2010年02月10日

子規の家庭教育論3

e2066a1a.JPG いきなり、標題とは関係ない話から始めることになります。申し訳ありません。


 わたしは、司馬遼太郎のファンだ。

 一見、小説っぽくないというか、『この小説をどう書こうかということを、まだ悩んでいる。』などというように、自身の思いまでストレートに書き込む手法が、たまらない。

 そんな折、『坂の上の雲』がNHKでドラマ化された。歴史を思わせる、独特な映像表現に、20年前読んだ同文庫本がなつかしく思い出された。古くなってしまったが、久しぶりに書棚から引っ張り出し、今、再度読み始めている。


 驚いたことがある。

 それは、文庫本3の冒頭、子規の亡くなる場面だ。大変な苦しさ、痛みのなかで書き続ける『病牀六尺』が出てくる。


 『病牀六尺』。

 『どこかで聞いたな。』そう思った。


 思い出した。

以前記事にさせていただいたことのある、先輩校長。その記事は、

    大先輩の熱い思い

だが、その方が、『こんなのがありますよ。』とおっしゃってコピーを見せてくれたのだった。

 それが、『病牀六尺』である。そのときは、『ああ。正岡子規も家庭教育を論じているのか。』と思い、それだけの関心で読ませていただいたのだったが、

 今、司馬遼太郎氏の書かれた小説を読み、これは大変な状況の中で書かれたものだったことが、あらためて分かった。

 死を直前にし、『毎日、毎時、拷問を受けているかのような痛み』のなかで、 

 正確に言えば、書いているのではない。口述である。書写しているのは、『交代で泊り込んでいる高浜虚子や河東碧梧桐などの門人だった。』

 
 それでは、我が先輩がくださったコピーだが、子規が家庭教育論を書いているくだりを紹介させていただこう。時は、明治35年。日露戦争の直前にあたる。


 なお、原文は、縦書き。さらに、段落などもなく、一気に書き続けているようである。



 六十七

 家庭の教育といふ事は、男子にも固(もと)より必要であるが、女子には殊(こと)に必要である。

 家庭の教育は知らず知らずの間に施されるもので、必ずしも親が教へようと思はない事でも、子供は能く親の真似をして居る事が多い。そこで家庭の教育はその子供の品性を養ふて行くのに必要であるが、また学校で教へないやうな形式的の教育も、極些細な部分は家庭で教へられるのである。

 例をいへば子供が他人に対して、辞誼をするといふ事を初めとして、来客にはどういふ風に応接すべきものであるかといふ事などは、親が教へてやらなくてはならぬ。

 殊に女子にとつては最も大切なる一家の家庭を司つて、その上に一家の和楽を失はぬやうにして行く事は、多くは母親の教育如何によりて善くも悪くもなるのである。

 ところが今までの日本の習慣では、一家の和楽といふ事が甚だ乏しい。

 それは第一に一家の団欒(だんらん)といふ事の欠乏して居るのを見てもわかる。一家の団欒といふ事は、普通に食事の時を利用してやるのが簡便な法であるが、それさへも行はれて居らぬ家庭が少なくはない。

 先づ食事に一家の者が一所に集まる。食事をしながら雑談もする。食事を終へる。また雑談をする。これだけの事ができれば家庭は何時までも平和に、何処までも愉快であるのである。

 これを従来の習慣に依つてせぬといふと、その内の者、殊に女の子などは一家団欒して楽しむべきものであるといふことを知らずに居る。そこで他家へ嫁入して後も、家庭の団欒などいふ事をする事を知らないで、殺風景な生活をして居る者がある。

 甚だしいのは男の方で一家の団欒といふ事を、無理に遣らせて見ても、一向に何らの興味を感ぜぬのさへある。かやうな事では一家の妻たる者の職分を尽くしたとはいはれない。それ故に家庭教育の第一歩として、先づ一家団欒して平和を楽しむといふ事位から教へて行くのがよかろう。

 一家団欒といふ事は啻(ただ)に一家の者が、平和を楽しむといふ効能があるばかりでなく、家庭の教育もまたこの際に多く施されるのである。一家が平和であれば、子供の性質も自(おのずか)ら平和になる。

 父や母や兄や姉やなどの雑談が、有益なものであれば子供はそれを聴いてよき感化を受けるであろう。既に雑談といふ上は、むづかしい道徳上の議論などをするのではないが、高尚な品性を備へた人の談ならば、無駄話のうちにも必ずその高尚な処を現はして居るので、これを聴いて居る子供は、自ら高尚な風に感化せられる。

 この感化は別に教へるのでもなく、また教へられるとも思はないのであるが、その深く沁(し)み込む事は学校の教育よりも更に甚だしい。故に家庭教育の価値は或る場合において学校の教育よりも重いといふても過言ではない。   (七月十八日)

 
 
 いかがだっただろう。



〇わたしは、これを読んで、まず、『不易と流行』を思い浮かべた。

 教育には、いつの世も変わらぬ人としての道理というものがある。

 それに対し、時代とともに変わる部分もある。


・その変わる最たるもの。

 男子とか女子とか、あるいは、父とか母とか、そういう性による役割分担にみえるものは、変わって当然だろう。この文を読むにあたっても、『子ども』とか、『親』とかに置き換えて読み取る必要がありそうだ。


・しかし、一家団欒のすすめとも読み取れる部分は、これはいつの世も変わらぬ大切なものという理解でよいのではないか。

 今、小学校低学年に生活科があるわけだが、ここには、『家族単元』といわれる内容がある。そして、学習指導要領解説には、『家庭生活においてそれぞれの果たしている仕事や役割の価値,家庭の温かさ,家族一人一人のよさなどが分かるようになる。』と記されている。

 この、『家庭の温かさ、家族のよさ』などをどう押さえるかを考えたとき、まさに、この『家族の団欒』などは、もっともふさわしいと言えるのではないか。

 その点、いつの時代も変わらぬ、『家族のよさ』があるのだとうかがうことができる。


・ただし、時代背景はまったく異なる。


 子規の時代、日本では、家父長制の下、『黙して語らず。』が美徳とされていた。

 『沈黙は金なり』とも言われる。

 そんな時代に、『家族の団欒』を徳とするのは、かなり斬新なことだったと思う。


・ところで、今、家族の団欒を大切にと言われる背景には、これとはまったく違う事情がありそうだ。ご案内の通り、孤食、個食などが問題とされるなかでの、『家族の団欒』の大切さの主張となっている。

 
 
〇子規がこの時期に、『平和』を口にすることについて、テレビをご覧になったり、小説をお読みになったりした方は、あるいは、違和感を抱かれるかもしれない。

 世は、日露戦争突入の世論が沸騰している時期だった。


 でも、この時代、戦いと平和は、渾然として一体だったように思う。矛盾とは思われていなかったのではないか。


 そのことにかかわり、かつて、わたしは驚いたことがある。

 文部省唱歌『冬の夜』だ。

 明治時代の、貧しい農村の冬景色。その囲炉裏端で・・・、こんなのどかな風景もあったのだろう。

 そうした情景を思わせる。

 そして、まさに、ここにこそある『家族の団欒』。平和そのものだ。

 ところが、そうした中に突然現れる、『過ぎしいくさの手柄を語る』の歌詞。


 初めて聞いたときは、ショックだった。ものすごい違和感を覚えた。

 しかし、それは、戦後的解釈、感情だったのだろう。

 当時としては、何ら違和感なく、ふつうの情景として、歌われていたに違いない。


 となると、『君、死にたもうことなかれ』を書いた与謝野晶子にしろ、上記、『家族の団欒』を説いた正岡子規にしろ、時代相を超越したところにいる感があり、すごいことだと認識を新たにした。



〇最後の、『家庭教育の価値は或る場合において学校の教育よりも重いといふても過言ではない。』も、まったく同感である。

 ともすれば、むかしの家庭でのしつけは、しっかりしていたのではないかと思っていたが、そうでもなかったのだろうか。


 まあ、そう言われて、思い浮かぶのは、

・今とは比べようもないくらい貧しい時代だったし、

・子だくさんの中では放任に近い状態もたくさんあっただろうし、

・でも、その分、学校教育が統一された価値観のもと、修身、国史など、がんばっていた(?)ということだろうか。


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・日付を見ると、上記口述は、子規の死の2ヶ月前だったことが分かります。死を覚悟した子規が、『これだけは世に残しておきたい。』といった気持ちで、門下生に筆記させたのではないかと思いました。

 実際、テレビにこの場面が登場するのは、今年末となるでしょう。どのように描かれるのでしょうか。 


・この記事を打っていた昨日、グーグルのトップページには、夏目漱石が描かれていました。漱石の誕生日だったようです。

 『坂の上の雲』によれば、漱石と子規は深い親交があったようで、何かの偶然性を思わせました。


・先日、テレビが言っていました。

「明治時代、国、国民は、いっしょうけんめい坂を登っていた。坂の上にある雲のところへ行きたいと願っていた。その結果として、今、我々は、その雲の中にいる。願いはかなったわけだ。しかし、その雲のなかに入ってしまった我々は、見渡しても、もう何も見えない。それが今という時代ではないか。」

 教育が、少しでも、視界明瞭にしていきたいものです。

rve83253 at 16:18│Comments(7)TrackBack(0)エッセイ | むかし

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この記事へのコメント

1. Posted by YK   2010年02月11日 14:31
『病牀六尺』は24歳の頃に熟読した記憶があります。死を前にして、自由闊達に、実に我がままに書き散らしていて、私は大変な感銘を受けました。当時は、大雑把に言えば、1890年に『教育勅語』が出て、日清戦争の戦勝に沸き、日露戦争まで進んでいった時期。この時期について、漱石は非常に鋭い眼で日露戦争を批評し、正岡子規は戦争から離れて、生と死のなかで詩人の才能を発揮した。このことを現代の教育者がどのように受け止めるか、これは重要な論点ではないかと思います。なぜというに、ここには、toshi先生のおっしゃる「不易流行」の不易の部分があるからです。この議論を本気ですれば、質の高い教育論ができるように思います。
2. Posted by toshi   2010年02月11日 17:58
YKさん
 さすが、多読、速読のYKさん。
 すごいですね。敬服しています。
 逆にわたしは、若いころ、読まなさ過ぎたのかもしれません。いえ。読むことは読んでも、たぶんに偏りがあったように思います。
 本記事で、もう、ばれてしまっていますけれど、わたしは、『病牀六尺』という書名すら知らなかったです。

 わたしの現職時代、今から10年くらい前から始まった教育改革、それはたぶんに、改悪のおもむきがありますが、これまで、どこまで続くといった感がありました。 
 それだけに、今こそ、不易の部分をしっかり見つめなければいけませんね。
 
3. Posted by YK   2010年02月12日 23:35
私もあまり知識がないのに、色々と書いてしまって恐縮しています。司馬さんといえば彼の講演録(第1巻)にある「松陰の優しさ」というのは非常によい文章でした。私が教育を始めるうえで良い影響を受けました。「不易」というと、今は、勤勉さとか、家族関係、とかに焦点が当てられる傾向にありますね。松下幸之助さんなどが好きな経済人の語る教育はこういう感じになりがちです。また、最近では、藤原さんが「国家の品格」などで武士道が見直したりしています。これに影響を受ける人もいるでしょう。
4. Posted by YK   2010年02月13日 00:00
しかし、私は最近の教育論者の議論は、不十分なのではないかと思います。これからの教育論の枠組みを作るうえで必要な「不易」とは、西洋のキリスト教における「神の愛」、ソクラテスを代表とするギリシア哲学における「対話」、東洋儒学の示す「人の道」、日本の「もののあわれ」ではないかと思います。今の多くの教師はテクニックの向上を目指していると思います。しかし、私は、これらの要素の統合を目指しています。例えば、(どなたか忘れてしまいましたが)、以前、書き込みした方のリンク先に「きみのかわりはだれでもいない」という絵本を紹介していた方がいました。あの絵本は新約聖書の「マタイによる福音書」を題材としています。あの本は神の愛を描いているが、普遍的な教育観も示していると私は考えています。以前、私が少し書いたように、これからの教育は、道徳的な要素を加える必要があると考えています。
5. Posted by toshi   2010年02月14日 22:47
YKさん
 おっしゃっていること、分かるような気がします。
 どなたかえらい方が、『早寝、早起き、朝ごはん』と言っていますね。国もその影響を受けています。
 もちろん悪いことではありません。
 でも、何かしっくりきません。
 『あたりまえではないか。』そう思うからですね。
 また、それさえしていればいいのかという思いにもなります。
 『不易』ということで考えた場合は、よけい変な感じになりますね。
 わたしには、子規の言う『家族の団らん』の方がしっくりきます。心が伝わってきますし、『あうんの呼吸』が伝わりにくくなっている今、ほんとうに大切なことではないかと思うのです。
 国も、えらい方の言うことに惑わされないでほしいですね。
6. Posted by g   2010年05月02日 01:24
ーーー西洋のキリスト教における「神の愛」、ソクラテスを代表とするギリシア哲学における「対話」、東洋儒学の示す「人の道」、日本の「もののあわれ」ーーー

このバランスは良いですね。なにしろ、考え方が片寄ってしまうと人間の行動が恐ろしくなります。だから私は「国家の品格」を読んだ時に非常に不快な思いがしたのかもしれません。テーマそのものは良くても、藤原氏の思想をかなり疑問に思いました。

下記のURLはアメリカ人による日本語のブログですが、「国家の品格」の細かい反論が掲載されています。聖書や教育の話題も出ますし、何かと参考になるかもしれません。良かったらどうぞ:

http://gonosen123.blogspot.com/
7. Posted by toshi   2010年05月04日 09:21
gさん
《なにしろ、考え方が片寄ってしまうと人間の行動が恐ろしくなります。》
 ほんとうにおっしゃる通り。最近の記事の『話す・聞く』学力のところでも書きましたが、話し合うことが、お互いの想いの啓発につながるようなものでありたいと思います。
 国家の品格については、わたし、読んでいませんでしたが、ご紹介いただいたブログを拝読しました。やはり、こういうところにも、学びがありますね。ありがとうございました。
 

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