2010年05月19日

日本の民主主義を問う(3) 学校教育から 3

b13db5b2.JPG 本シリーズ。

 これまでは日本の政治状況からみてきたが、ここは、日本の学校事情についても考えてみなければならないだろう。
 
 なぜか。

 それは、前々記事にいただいた、やまびこままさんからのコメント3番に、いみじくも示されていた。

 やはり、『日本人と民主主義の相性』を考えた場合、好むと好まざるとにかかわらず、学校の存在を度外視することはできないだろう。


 わたしは思う。

 鶏と卵の関係ではないが、

 明治以来の学校教育が、深く日本人の精神風土の形成に影響を与えてきたといえるだろうし、逆に、もっとむかしからある日本人の精神風土が、明治以来の学校教育のあり方を規定してきたともいえそうだ。

 ともに関係し合いながら、民主主義が育ちにくい状況をつくり出してきたのではないか。



 それは何か。

 いろいろな言い方ができると思う。

 いわく。集団志向。

 いわく。画一化。

 いわく。教え込み教育、など、など。


 その結果、自分の頭で深く考えることをしないで固定観念にそまってしまったり、自己確立がなかなかできないで依存体質になったり、そのとき、そのときの空気に流されやすくなったりしてしまうのだと思う。

 
 かくして、やまびこままさんのおっしゃるように、『日本人の体質として民主主義は無理』とも言われかねないようになってしまった。


 本記事では、そうした意味合いをもって、日本の学校教育現場をみてみることにしよう。その際、やまびこままさんからのコメントを参考にさせていただこうと思う。


 
〇まず、『皆と同じならとりあえず安心』という気質について、


 学校教育の、どういう場で、こういう心情が養われてしまうのだろう。

 今、二つの過去記事を紹介させていただこう。

過度の集団志向

 ここでは、全校一斉に音楽に合わせて行う歯磨き指導、また、何か問題が起きると連帯責任を負わせる日本の学校教育をとり上げた。

 そして、歯磨き指導については、外国人がそれを見てどう思ったかにもふれている。その方は、『(日本では、国民の)集団志向が、学校で育ち始めるのだと思いました。』とおっしゃっている。

・もう一つの記事。それは最近、EDUPEDIAに投稿させていただいたものである。

    給食室前での、『いただきまあす。』について、

 ここからは、『とにかく、形にはめてしまおう。』とする日本の学校教育の姿を感じ取ることができる。


 ここで問題になるのは、

・どちらの記事も、その場にいる教員の多くは違和感を抱くこともなく、まったく無自覚、無感覚に行っていると思われる点である。まさか、このことが、『民主主義は無理』と思わせる教育につながるとは、夢にも思っていないであろう。

・『没個性』といったらいいかな。一人ひとりが大切にされていない。

 『〜しなさい。』を言わないでの教員の指導性のもと、『君はどうしたいの。』『君はあるがままでいいのだよ。』というようなメッセージが送られていない。

・他方、教え込み主義者からよく指摘されるのが、『個性重視の教育が子どもを野放図、わがままにしている。』という点。もちろんこういうのは、個性重視の教育ではないのであって、ただただ子どもの意のおもむくまま流しているに過ぎない。これもまた、日本の教育のもう一つのまずい姿だろう。

 ここにあるのは、指導性のなさ。これも、民主主義が育たない、もう一つの姿である。

 

〇次、「皆と意見が違うとちょっと不安・・」という心理について、


・よく、『日本は一斉授業ばかりだから、個を大切にしないし画一化になるのだ。』という声を聞くが、わたしはそうは思わない。

 一斉授業が、指導者の教え込みによってなされるから、子どもは受け身の姿勢となり、金太郎あめのようになってしまうのだ。

 そこではみな同じことを教わり、同じことを覚えなければならない。

 考えを出し合うことはあるだろうが、それは、指導者の発問のはんちゅうにとどまる。そして、『ここは大切ですよ。しっかり覚えましょう。』ということになってしまう。

 そうではなく、

 子どもが必要感をいだき、『よし。これは大切だから覚えるぞう。』(サイ『〜さい。』から、象『〜ぞう。』への教育をを参照していただければ幸いです。)という気持ちになるような指導ならいいのだが、

 そのような、子どもの思いを育み、意欲的に学ぼうとする資質を養う教育は、日本においては軽視される。

 指導者からみてとっびな考えは無視される。どんなに客観的にすばらしい考えといえるものであっても、指導者の思惑から外れれば、それはダメなのだ。

 その結果、大勢から外れるような、『自らの思い、考えを主張する』子どもは、『おかしな人』とされるような気運が醸成されてしまう。


 子ども一人ひとりが大切にされていれば、

 一斉授業のなかで、自分も含め多くの子の多様な思い、考えが出される。

 その多様ぶりは、一斉であるがゆえに、どの子にも感じ取れるものだろう。

 そして、指導者の『〜しなさい。』を言わないでの指導性のもと、子どもは、自分なりの価値判断をするようになっていく。

 これこそが、まことに正しい民主主義教育のあり方だよね。

 
 問題なのは、

 画一性もまた、日本の精神風土から発しているため、ほとんどの教員が、先ほど同様それでいいと思っており、ましてや、『日本の民主主義が育たない原因』などとは思ってもいないことだ。

 学習内容として民主主義を教えれば、民主主義を大切にする子どもが育つと思っている。

 その結果、皮肉なことだが、『民主主義を口にはするが、言動はちっとも民主主義的でない。』というようになる。



〇さらに、『自分の言葉で考える、発表する、討論するといった訓練が学校教育の中で十分になされないまま成人して選挙権を得ても、〜。』について、


 そう。多くの大人は、子どものとき、学校教育のなかで、そのような経験をしていない。

・民主主義を、知識として教え込まれただけだから、思想、あるいは、政治形態としてしかとらえていない。自分自身の学び方、生き方にかかわるという認識がない。

・おまけに、教え込まれたり、強制されたりした経験は豊富だから、

 いたずらに自己主張を繰り返し、相手の言うことを聞こうともしないし、ましてや、相手の言うことから学ぼうともしない。

 そういうものが多い一方で、

 従順になっているものも多い。

 科学も知識として教え込まれただけだから、科学的態度が身についていない。その結果、簡単にエセ科学に引っかかってしまうのも、日本人の特性として言えることだろう。

・こうした状況下での選挙権行使の意味を、わたしたちは、もっと考えてみなければいけないね。

・こうした状況だから、大人になって、民主主義的な生き方の大切なことに気づいたものは、大変な自助努力を必要としてしまう。学校教育に携わるものとしては、まことに申し訳ないことだ。



〇学校教育点検の部の最後は、『〜、その成人がやがて親となり、自分の判断がないままにとりあえず周りと同じように子どもを教育する・・・』について、

 やまびこままさんは、このように、親の姿として指摘されたが、

 これは、教員にも言えることであって、

 上記のように、まったく、無自覚無感覚に、旧態依然たる教育に走ってしまうのである。

・ここで、さらに、一例付け加えさせていただこう。

 今の時代は建て前が民主主義なので、学校教育のなかで、一見子どもが主体的に学んでいるふうをよそおうことがある。

 たとえば、全校集会の司会を子どもがやっている。しかし、子どもは何を言ったらいいか分からない。あるいは、分かっていても自信がないのでもじもじしている。

 そういうとき、そばに教員がいて、『こう言うのよ。』とばかり、言う内容をささやく。それで、子どもはその通りに言う。

 これでは、『民主主義の形骸化』を教えているようなものだね。

 案外多いのではないかな。

・もう一つ、初任者指導をしていて、痛感していることがある。

 自分の幼少期受けた教育にとらわれているのだ。

 以下は極端な例で、そう多くはないが、

1.自分としての指導観を体質として身につけてしまっているようで、そこからなかなか抜け出せない。

2.なかには、勤務校の教育が幼少期受けた教育と違うといって、怒り出すものもいる。

3.幼少期、指示・命令など、強制の教育になじんできた初任者は、子どもに指示・命令して当然と思っている。そうしたなかで、わたしの指導に強い反発心を抱く。



〇明るい未来のために、


 何とか、日本に、民主主義を、体質として根づかせたい。そのための方策は、

・つい最近も記事にさせていただいた。読者のみなさんも覚えてくださっているだろう。

 それは、『日本の教師に伝えたいこと』を読んで (4) 話す・聞く力の重視』の記事だ。

 このなかで、わたしは、大村先生の言葉に鳥肌の立つ思いがし、思わず身震いしたのだった。

『話す・聞く力育成の軽視は、民主主義国家の基盤を崩すもの』

 そう。やはり、『自分の言葉で考える、発表する、討論するといった学習』が必要なのだよね。


〇わたしは、今、初任者指導が仕事だから、そこでがんばる。

 
・大部分の初任者は、柔軟である。

1.子どもの学び、子どもの意見のとり上げ方、発問の仕方など、具体的に、状況に即して指導すれば、

 現実に子どもの変容していく姿がみられるのだから、その成果を受けて、こうした授業の大切さが分かり、それを身につけようと努力していくものが多い。
 
2.それに付随し、『なぜそうするのか。そうしたらいいのか。』を話すようにすれば、ストンとのみ込んでいくようだ。そして、児童観、教育観などを語るようにしている。

3.その際の初任者の印象的な言葉。

 『まるで自分のクラスでないみたい。』

 そう言いながらも、実にうれしそうだ。


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 前記事に、学生の伊藤さんから、コメントをいただきました。

 紹介させていただきましょう。



 政治家に一番求められることは正直と嘘をつかないです。

 政治家の言葉は重いです。

 そうであるならば、その言葉は正直でなければいけません。

 何もかも聞かれたことを話す必要はありません。漏らしてはいけないことがあるなら、言わなければ済むことですし、今後を左右することは言わなくてもいい。それについてうわべだけの人気取りをするなら政治家ではなく、政治愛好家です。

 嘘をついてはいけません、と誰しも教わったのではないかと思います。

 できることを一生懸命する。これは、政治家にかかわらず子ども、先生も同じことです。


 以上です。


 感銘を受けました。特に、最後、政治家を特別視するのでなく、『政治家も、子どもも、先生も同じ。』とおっしゃった点。

 そう。『人間、皆、同じ。』ですね。

 これこそ、民主主義の原点のように思いました。

 

rve83253 at 10:31│Comments(15)TrackBack(0)指導観 | 教育観

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この記事へのコメント

1. Posted by 伊藤   2010年05月19日 19:11
お褒めいただき幸いです。

なぜ、日本人は集団を好むのだろうか?
それは、村社会が学校社会にとけているからではないでしょうか?

「組」は村社会です。暗黙のルールがあり、それが守れない、破られたら村八分。今の学級と何が違うのでしょうか?
我々は近代化から100年以上たちながら、いまだに江戸ないしそれ以前の社会を脈々と受け継いでいることになります。

私は民主主義の形骸の最たるものは憲法です。
護憲、改憲ともに9条にしか目を向けてなく、また、それをあおるような政治家、メディアをみると辟易します。

なぜ、ここで議論が形成できないのか?
そして、なぜ反対の意見を学ばないのか?
私は改憲論者ではあるものの9条を手を加えることもありませんし、戦争賛美でもありません。
しかし、一部の方からは戦争美化であるとか軍国主義者であるとか言われます。

選挙も同じです。
なぜ、選挙に「情」が必要なのでしょうか?
利権であるとか諸々ありますが、選挙とはその地域で国家の在り方を体現する人を選ぶのではないのでしょうか?
自分を持っていないからこそ流されていく。
思考が止まり、だんだん諦めが入ると、そこから這い上がるのは並大抵ではありません。

なんとかしなければ、そう思うたび教師にならないと思います。
子どもたちしか明日を作れないんですから。
2. Posted by toshi   2010年05月20日 00:43
伊藤さん
《村社会が学校社会にとけているからではないでしょうか?》
 なるほど。わたしが、記事で、『(明治以前)からある日本人の精神風土が、明治以来の学校教育のあり方を規定してきた。』とした側面ですね。
 そう言えば、村八分もそうですが、司馬遼太郎氏の小説を読むと、いじめもそのころからしっかりあったようです。
《我々は近代化から100年以上たちながら、いまだに江戸ないしそれ以前の社会を脈々と受け継いでいることになります。》
 そう言えるでしょう。いや。今は、村八分どころか、村十分の厳しさがあるかもしれません。

 伊藤さん。
 わたしたち教員の使命は、護憲であれ、改憲であれ、自分の考え、思いを、子どもに押し付けることではありません。子ども自身が資料を豊富に用意しながら十分討論できる場を用意し、自ら主体的に考え合う子どもを育てることです。
 その際、当然のことなのですが、子どもの目に見えないところでの指導性は発揮しなければなりません。
 目に見えない指導性。大村先生の言葉を引用させていただければ、
『指導者から与えたにしても、子どもの気持ちは、天からのありがたい授かり物のように、また、まるで自分で発見したかのような感覚で受け取れるようにしたい。』となります。
 つまり、子ども自身は、『自ら獲得した考え、思い』という認識になっていることが大切なのです。そして、教員であるわたしが、そういうことになぜこだわるかというと、それが民主主義を大切にする明日の市民を養ううえでとても大切だからです。
 伊藤さん。
 そういう教員を目指してくださいね。
3. Posted by やまびこまま   2010年05月20日 10:09
こんにちは。拙コメントを取り上げていただき恐縮です。

明治維新の頃の教育については司馬遼太郎の小説からも読み取れますが(小説ですからもちろんフィクションもあるでしょうが)当時は子どもに学問をさせることと、西洋式軍隊を作るための教育がセットだったかしら・・とも思えます。軍隊に個性などあってはならないものですからね。それまでの厳しい身分制度で、お上にたてつくなどとは考えることすらなかった人たちまですべてが「国民」とされても、意識はそう変えられるものではないでしょう。自分たちで勝ち取った「身分」ではないのですから。
toshi先生のおっしゃる「民主主義を知識として教え込まれただけ・・・生き方にかかわるという認識がない。」は
本当に同感です。戦中戦後と、良い意味での反体制を唱える人たちがいてもやはり少数派にとどまってしまいます。

先日話題になっていたNHK教育TV「ハーバード白熱教室」を見まして感動しました。サンデル教授の見事な指導と、
学生たちの発言による、まさに白熱した授業風景にはもう
、ため息しか出ませんでした。
そこで討議されていたのがカントの道徳性理論でした。
「嘘をつくこと」と「嘘ではないが誤解を招く表現」には
大きな隔たりがあるということ。政治家の発言について思い当るところがたくさんありました。
4. Posted by hukupon   2010年05月20日 23:33
toshi先生、お世話になります。
私はアメリカの大学で教員をした経験があります。教育学部です。その中で、毎セメスターごとに「日本の教育紹介」をやっていました。

一番「うけた?」のは、学校や職場で一斉にやるラジオ体操の映像です。アメリカの学生(というかアメリカ人)から見ると、学校や職場で全員が揃って同じ動作で体操をする光景が信じられないようで、

「これは日本人なら誰でもできる」と言うと
「信じられない」
「これを覚えるのは生徒の義務なのか」
「なんで会社でこんなことをやっているんだ、これは仕事なのか?」と質問の嵐です。

「じゃ、あなたもできるのか?」と必ずくるので「Sure!」と、ラジオ体操(私は上手なんですよ)を始めると大爆笑です。

私達が空気のように「当たり前」と思っている学校教育の中身、案外考え直さなければならないことは多いような気がしています。
5. Posted by toshi   2010年05月21日 10:24
やまびこままさん
 わたしはそのテレビを見ていないのですが、
 わたしが標榜するところの問題解決学習について、小学生だってあんなに議論し、その議論の中で深め合っているのですから、これが上の学校でも行われるようになれば、それはすごい実りある成果を上げることができるはずと、いつも思っているのです。
 議論する中で、
・自説にこだわっていたら、成果は上げられないこと。
・修正すべきは修正するが、それにもタイミングというものはあること。
・議論し合う中で生まれた新たな、あるいは、深まった価値は、みんなの共有財産であること。
 そういうことを学んでいきます。
《自分たちで勝ち取った「身分」ではないのですから。》
 そう。日本の民主主義を考えた場合、このことは大きく影響を与えていますね。いまだに、『日本は外圧によってしか変革できない。』などとも言われますものね。

6. Posted by toshi   2010年05月21日 13:31
hukuponさん
コメント、ありがとうございました。
 拝読し、複雑な思いになりました。
 と言いますのは、わたし、記事にも書きましたように、音楽に合わせての一斉の歯磨き指導には違和感を抱いたのですが、ラジオ体操については、特に何も感じていませんでした。
 そういう意味では、わたし自身も、画一化のなかの一人かと、なんともはや、軽い衝撃を受けてしまいました。やはり日本人ですね。
 また、先の歯磨き指導について書いた記事も、わたしの書きっぷりは折衷案的で、それが画一化のもとと断定はしていないのですね。
 どうもこのあたりは、感覚的なもので、理屈ではすまないものですから、わたし自身にも戸惑いがあるようです。
 すみません。はっきりしないコメントで。
 
 
7. Posted by やまびこまま   2010年05月22日 15:08
toshi先生のブログに掲載されている問題解決学習はどれも子ども達が積極的に意見を出せる状況を教師が「さりげなく」つくっておられ、すばらしいと思うのです。
舞台裏で、先生がせっせと秘密の仕掛けを考えていらっしゃるのが目に浮かぶようです。
実際に子ども達が議論している時、何かを生み出そうとしている時、そして知識を得ようと問題にくらいついている時、やはりそこで教師の力量が試されますね。
日々楽しく真剣勝負されている先生もおられる半面、残念なことに日々何事もなく「教科書を教える」先生もいらっしゃるようです。教科書を教える、のがもしかしたら一番の「画一的教育への近道」なのでしょうか。
以前息子が入学したばかりの頃、担任の先生が「個性の時代と言われますがあくまでも集団生活の中での個性です」と言われました。当時はわがまま勝手と個性はちがいますよ、ということだろうと解釈して印象に残っていたのですが、さて真意のほどは・・・謎です。
8. Posted by toshi   2010年05月23日 07:11
やまびこままさん
《教科書を教える、のがもしかしたら一番の「画一的教育への近道」なのでしょうか。》
 画一化の象徴といってもいいようなものだとは思います。しかし、これと学習指導要領の法的拘束性、受験教育システムなどが連動していると思います。そして、受験システムが絡んでいるため、国民の多くも、全国同一の学習内容を求めているのですね。
《「個性の時代と言われますがあくまでも集団生活の中での個性です。」》
 これは分かったようでよく分からない言葉です。実際は、学級経営をみてみないと何とも言えないですね。ただ、イメージとしては、集団規律が優先しての、その後の個性の発揮といった感じです。
 これも、明治憲法の話と共通していますね。どこまで個の発揮を認めるかは、担任の胸三寸にあると言えそうです。
 わたしにしても、担任時代、最低限の規律は求めました。
・人権問題にかかわるとき、
・学校、あるいは、学年全体で歩調をそろえ取り組む必要のあるとき、
・繰り返し繰り返し子どもが問題行動をとっているとき、
 要するに、子どもの気づきを促すなどという余裕がないときといったらいいでしょうか。
 でも、子どもたちは自ら主体的に行動するように育っていましたから、現実に、『〜しなさい。』ということは、年間数回しかありませんでした。個性をフルに発揮させても、子どもにはもともと善性もありますから、うまく育まれれば、自ら規律を求めるものなのですけれどね。
 
9. Posted by やまびこまま   2010年05月24日 17:39
学習指導要領に「法的」な拘束性があるとは知りませんでした。でも、受験システムの絡みによる同一学習内容の必要性というのはある意味では理解できます。子どもが高校受験を経験しましたので・・・。
要は、誰もが同じ内容を勉強する機会があるということ、
しかし、それは子どもたちが勉強させられている気持ちにならず、自分が学んだのだと自覚できるような授業であればよい・・・のでしょうか。
今回もいろいろ勉強させていただきありがとうございました。
10. Posted by toshi   2010年05月25日 05:15
やまびこままさん
 学習指導要領の法的拘束性は複雑です。単純に拘束されているとも言いきれません。その辺のことと受験システムについては、過去に何回か記事にしております。代表的と思われるものにリンクさせていただきましたので、よろしければご覧ください。
 本コメントのtoshiのところをクリックしていただければ出るようにしました。
 受験システムと学校教育の画一化は同調しているように思いますので、個々の子どもの受験は別ですが、受験システムそのものには、反対しております。
 《しかし、それは子どもたちが勉強させられている気持ちにならず、自分が学んだのだと自覚できるような授業であればよい・・・のでしょうか。》
 はい。受験システムを容認すれば、そのようになるでしょうね。しかし、なにせ、現実は知識・技能の量が勝負なものですから、その切実性から、どうしても教え込みにならざるを得ないような宿命をもったものととらえています。
11. Posted by ドラゴン   2010年05月25日 20:20
いつも勉強させていただいております。
学習指導要領の法的拘束性は、受験や画一化を意図したものではなく、公教育の性格として、すべての子供に公平に教育を受けることを保証するものだと思います。こう述べると、文部科学省擁護に思われるかもしれませんが、昭和22年の学習指導要領試案(一般編)序論の2段落目にこう述べられています。
 「これまでの教育では,その内容を中央できめると,それをどんなところでも,どんな児童にも一様にあてはめて行こうとした。だからどうしてもいわゆる画一的になって,教育の実際の場での創意や工夫がなされる余地がなかった。このようなことは,教育の実際にいろいろな不合理をもたらし,教育の生気をそぐようなことになった。たとえば,四月のはじめには,どこでも桜の花のことをおしえるようにきめられたために,あるところでは花はとっくに散ってしまったのに,それをおしえなくてはならないし,あるところではまだつぼみのかたい桜の木をながめながら花のことをおしえなくてはならない,といったようなことさえあった。また都会の児童も,山の中の児童も,そのまわりの状態のちがいなどにおかまいなく同じことを教えられるといった不合理なこともあった。しかもそのようなやり方は,教育の現場で指導にあたる教師の立場を,機械的なものにしてしまって,自分の創意や工夫の力を失わせ,ために教育に生き生きした動きを少なくするようなことになり,時には教師の考えを,あてがわれたことを型どおりにおしえておけばよい,といった気持におとしいれ,ほんとうに生きた指導をしようとする心持を失わせるようなこともあったのである。」
12. Posted by ドラゴン   2010年05月25日 20:22
これを受けて4段落目には、
 「この書は,学習の指導について述べるのが目的であるが,これまでの教師用書のように,一つの動かすことのできない道をきめて,それを示そうとするような目的でつくられたものではない。新しく児童の要求と社会の要求とに応じて生まれた教科課程をどんなふうにして生かして行くかを教師自身が自分で研究して行く手びきとして書かれたものである。しかし,新しい学年のために短い時間で編集を進めなければならなかったため,すべてについて十分意を尽くすことができなかったし,教師各位の意見をまとめることもできなかった。ただこの編集のために作られた委員会の意見と,―部分の実際家の意見によって,とりいそぎまとめたものである。この書を読まれる人々は,これが全くの試みとして作られたことを念頭におかれ,今後完全なものをつくるために,続々と意見を寄せられて,その完成に協力されることを切に望むものである。」

当時、まだ占領下において、これからの日本の教育を考えた方たちの想いです。
この22年の試案、26年の試案の訂正版からは学ぶことがたくさんあります。ここで読めますので、紹介いたします。

http://www.nicer.go.jp/guideline/old/
13. Posted by ドラゴン   2010年05月25日 20:39
もう一つ補足です。
26年の算数の試案の訂正版にこのような表現があります。
「学級のこどもに能力の差があることが明らかになれば,どのこどもにも同じような仕事を与えて,これを同じように扱ったり,また,同一の時間にその仕事を完成させようと考えることはなくなるであろう。教育を個別化するということは,仕事の速いこどもは速いなりに,遅いこどもは遅いなりに,ひとりびとりのこどもが,めいめいの速さで進歩できるように指導することである。教師はこどもの学習の様子を見回り,その必要に応じて,ひとりびとりのこどもを指導するように心がけることが必要になってくる。」
個に応じた指導は、当時から必要だとされていたんですね。でも現場ではなかなか理解されなかったんでしょうか。

14. Posted by toshi   2010年05月26日 05:30
ドラゴンさん
 戦後の学習指導要領発足時は、引用していただいた文章のように、国自体が拘束性を持たせていませんでした。学校現場の教育課程作成能力も、今とは比べ物にならないほど高かったと思います。我が亡父の昭和20年代の勤務校の研究紀要を読んでも、それをひしひしと感じます。(そのURLを本コメントのtoshi欄に添付)情熱というか、熱気というか、そのようなものを感じてしまうのです。
 A校とB校の学習内容が異なっていても、それは当然という常識があったのだと思います。
 引用された文の最後の方に、《今後、完全なものを作るために〜》とありますが、それは決して後世のような、法的拘束性をもたせる意図ではなかったと思います。
 そう。ですから、このころは、拘束性はもちろん、受験も画一化も関係ないものでした。
 その後、だんだん、社会が成熟の方向に向かい、拘束性も、受験システムも、画一化も進むようになりました。
 もっともわたし自身は、コメント10番のリンク先記事で述べたように、拘束性について世間で思っているほど強いものとは、今も思っていないのですがね。(ごめんなさい。少し文章を手直しさせていただきました。(10.5.28)
 
15. Posted by toshi   2010年05月26日 05:37
コメント13番でいただいた算数の試案訂正版については、複雑な思いです。
 昭和26年というと、わたしが小1のときでした。
 理念としてはすばらしいですね。
 しかし、わたしたちのころは、1クラス55人学級。おまけに二部授業。(これについてもURLを添付)理想は高くとも、とても個別化は無理だったでしょう。当時の教員の方々は、これを被虐的に読んだのではないかと想像します。
 ドラゴンさんにはご覧いただいていると思いますが、当時の亡父の思いが、添付先記事には書かれています。もっとも算数がどうこうという話ではありません。

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