2010年04月10日

教室での『〜しなさい。』は(2)4

3e2b7222.JPG 前々記事に対して、多くのコメントをいただいた。

 ありがとうございました。


 賛同の声。大村先生をたたえる声。

 また、逆に、『子どもたちが主体的に学習・活動すること』自体を疑う声。さらに、『〜しなさいと言うことに躊躇はない。』という声も寄せられた。


 疑う声に対しては、特に語ることはない。

 『学習指導要領をお読みなさい。』

そう申し上げるだけだ。


 ただ、教室で、指導者が『〜しなさいと言うこと』と、『子どもの主体的な学びを保障すること』との関係性等については、誤解もありそうだし、見解の相違もあるようなので、ここにあらためて、記事にさせていただこうと思う。

 なお、この誤解は、『〜しなさい。』を言わないようにしようとする教員にも、もしかしたら、あるかもしれない。



 そのまえに、

 そもそも、この記事のきっかけとしては大村先生の、

『まず「なになにしなさい」ということばをやめることです。教師がこうなったらいいと願っていることを、「なさい」ということばをつけて子どもに言う、これは専門職の教師としては、たいへん、みっともない気がします。そう安易に言わないで、自然に子どもにさせてしまう人、そういう人が教育の専門家らしい人だと思います。』

という言葉があった。


 この言葉からわたしは思うのだが、

 もしかしたら、大村先生は、『主体的な学び』と、真正面からはおっしゃっていないかもしれない。


 そう。

 『指示、命令などしなくても、子どもが自然にやりだす。』

 そこには、安易でない教員の姿勢。

 たとえば、子どもの学びを知り尽くそうとする営み、子どもの学びに対する謙虚さ、そのうえでの教材研究や授業の準備の緻密さ。


 この、大村先生の実践については、民間企業で働く『むらちゃん』をして、

 『(大村先生の、授業への)取り組み姿勢は、働き方として普遍性があるなと思いました。業務上調査する必要が生じることは、多くの職業で存在します。仕事として調べるわけですから、大村さん並の迫力と緻密さで調べなければならないのだと実感しました。』

と言わしめるものを持っている。


 振り返ってみれば、今回、わたしが学ばせていただいた最大のことは、この、『働き方の普遍性』なのであった。



 それでは、話を戻して、誤解の件だが、

〇まず、『教室で〜しなさいを言わないとするのは、悪しき平等主義だ。』という誤解がある。

 だから、いきなり、『〜しなさいと言わなくったって、教師と子どもである以上、そこに権力関係は存在するし、それを否定しても始まらないではないか。』というかたちで返ってくる。

 つまり、『〜しなさい。』を言わないのは、権力関係の否定ととらえられてしまうのだね。 


 これは先ほども述べたように、『〜しなさい。』を言わない教員のなかにも、同じような誤解が生じているかもしれない。すなわち、『権力関係』の存在まで否定してしまい、友達のような関係を指向してしまう。



 わたしが申し上げたいのは、そういうことではない。

 『教室で〜しなさいを言わないのは、あくまで、子どもの主体的な学びを尊重するからであって、師弟(権力)関係まで否定するわけではない。

 それは、前々記事の後半、『〇わたしが、拙ブログで、よく使っている言葉がある。』以降でふれているが、『(指導者が)目標の意識をしっかりもつ。』とか、『ほめたり共感したり、受容したり、』という言葉に示したつもりである。

 今、さらに追加させていただくと、子どもの発言やノートに書かれていることを、『関係づけたり、価値づけたり』もするわけだ。

 やはり、教員は、日々、子どもを評価している。評価によって子どもを伸ばそうと努力している。

 それがもう、指導する側とされる側とで、一線を画していることになるのではないか。


 うまいたとえではないかもしれないが、

 西遊記で、孫悟空(子ども)が思う存分あばれまわる(主体的に学ぶ)よね。しかし、しょせん、それはお釈迦様(教員)の手のひらのなかだったという、あんな感じかな。

 だから、『主体的に学ぶ』という際大事なのは、子どもがどう認識しているかである。『先生に言われたからやっている学習』なのか、『自分たちがやりたいからやっている学習』なのか、それは子どもの認識が決定するのだ。

 指導者側からみた場合は、ストレートに、『〜しなさい。』と言ってしまうか、子どもの学びを刺激したり、支えたりする姿勢に徹するかということなのである。


 なお、この点について、大村先生の実践に対しては、かなり違うイメージを持っている。あくまでむかし著作を拝読したにすぎないのだが、

 大村先生は、かなり、教師の指導性を、子どもの前に出されたのではないか。西遊記でたとえれば、孫悟空はお釈迦様の手のひらの存在を最初からしっかり認識していたのだと思う。そして、しっかり認識していたからこそ、そのなかで、安心して、また、自分は伸びると信じながら、思う存分、主体的に学ぶことができたのではないかと思う。

 『〜しなさい。』などと言われるまでもなく、先生があまりに自分の学びについてよく把握してくれているし、あまりに指導がきめ細かく行き届いているので、自分からがんばらざるを得なくなる。

 おそらく、そんな感じだろうと思う。


 なお、先に、『〜しなさい。』を言わないことにしている教員も誤解しているかもしれないと述べた。

 それについて、老婆心ながら申し上げたいことは、けっして、指導者の指導性まで否定してはならないということだ。

 ただ、わたしの思いとしては、指導者の指導性は、子どもにはみえていないのが望ましい。あくまで、子どもは、『自分ががんばったからこそ伸びた。』と思えるような姿が望ましい。

 

〇以下は、誤解ではない。教育観の違いと言ったらいいかな。

 ただし、YKさんには感謝している。

 今回は、意見が真っ向対立したが(もっともYKさんは、対立ではないとおっしゃる。それに、最後にふれるが、YKさんの教育観は、大村先生に近いのかもしれない。)、しかし、真剣、かつ、まじめに、わたしの記事を受け止めてくださっている。

 逃げず、ごまかさず、真っ向から論戦(?)を挑んでくださるので、

 わたしも真剣に、書かせていただこう。


 なお、YKさんのコメントは、リンク先コメントの13、17、18、20番である。

 

 さて、

 (人類)共通普遍の価値といったものは確かにある。それはお互いに認め合っている。

 しかし、『共通普遍の価値』をどう押さえるかについては、見解が分かれた。


・わたしは、《共通普遍の価値であるがゆえに、『〜しなさい。』を言うのは当然》 とは思っていない。共通普遍の価値でも、子ども自身が、正義とか、人間的弱さとか、さまざまな価値葛藤を経て、自分自身で獲得すべきと考える。

 わたしは、これまで、道徳の授業を何回もとり上げ、記事にしてきたが、すべてそうした考えに基づいて授業を行ってきた。


・一方、YKさんはそうではない。共通普遍であるがゆえに、『〜しなさい。』を言うのに躊躇はないとおっしゃる。


・わたしは、共通普遍の価値について、『子どもたちは、何がいけなくて何はいいことか、もうすでに、知識としては理解している。理解しているが、なかなかそれができない状況がある。』とした。

・しかし、この点でも、YKさんは違うようだ。『認識させる必要がある。』ということは、知識としても分かっていないということだろう。


 
 大村先生だったら、なんとおっしゃるのだろう。

「やはり、共通普遍の価値であるなら、『〜しなさい。』などと言わなくても、自然に子どもにそうさせてしまう人、それが教育のプロでしょう。」

とおっしゃるのではないか。

 
 YKさんは、『〜しなさい。』と言わないのを、『小学校で、そういうことを明確に意識させないのなら、』とおっしゃった。

 少なくとも、わたしは、それは逆だと思う。

 意識させるどころか、獲得させるのである。大村先生の『そうさせてしまう。』とは、そういうことだろう。

 僭越ながら、わたしの道徳の授業や初任者指導も、そうしたセンをねらっているのである。


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 わたしの『〜しなさい。』を言わないように努める姿勢は、校長としての学校経営にも通じるものがあったと思います。

 子どもに対してはもちろん、教職員に対しても、さらにまた、PTAに対しても、できるだけそうした思いで臨んできました。

 できるだけという意味については、

 わたしは、『〜しなさい。』は、3つに限定して考えていました。

・法令に問われかねない事態のとき、
・人権問題になりかねない事態のとき、
・そして、緊急を要するとき

 でも、実際問題として、そういう事態は、ほんの数例しかありませんでした。


 学校経営については、以下をご覧いただければ幸いです。

    校長の学校経営(1)

 PTAに対しては、

    PTAと学校(1) 

 また、大村先生の実践については、次のようなホームページがありました。リンクさせていただきましょう。

    感想 バラとおわら風の盆と釣りなどの雑記

 これを拝読すると、大村先生の教育観は、『〜しなさい。』は、みっともないとおっしゃるものの、YKさんに近いのかなという気もしてきました。

rve83253 at 16:24│Comments(30)TrackBack(0)教育観 | 指導観

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この記事へのコメント

1. Posted by むらちゃん   2010年04月11日 01:18
門外漢がなんどもコメントを差し上げて恐縮です。「〜なさいと言わない」という点について少し補足させてください。toshiさんが引用されている私の記事は、実は大村さんの言葉を要約したものです。原典の言葉が長いので、端的に伝えるためこのような措置をしました。
私のブログで、青色の文字は要約、茶色の文字は引用、と決めています。

ですから、この議論をされる際は、ぜひ原典に当たっていただきたく存じます。きっと何か得るところがあるはずです。

それからこの点について、教育社会学者の苅谷剛彦さんが、解説文でうまい説明をなさっています。それを説明した記事は下記。

こちらをお読みになると、大村先生のねらったところがある程度おわかりいただけるのではないでしょうか。
2. Posted by むらちゃん   2010年04月11日 01:23
セキュリティ上、コメント欄にURLの記載ができない設定になっているようですね。
苅谷さんの解説についての記事は、「日本の教師に伝えたいこと」の記事の次に記載した「解説に感動」という記事です。

それからtoshiさんにお願いがあります。
私のブログへのリンクURLにすべて#moreが入っています。これは、記事の冒頭部分だけをご覧になった人向けにつけている「アンカー」とよばれる機能ですので、できれば削除いただいた方が、お読みになる方には親切ではないかと思います。
お手数をおかけして申し訳ありませんがよろしくお願いいたします。
3. Posted by toshi   2010年04月11日 06:32
むらちゃんさん
 こちらこそ、何度もリンクさせていただき、ありがとうございます。
 それに、おっしゃる通り、久しぶりに大村先生の著作を読んでみたく思います。
 ただ、大村先生の実践は実践で確かにすごいし、尊敬しますし、先生の言葉からも学ばせていただくことは大きいのですが、子どもの主体的な学びを保障するという我々の実践について、『手放しに子どもの主体的な学びに寄りかかる』とされているのなら、そこは、やはり違うと言いたいです。
 でも、この辺は読んでみないと分からないですね。
 #moreは、すべて外しました。お教えいただき、ありがとうございました。
4. Posted by むらちゃん   2010年04月11日 11:24
toshiさん、わたしが「解説に感動」という記事で補足しているのがまさにその部分なのです。大村さんの教育観について、苅谷さんは次のように述べています。

----引用始め-----
大村先生のいう「教えるということ」は、手放しに子どもの主体的な学びに寄りかかるものでも、紋切り型のやり方で目に見える「基礎学力」をつけさせる方法でもありません。本書の随所に書かれているように、教師が入念な準備をした上で、確実に身につけさせなければならない基礎の部分を、授業の工夫を通じて教える。その教えるということが、子どもの学びを誘い出すのであって、最初から子どもの学びに寄りかかるのでも、頭ごなしに教師が主導するのでもない方法です。
----引用終わり----
5. Posted by 中国語教室@東京   2010年04月11日 15:35
「○○しなさい」とすぐに言ってしまうのは、
やっぱり簡単だからだと思います。
『指示、命令などしなくても、子どもが自然にやりだす。』
こういう状態になってくれればとても理想ですが、
どうやったらそこまでたどり着けるのか・・・。

これからも参考になるお話を楽しみにしています。
6. Posted by ちろ   2010年04月11日 20:00
toshi先生の
>やはり、教員は、日々、子どもを評価している。評価によって子どもを伸ばそうと努力している。

それがもう、指導する側とされる側とで、一線を画していることになるのではないか。

という部分がすっと入ってきました。私も前回のコメントで「大人>子ども」という表記を使ってしまいましたが、「〜しなさい。」という言葉が権力を表すというとを言いたかったのではありません。いかに「〜しなさい。」という言葉を使わずにこどもたちを動かせるかということだと思います。(また語弊がありそうです・・・)

>指導者の指導性は、子どもにはみえていないのが望ましい。あくまで、子どもは、『自分ががんばったからこそ伸びた。』と思えるような姿が望ましい。

共感しました。まだ私は経験が浅いですが理想は、子どもが自分の力で学んでいる、自分の力でできた!と思うようなしくみを授業に入れることです。そのために教師は教材研究や学習環境の研究をするのだと思っています。先生が口出しをしなくても成り立つ授業ができたらいいなと思います。ですから、やはり「〜しなさい。」はあまり使いたくないです。
toshi先生のトピックに対するみなさんの熱い討論からたくさんのことを考えさせられました。ありがとうございます!これからの実践に生かしていきたいと思います。
7. Posted by YK   2010年04月12日 02:11
私は大村はまさんの本を読んだことはないのですが、私の影響基盤は、彼女と同世代の人びと(小林秀雄、福田恒存、岡潔など)かもっと上の世代のマイナーな思想家たちなので、彼女の思想は興味あるし、読めばおそらくしっくりくるだろうと思います。toshi先生のおっしゃる主体性の議論も、やはり、私のほうが35歳若いので経験不足な面もあるのでしょうね。ただ、私はいわゆる常識=コモンセンス、これは原義ではcommon sense(共通の感覚)ですが、それを獲得させる機能を小中学校が果たしているのかどうか、、私としては先生の議論を信じたい気持ちでいます。
8. Posted by YK   2010年04月12日 02:20
>>「やはり、共通普遍の価値であるなら、『〜しなさい。』などと言わなくても、自然に子どもにそうさせてしまう人、それが教育のプロでしょう。」

もはやこれはもう経験論に過ぎないのですが、こればかりは、非常に上手くいく場合があるのですね。「先生は私たちに大切なことを教えてくれた」と言ってくれれば、やはり嬉しいですよね。一方で、上手く行かない場合もありますね。学級の雰囲気というよりは、学校全体の雰囲気なのかな、という気もしますが・・。
9. Posted by toshi   2010年04月13日 02:26
むらちゃんさん
 大村先生の著作を読ませてもらいました。
 うううん。やっぱり、むらちゃんさんが引用された部分は、わたしたち問題解決学習を志向するものとは、違いがありそうです。つまり、わたしたちが志向するところを、『最初から子どもの学びに寄りかかる』とされているようです。
 共感できる部分はものすごくあるし、『ああ。おんなじだ。』とする部分もかなりあるのですが、教育観にはかなり違いがありそう。
 その辺は次回記事で明らかにしていきたいと思います。どうぞ、よろしくお願いします。
10. Posted by toshi   2010年04月13日 02:30
中国語教室@東京さん
《それが簡単だから。》
 はい。わたしもその通りだと思います。もっとも、それだけではなく、『それこそが確実に身につけさせるために必要』という思いもあるようです。
 次回以降をよろしくお願いします。
11. Posted by toshi   2010年04月13日 02:39
ちろさん
《いかに「〜しなさい。」という言葉を使わずにこどもたちを動かせるかということだと思います。》
 いいえ。語弊などないですよ。わたしもまったくそのように思っています。大村先生も同じことをおっしゃっています。
《子どもが自分の力で学んでいる、自分の力でできた!と思うようなしくみを授業に入れることです。そのために教師は教材研究や学習環境の研究をするのだと思っています。先生が口出しをしなくても成り立つ授業ができたらいいなと思います。》
 前半部については、わたしも、大村先生もまったく同じだと思います。しかし、後半部は、大村先生の思いはかなり違ってくるように思います。『〜しなさい。』は言わないが、ヒントなど、口出しはかなりしていますね。
 わたしも、受容、共感、称賛、意味づけ、関係づけのたぐいの口出しは、大いにします。
 もっともこの部分は、ちろさんもおそらく同じ思いでいらっしゃるでしょう。
 次回以降もよろしくお願いします。
  
12. Posted by toshi   2010年04月13日 02:46
YKさん
《それを獲得させる機能を小中学校が果たしているのかどうか、》
 そうおっしゃられれば、それは確かにおぼつかない面がありますね。それは認めざるをえません。
《「先生は私たちに大切なことを教えてくれた。」》
 大村先生の教え子は、かなりこう思っていますし、おっしゃってもいるようです。
 わたしの教え子はあまりこういうことを言いません。『熱血教師だった。』とは言ってくれますがね。やはり、子どもたちは、価値を自分たちで身につけたと思っているからだと思います。 
13. Posted by ドラゴン   2010年04月13日 15:49
私もご紹介していながら、自分の子どもについ「〜しなさい」と言ってしまうことがあります。そういうときは、感情的だったりもするので、反省しております。

toshi先生がおっしゃるとおり、緊急を要するときなどは言わなければなりません。
ただ、それ以前に子どもが育っていない場合も難しいだろうと思います。それは、問題解決学習とも共通しています。
それまでドリル学習ばかりしていて、勉強はドリルだと思っている子どもにいきなり問題解決を期待しても戸惑うばかりでしょう。それまで、「〜をしなさい」で育ってしまった子どもに、自分で判断して主体的に行動しましょうと言っても難しいと思います。
やはり、まず子どもを育てる、クラスを育てるということが必要になると思います。
子どもが育っているクラスでは、それこそどの教科でも、子どもが自ら問題を解決していこうという姿勢が見られます。
小学校は学級担任制ですから、そうしたこともやりやすいと思いますし、子ども一人ひとりを理解できますから、子どもに応じて対応することもできるでしょう。

また、「〜をしなさいを言わないこと」そのものが目的になっている場合もあるのではないでしょうか。形式に陥っているというか、言わないけれども、近いことを子どもに押しつけているとか、例えば、静かにしなさいを言わないけれども、静かにしなかった子どもを脅すとか、罰を与えるとか、そうしたこともありそうです。イエローカードなんて言えば、優しそうですが、それも子どもが自主的に行動することとは違います。
それは問題解決学習も形式に陥って、問題解決学習の手順を踏んでいるだけで、深まりのない授業が多いという問題が指摘されていることと似ているように思います。
14. Posted by ドラゴン   2010年04月13日 15:50
私が尊敬する算数授業の名人は、「一番教えたいことを子どもに発見させる」と主張されています。算数でも問題解決学習を通して、自分で公式を作ったり、面積の求め方を考えたりもします。でも、例えば台形の定義などは、子どもが作り出すというわけにはいきません。すでに定まっていること、決まっていることは、これはやはり教えるということも必要になります。そうして一番肝心なところを子どもが発見するように授業を工夫するのです。
「1を10個に分けた数を0.1と言います」ということは、これは教えなければいけませんが、それを基に、「それじゃあ10を100に分けた数はどうかな」と考えさせることはできます。この部分もすぐに教えてしまったら、10進位取り記数法のよさが理解されません。最初の決まりを活用して、類推的に考えるようにできることが大事なのです。
100に分けたことを教えてしまえば、それじゃあ1000に分けた場合、1万と永遠に教えるのでしょうか。そんなことはできません。
どこを教えて、どこを子どもに発見させるか、こうしたことが必要だと思います。

やはり、最後は子どもをどう育てたいか、どういう子どもになってほしいかでしょう。その点は、実は、みなさん共通はしているようにも思うのです。
15. Posted by ドラゴン   2010年04月13日 15:51
「共通普遍の価値」については、私もtoshi先生の立場で、子どもの多くは認識していると思います。
ある社会科の講演会で、「4年生の水・ゴミの学習で、子どもたちは水の大切さ、資源の大切さを学び理解している。テストでも良い成績である。でも、実際には掃除のときには水を流しっぱなしにして、鉛筆やノートの扱いも粗雑ですぐ捨ててしまう。だから、理解よりも態度の方が大事なのです」と話された方がいらっしゃいました。知識・理解より関心意欲態度を重視するということがまだ理解されていないころの話です。
ですから、「共通普遍の価値」については、認識していても行動に移せないということがよくあるでしょう。教室では静かにしなければいけない、ということもおそらく全ての子どもに聞くとそうだと答えるでしょう。でも実際には違います。
だからこそ、上で、「一番教えたいことは子どもに発見させるようにする」というのと同様に、「一番子どもにさせたいことを子どもが自分でするようにする」というのも、非常に大切だと思うのです。それは「〜をしなさい」を言わないことでもあります。

16. Posted by YK   2010年04月13日 20:56
>>ドラゴンさん

ドラゴンさんのご意見はごもっともであると感じます。教育に情熱のある方だと思いますので、少し質問させて頂きます。

>>「共通普遍の価値」については、私もtoshi先生の立場で、子どもの多くは認識していると思います。

例示では「水の大切さ、資源の大切さ」を子どもは理解しているとあるのですが、子どもは本当にこれを理解できているのですか?というよりも、教師は理解しているのですか?

もし理解できているのであれば、水質汚濁のリスクがあるのに原子力発電所が建設される理由や放射性廃棄物を最終処分する施設がないという現状について、子どもにどのように説明しているのですか?私は嫌がらせで聞いているのではなく、こういう問題を解決できる人材を育てるのが今後の教育の課題だと思っているのご意見を伺いたいのです。どうかご教授お願いします。
17. Posted by toshi   2010年04月14日 06:51
ドラゴンさん
《子どもが育っていない場合も難しいだろうと思います。》
 はい。その通りです。わたしは、子どもに対し、『〜しなさい。』を言わなければいけない例として、
・緊急を要する場合、
・人権にかかわる問題の場合、
・何度も繰り返される問題行動
があると思います。最後がドラゴンさんが書かれたケースに当てはまると思います。

 問題解決学習のことについても、まさに、おっしゃる通りで、今の仕事の初任者指導にしても、4月5月のころは、どうしても、問題解決学習に慣れさせる指導が中心となりますね。それも、高学年になればなるほど、困難さが増すようです。
 ああ。このことも記事にさせていただきたく思います。

《形式に陥っているというか、言わないけれども、近いことを子どもに押しつけているとか、》
 ドラゴンさんがあげられた例は、言葉として言わない分だけ、指導者が楽しているとも言えそうですし、『〜しなさい。』を言うよりもっとひどいことになりそうです。
 初任者指導では、『〜しなさい。』は、ほとんど許容しますが、こちらの方は、もしやっていたら即刻やめさせますね。人権問題になりそうですし、そうした風土を学級につくってしまいそうだからです。

 形式に陥った問題解決学習も、共通普遍の価値についても、まさにおっしゃる通りで、ドラゴンさん、いやあ、もう、まったく勉強させていただきました。ありがとうございました。 
18. Posted by toshi   2010年04月14日 06:59
YKさん
 記事中、YKさんのお名前を間違って記載しておりまして、失礼しました。読者の方からご指摘いただき、直させていただきました。ごめんなさい。
19. Posted by ドラゴン   2010年04月14日 11:09
YKさん

ご質問の件は、とても重要な指摘だと思います。あくまでも私論ですが、思うところを回答させていただきます。

これは、私の考えで、認知心理などの裏付けがあるわけではありませんが、「知ること」「分かること(理解すること)」「できること(その考えや知識を活用すること)」には、それぞれ大きな隔たりがあると思います。
例えば、相対性理論については大まかに知っていますが、理解はしていません。もちろんこの理論を使うことはできません。

20. Posted by ドラゴン   2010年04月14日 11:09
>例示では「水の大切さ、資源の大切さ」を子どもは理解しているとあるのですが、子どもは本当にこれを理解できているのですか?というよりも、教師は理解しているのですか?
私が例示した「水の大切さ」は、子どもたちが「知る」レベルだと思います。それをきちんと理解して、実行できるようにしなければならないと思いますが、多くの人は「知ればできる」と思われているようで、そこで止まっているようにも思います。
教師については、一般論としては理解していると考えたいです。個別の例としてどうとも言えません。ずっと以前、ある総合的な学習の研究会だったと思いますが、みなさんは最近川の水に触れたことがありますか?と尋ねられたとき、ほとんどの教師が、触れたことはないと答えていました。都市部でも多摩川や荒川などで水に触れることができる場はいろいろとあります。理解が机上になっているような印象もありました。
ただ、体験しなければダメと言うこともありません。書籍や新聞などから学ぶことも当然にあります。戦争を体験しないと戦争の悲惨さを理解できないということもないでしょう。

しかし、子どもの段階では体験も必要だと思います。具体的な体験から学ぶというところを重ねて、抽象化して考えるようにできるようになるのではないでしょうか。小学校1年生もおはじきで数を考え、上の学年で抽象化した数を扱うようになります。
「水の大切さ」も福岡などで渇水を経験した子どもでは理解の度合いが違うでしょう。
ですから、「水の大切さ」を知識として与えられるだけでなくて、両親に聞いたり、水道局の資料を集めたり、新聞記事を集めたりなど、自分で調べて、そうしたことから考え、判断すると、より深く理解できるようになると思います。
21. Posted by ドラゴン   2010年04月14日 11:10
>水質汚濁のリスクがあるのに原子力発電所が建設される理由や放射性廃棄物を最終処分する施設がないという現状について、子どもにどのように説明しているのですか?
私が日頃から発言している教育への誤解の一つに、「教えれば分かると世間が思っている」ことがあります。教えて分かればこんなに簡単なことはありません。子どもに説明したから、子どもが理解して問題解決ができるようになる、ということもありません。
だからこそ、教師が指導法などを工夫しているのです。

特にこの内容ついては、小学校レベルでは説明する必要もありませんし、すべきではないと思います。中学でもどうでしょうか。
まず、1点目として、説明すれば理解できるという程度の内容ではありません。大人でも難しいでしょう。大人でも難しいということを子どもに理解させようとするのは、どうでしょうか。
2点目として大人でも評価が定まっていないことを子どもに教え込むことの危険性です。指導者のイデオロギーに左右されることでもあります。指導者がそのときの価値観で正しいと思ったことを子どもに注入することは、実は小国民を育てたことと同じなのです。
3点目としては、社会は同様の問題をたくさん抱えています。個別の問題に対して教えていくことよりも、子ども自身がそれぞれに対応できる力を身に付けることの方が重要だと思います。
22. Posted by ドラゴン   2010年04月14日 11:10
>こういう問題を解決できる人材を育てるのが今後の教育の課題だと思っている
これはまさしく重要です。そのためには基礎的となる知識も必要ですが、考え、判断するということもとても大事です。
私の小学校の担任だった先生は、理科の学習で、常に自分で観察し、考え、論理的に結論を出すことを繰り返し、繰り返し強調されていました。私は今のものの考え方の根底にこの先生の授業があると思っております。
また、私の尊敬する社会科の先生も、学習の結論を急ぎません。結論を出さないこともあります。オープンエンドと言われるやり方でしょうか。
例えば、スーパーの工夫で、ある子どもが「商品の良し悪しより安くすること」と主張し、ある子が「値段よりもよい商品を提供すること」と意見が分かれても、それぞれの調べ学習とそれから考えを導き出した過程が正しければ、両方とも正解です。
こうした学習を積み重ねることで、自分で考え、判断する力が身につき、その時々の情報から自分で判断して問題を解決できるようになるのではないでしょうか。
ご指摘の原子力発電所の問題なども、こうした力が身についてから、子ども自身で考えるようにするべきだと思います。

逆にこうした自分で判断できる力が身についていないと、その時々の情報で誤った判断をしてしまうこともあるでしょう。そういう大人も多いように思います。

いかがでしょうか。お答えになったでしょうか。
23. Posted by YK   2010年04月14日 23:00
ドラゴンさん

お返事ありがとうございます。私はドラゴンさのおっしゃることは大変よくわかりますし、大事だと思います。

>>これは、私の考えで、認知心理などの裏付けがあるわけではありませんが、「知ること」「分かること(理解すること)」「できること(その考えや知識を活用すること)」には、それぞれ大きな隔たりがあると思います。

おっしゃる通りで、私もそれぞれ違う概念だと思います。英語で言えば、「知ること」は、「knowledge(知識)」ですね。「理解する力」を「intelligence(知性)」とすると、私が、共通普遍の価値というとき、それはknowledgeもintelligenceも含まれますが、「wisdom(英知、知恵)」に一番近いのです。行動の源泉とは英知であり、英知こそ一番素朴に見えつつ、一番獲得するのが困難なのだと私は思います。そして、science technologyを成長させるのは、intelligenceかもしれないですが、行き過ぎた技術に対して、自浄作用をもつのが、wisdomだからなのですね。放射性廃棄物などというと、極端な例に見えると思いますが、人類の英知が試されるという意味では、非常に素朴な問題なのではないかと思います。その意味において、私は子どもの直覚力は、知識を超えることもあるのではないかと思います。
24. Posted by YK   2010年04月14日 23:13
>>「水の大切さ」も福岡などで渇水を経験した子どもでは理解の度合いが違うでしょう。
ですから、「水の大切さ」を知識として与えられるだけでなくて、両親に聞いたり、水道局の資料を集めたり、新聞記事を集めたりなど、自分で調べて、そうしたことから考え、判断すると、より深く理解できるようになると思います。

経験はやはり大事だと思いますね。特に、親や周辺の人から話を聞くという機会を設けることは、本当に大事だと思います。今は、家族内でも対話が無い場合が多いですよね。コミュニケーションも含めて、そうした経験を与えるような教育できたら、それはその子の将来にとって、とてもプラスになると思います。小学生がそこまで新聞に拘る必要もないような気もしますが・・。
25. Posted by YK   2010年04月14日 23:36
>>2点目として大人でも評価が定まっていないことを子どもに教え込むことの危険性です。指導者のイデオロギーに左右されることでもあります。指導者がそのときの価値観で正しいと思ったことを子どもに注入することは、実は小国民を育てたことと同じなのです。

これもおっしゃる通りなのです。イデオロギー化した思想の危険性、これを十分に認識しないで、教え込むということは、歴史的に見ても、非常に危険なことなのです。ところで、こうした問題を語るとき、イデオロギーの特徴について吟味しないといけないのです。まず第一に、イデオロギーが発生するとき、必ず、イデオロギー化した人びとは、集団化します。小国民も、全体主義国家体制の中で育ったわけですよね。そして第二に、イデオロギー化するとき、人間は必ず、無責任になります。責任の体系が曖昧になるのです。それが、イデオロギー化した組織の怖さです。戦後においても、全学連なんてのがありましたよね。「共通普遍の価値」と私が言う時、絶対に、集団化した思想の中に、それを位置付けてはいけないのです。が、人間である以上は常に何かの影響を受けながら発言をしているわけで、私は自分の発言に、常に責任を持たなければいけないというわけです。私が別の記事で、

<その価値を言語化して、「〜しなさい」、「〜してはいけない」という言葉を使うことに躊躇はありませんね。もちろん、自分のクビを賭けて使うわけですが>

と書いたのは、そういう意味なのです。
26. Posted by YK   2010年04月15日 01:42
toshi先生

>>記事中、YKさんのお名前を間違って記載しておりまして、失礼しました。

何度も書きこんでしまい申し訳ありません。私の名前はYKでもYSでもそれほど変わらないですね・笑

わざわざ気を遣っていただき恐縮しております。
27. Posted by toshi   2010年04月17日 08:52
ドラゴンさん、YKさん
 大変重要な、教育観の根本にかかわる議論だと思いました。ありがとうございました。
 わたしもちょっと議論に参加させてください。

 ドラゴンさんがおっしゃる、
『子どもに理解できることか、』
『指導者が自分の価値観で正しいと思ったことを子どもに注入していいか、』
『子ども自身がそれぞれに対応できる力を身に付けることの方が重要』
は、まったくそのとおりと思います。

 同じことを繰り返してしまいますが、
 わたし自身は、憲法擁護論に近いのですが、わたしのクラスの子どもたちが擁護論者になろうが、改憲論者になろうが、そのこと自体は構わないと思っています。
 大事なのは、どちらにしても付和雷同でなく、自ら主体的、多面的、論理的に憲法をとらえ、判断する力を持つこと。それに尽きると思うのです。そういう子どもを育てたいと思っています。

 これにかかわる過去記事がありますので、紹介させてください。

 本コメントのtoshiのところをクリックしていただければ出るようにしましたので、よろしくお願いします。『いわゆる平和教育』です。 
28. Posted by YK   2010年04月18日 00:19
>>同じことを繰り返してしまいますが、わたし自身は、憲法擁護論に近いのですが、わたしのクラスの子どもたちが擁護論者になろうが、改憲論者になろうが、そのこと自体は構わないと思っています。大事なのは、どちらにしても付和雷同でなく、自ら主体的、多面的、論理的に憲法をとらえ、判断する力を持つこと。それに尽きると思うのです。そういう子どもを育てたいと思っています。

そう、そうですね、まさにその通りだと思います。そこがポイントですね。付和雷同にならない、自分の頭で考えて、行動するというのが、一番大事ですね。そのためにも、相手を尊重し、多面的に物事を見ようと努力する人を育てるのが、とても大事なのだと思います。
29. Posted by YK   2010年04月18日 00:30
これは大人でも、ほとんどの大人にとっては簡単なことではないと思います。今回の議論でも、私の発言に対して、ドラゴンさんが紳士的に対応してくれたからよかったですが、批判のし合いになってもおかしくなかったわけですよね。だからこそ、私は書き込んだ後に、自分の考え方のミス、というか考え方の偏りについて省察することができました。その点で、ドラゴンさんにも、toshi先生にも、本当に感謝しています。
30. Posted by toshi   2010年04月20日 03:40
YKさん
 ものすごく謙虚におっしゃっていただいて、もう、涙が出るくらい、うれしく、ありがたかったです。
 以前も、拙ブログが、『大人の問題解決学習』になっていると感じ、そう書かせていただいたことがありましたが、またまたその思いを強くしました。
 わたしの方こそ、ドラゴンさん、YKさん、そして、読者のみなさんに感謝申し上げます。

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