2010年04月14日

『日本の教師に伝えたいこと』を読んで、3

04c87f65.JPG むらちゃんさんからご紹介いただいた、大村先生の著作、『日本の教師に伝えたいこと』。わたしは、購入して読もうと思ったのだが、なんと、この本、我が家にあった。

 古ぼけて茶色っぽい姿で、本棚の奥にあった。巻末を見ると1999年とある。

 何ということだ。

 これまで、かすかな記憶にたよって記事を書いていたこと、むらちゃんさん、ドラゴンさんはじめ、読者の皆さんには、ほんとうに申し訳なかったと思う。

 どうも、すみませんでした。


 それにしても、むらちゃんさんが、

『教師という職業を入口に、「働くこととは」「コミュニケーションとは」について語った本ではないでしょうか。』

とおっしゃるほど、教育書以上に普遍性を感じられてお読みになった本を、わたしは購入しながらも、忘れ去っていたことになる。

 『穴があったら入りたい。』とは、まさにこのことだね。



 先日の日曜日、一気に読ませていただいた。それも、繰り返し、繰り返し。

 そして、言い訳になってしまうが、忘れ去っていたわけも分かったような気がした。



 それは後述することにして、


〇いろいろ言いたいことはあるが、何はともあれ、やはり、すごい実践が書かれた本だ。それは間違いない。

・ヒント、手引きに当たるものを、子どもの数を上回るほど、準備して授業にのぞむとか、

・子ども一人ひとりの実態を、言語生活という視点で、実に緻密にとらえ授業にのぞむとか、

・単に漢字を覚えるとか、語彙を増やすとかいう学力観でなく、また、ただ単に活発な授業というだけでなく、言語生活という視点で子ども一人ひとりを伸ばす視点を、これもまたすごく緻密にもっていることなど、

 これらははっきり言って、感動しっぱなしと言ってもいい。


〇次に、

 どうだろう。拙ブログの読者の皆さんが、もし、この大村先生の著作をお読みになったら、

 『ああ。toshiが主張したり実践したりしたのとけっこう同じ内容があるな。』と思っていただけるのではないか。


・まずは、『〜しなさい。』を言わないということにかかわっては、

 『指導者から与えたにしても、子どもの気持ちは、天からのありがたい授かり物のように、また、まるで自分で発見したかのような感覚で受け取れるようにしたい。』とある。

 これは、拙ブログの『しかけどころ(1)』『同じく(2)』と重なる。(1)は理論編。(2)は実践編となっている。

 そう。大村先生が、『ヒント、手引き』とおっしゃったものを、わたしは、『しかけ』と言っている。そのように言葉の違いはあるけれどね。


・次に、大村先生の著作には、『学級のみんなが真実の言葉で話し合う。みんなで話し合うことによって、一人で考えているのでは到底いきつくことのないところまで到達する。思いがけない一つの思想が生産される。世界が新しく開けてくる。』

 これは、『充実した学習を(2)』が重なる。実践をもとに、終末に、考察として書いている。


・その他にも、

・真の話し合いのできる、民主国家の一員に育てたい。
・気づいたら、〜できるようになっていた。
・いろいろ調べたが、単元にならないと思い、あきらめた。
・子どもの実態を知ろうとして、子どもに問いかけても、たいしたことは分からない。それより日ごろの何げない子どもの言動にこそ真実があるのであり、ふだんからそれらを拾う姿勢が大切である。

などが、拙ブログ記事の内容と重なってくる。


〇また、

 『単元学習』という言葉が随所に出てくるが、これはもう、感動ものだ。

 大村先生は、いうまでもなく、中学校の先生である。


・中学校と言えば、もう、高校受験を目の前にして、ややもすれば、受験用学力養成に追われてしまうだろう。わたしはかつて、こうした中学校の問題を記事にしたこともある。

 そうした状況のなかで、受験用学力ももちろん含むが、そこに焦点を当てるのではなく、広く、子どもの言語生活の向上を願い、未来に生きる日本人の育成という視点で、子どもが躍動するような授業に取り組まれた点、ただただ敬服に価する。


・もう一つ言えること。

 それは、これも、皆さん、ご承知のように、中学校は教科担任制だ。子どもの言語生活といったって、すべての時間、同一の子どもと生活しているわけではない。それに、小学校とは比べ物にならないほど、多くの子どもを指導しなければならない。

 そういう意味では、薄く広くなりがちだ。

 こうした意味でも、ただただ敬服に価する。



〇ただし、残念に思うこともある。

・前記事に、むらちゃんさんからコメントをいただいたが、その4番

 わたしたちの実践を、『手放しに子どもの主体的な学びに寄りかかるもの』とされていることだ。もっともこれは、大村先生ご自身の言葉ではないのだが、でも、著書には、こうした言葉が繰り返し登場する。


 これは心外だ。

 わたしたちは、これまで、何度も授業実践を掲載させていただいてきたように、『手放し』ではないし、『寄りかかって』もいない。


・わたしたち、問題解決学習を標榜するものは、学習問題は、子どもが抱くであろう疑問、こだわりであることを基本とする。それがないと、学習は始まらないと考える。

 だから、社会事象をじっくり見る時間を設けるなど、何とかそれを掘り起こそうとするし、
単元に入るはるか以前から、それこそ、先ほどの記述ではないけれど、何気ない子どもの言動を観察したり、収集したりする。

 大村先生は、わたしたちが大切にする、子どものこうした言動を、たいして意味のないものとされているようだ。そんなものをとり上げても、価値のある学習になりえないとされている。

 だが、そうだろうか。

・つい数ヶ月前の事例をとり上げてみよう。


 1年生に、『どうぶつの赤ちゃん』なる説明文をとり上げた単元がある。単元名は、『違いを考えて読もう。』

 お話は、ライオンとしまうまの赤ちゃんの成長の様子の違いを説明している。

 クラスの皆で音読した後、一人の子が、
「先生。ライオンのあかちゃんは、ウンチ、しないの。」
と聞いた。

 お話にウンチのことは出てこない。それで、担任は、『何、おかしなことを言うのだろう。』とばかり、
「それは、するでしょう。」
で終わらせてしまい、自分で予定した学習の流れに入ってしまった。


 だけれど、これは、そんなに意味のない、くだらない問いかけだろうか。

 お話には、『2か月くらいお乳だけを飲んで大きくなる。』とある。

 この子は、『お乳だけで育つのなら、その期間、ウンチはしないのではないか。』と考えた。お乳は液体だものね。


 先生は、調子を合わせてやればよかった。

「うわあ。おもしろいこと言うわね。でも、ウンチのことって、お話に書いてあったっけ。」とか、
「なんで、ウンチしないと思ったの。」とか、


 ウンチ談議なんて、子どもたちはのるだろう。

 もちろん、これは、お話には書いてないから分からない。でも、こんなのは解決する必要はない。

 ウンチしないかどうかは分からないけれど、
『お乳だけ飲んで育つ期間(すみません。1年生はこんな言葉はつかわないね。)は、しまうまに比べると、すごく長い。』
ということがクローズアップされればいいことだ。

 このように、子どもが真剣に学習にのぞんでいる限り、意味のない発言、価値につながらない発言など、そちらの方が圧倒的に少ないくらいだ。


・また、これは、小学生だからと言えそうだが、子どもはよくこういうことを不規則に発言する。

 音読の後、『ああ。おもしろかった。』などということもある。『タヌキの糸車』など言いそうだね。

 そうしたら、
「そうかよ。そんなにおもしろかったか。」
「おもしろいよ。なあ。」
「だって、〜。」
それこそ、これは、大村先生もおっしゃっていることだが、自然と話し合いに入ることができる。


 もちろん、指導者は、あらかじめ、学習の流れは想定している。『しかけ』も考えるし用意する。しかし、こうした子どもの発言があったとき、臨機応変に対応することも大切ということだ。
  
・もう細かくは書かないが、大村先生が、たいした意味はないとする初発の感想も、わたしたちは大切にする。

 以上、子ども主体の学習とは、そういうことだ。
    

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・読者の皆さんのなかには、『それは、小学校と中学校の違いなのではないの。』と思われた方もいらっしゃるでしょう。

 それは、やはり言えると思います。

 中学校は、学習内容も多いし、とてもゆっくりとしたペースではやっていられないでしょう。それは分かるのですが、やっぱり、問題解決学習一般として批判されると、それは、残念としか言いようがありません。


・もう一つ。社会科と国語の違いもあろうかと思います。

 この点については、近くまた記事にさせていただくつもりです。


 よろしくお願いします。
 
 『(2)単元学習をめぐって』へ続きます。
 

rve83253 at 00:21│Comments(4)TrackBack(0)教育観 | 教員の指導力

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この記事へのコメント

1. Posted by やまびこまま   2010年04月14日 11:02
大村先生の著書、やっと手に入れまして読み始めました。「日本の〜」はなかったので「教えるということ」ですが。
今回の記事にある「・・・たいした意味はない」というような文にはまだ出会いませんが、大村先生はそうはおっしゃっておられないように感じています。むしろ、toshi先生の「動物のあかちゃん」の授業のほうが「大村的」だと思ったのですが。あくまで素人意見ですので失礼がありましたらごめんなさい。

今読んでいる著書の中で「わかりましたか」という言葉は「はい(わかりました)」という答えをを暗に期待していることになるから使わないように努力したとありました。子どもたちに本当に真剣な答えを期待するのであれば使わない。toshi先生のおっしゃる「子どもの発言に臨機応変に対応することの大切さ」に通じるものではないかと、感動しつつ読み進めております。
2. Posted by toshi   2010年04月14日 23:03
やまびこままさん
 おっしゃること、よく分かります。実際、実践そのものを見つめるのであれば、ものすごく共通する部分があるのです。
 しかし、基本的理念には、かなりの相違があるようで、
 たとえば、わたしが、
《学習問題は、子どもが抱くであろう疑問、こだわりをもとにすることを基本とする。それがないと、学習は始まらないと考える。》とした部分について、『日本の教師に伝えたいこと』によれば、『(子どもの)初発の感想など、参考にするのはいいかもしれませんが、あまり重くみすぎないことです。よさそうでいて、案外貧しいものになりかねません。』としているのです。
 わたしは、貧しい感想しかないのであれば、それが子どもの実態なのだから、その貧しい実態に指導者が寄り添い、そこから一歩高まるように指導したいと思うのに対して、どうも大村先生は、『それは子どもに寄りかかっているにすぎない。』とみて、指導者が緻密な手だてを講じ、価値ある学習まで引き上げるべきとしているように感じるのです。
 ですから、ご指摘の『どうぶつの赤ちゃん』の例もそうですが、
 もう一つ、
 一つの過去記事のURLを本コメントのわたしの名前toshiのところに貼り付けさせていただきました。
 有名な金子みすゞさんの『わたしと小鳥とすずと』の詩の授業です。誤読が多かった時、それを、子ども同士の問題解決学習のなかで正していった経過を記事にしました。
 このような場合は、かなり違う授業になるのではないかと思います。
 
3. Posted by やまびこまま   2010年04月16日 17:20
コメントいただきありがとうございます。
金子みすずの授業、拝見しました。大村先生ならばまず「正しく読み取る」ことを教師が先に指導されるのかな、とも思い、toshi先生のこだわっていらっしゃる点がわかる気がいたしました。
河童の授業も読ませていただき、toshi先生の授業の舞台裏ではどれだけ沢山の準備をされているのかが、よくわかりました。「しかけ」るためにはさりげなく見えるような準備周到な手回しも大切なのですね。
いろいろ失礼もあったかと思いますがご容赦ください。私は小学校の教員ではありませんが、「教える」ということにはかかわっているのでとても勉強になりました。ありがとうございました。

4. Posted by toshi   2010年04月17日 09:05
やまびこままさん
 過去記事もご覧いただき、ありがとうございました。
 失礼などとはとんでもないことです。まったくそのようなことはありません。
 大村先生の実践は、日本の中学校の実践であることや、個々へのきめの細かな指導であることなどを考えたとき、『すごい』の一言に尽きるのですが、教育観に関しては、かなり違うなという思いをもっています。
 ただし、違いは尊重するというのがわたしの思いです。わたし自身の教育観や実践は、拙ブログに書かせていただきますが、大村先生のそれも大事にしていきたいと思っています。
 同氏の著作については、まだ数回記事にしていきたいと思っています。どうぞ、よろしくお願いします。

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