2010年02月08日

今のわたしには安心できる解き方だよ。(2)4

8b515cdb.JPG 前記事の『今のわたしには安心できる解き方だよ。』に、学生のちろさんと、おそらく保護者の方と思われるが、kunoさんからコメントをいただいた。また、教員のみっぴさんは、ご自分のブログに、本記事をとり上げての考察記事を書かれ、TBしてくださった。

 ありがとうございました。


 そして、わたしの記述の至らなさから誤解を招いたことが分かったり、『生きる力』について大変すてきなコメントをいただいたりしたので、本記事では、その補足を中心にして、まとめさせていただきたいと思う。


〇まず、kunoさんからいただいた『生きる力』についてのコメントだが、引用させていただくと、


 『今の私には...』(から始まる子どもの発言)に感激しました。この子の「知」の喜びを大切にしていって欲しいです。今レベルが高いと思われる子供も難題に向かうときがあるはず。そんなとき、それまでの様々な友の様々な考え方に触れたことは絶対生きてくるはず。そのことこそが、いわゆる「生きる力」なのではないかなと思います。


とおっしゃっていただいた。


 まことにその通りで、『生きる力』について、国が示す概念は、

○ 基礎・基本を確実に身に付け、いかに社会が変化しようと、自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力
○ 自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性
○ たくましく生きるための健康や体力 など 

としており、

これらはすべて、子どもが主体的に学び、主体的に生きようとしていなければ、身につけようもない力なのである。


 そして、前記事に登場させていただいたBちゃんたちの学ぶ姿は、まさに、主体的な判断だし、よりよく問題を解決する資質や能力を身につけようとしていること、すべての読者の方がお認めくださるのではないかと思う。


 また、kunoさんは、『知の喜び』ともおっしゃってくださった。

 そう。自分に合った解決方法を自分で判断し決定するということは、そして、それが認められるということは、まさに、『知の喜び』なのだよね。そして、それこそが、『感動する心などの豊かな人間性』につながっていく。

 また、そのようにして身につけた力は、いかに社会が変化しようと、生涯を通じて生きて働く力としてはたらくはずである。

 だって、Bちゃんの、『たとえ次善の解決方法であろうと、自分に合った解決方法を選択する。』という問題解決の態度は、実社会において、大人だって、大事な力になっていくはずだ。

 こういうことに大人、子どもの別はない。

 『生きる力』とは、そういう力でもあるのだ。


 だから、国の言うところの、『基礎・基本を確実に身に付け、』だって、そうした主体性のある子どもの育成が前提にあって、子ども自らが身につけようとするものでなければならない。


 さあ。それなのに、どうだろう。国は、今のところ、ほんとうに、そうした力を養おうとしているだろうか。


 カンバンは立派なのだ。


 上記リンク先のパンフレットでも、『学習指導要領は変わっても、『生きる力』を大事にするという理念は変わりません。』と言っている。

 しかし、実際はどうであろう。


 国の言う『学習意欲の向上』はお題目に過ぎず、的確な方策が示されているとは思えない。それなのに、世間では、『基礎・基本の確実な定着』『学習習慣の確立』が先行してとなえられている。そのため、教え込み、反復訓練の授業が復活している状況があるように思う。


 そのうえ、具体的な『教員の指導力アップ策』も、示されていない。こうした状況は、民主党を中心とした連立政権になっても、特に変わりはないようだ。


 ここで、再度、kunoさんのコメントを引用させていただこう。また、ちろさんのコメントも、とり上げさせていただく。


〇現場での授業を見させていただくと、どうしても先生がご自身の作ったシナリオでないと安心して進められないのかな、と思ってしまいます。ひとりひとりの(子どもの)思考過程を細やかに見ることで、生徒が「どうやって理解できる(た)か」のきっかけを共有できる場をもっともつことができれば、学習も楽しいものになると信じています。


 もう、おっしゃるとおりだ。教員が、『自分のつくったシナリオでないと安心して授業を進められない』状況は、全国に蔓延していると思う。これでは、子どもは、教員の作ったシナリオにつき合わされているのであり、『子どもの主体性』など、育ちようがない。

 
〇次にちろさん。教員を目ざすちろさんが、

 子どものつぶやきから授業をうまく組み立てていくというのが、私にとってはすごく難しいような気がしますが。

とおっしゃる。


 そうなのだ。今の大人は、子どものとき、ほとんど、そういう授業を経験していないよね。

 自分が子どもだったとき、教員の発問に答えること以外、自分の思いを授業で表現することはほとんどなかった。

 そのため、受身の姿勢にならされてきた。


 そう言えば、かつて、それにかかわり、我が長女とやり取りしたことを記事にさせていただいたことがあった。下記リンク先記事の中ほど、『さて、我が家の娘、長女は今、32歳。』からが、それにあたる。

    保護者の皆さんへ(1)

 せっかく、すばらしい疑問、切実な問題意識を子どもがもったとしても、教員のシナリオにないことは無視されてしまう。

 そういう環境の中で成長してきた多くの大人。

 だから、まだ教職についていないちろさんが、『すごくむずかしいこと』と思われるのも無理はないのだ。

 人間、自分の経験にないことは、分からないものね。


 でも、大丈夫なはずだ。


 『鉄は熱いうちに打て』と言う。これは、教員養成にも当てはまるだろう。


 拙ブログでは、初任者の飛躍的成長を、何度も、何度も、記事にしてきた。具体的な授業の姿を示しながら、記事にしてきた。

 ほとんどの初任者は、まじめで、真剣で、伸びようとする姿勢をもっており、したがって、初任者のそういう心を大事にし、どんどん伸ばそうとする方策が国によって示されれば、子ども主体の授業をどんどんおし進めることができるようになるはず。これは、やはり、何度も記事にしているように、急務である。


 ちょっと脱線するが、

 今の民主党マニフェストにある、『大学での6年間の教員養成課程』。これは、いろいろ考えたが、やはりダメだ。

 これで、教員の指導力アップがなるとは思われない。

 やはり、教育現場における授業実践力の強化が図られなければならないと思う。



 さて、ここで話題を変えて、


 拙ブログの前記事をとり上げての考察記事を書いてくださったみっぴさんのブログ記事を紹介させていただこう。 

    ★小学校教師みっぴのときどき日記★ 目盛りを読むことについて

 わたしの前記事における記述が不十分だったために、誤解を招いてしまったと思う。その点、心よりお詫びします。すみませんでした。


 わたしが、記事後半の、Fちゃんの発言について、

 『真ん中のちょっと長い線のところがちょうど半分の500gで、』を、余分な説明とし、さらに、『必要にして最小限な説明を心がける資質を育てていきたい。』とも書いた。

 それがいけなかった。

 この場合、あくまで、論理の組み立て方を問題としているので、

 もし、Fちゃんが、たとえば、

 「0kgの目盛りがここで、1kgの目盛りがここでしょう。だから、真ん中のちょっと長い線(目盛り)のところがちょうど半分の500gになる。

 それで、それよりは短いけれど、ちょっと長い線を見ていくと、ここが100で、ここが200で、300、400、500で、ちょうど真ん中のちょっと長い線のところの500になったから、それで、ここが、100でいいって分かるでしょう。

 そうしたら、0と100の間に小さい線があって、それを数えると、20、40、60、80で、次,100だから、それで、一番小さい線は、一つが20gだって分かる。」

のように説明していれば、これは、論理の組み立てとして、真ん中の500gを説明したことが、生きてくる。

 すなわち、

・まず、真ん中の500gに着目し、その着目をもとに、
・500のところよりは短いけれど、ちょっと長い線が100であることが分かり、
・その100であることから、一番小さい線が20gと分かる。

という説明なら、真ん中の500を指摘したことを、余分とは言わないわけだ。


 ところが、Fちゃんの説明はそうではなった。

 500を言っても、その後、それと無関係に、100、200、・・・と数えていくのなら、わざわざ500を言わなくてもすんだと、わたしは言っているわけだ。


 しかし、みっぴさんの主張もよく分かる。


 みっぴさんは、

『500gを言うことによって、もっと小さい目盛りが、100gであることが分かりやすくなる。』とおっしゃっているのだと思う。

 それは、もうその通り。

 それなら、そのように説明していれば、論理の組み立ては見事で、これも、もう、500の指摘を余分などとは言わないわけだ。


 つまり、わたしは、この部分では、こうした説明のできる力を養うことが大切と言っているわけだ。説明力といったらいいかな。

 この点、わたしの『説明力』に難点があった。どうも、すみません。


 そして、こういう力は、まさに、本記事の冒頭で述べた、『生きる力』にかかわってくる。そう思う。



 最後に、特にふれたいこと。

 それは、わたしは、Bちゃんの発言をすばらしいとし、気に入ったとか、身震いするくらいの感動を味わったとか、わたしが学ばせてもらったとか書いたけれど、


 どうだろう。教育にまったくかかわっていらっしゃらない読者の方のなかには、『どうしてこの発言がそんなにすばらしいのか。』と、いぶかる方もいらっしゃるのではないか。思ったことを率直に言っただけのことではないかと。


 そう。早くそういう時代がやってきてほしい。こういう発言が当たり前となり、多くの学級でみられるようになってほしい。

 それは、教員の指導力アップ策が実ったときということになるだろう。


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 ninki

 

 わたしは、前記事で、『(初任者の)Aさんは、子どものつぶやきも大切にできるようになった。子どものつぶやきをとり上げればどんな学習ができるか、瞬時に判断できるようになった。』と書かせていただきました。

 そして、それに賛同するコメントも、いただきました。


 しかし、これには、留意点があります。

 わたしは、拙ブログを通し、読者の皆さんから学ばせていただいたのです。

 それは、障害児がいる場合の配慮でした。かなり長くなってしまいますが、ごらんいただければ幸いです。

   発達障害児と問題解決学習と、


 また、本記事の趣旨は、そのまま、『ゆとり教育』の大切さの主張でもあります。ゆとり教育をテーマとした過去記事もあります。よろしければご覧ください。

    『ゆとり教育』は正しい・・・はず

rve83253 at 03:16│Comments(4)TrackBack(0)教育制度・政策 | 教員の指導力

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この記事へのコメント

1. Posted by みっぴ   2010年02月08日 21:16
記事の本筋から外れた部分での私の意見をとりあげてくださってありがとうございます。
きっと、Fちゃんもこれから先このような授業を続けていけば、論理的に説明する力をどんどんつけていくことでしょうね。

「安心できること」は、子どもの「自信」につながっていくと思います。自分の力で解にたどり着くことができる喜びを、これからも味わわせてあげたいなと思っています。今後ともよろしくお願いします。
2. Posted by toshi   2010年02月09日 06:51
みっぴさん
 記事の本筋でなくても、わたしの記述の至らなさがうきぼりになったことは、多くの方に誤解を招いていると考えられますから、修正する機会を与えてくださったようなもので、大変感謝しています。ありがとうございました。
《きっと、Fちゃんもこれから先このような授業を続けていけば、論理的に説明する力をどんどんつけていくことでしょうね。》
 はい。わたしもそのように思っています。前記事の最後に書いたのですが、子どもって変わるときは一週間で変わるもの。指導する側が心がけて、ほめたり感動したりするだけで、どんどん伸びていきます。
 初任者の伸びと、子どものそれは、まったく同時進行だなと思っています。
3. Posted by kuno   2010年02月10日 19:31
5 私の言葉を取り上げてくださってありがとうございます。
教員だけではないのでしょうが、少し角度を変えたものの見方ができない、あるいは、考えの選択肢がない、人が増えているような気がします。「こう考えてもいいんじゃない」「僕だったらこうするけどな」という言葉を聞いてはじめて「ああそうか」と気づく。(時には理解されぬことも。)これも、教員のシナリオにつきあわされてきた教育が原因のひとつでしょうか?
私は生きて行く上での様々な力の第一歩目は「観察力」だと思っています。教室で教員が、生徒と教員双方の観察の機会を大切にして欲しいと願っています。
最後に、私自身について申し上げることなく感想を述べたことをお詫びします。「保護者」も私のひとつの顔ですが、教員を送り出す立場でもあり、算数・数学について(教育を含むが教育だけではない)考えねばいけない立場でもあります。
このブログの記事はたいへん参考になります。これからもよろしくお願い致します。
4. Posted by toshi   2010年02月11日 09:28
kunoさん
《教員を送り出す立場でもあり、算数・数学について(教育を含むが教育だけではない)考えねばいけない立場でもあります。》
 そうでしたか。失礼しました。ということは、今のわたしの仕事と深いかかわりがありそうですね。わたしの方こそ、どうぞ、今後ともよろしくお願いします。
 日本はいまだに正答主義の傾向が強く、個性軽視の画一化教育が行われているようです。今の短絡的成果主義がそれに拍車をかけています。そうしたことでは、子どもの幸せはないように思います。
 教員のシナリオ通りに授業を進めるのではなく、子ども一人ひとりをしっかり見とり(観察し)、それを生かした授業の流れにすることが大切です。
 
 

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