2010年04月19日

『日本の教師に伝えたいこと』を読んで (2) 単元学習をめぐって3

08fb6963.JPG 本シリーズ、前記事に対して、やまびこままさんよりコメントをいただいた。

 
 『toshiの授業は大村的と思う。』との、大変ありがたいコメントだった。『しろうとの意見』と謙遜の言葉が添えられていたが、こと、教育に関しては、しろうともくろうともない。誰だって、教育の受益者なのだから。

 
 ただ、これから数回にわたり、同書をとり上げさせていただくつもりなので、そのなかでふれる拙教育論についてご理解賜れば、ありがたく思う。


 本記事では、同書にたびたび出てくる『単元学習』にふれてみよう。



〇単元とは何か。

 それこそ、しろうとであろうとなかろうと、この言葉を聞いたことがないという方はいらっしゃらないのではないか。

 保護者の方だったら、お子さんの学年だよりなどに、学習の予定が記載されると思うが、そこにもしかしたら、『単元』と書かれているかもしれない。


・今、多くは、『学習内容のまとまり』といった意味合いでつかわれているのではないか。

 前々記事末尾の具体例でいわせてもらえれば、単元名は『違いを考えて読もう』。そして、説明文の『どうぶつの赤ちゃん』は、題材名ということになる。

 しかし、大村先生の『単元学習』の場合、これでは意味をなさないよね。こんな解釈だったら、誰がやっても、みんな単元学習になってしまう。



・本来の意味はそうではない。

 単元なる言葉は、戦後、民主主義教育の発足とともに、広くつかわれるようになった。そのころは、『子どもの生活経験のまとまり』ともいうべきものだった。

 今、そのころの学習指導要領にリンクさせていただこう。昭和26年版学習指導要領、社会科編試案第4章である。

 今の学習指導要領と違い、教育書的な趣きがある。そういう意味では、教員でない方でも、読みやすい文章ではないかと思う。

 よろしければ、ご覧ください。

 同要領冒頭の『単元とは何か。』をご覧いただくと、本来の意味がご理解いただけるのではないかと思う。


 簡単に言わせていただければ、

・児童自身の生活経験からうまれ、児童にとって切実な問題から展開する学習のまとまり

・児童の関心や欲求に基づき、児童自身の問題として、はっきりとした目的意識を持ちながら、自主的に問題解決を図ることのできる学習のまとまり

 そうなるのではないか。



・ここで、『日本の教師に伝えたいこと』の本に戻らせていただくと、

 同書にたびたび出てくる、『単元学習』なる言葉。同書においては、まさに、本来の意味で、単元という言葉が使われている。



〇大村先生はおっしゃる。

・単元学習で学ばせてこそ、言葉への関心も高まり、話せたり聞けたりするようになり、すばらしい読書人が育ち、筆不精でなく、言語生活の優れた人が育つはずだ。

・やはり、ある種の感動とか、求めるものとか、何のために学ぶのかとか、そういった切実なものが子どもにないと、単元学習とは言えないでしょう。


 これらの言葉から、大村先生は、子どもの、学びへの意欲、態度、興味・関心をいかに大切にされているかが分かるであろう。

 そして、漢字の読み書きとか、語彙を増やすとか、そういうことが、そのまま授業の目的になってしまうのではなく、いかに子どもの言語生活を見つめ、それを伸ばすか、それが目的となっていることもご理解いただけると思う。

 つまり、単元学習とは、単なる知識の切り売りではない。子どもを全人格的に見つめ、人間そのものを伸ばしていこうとする学習なのである。


 大村先生の著作からお言葉を借りるとすれば、

・必要に迫られたのでなければ、ほんとうの問答はない。

・本気で考えて、本気のことを率直に言う、これは、言語生活者にとって基本的で最も大切な態度でないか。

などの言葉に、大村先生の信念を感じることができる。



〇さあ。

 ここまでは、大村先生と思いを共有することができるのだが、ここから先が違ってくる。

 
・先ほどの、『単元』の話に戻ろう。

 単元とは、本来(昭和20年代)、『子どもの生活経験のまとまり』であると述べた。

 子どもの生活経験。そこに学習の足場を置き、子どもにとって身近で切実な学習問題をとり上げて解決していくようにする。
 

 そうだとすれば、子どもの生活経験と教科の枠とは、どういう関係になるだろう。


 たとえば、買い物に行くとしよう。

・献立を考えるのは家庭科。

・値段、数量等、金額の計算は算数。

・お店で何を選ぶかは社会科。

・お店の人との会話、看板等を読む力は国語。

 そのように教科で分断したら、一つの生活経験はばらばらになってしまい、とても、『〜のまとまり』などとは言えなくなってしまうね。


 そこで、昭和20年代、一部の研究校においては、単元学習を推し進めた必然として、教科の枠を取り払って単元構成するようになった。

 それを、コアカリキュラムと呼ぶ。



〇ここまでお読みいただくと、大村先生の著作からは、ちょっと違ったニュアンスを感じざるを得なくなるだろう。


・同氏の実践に、「アイヌ、その意味は『人間』」の単元があり、その単元をとり上げた経過、実践等がくわしく書かれている。


 このなかに、以下のような記述がある。


 『国語の単元学習のつもりで始めても、このような単元では、やっているうちに社会科の学習になってしまわないだろうか。』という声がある。

 しかし、それは、目標がしっかり国語に定まっていないからだ。目標がしっかりしていれば、どんなにアイヌ民族のことを調べても、国語から離れることはない。』


 わたしは、前項で述べたことからして、この考えは、『単元学習』とは違うのではないかと思った。分断できないものを教科で分断する考えだ。そう思った。


・つまり、
 
 国語の目標。それは大切にしなければいけない。『話す・聞く』活動とねらい。『自分の語彙を広げること』などの活動とねらい。そういったものを大切にしていくことは、当然だ。

 しかし、だからと言って、他教科の学習に入ることをおそれる必要はない。

 このアイヌ民族の学習の場合、

 アイヌについての文献を調べたり、それをもとにディスカッションしたりすれば、

 つまり、国語の授業を行えば、アイヌ民族の生活や生き方などを深く知ることになり、さらに、アイヌ民族と大和民族の争いなどにも関心が向くことになり、

 社会科に入っていくことは必然といっていいだろう。また、そのようになってこそ、すばらしい価値ある学習になるのではないか。


・現に、その後に書かれる、『あきたこまち物語』の話では、どうも、社会科の内容にまで踏み込む単元構成を推奨されているように感じるのだ。

 同氏は、次のようにおっしゃっている。

 秋田県内での講演で、秋田の教員に向かっておっしゃっているのだが、

『(この単元は)秋田なら、ぜひとり上げてほしい。』と推奨した後、『大潟村のことなど、実に日本の歩みとともに苦悩してきた農村ではないかというように思いがけない展開になるのではないか。』



・さらに、『子どもに頼りすぎない。』とお話しているところがある。

 これも、思いを共有できる部分もあるが、しかし、『それで単元学習と言えるのか。』と感じる部分もある。


 まず、想いを共有できる点だが、

 『子どもから出たものでなければ学習にはならないと、きゅうくつに考える必要はありません。

 たとえ教師から与えたものであっても、子どもが先生から与えられたとは思わず、自分たちで追求したいから、今学習しているのだと思えるようにするのが、教育です。』とおっしゃる。

 これは、先の記事の、教室での『〜しなさい。』は?にもかかわるね。

 わたしもその通りと思うし、現にそうした実践を記事にしたこともある。前々記事のリンクとは別な実践にリンクさせていただこう。

    しかけどころ(3)


 しかし、『ええっ。』と思う部分もあるのだ。

 それは、子どもが書く初発の感想について、

 子どもは初発の感想を書きたがるし、また、よくつぶやきもするのだが、それらを『参考程度に、』というのでは、ちょっと首をかしげてしまう。

 冒頭書かせていただいたように、単元学習が子どもの生活経験に学習の足場を置く以上、これでは、その精神から外れてしまうのではないか。

 そう思う。

 このあたりのことは、やまびこママさんのコメントにわたしがお返事させていただいたコメント2番に、よりくわしく書いてある。よろしければご覧ください。



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〇『生活経験のまとまり』などと申しても、今の小学生の保護者の方々には、どのような学習だったか想像もつかないでしょう。もう、昭和30年代後半からは、単元観が、『学習内容のまとまり』に切り替わってしまったからです。

 つまり、つめ込み教育の時代となってしまったのですね。

 そこで、単元名だけですが、昭和20年代、ある小学校でどのような単元が組まれていたか、紹介した過去記事があります。それにリンクさせていただきましょう。

    温故知新(9) 歴史的、地理的な学習は?


〇今日の記事は、ちょっと批判中心になってしまったきらいがあります。

 しかし、そうは言っても、大村先生を尊敬する想いに、いささかのゆるぎもありません。

 先の記事では、中学校で単元学習を行うことについて、教科担任制の面から、また、高校受験のことから、

 非常に実践しづらい環境にあるにもかかわらず実践されたことについて、感動の気持ちを書かせていただきましたが、


 もう一つ、書かせていただきましょう。

 それは、『生活経験のまとまり』と申しても、わたしは、小学校における授業の話という思いが強かったです。

 中学校は、大人が築き上げた学問体系の基礎を学ぶところと思っていました。

 だから、その中学校でも、『単元学習』が行われたということは、すなわち、子どもの生活を大事にした教育を行っているということは、やはりすごいことだと言わざるをえません。

 
〇最後に、そうは申しても、今は、中学校においても、教科横断型の単元学習を行うことは可能です。

 それは、総合的な学習の時間があるからです。

 大村先生が、もし、今の時代に生きる先生だったら、この総合的な学習の時間をフルに生かして、それこそ、『真の単元学習』を実践されるに違いない。そのようにも思うのです。




rve83253 at 00:49│Comments(0)TrackBack(0)教育観 | 問題解決学習

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