない実態があれば、それはまことにはずかしいことながら、民間人校長から学ばなければならない。


〇『発想の違い』なども、『なるほどな。大いにありそうだ。』と思わせた。

 民間の活力から学ぶという点では、とても大きなものがありそうだ。

 そう言えば、拙ブログにも書いたことがあった。それは、大変はずかしいことだったが、リンクさせていただこう。

    前例主義あれこれ


〇『組織力か個人の力か』

 これについては、高校と小学校とで、大きく違う点がありそうだ。小学校においては、教員同士の授業研究は盛んに行われており、拙ブログでも、何度も記事にさせていただいた通り。

 もっとも、高校においても、こうした取組があるのは、先日、しょうさんのブログに紹介されていたよね。

    授業づくりと学校づくり

 
 以上、民間の活力から学ぶべき点が多々あることが認められよう。

    
〇ただ一点。違和感を抱いたところもあった。

 それは、『その5』の『トップダウン・ボトムアップ』の項にある、『ビジネスの世界でそんな悠長なことをしていたら他社に負けてしまう。』のくだりだ。

 やはり、どんなに人間的にすばらしくても、民間人校長には、上意下達の思想が色濃くあるのを感じた。

 我々は、別に、他校と勝負しているわけではないのに・・・。

 ある意味、子どもとは勝負しているけれどね。

 だから、せっかく公立校に着任したのなら、大いに市民感覚を発揮し、子どもが主人公の学校運営、子ども主体の授業実践を行うべく、大いに議論して、お互いに切磋琢磨し合うよう、促すことが大切だろう。

 また、もし、子どもが生き生きとせず常に受身の姿勢で、学校が活性化していないと感じるのであれば、民間人校長は、教職員と共に学び合う姿勢も大切にすべきではないか。

 おそらくその面でのリーダーシップを発揮することはできないだろう。せいぜい市民代表としての意見を述べるくらいではないか。


 ちなみに、わたしの、学校経営の理念を述べたものは、次の過去記事にある。

    校長の学校経営(1)
 
 ねっ。上意下達は、学校運営になじまないことがご理解いただけるのではないか。



 さて、以上をふまえると、

 民間人校長を迎える時代となったのなら、

 学校も、自己変革を遂げるよう努力しなければいけない。民間人校長に対して、『お手並み、拝見。』という姿勢では、お互いの不幸だ。


 教育のしろうとであることは確かだ。しかし、子どもの教育については、どんな市民だって一家言もっているのがふつうなのだから、市民感覚を学ぶという視点で、謙虚に聞く姿勢が大切だろう。

 それとともに、教頭以下、しっかり、それまでの学校運営について、校長への説明責任を果たす必要がある。

 また、民間人校長が、数値化できない部分を数値化しようとするのであれば、『なぜ、いけないのか。』を実践的に訴え、理解を求めることも大切だろう。 


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 民間人校長を迎えるにあたっては、本記事以外にも、どうしてもそうせざるを得ない事情があるように思います。

 それは、今、多かれ少なかれ、どの地域も、30代後半から40代前半にかけて、教員数が絶対的に不足しているという事情があるのではないでしょうか。

 そうであれば、『必然』ということになりますね。

 ただ、そうした視点を持つとき、わたしは、従来、学校に勤務しながらも管理職への道を閉ざされていた事務職員、養護教諭、栄養職員などからの登用も考えるべきだと思いますし、過去記事に書かせていただいたこともあります。

 よろしければ、ご覧ください。

    民間人校長を迎える前に

 もっとも、この記事以後、我が地域においては、そうした登用が行われるようになりました。現在、わずかではありますが、そういう管理職が実在します。

 わたしは喜んでいます。

 

rve83253 at 17:39│Comments(6)TrackBack(0)教育制度・政策 | 教育風土

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この記事へのコメント

1. Posted by YK   2010年01月17日 21:45
私は民間人校長の問題というのは詳しくわからないので恐縮ですが、民間人校長が「シビリアンコントロールの教育版」だという、先生のご意見について、なるほどと思いました。ところで、民間人校長が、時代に沿っているにもかかわらず、上手く機能するとは限らないというのは、私としては、何となく理解できる気がします。「教育のプロ≠民間人校長の条件」であるとすれば、民間人校長に必要な資質とは、組織人であると同時に、知識人である必要があるのではないですか。今の記事を読む限り、組織人としてしか、民間人校長の役割が見えないです。学校における、民間の組織人は、分裂の要素にもなる気がします。
2. Posted by YK   2010年01月17日 21:50
知識人というのは、博学な人とイコールではないです。教養人と言った方がいいかもしれないですが、組織において相互理解をもたらし、対話の世界をつくることができるのが教養人です。学校には、教師はもちろん、事務職でされ、専門性のある人たちがいるのでしょう。その一つ一つを理解し、統合できる能力が民間人校長の条件であり、その裏付けとなるのは、教養になるのではないかと思います。たぶん、上意下達的な管理職の民間人教師は、先生がおっしゃるように、問題を残すし、組織が分裂する理由にもなるのではないでしょうか。
3. Posted by toshi   2010年01月17日 23:11
YKさん

 そうですね。組織論について、記事ではふれていませんでしたね。うっかりしました。

 組織については、企業と学校とはやはり違いがあると思います。企業は組織で動くと言ったらしっくりきます。
 学校も、一般論としては、そのように言われますが、
 わたしは、もちろんそれもそうだけれど、でも、組織、組織と強調するのもどうかという気がしています。柔軟性が必要ではないでしょうか。
 と言いますのは、学校って教職員数が多くありませんので、
・まずは組織で動く。
・でも、次には、組織を越えての協調し合う姿勢が大切になるのではないでしょうか。
 そういう意味で、YKさんがおっしゃる教養人の役割が重要になってくるのでしょうね。そして、一般論としては、民間人校長にはそういう教養人が多いだろうし、また、それが求められるということでしょうか。
4. Posted by YK   2010年01月18日 00:01
toshi先生

私もちょうど似たような問題を考えておりまして、バーッと書いてしまって恐縮です。

>>組織、組織と強調するのもどうかという気がしています。柔軟性が必要ではないでしょうか。

おっしゃる通りと思います。私は前回の書き込みで、公立学校批判のようなことを書いてしまいましたが、本当に意図するところは、教師の自由裁量というか、自分にとっての成果を自分で決めさせるような自由があっていいのではないかということです。(たぶん、この議論は精神疾患の問題と絡むかもしれmせん)

例えば、道徳問題ならば、対話を重視したい人もいれば、礼儀を重視したい人もいるでしょうから、まずは、最低限の信義礼智といったことは、教え込み、その後に、対話を行いたい人は行えばよい、という柔軟性があってもいいように思います。


5. Posted by YK   2010年01月18日 00:15
学校というのは、社会の中心であるとも言えますが、一方で、その場で完結する機関でもありました。少なくとも、私が高校を出た10年ほど前まではそうでした。民間人校長というものは、大局的に見て、学校という意味を変えるものであるとは思います(少なくとも民間人にとって)。では生徒にとっては、彼らはどのような意味を持つのか、大いに励ましてくれる存在なのか、先生たちにとってはどのような意味を持つのか、このあたりをもう少し考えてみたいと思っています。

6. Posted by toshi   2010年01月21日 00:38
YKさん
《教師の自由裁量というか、自分にとっての成果を自分で決めさせるような自由があっていいのではないかということです。》
 いやあ。ほんとうはそうですよね。わたしもそう思います。でも、今の日本では、そこまでは無理なようですね。教育に限らず、国の管理色は強いものがあると言えそうです。
《生徒にとっては、彼らはどのような意味を持つのか。》
 これまた、わたしは、書き落としてしまいましたが、大切な視点ですね。
 子どもにとっては、先生らしからぬ先生という思いをもち、おおむね、好意的な見方をするような気がします。
 リンク先に、民間人校長が、民間で人事にいた経験を生かし、面接の指導をしたことが書かれています。これなど、子どもたちは、ものすごく喜んだのではないでしょうか。

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