2010年03月29日

自分のそばに、小さいころの自分がいる。4

a55c47de.JPG 2年生の子どもが、自分の心を、ここまで文章に表現できるものか。すばらしかった。

 心からの感動を覚えた。


 生活科の『成長単元』である。

 学級のみんなが、『小さいころの宝物』を紹介し合った後、授業の終末場面で、その感想を書いたのだった。


 わたしは、この学校に、校内授業研究会の講師としておじゃましていた。

 Aちゃんは、一番後ろの席だった。だから、わたしは、Aちゃんがカードに書いているとき、その言葉をそくざに知ることができた。もう、えらい感動を覚えた。


 担任のBさんも、わたし同様だったのではないか。

 子どもたちがカードを書き上げるころをみはからって、数人の子を指名したのだが、そのなかにAちゃんはいた。


 
 それでは、さっそく、Aちゃんが書いたものを原文のまま、掲載させていただこう。

 どうぞ、ご覧ください。




 どれもなごやかで、のびのびしたふんいきがしました。

 今は学校やならいごとで、あまり気をつかっていなかったことを後かいしています。

 お母さんがそのことを大じそうに話すのを見て、自分のそばに小さいころの自分が
いるような気がしました。

 ぬいぐるみが宝物の人が多かったです。

 今もつかっているのもあれば、つかってないものもありました。

 それを買ったり、作ったりした人にかんしゃしたいです。



〇後の指導講評では、子どもたちのすばらしさを絶賛した。

 Aちゃんの、心の表現力。

 Cちゃんの、やさしさ、友達への共感。

 Dちゃんの、自己認識。

 など。など。

 
 そして、さらに、学習指導要領に示された生活科の目標に話を進めた。

 それでは、同目標を紹介させていただこう。



 具体的な活動や体験を通して,自分と身近な人々,社会及び自然とのかかわりに関心をもち,自分自身や自分の生活について考えさせるとともに,その過程において生活上必要な習慣や技能を身に付けさせ,自立への基礎を養う。


 わたしは、このクラスの子どもたちは、この生活科の目標をみごとにクリヤーしているとし、その感動も語った。



〇その象徴が、標題に掲げさせていただいたAちゃんの言葉だ。

『自分のそばに小さいころの自分がいる。』


 なんとすてきな言葉だろう。


・わたしは、以前から、主体的に学ぶ子どもが表現する言葉には、詩的味わいがあると書かせていただいている。そういう意味では、『子どもはみんな詩人だ。』といっても過言ではない。

 この言葉からもそれを感じた。とても、大人にはマネができない。


・この感性は、言うまでもなく、担任の指導力に負うところ大だろう。

 しかし、それだけではないね。


 この場合、お母さんが、Aちゃんの小さかったとき使っていたものを、それこそ、宝物のように扱い、むかしをなつかしんで語って聞かせたのであろう。それを見たり聞いたりして、Aちゃんは、『ああ。自分の小さかったころの思い出を、大切にしないといけないな。』と思ったのではなかろうか。

 ここには、お母さんの豊かな愛情を感じるし、それをしっかり受け止めるお子さんの感性も感じ取ることができる。まさに、『身近な人々への関心』。いや、関心などという言葉では済まされない。もっと深いものがあるね。

 
・ただ、一つ、

 子どもの多忙化といわれる今、『学校やならいごとで〜』云々は、ちょっとひっかかる。小さいころの宝物の学習で、こういう思いを抱くことについて、かわいそうに思わないでもないが、

 まあ、ここでは、いいだろう。

 すなおに、子どもの感性の豊かさを喜ぼうではないか。それに、Aちゃんのこの文面からは、『心のゆとり』を感じ取ることもできた。


・もう一つ。ちょっと本記事の論旨からは外れるが、すみません。お付き合いください。

 それは、

 わたしは、Aちゃんの言葉から、授業中にもかかわらず、拙ブログの過去記事を思い出したのである。いや、正確に申し上げると、いただいたコメントを思い出したのだった。

 それは、みっきーままさんからのコメントである。みっきーままさんのお子さんの『生きる力』について、わたしは、常々感動しているのだが、この授業のAちゃんの言葉は、まさに、それと同次元にあるように思われた。
 
 何回もいただいているコメントだが、今、ここでは、一つだけ紹介させていただこう。リンク先コメントの3番である。


 それではまた、授業に戻らせていただいて、


〇Aちゃん以外にも、感動的な子どもの姿はふんだんにみられた。 

 授業を見て強く感じたのは、担任Bさんの、子どもを包み込むような愛情だ。だから、子どもたちは安心して自分を表現することができる。

 たとえば、

 乳幼児のころ使っていたベビー服をもってきた子は何人もいた。ほとんどの子が、友達の要請にこたえて、それを身につけようとする。しかし、それは無理だ。

 大いなる笑いのなかで、冒頭ちょっとふれたCちゃんが言う。


 ああ。こんなことを言ってはCちゃんに失礼だが・・・、ごめんなさいね。

 はた目には、一見腕白そうに見えるCちゃん。

 そのCちゃんが、がらにもなく(いやあ。先入観です。ほんとうに失礼。ごめんなさい。)、『うわあ。かわいいねえ。』『お姫様みたい。』などと歓声を上げたのだ。

 その、あまりにも無邪気で、あまりにも純真で、素直な心を感じる、その声に、もう、何とも言えない感動を覚えた。


 そのやさしさ。友達の喜びへの共感。これもまさに、生活科の目標を達成している姿と思った。


〇でもね。

 Eちゃんだ。

 せっかくお友達が自分の宝物の大きさを誇らしく語っているのに、その友達に向かって、『ぼくはもっと大きな物を持っています。』と、ムキになって言い返した。

 教室中の温かな空気に、ちょっと水を差した感は否めず。

 でも、まあ、いいではないか。この程度のことは。

 2年生らしい子どもの姿とも言い得る。


 そう。ここは、何にも注意しなくても、黙ってやり過ごしても、かまわないだろう。このクラスなら、学級集団の温かみが、こうした言動を自然に淘汰していくのではあるまいか。そして、こんな学級の雰囲気なら、Eちゃんだって、別な場面では心温まる言動もしているはずだから、そのときに、絶賛してやればいい。





 そんな、感動の授業だったし、そのような学級を創り上げたのは、なんと言ったって、担任のBさんだ。

 しかし、『Bさんは、今、まさに発展途上。』

 そんな思いももった。

・もっと子どもを大切にできるはずだ。

・もっと子どもに感動の念を伝えることができるはずだ。

・そのためには、もっと子どもに問い返してほしいし、

・もっと子どもの思いをくみ取って、授業を進めるようにしてほしい。

 あとの、指導講評では、そのようなことも語らせていただいた。



〇子どもそれぞれは、心豊かに自分を表現している。しかし、大つかみにみれば、やはり、指導者が敷いたレールの上を子どもに走らせている感じなのだ。

・まずは、『宝物』というのを誰が言い出したのかということ。

 やはり、子どもであってほしい。

 たとえば、宝物(?)を持ち寄るとき、
「先生。みんなにはさわらせないでね。だって、ぼくの、わたしの、宝物なんだもん。」
などという言葉が出てこやしないか。

 それを受けて、指導者が、『〇〇ちゃんが言うような宝物は、みんなも持っているかな。』などとはたらきかけて授業が進むと、まさに、子ども主体の授業となっていくであろう。

 ところが、実際の流れは、指導者のはたらきかけで、『宝物』を持ち寄るようになったため、ちょっと無理もあった。

 なかには、『これは、子どもにとっての宝物というよりも、親にとっての宝物ではないか。』と思わせるものも混ざっていたのである。

 そんなときは、ちょっと迫力を欠いた点も否めなかった。


 もっと大事なことは、

 『宝物』という概念は、授業の出発点にあるわけではないだろう。つまり、たいしてそのような意識もないうちから、指導者側から言うことではないだろう。

 これは、感動とともに子どもがつかみ取るという、つまり、学習の目標として位置づくものだ。


・次、たとえ、指導者側が敷いたレールの上だとしても、それが、子どもからみれば、自分たちでつくった学習と思えるようにするためには、

 こんなことが考えられる。

 子どもが家から持ち寄った『宝物』のなかには、一見、『えっ。何でそれが宝物なの。』と言いたくなるものもあるのだ。これは、わたしだけでなく、子どもたちもそう思うのではないかという見立てだ。いわば、『不思議のタネ』とも言えるものである。

 それをとり上げると、授業は活気づく。そして、思考が深まる。感性が深まることだってありうる。


 本授業では、わたしは、次のように考えた。

 多くの子が、宝物として、赤ちゃんの時の服とか、食器とか、おもちゃとか、ぬいぐるみなど、そういうものを持ち寄っている。これなら、『宝物』ということが、直感的に理解できる。

 しかし、Fちゃんの机上には、なんと、幼児用のかさがあったのだ。

 何の変哲もない古ぼけたかさだった。

 さらに、Fちゃんは、発表のとき、
「幼稚園のとき、使っていたかさです。今は、小さくなってしまったので使っていません。」
とだけ発言した。

 ねっ。こういうのが、わたしの言う『不思議のタネ』だ。なぜ、これが宝物なのだろう。そういう思いがつのってほしい。


 こういうとき、子どもから声が出ないなら、指導者が問い返すべきだろう。

「ふうん。かさが宝物っていうのは、Fちゃんだけだね。もう使っていないのに、捨てないでとってあるのだ。何で宝物なのか、教えてくれる。」
と問いかければよかった。

 そうすれば、何の変哲もない古ぼけたかさだが、もしかしたら、Fちゃんの思い出が語られるかもしれない。そして、『Fちゃんのかさが宝物であることの共通理解』が教室中に生まれるかもしれない。

 もしそうなれば、それが多くの子の感性を育むことだって期待できる。


・さらに言えば、

 標題と冒頭にとり上げたAちゃんの文にしても・・・、

 まあ、現実は、授業の終末でカードに書いたものを読み上げたのだから、以下のような流れになることは無理だとしても、

 この文に書かれたAちゃんの思いをみんなで想像したり、Aちゃんの思いを聞いたりする時間を設ければいい。そうすれば、みんなが共感し合ったり、Aちゃんの思いに関係づけたかたちで、それぞれ自分の思いを語るようになるのではないか。


 いろいろ出てくると思われる。

 『自分のそばに小さいころの自分がいる』について、文字通り、『今、自分の机に自分の小さいときの宝物がある。』という理解にとどまる子もいるだろうし、

 お母さんの想いと、宝物を関係づけてとらえる子もいるだろうし、

 お母さんの思いがAちゃんに伝わって、Aちゃんは幼いころの自分を取り戻したととらえる子もいるだろうし、

 お母さんの思いがAちゃんに伝わり、それが別なFちゃんのかさの思い出と重なり、(これはわたしの勝手な想像で、そんな思い出があるのかどうかすら、事実としては分かっていないのだが、)親への感謝の思いにまでふれる子もいるだろうし、

 そんな語り合い(そう。この場合は、なにも一つの価値に収れんしていく必要はない。)が、友達の思いに水を差したEちゃんの心に何らかのぬくもりをもたらすかもしれないし、

 いずれにしても、いい語り合いができるのではないかと思われる。


 その際、担任のBさんは、ただ子どもの言葉を聞いて、それぞれを受容し、認めてやっていればいい。


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 研究会後、この学校の研究主任と、次のようなやり取りをしました。

「おしなべて、低学年はいい授業ができるのです。子どもも意欲的でよく発言するし、ノートやカードにもすばらしい気づきを書いてくれます。

 それなのに、高学年になると、どうしてあんなにおとなしくなってしまうのでしょう。発言が限られた子になってしまいます。」


「やはり、子どもが意欲的によく発言する低学年の段階で、指導者は、自分の敷いたレールにこだわるのではなく、

 子どもたちの発言や想いを大事にし、それを認めたり、深めたり、他と関係づけたりして、

 子どもが、
『ああ。発言してよかった。先生は無視しないで、ぼくの、わたしの思いをとり上げてくれた。』とか、
『ああ。先生は、わたしの発言を大事にしてみんなに投げ返してくれたから、すごく張り切った気持で学習できた。』とか、
『先生はどんな発言もしっかり受け止めてくれるから、何でも自由に言えて楽しい。』とか、

 そのように思える積み重ねがあれば、子どもたちは、高学年になっても、自由にいきいきと発言するのではないですか。

 それとは逆に、せっかく子どもがいいことを言っていても、指導者がそれに気づかなかったり、気づいても、あらかじめ自分が描いた授業の流れにこだわったりすると、つまり、授業を仕切ってしまうと、

 子どもたちは、言っても言わなくても同じと思うような積み重ねになってしまうので、それでは、どっちだっていいやという気持ちになり、だんだん言うのも面倒ということになってしまうのだと思いますよ。」

「よく分かります。でも、それは、レールなど一切敷かなくていいという話とは違いますよね。」

「ええ。それはむろんそうです。はなからレールを敷かなかったら、子どもたちの発言や想いをどう大事にしたらいいか分からなくなってしまうでしょう。認めるにしてもとんちんかんになってしまいます。まして、深めたり、他と関係づけたりはできません。

 そう。だから、レールを敷くというと、ちょっと強烈すぎますね。ライン引きでラインを引くくらいでしょうか。いくらも修正可能という姿勢が大切ですね。

 ただし、終着駅と言いますか、目標は、しっかりしていなくてはいけません。」



rve83253 at 15:16│Comments(0)TrackBack(0)指導観 | 生活科指導

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