2010年02月14日

叔父の逝去を悼む。3

56c48223.JPG 突然の悲報だった。

 検査入院のはずだったが、肺炎を併発するなどしたため、ご家族にとっても突然だったようだ。

 ほんとうに驚いた。笑顔を絶やさなかった叔父の元気な姿が、今もまぶたにやきついている。


 振り返れば、父が亡くなったのは11年前。

 その後、わたしは、叔父に、父の面影を見てきた。なんだか、叔父に会うのがすごく楽しみになってきた。ほんとうに兄弟とはいえ、表情、しぐさまでもよく似ていた。

 それを叔父の前で口にすると、叔父は決まって言うのだった。


「toshiと義姉さん(我が亡母)は、戦中から戦後にかけて数年間、縁故疎開ということで、ここに住んでいただろう。toshiは赤ん坊だったから分からないだろうけど、わたしは、当時18歳くらいだったから、toshiと義姉さんのことはいろいろ覚えている。

 兄(我が父)は、教員として学童疎開先にいたし、その後令状が届いて召集されたから、戦後復員するまでは、義姉さんとtoshiの二人っきりだった。だから、いくら夫のふるさととはいえ、なれない土地で、心細くなることもあっただろうし、いろいろ大変だったと思う。

 そんなこともあって、わたしは、toshiには、ただの叔父と甥という関係以上の、特別なつながりを感じてしまうのだよ。」


 その縁故疎開前後のことは、過去記事にある。我が亡母のつけていたわたしの育児日記だ。この『昭和20年3月19日』の項に叔父が登場する。ただし、それは、わたしの注釈記事としてだけれどね。

 当時、何かと我が家族を助けてくれた叔父。あらためて感謝の思いを抱いた。

    追  憶(2) 母の育児日記


 こうした戦中、戦後のころの述懐は、近年になってよく聞くようになった。それだけお互いに年をとったということか。もう、いろいろ、『へえっ』とばかり驚くことも多い。


 そう言えば、こんな話を叔父から聞いたこともある。

 これは、『へえっ。』というより、近年の少子化傾向の意味するところを確認させられた思いだった。やはり、過去記事にある。よろしければご覧ください。


    子育て、受難の時代か。


 叔父は、戦後すぐ、しばらくの間、勤めていた時期がある。

 亡父は、このころの叔父について、『将来もずっと、勤め人として生きていくつもりだったと思う。』と言っていた。

 しかし、戦争から帰還した長兄が、戦争中の病いがもとで数年後亡くなると、農業を継ぐものがいなくなってしまったため、叔父が後継せざるを得なくなった。

 ほんとうに、戦争は、わが親族にも、はかり知れない負担を与えたことになる。


 しかし、すごい。いざ農業に専念することになると、それはそれ、気持ちを切り替えたのだろう。大変な情熱をもって意欲的に取り組むようになる。研究熱心だった。

 当時、近隣では誰も行っていなかったビニルトンネル栽培を始めた。まわりの人から奇異の目で見られることもあったらしい。

 わたしは、小学生時代、よくいなかを訪ねては、収穫直前のつやつやして大きな野菜の数々に驚いたことを覚えている。


 叔父と叔母の結婚式もよく覚えている。わたしは小学校2年生だった。

 なぜ覚えているかというと、当時いなかでは、三々九度の盃をもった男女の子どもが花嫁、花婿にお酒を注ぐ儀式が行われており、このとき、ちょうど、わたしがその役を仰せつかったのであった。もちろん、大人の人が言う通りにやったのだけれどね。

 そして、花嫁さんの叔母は花嫁姿のまま、近所の家々に、あいさつをして回るが、そのときは、ぞろぞろついて歩く子どもたちの一団にわたしもいた。子ども心に、きれいな、きれいな花嫁さんと思い、すごくあこがれた。


 その後、農作業だけでなく、地域で、農協で、いろいろ活躍された叔父だったが、年老いてからは、その中心となって、たとえば、郷土史の編纂などにも携わった。

 その縁で、お孫さんの通う小学校へもよく行くようになった。

 そして、ふるさとのむかしのこととか、むらからまちへ発展していく様子とか、そういうことを、子どもに向けて話すようになった。

 当時わたしは現職だったが、それを話すときの叔父はとてもうれしそうだった。お孫さんだけでなく、子どもたちとふれ合うことが生きがいとなったようだ。

 特筆すべきは、ほとんど木材を使い、水車小屋の模型を作ったことだ。水を流すと実際に水車が回り、その力で、ちゃんと作物などをつくようにできていた。模型とはいえ、立派なものだった。同じものを2つ作り、一つは、学校に寄贈されたとのことだった。


 そう言えば、思い出す。大変子煩悩な叔父だった。

 わたしの子どものころは、お子さん(いとこ)の名前を書き入れた大凧を作り、太い凧糸で、よく揚げていたっけ。その凧糸にさわらせてもらったり、風にうなる音を聞いたりするのが楽しかった。

 今回知ったが、お孫さんが幼かった時も、同様のことをやられたようだ。もっとも、もうむらからまちへ変貌を遂げていたから、むかしのような大凧とはいかなかったようだけれどね。


 晩年は、郷土に限らず、有名な城郭や寺社仏閣などの精巧な模型を作ることを生きがいとされた。ほんとうにこっていて、模型図などがないと、実際に現地を訪れ、サイズなどを測ったとのことだった。


 わたしたち家族は、父亡き後、何かというと、この叔父をたよってきた。今回も、我が家の法事についていろいろうかがおうと思っていた矢先の訃報だった。


 親族等にたよられるとともに、地域の中心となって活躍された叔父だった。

 ご家族の悲しみはいかばかりかと思われる。


 叔父さん、長い間、大変お世話になりました。ほんとうにありがとうございました。

 ご冥福をお祈りするとともに、謹んで哀悼の意を表します。


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 寒い中での葬儀でした。

 叔母さん。お力落としのこととは思いますが、どうぞ、末永くお元気でいらしてください。

 また、亡父は、10人兄弟だったけれど、もう、一人の叔母(亡父や叔父と兄弟の叔母)だけとなってしまいました。

「叔母さん。とうとう、兄弟は叔母さん一人っきりになってしまったねえ。」
「そうなんだよ。さびしいよう。・・・。toshiちゃん。遊びに来てね。」

 だんだんさびしくなりますが、元気に頑張っていきましょう。

rve83253 at 21:07│Comments(0)TrackBack(0)エッセイ | むかし

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