2010年05月03日

生活科の家族単元、及び、成長単元(2)4

5e7a9fed.JPG 本記事では、子どもの『お手伝いと仕事』を中心に、わたしの考えを書かせていただこう。したがって、タイトルは、シリーズとしての行きがかり上、『家族単元、及び、成長単元』としたが、ほとんど、家族単元にかかわる内容となることを、あらかじめ、ご承知願いたい。


 最初に、学習指導要領では、このあたりのことをどう書いているか、みてみよう。


 それによると、

『家庭生活を支えている家族のことや自分でできることなどについて考え,自分の役割を積極的に果たすとともに,規則正しく健康に気を付けて生活することができるようにする。』

とある。


 上記の『お手伝いと仕事』は、『自分でできること』や『自分の役割』となっているね。


 わたしが考えるに、『自分でできること』というのはお手伝いに近く、『自分の役割』というのは仕事に近いかな。


 でも、これ、一概には言えないだろう。


〇とりあえず、最初に申し上げたいことは、『どちらにとらえるかは、子どもの意識、思いが決定する。』ということである。


 一つの過去記事を紹介させていただこう。

 もっとも、ここでとり上げる事例は、家庭でのお手伝いでも仕事でもない。『子どもの意識、思いが決定する。』ということを申し上げたいがために、引用させていただく。

 我がホームページなので、文字は大きくなっている。リンク先の後半部、カットの下の方である。

    〇生活科の一こま

 授業時間ではあるが、子どもは『公園での遊び』の活動に徹している。気分は遊びのはずだった。(ただし、担任の構えは、遊びだけではない。リンク先記事にもあるように、遊びに熱中している子どもの活動を観察したりもする。)

 そんな活動だが、

 一人の子が、
「先生。そんなところにボケッと突っ立っていないでよ。こっちは仕事で忙しいんだから。」
と叫んだ。

 担任が思う『遊びの活動』が、この子にとっては、『仕事』となっていたわけだ。


 この子はどういう気持ちで、『仕事』と叫んだのだろう。

 そう思うが、こればっかりは分からない。1年生の子どもに、自分の気持ちを言わせようとしても、

 『ううん。』とばかり首を傾げたり、『なんとなく。』とか、『分からない。』とか、『仕事と思ったから仕事。』などという言葉しか返ってこないだろう。


 まあ、担任であるわたしがおしはかるしかないのだが、

 おそらく、『忙しい。』とか、『みんなと一緒にやっている。』とか、『同じ活動を繰り返しやっている。』とか、『活動に没頭している。』とか、そうしたことが潜在的に錯綜して、『仕事』という言葉になったのだろう。


 担任が客観的にみれば、もちろん、彼らのやっていることは仕事ではない。担任の方がよほど仕事をしている。

 でも、彼らにはそうみえていない。『ボケっと突っ立っている。』という認識である。


 そうではあるが、子どもが『仕事』としているのなら、とりあえず、それを受容、共感、承認してやろう。

 とりあえず、そう言いたいわけである。



〇次に紹介させていただく記事は、ちょっと、読者の皆さんの関心が他にいってしまいそうで、とり上げさせていただくのは申し訳ない気もするのだが、どうか、お許し願いたい。

 それは亡妹の葬儀当日のことを書かせていただいた記事である。

 その際、ある方の読んでくださった弔辞が、本記事とかかわってくる。

 なお、下記リンク先記事の中ほど、『弔辞が読まれた。』からがそれにあたる。

 それでは、どうぞ。

    やすらかに、母の元へ(2)

 
 妹は、日ごろ、我が子の言動に対し、その許容範囲が広かった。だから、一般の親よりは、『〜しなさい。〜してはいけません。』が少なかったと思う。

 また、その延長線上にあると思うが、我が子の『〜したい。』という気持ちは最大限尊重した。  

 そして、可能な限り任せてしまう。そう。可能な限りなのだよね。


 それを、どう、とらえたらいいだろう。

 『任せてしまう。』ということは、『(我が子に)仕事という意識をもたせたい。』ということになるかな。


 ああ。でも、ごめんなさい。

 本記事では、『お手伝い・仕事』の概念を考えているので、こんなふうに書いてしまったが、妹自身は、このとき、『仕事という意識をもたせたい。』とは思っていなかっただろう。

 あったのは、『子どもの想いや意欲を大切に、』とか『自立への願い』とか、そういうものではなかったか。



〇さて、ここまで述べて、『お手伝い、仕事』についての考察を深めてみたい。

 先ほど、最初の引用では、『お手伝い、仕事』というのは、とりあえず、子どもの想いが決定すると述べた。受容、共感、承認したいとも述べた。

 だから、教室へ戻ったら、

「すごかったねえ。感心しちゃった。だって、〇〇ちゃんは、『仕事をしている。』と言っていたんだもん。遊んでいる気分ではなかったのだね。

 だから、もう、一生懸命やっていたし、それで汗もいっぱいかいていた。友達とも力を合わせていたしな。」

などと言ってやる。


 しかし、『子どもがやっていること』としてみても、客観的に、これを仕事ということはできない。だから、何とか、『仕事』という名にふさわしいところまで、子どもの想いを高めたいと考える。


 さあ、それは何か。

 わたしはこう考える。

 『自分のやりたいことばかりではなく、学級のために必要な活動だから、ぼく、わたしはやる。』
 『学級のために必要な活動だから、やり続ける。』

 子どもがそのような意識になったとき、心から、『仕事をやっている。』と認めていいことになるのではないか。


 家庭におきかえてみれば、

 『自分のやりたいことばかりではなく、家族のために必要なことだから、ぼく、わたしはやる。』
 『家族のために必要だから、やり続ける。』

 そうなるのではないか。



 家庭。

 そうだ。2番目の、妹の事例にふれよう。

 これも、この場面だけなら、客観的に見て、仕事とは言えないだろう。

 あくまで、子どもの意思にゆだねているだけだしね。


 でも、これも、大人が、子どもの気持ちを、受容、共感、承認する姿勢をもてばいい。簡単に言ってしまえば、ほめたり感謝したりすればいい。

 最初は、
「おいしくできたね。」
「お母さん、楽ができたから、うれしいわ。」
「自信がついたでしょう。」
などというほめ方、感謝の仕方になるだろう。

 でも、これだけでは、まだ、『仕事』という意識まで子どもを高めたとは言えないね。


 どう言ったらいいだろう。

 こうした姿勢を親が持ち続ければ、子どもはかなり家庭生活に対し、意欲的になるだろうから、

 ほめたり感謝したりする言葉を、それに合わせて、変えていけばいい。

 たとえば、
「いつもご苦労様。」
「ずいぶん長く続けているね。すごい。」
「ずっと、がんばり続けているからうれしいな。まるで、自分のお仕事になっているみたい。」

 このようにして、ほんとうの仕事になっていく。


 要は、
 
 子どもの身のまわりにいて、子どもに影響力をもつ大人が、
・そういう意識をもてばいい。
・そうすれば、その観点で、子どもを認め、ほめ、称賛することができる。
・それによって、子どもはその方向に伸びていく。



〇次、ここまで読まれて、読者の皆さんは、
『toshiは、お手伝いより仕事の方が、高次な概念ととらえているな。』
と思われたかもしれない。

 それは、そうなのだ。でも、『お手伝い』は底次元と決めつけるつもりはない。


 ここで、むかしの我が実践にふれさせていただこう。

 
 学校では、今でこそ、『家族単元』と言っていると思うけれど、学習指導要領の前回改訂時までは、『お手伝い単元』という言い方がふつうだったと思う。そのころは、前記事に書かせていただいたように、学級一斉に行う『洗濯体験』など、けっこうどこもやっていた。 

 そして、多くの学校が、『昨日はどんなお手伝いができましたか。』などと言ってカードに書かせたり、おうちの人の感想などを記入する欄も設けて協力を仰いだりした。


 これでは、まさに、画一化だね。


 各家庭には、各家庭の事情があり、子どもへの期待や願いも多様なはず。

 極端な話、現代は、『我が家は、子どもにお手伝いなどさせようとは思わない。』というおうちだってあるはずなのだ。

 逆に、『我が家は、子どもにも仕事を分担してもらっています。』というおうちだってあるかもしれない。


 そういう多様なニーズに応えられないような学習が多かった。


 ここで、また、一つの過去記事を紹介させていただこう。

 学校の授業で、『多様性を認める。』とは、どういうことか。

 また、最近、わたしは、『不思議のタネ』という言葉をよく使っているが、それがどう生かされているか、そんな視点でお読みいただけたらありがたい。


 『家庭の協力をいただいての授業』の後半部、『〇「しっかりお留守番していてね。」「(妹を起こさないように、)静かにしててね。」「妹の面倒をしっかりみててね。」というのもあります。』からがそれにあたる。


 これを授業で実践するとしたらどうなるか。


・まず、『お手伝い』の絵を描かせたい。

 そうすると、『お手伝い』の絵のはずなのに、一見お手伝いの絵になっていないものが描かれるだろう。こたつにあたってテレビを見ていたり、妹と遊んでいたりする絵だ。

「ええっ。そんなの、お手伝いじゃないよ。遊んでいるだけじゃん。」

などと友達から言われそう。


 でもね。話し合い学習のなかで事情が分かってくると、おうちの人は助かっているわけだし、自分がやりたくてやっているわけではないから、これも立派なお手伝い。

 多くの子が納得するようになる。


・もっと複雑な問題提起もありうる。

 本人は、お母さんのお手伝いをしたいわけだ。

 お母さんは晩御飯のためのお料理を一生懸命つくっている。脇で見ていて、わたしもやりたい。お手伝いできることはしたい。そういう思いをもっている。

 しかし、お母さんから言われてしまう。

「妹の面倒をしっかりみてね。お母さん、忙しいから。」

 それで、不承不承、妹の面倒をみだす。


 どうだろう。

 学習指導要領でいうところの、『自分でできること。』『自分の役割』に見事、当てはまる事例ではないか。

 お母さんはもちろん、晩御飯の支度を終えたときは、子どもに、『感謝』の言葉を伝えるだろう。

「しっかり妹の面倒をみてくれてありがとう。おかげで、お母さん、晩御飯の支度に気持ちを集中させることができたわ。」

 立派なお手伝いというわけだ。

 そして、不承不承だったのが、だんだん、親の求めるもの、願いを認識するようになり、積極的、意欲的に、応えようとするようになる。


 そうした事例を授業のなかで生かし、話し合い学習をすることによって、多くの子が、『自分のしたいことより家族のためにしなければいけないこと。』を大事にするようになる。

  
 また、子どもは、各家庭のさまざまなニーズを具体的に知ることになり、いろいろな家庭があるのだということが分かるとともに、自分の家のお手伝いについて考えるようにもなる。

 さらに、『ええっ。なぜ。』と思うことから、意欲的に学び、豊かな思考力を発揮するようにもなるだろう。

 そう考えると、『お手伝い』だって、決して低次元ではない。


 実際、我が実践であったことだが、

 『子どもにお手伝いなどさせようとは思わない。子どもは勉強さえしていればいい。』という家庭の子どもが、『ぼくにも、お手伝いさせて。』と自ら親に言い、するようになった。

 『子どもの学習の成果が、親を変容させた。』といっていい。

 その親からも、感謝の言葉をもらったっけ。



〇さて、『お手伝いと仕事』ということから入った本記事であった。

 しかし、『ああだ、こうだ。』と、とりとめもなく書き進めてきた感、なきにしもあらず。申し訳ありません。


 でも、あらためて思う。

 これを定義づけることはむずかしいね。


 たとえば、『仕事』についてまとめてみようとすると、

・継続的に続けることができる。
・単調なことの繰り返しでも、目的意識をもち、がんばることができる。
・自分のことよりも、身のまわりの人の願いや、自分の属する集団のニーズを把握し、そのために努力することができる。

 また、『お手伝い』は、

・身の回りの人の仕事の一部を補完し、その人を楽にさせることができる。


 でもねえ。そうとばかりも言い切れないよね。

 『そのときだけで継続的でないから、仕事とは言えない。』そう断言することもできないだろう。



 問題は、それらの概念をはっきりさせることではないのだね。

 それは、どうでもいい。

 要は、指導者が、

・硬直せず、そうした多面的な見方ができて、

・一人ひとりの子どもの想いやその家庭の実態、願いを把握し、

・それに即して、意欲的、実践的になるようにするとともに、

・心の豊かさをはぐくむ方向で努力することではないだろうか。


 そのためには、お手伝いにしろ、仕事にしろ、定義づけするのでなく、

 しかし、指導者の想いでよいから、しっかり分析はしておきたい。


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 学習指導要領においては、『役割』という言葉を多用しています。

 しかし、この言葉をそのまま低学年の子どもに使うわけにはいきませんから、そこで、どうしても、お手伝いとか、仕事とかいう言葉が必要になってくるわけです。


 最後に、学習指導要領の解説編をご紹介しましょう。そこにはどのように書かれているでしょうか。下記リンク先の29〜31ページです。

    小学校学習指導要領解説 生活編


rve83253 at 12:09│Comments(0)TrackBack(0)生活科指導 | 保護者

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