2010年08月07日

『いま、先生は』から思う。(3)

PA0_0011 本シリーズを始めてから、多くのコメントやメールをいただいている。それだけ、皆さんの関心を呼んでいるものと思う。

 そのなかに、なつかしくも驚くようなメールがあった。Aさんからである。



 何年前だっただろう。前回いただいたのは。

 そのとき、Aさんは、初任者でいらした。メールを拝読し、責任感が人一倍強い方とお見受けした。

 初任だから、何事も初めて。『分からないことやなれないことが多くて、毎日が大変です。』とおっしゃりながらも、元気に学級経営に励んでいる様子が伝わってきた。


 そんなAさんの、わたしに寄せてくださった思いが忘れられない。

 たまたま、わたしのもう一つのブログ、『小学校初任者のブログ』をご覧になったのだった。『読ませていただいて、何か、ほっとする想いになりました。これからおおいに勉強させていただきます。』と書かれていた。

 指導を仰ぐというよりも、感謝の言葉を送ってくださったような感じだった。

 わたしは、それをとてもうれしく思った。



 しかし、今回Aさんからいただいたメールには・・・、


 確かに、むかし同様、明るく張り切っている様子は伝わってきたのだけれど、

 全体的には、なんか調子が違っていた。そのなかでも、『学校って、つらいなあ、冷たいなあと思うこともしばしばあります。』という言葉には、打ちのめされる思いがした。


 さらにショックだったのは、「今回、朝日新聞の『いま、先生は』でとり上げてくださったB先生は、わたしのよく知っている方で、〜」とあったことだ。

「B先生は、少し不器用なところもあるけれど、やさしく、まじめで、子どもが大好きで、〜。」といった調子で、いっぱい、ほめことばとB先生への感謝の言葉が書かれていた。


 Aさん自身も、悩むことや不安な思いに襲われることが、しばしばあるようだ。
「子どもはかわいいし、教室では楽しくやれるのに〜、毎日が自分との闘いです。」とあり、さらに、「体の調子がおもわしくなく、体調不良になることもしばしばでした。」と続く。

 それが不思議と、土・日となると、体調に問題はなくなるのだそうだ。


 体調がよくなくてお休みしようものなら、校長に、『迷惑ばかりかけて。』と言われる。

 それで、こわくなり、診断書を出すのをためらったこともあったのだそうだ。



 ああ。なんと、朝日新聞の連載に似ていることか。


 そう言えば、いただいたコメントのなかにも、そんな感じのものがあったね。リンク先の10番である。

 『冗談抜きで、1学期は生命の危機を感じるほど疲れ切っていました。』というのは、redu06さんだった。ただし、同氏の場合、管理職とは信頼関係で結ばれているようだ。


 今は夏休み。教員にとって休みではないにしても、息つく時間くらいはあるだろうから、皆さん、少しでも英気を養っていただけたらと、願わずにはいられない。



 それにしても、不思議に思うことがある。上記Aさんのメールや連載にのったことだ。


 一部の学校にすぎないとは思うのだが、どうして、こうも体調をくずしてしまう職場環境にしてしまうのだろう。

 2点、感じるところがあるので、書かせていただこう。



〇まず、管理職には、自校の教職員が健康安全に勤務できるようにする努力義務があり、そのための法整備(?)もなされているのだ。

 今、かたい文書だけれど、一つリンクさせていただこう。

 ここで和歌山県立学校の教職員安全衛生管理規程を出したのに、他意はない。たまたま検索にかけたら上位にあったからにすぎない。

 全国的にこうした管理規程はあるはずだ。


 この第3条に、校長の責務として、『校長は、教職員の安全と健康の保持増進を図るとともに、労働災害の防止と快適な職場環境の形成に努めなければならない。』とある。

 時期は、平成11年2月。

 そう。忘れもしない。わたしの現職中だ。


 この時期、こうした通知文書が頻繁にきたっけ。
『ええっ。何よ。学校管理職は、子どもだけでなく、大人の健康管理にまで責任を負うのかよ。かなわないなあ。』
口には出さなかったが、そんなふうに思ったのを、よく覚えている。

 でも、今のように、教職員の健康が危ぶまれてくると、これも当然だね。教職員の皆さん、ごめんなさい。



 ああ。それなのに、

 上記Aさんの事例の場合、校長が率先して自校教職員の健康を悪化させていることになる。なにしろ、教職員が診断書の提出をちゅうちょするようでは、健康管理などできるものではない。


 また、そこまでいかなくても、

 校長がリーダーシップを発揮することができず、度胸のある人、声の大きい人ばかり結果的に大事にしてしまう例は、けっこうあるのではないかと心配になった。

 そうではなく、心根のやさしい人、黙々と努力する人、おとなしい人をも含め、自校教職員の融和を図るよう、率先してがんばってもらいたいものだ。    


〇もう一つ。それは、やまびこままさんからいただいたコメントにかかわる。リンク先の1番である。

 かかわる部分をそっくり引用させていただこう。

 《新聞記事で気になったのは、先生方がお互いを牽制しているように感じる学校があるのだということです。教師とは、人を育てる大切な仕事ではないのですか。職員室の中でいじめがあって、子どものいじめに対応できるのでしょうか。みんな仲良くしましょう、思いやりをもちましょうと子どもには指導するのに、自分たちはお互いを思いやることもないのでしょうか。》

 そう。ほんとうにその通り。一番痛いところをつかれた思いだ。


 わたしたち、教職員は、言うまでもなく、人を育てる仕事をしている。それなら、自分自身も育てていかなければならない。それは最低限の努力義務であると同時に、こういう仕事についているからこそできる特権でもないだろうか。


 
 ここで、僭越ながら、わたしの経験から出たわたしの思いを書かせていただきたい。


 そのまえに、

 わたし自身は、ストレスに弱い方だったと思っている。

 ちょっと難題がふりかかると、すぐ胃が痛くなった。

 ただ、自分にとって幸せだったのは、そういう難題に遭遇することは、めったになかったことだ。年一回もなかった。

 それは恵まれていたと思う。

 でも、自分なりに、努力もしたつもりだ。



 それでは、本題に戻って、

  
・職場のなかには、気に入らない人、とっつきにくい人など、まあ、だいたいはいるものだ。

 しかし、そう思う人にこそ、積極的に声をかけるようにした。自ら飛び込むようにして。


 これは、学級経営の応用でもあった。

 しかし、無理のないようにはした。お互いが不自然さを感じない配慮はしたつもりだ。だって、とっつきにくい人に、いきなり、『ああ。今日も暑いですねえ。』などと、気軽に声をかけるわけにはいかないものね。

 
 でも、職場に共に過ごしているということは、幸いだ。

 話す必然性は必ず発生する。その機会を大切にしよう。必然性があるのに声をかけないのはやめよう。そう思った。

 『こんなこと言わなくても分かっているだろう。』『やっていて当然だ。いちいち言う必要はない。』

 それはダメだ。

 『申し訳ないが、ちょっと確認させてください。』『もうお分かりだとは思いますけれど、ごめんなさいね。念を押させてください。』

など、そうした言葉かけを大切にした。

 『屋上屋を重ねる。』『石橋をたたいて渡る』精神を大切にしよう。

 それも、努めて明るく、また、申し訳なさそうに言うようにしよう。


・上記の心を妨害するのは、『あの人はこういう人。』『どうせ言ったって、やってくれっこない。』そう思う心だ。それはまあ、だいたい合っているだろう。

 でもね。上記のように挑戦的にやってみると、『自分の思いこみで、意外とそうではなかった。』ということが多いことにも気づいていった。

 そうなると、『これまで、申し訳なかった。』と思うようにもなった。


 他人の心のうちを知ることは、まずできない。だいたい、他人の言葉、表情、行動などから判断するわけだが、その判断の根拠は、自分自身のそれしかないだろう。そうであれば、『あの人はこういう人』と思ったとしても、それは自分自身であるにすぎない。そういうことは多いはずだ。


 逆に考えてみよう。

 『あなたってこういう人ね。』と人から言われてびっくりしたことはないか。

 わたしは、そういうとき、『ああ。あの人は、わたしのことを言っているような言い方をしたけれど、あれは、あの人自身が、わたしはこうよと言ったにすぎないのだな。』と思えるようになった。


 これはかなり、ストレス軽減に役立ったと思っている。


・これは、相手が校長であっても適用した。

 意外と見えない部分が見えてくるようになるものだ。

 『ああ。今日の校長は何かイライラしているな。そうか。役所から嫌なことを言われたのだな。』
 『なんだ。昨日言ったことと矛盾しているではないか。・・・。そうか。新事態を迎えてあわてているのだな。』


 そこまではいかず、相変わらず見えないままであっても、『きっと、いやなことがあったのだろう。』と思えるようになっていく。

 そして、診断書を出せないような関係だったとしても、『今度は、どんな表情をするのかな。ようし、見てやろう。』というように、かえって楽しみにするような心境で出すようになっていった。


・ああ。でも、心の琴線にふれること、自分にもろにふりかかってくること、そういうケースでは、以上のようにはとてもいかなかった。

 でも、ふだん上記のように心がけていれば、怒るときは怒ったっていいのではないか。わたしもそういうときはあった。管理職はびっくりしていた。そして、反省もしてくれたようだった。


・この項の最後は、組織にふれてみよう。

 学校にも組織というものはある。

 組織は大事にしなければいけない。

 まずはその人にお願いをする。その人を大事にする。それは当然だ。

 しかし、組織、組織と言ったって、たかだか、20人〜30人の組織だ。組織を固定的、排他的にとらえていたら、必ずほころびが出てしまうだろう。


 そこには、柔軟さもなければならない。

 一人が忙しくしているのなら、自分は関係ないからやらないのではなく、積極的に助けてやろう。

 それをまず、自分が率先してやるようにした。体をつかうことを惜しまないようにした。

 営業マンがお客さんに接するようにね。マニュアルはなかったけれど。



・まとめ。

 人は誰だって、善悪両面持っている。それなら、その人の、『善の部分』とお付き合いできるようになるといい。



 以上、長々と書いたけれど、また、前述もしたけれど、これらは実はみな、学級経営の応用だ。

 つまり、児童理解、児童への対応と、あまり変わらない。


 とすれば、逆も真なり。

 職員室でのそうした『心の修養』は、学級経営にも結びつき、学級経営をより楽しいものにする。そうなるはずだ。

  
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 『まずはあなたが変わる。』

 そういうことを申し上げました。

 いきなり、そうするのは無理かもしれません。できるところから始められたらいかがでしょうか。


 本記事をご覧になって、もしかしたら、

 『ことは、職員室の融和を図るといった次元で語れるものではない。権力による管理体制の強化など、もっと根源的なものがあるはずだ。』

 そう思われた方もいらっしゃるかもしれません。

 しかし、そのあたりのこと、わたしは逆だと思っています。

 やはり、人の心のありようがすべての根源にあるのだと思います。ことは、学校のあり方だけで語れるものではありません。


 次回が、本シリーズの最終章となると思います。そういったことにふれてみたいと思います。

 同時に、本シリーズには、宿題もいくつかありますね。まだ、残しているものがあります。そのことにもふれさせていただきます。
 

rve83253 at 08:13│Comments(12)TrackBack(0)教育風土 | 自己啓発

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この記事へのコメント

1. Posted by やまびこまま   2010年08月09日 17:05
toshi先生、コメントを取り上げていただき恐縮です。

「人の心のありようがすべての根源である」、本当にその通りだと思いました。
学校というところはなぜか他の業種と世界が違うように思われているのではないでしょうか。そこに、先生方が落ちやすい落とし穴があるのかもしれません。
組織(たとえば職員室)というのは、上手に機能するととても有効なものでしょう。組織のトップが有能なら部下は楽ですが、そうでなかったとしても皆が共通の価値観と目標を持つことで、お互いが、そして組織自体が成長できるのではないでしょうか。声の大きい人(!)をうまく利用することだって、できるような気がします。
子どもが・・、親が・・、管理職が・・、教育委員会が・・etcとなんでも人のせいにしていては何も始まりません。
忙しいのであれば、どうしたらそれを解決できるかを一人で抱えずにみんなで知恵を出し合うこと、できると思います。黙って見ていないで行動してください。苦しそうにしている人を見つけられない先生は、教室内のいじめも見落としていますよね。
子どもは、先生方の熱意を見ています。できるかできないか、ではなく「やろうとしているか」。そして、先生方の姿を見ながら子どもたちは成長させていただいています。
2. Posted by み   2010年08月10日 00:01
 私は違う意見です。現在教採試験中の身、現場に臨任で働いている者で社会人専門職10年の経験があります。
 実際に学校現場に足を踏み入れて感じたことは、教職員同士の関係の浅さ。これは、お互いの領域を大事にすることから生じたのだと捉えていますが、どうやらこれが、新任もベテランも同じく考える傾向があり、新任の教育に対する思いや理念等を尊重するあまり、ベテランの教育に対する思いや理念等を「尊重するあまり、お互いに距離を置く姿勢になっている」と見えます。
 実は、新任は新任なりの悩みを持ち、ベテランはベテランの悩みを持ち、日々実践しているのにもかかわらず。
 もう一つ、教員は弱みを表現されることも、することも嫌うことです。指導する立場であるからそうなることは当然であるけれども、あまりにも自他の弱みを肯定することをしたがらない。
 人間である前提から浮き沈みは当然であるのに、それを表現することもはばかられ、がんばれ、がんばれと尻を叩くのです。
 
 少し、自分ができることと他者ができないことを理解しましょうよ。個々のレディネスを捉えましょうよ。社会の変化を捉えましょうよ。
 私は逃げたくない。子どもと自分とのギャップを、そして、社会の変化に鈍感な人々とのギャップを。

3. Posted by YK   2010年08月10日 00:59
教職員同士の話のない現場もありますね。私の経験からですが。しかし、無口な先生でも、自分から礼儀正しく教育の方法を伺えば、その人なりの独自の方法を話してくれて、それが面白くて感心することも多かったです。まあ、無口な現場では、自分は成果を数字で示すことに集中すればいいので、それはそれで楽です。

やはり、難しいのは精神(心)の教育ですね。従来の公教育でもだめ、集団塾でもだめ、ならば、最近流行りの個別指導塾なら可能かと思って眺めましたが、やはり無理ですね。

とすると、先生の仰る「心の修養」を実践できるのは、公教育の学校か、公教育機関と地域を結び付けるNPOなどの非営利団体あたりになるのだろうか・・。

4. Posted by toshi   2010年08月11日 05:59
やまびこままさん
《苦しそうにしている人を見つけられない先生は、教室内のいじめも見落としていますよね。》
 胸に響きました。
 わたし、記事には書き落としてしまいましたが、若いころは、「大人と子どもは違う。自分は子どもを育てるために教員になった。でも、大人同士は教育するとかされるとかいう関係ではない。だから、気の合うものだけと付き合っていればいい。」といった思いがありました。うまくいかなかった会社経験があったがゆえに、大人恐怖症になっていたかもしれません。
 うん。今の教員のなかにも、当時のわたし同様の思いをもった人がいるかもしれないですね。やまびこままさんのコメントを拝読しながら、そんなことを思いました。
 それは違いますね。やはり気が合う合わないを乗り越えて、学校が一つにまとまっていかないと、教育効果は上がりません。
 そんなことを書いた過去記事もあります。校長時代、君が代、日の丸で、職場が分断されそうになったとき、ある教員が救ってくれた事例です。本コメントのtoshi欄をクリックしていただければ出るようにしましたので、よろしければご覧ください。

 
5. Posted by toshi   2010年08月11日 06:18
みさん
 教員採用試験まっただなかでいらっしゃることでしょう。大変な時期にコメントをいただき、ありがとうございます。ご奮闘を祈念します。
 学校のおかれた状況は地域による違いがものすごくあるようです。こうしてブログをやらせていただいて、さらにそのことを実感します。
 ただ、連載にあるような状況について、まったく心当たりがないということもないのです。多かれ少なかれ、傾向としてはやはりそうした状況があることを認めざるをえません。
 みさんが実際教育現場で感じている『教職員同士の関係の浅さ』というのは、やまびこままさんがおっしゃる『先生方の牽制し合い』なのかもしれないなと思いました。お互い相手の領分には踏み込まないというような意識でしょうか。
 そこから派生して、『教員は弱みを表現されることも、することも嫌うことです。』ということになるのでしょう。こうしたこともありがちという意味で、よく理解できます。
 なかなかフランクに付き合えない状況が、職場によってはあるということですね。
《私は逃げたくない。》
 そう。お互い、逃げないで挑戦的に生きてきたいと思います。すてきな教員になられますように。
6. Posted by toshi   2010年08月11日 06:28
YKさん
 YKさんはいつも前向き、意欲的に、教員生活をおくられていて、すばらしいなと思っています。
 心の教育。これはやはり、公教育こそが一番大事にしなければいけないでしょう。なにしろ、義務教育であるため、どんな子どもも通ってくるわけですので、ここしか身を置くところがない子が大勢います。
 でも、教員の意識はさまざまです。拙ブログを開設したころ、『心の面まで学校が育てなければいけないなどと、あれもこれもと手を広げたら、とても学校はやり切れないのではないか。それは家庭のなすべきことだ。』という意見が寄せられ驚かされたことがあります。学校は集団生活であるがゆえに、学校でしか育てられない心の面は絶対あるのだと反論しましたけれどね。
 心の教育を標榜するなら、やはり、教職員同士も心を鍛え合っていかなければいけないと思いました。
7. Posted by 伊藤   2010年08月12日 17:11
単純なイメージですけど、よい学校は職員室に入りやすいですよね。
中学、高校だと職員室より研究室かもしれませんが、掃除をしているときに職員室や研究室など教員の集まる場所の空気がそのまま学校に蔓延しそうな気がします。
8. Posted by YK   2010年08月12日 18:53
>>心の教育。これはやはり、公教育こそが一番大事にしなければいけないでしょう。なにしろ、義務教育であるため、どんな子どもも通ってくるわけですので、ここしか身を置くところがない子が大勢います。

仰る通りだと思います。ここしか身を置くところがない、というのもそうでしょうが、金持ちでも貧しくても、健康でも病気でも、一緒の教室にいるからこそ小学校は良いのだと私は考えています。ところが、効率性の追求に走り過ぎる義務教育も時に見られます。

地域と学校という面から考えれば、私の地元では親が麻薬中毒患者であるなどの理由で小学校にも満足に通えない子どもの話なども聞きます。今は極端に聞こえるかもしれませんが、貧困や児童虐待などの理由から文字の読み書きが出来ない子どもたちがこれからどんどんと増えてくるでしょう。そして、そうした子が社会に出るために、「読み」「書き」「聞く」をきちんと教える機関が必要になるでしょう。つまり、非効率的な教育機関が必要になると思われます。

私も今は組織で働いていますが、もう少し安定したら、そうした慈善事業にも着手しようと考えています。
9. Posted by み   2010年08月12日 23:20
 あの、私は共感して欲しいとも祈念して欲しいとも思っていず、ただ、社会人の転職の際に感じた事柄と、自己の考えを述べただけなのに、このように返されるとは思いませんでした。

 あの、慈善とは、「あわれみ、助けること」の意です。しっかりと「福祉」の成り立ちや動向を学びましょう。

 私は、どうあっても教える立場にあります。社会人を経験したぶん、教員一筋でやってきた人々との視点が違います。

 あなたが教員文化や風土を知らない、というだけで「馬鹿にする」という風潮や、「私はどこそこの大学を出ている」で教員の関係を結ぶ者など、どういう差別的な視点を持っているか、今一度見直して欲しいと思っているのです。
 その延長上に、自分より下に位置している者として、「学力のない者」や「家庭力のない者」として捉え、何かを施そうとしている姿があります。
 
 「無知は罪だ」と母がいいました。その通りだと今は思います。その人のレディネスを捉えることが、その人の可能性を広げることだと知っていれば、何のことはない。その人を下げることも上げることもせず、適切な言葉かけあるいは支援で伸びていくのです。それは、子供であっても新人であっても変わりはありません。成人教育を学習し、実践してきた者の言うことです。

 教育界は、成人教育に無知すぎる。

 
10. Posted by YK   2010年08月13日 00:52
>>みさん

あの、慈善とは「あわれみ、助けること」の意です。しっかりと「福祉」の成り立ちや動向を学びましょう。

これは私のコメントに対してですか?私が使っているのはその慈善の意味ですよ。中世ヨーロッパから近代ヨーロッパにかけてのキリスト教会や事業家たちが行っていたあの慈善事業です。慈善と福祉で、私は慈善を重視するということです。公的福祉についてはここでは児童相談所を想定して書きましたが、児童福祉法に基づいて行われる活動、児童福祉施設などを指して書きました。最近の動向については、厚労白書や地域の刊行物には私は目を通していますが、あなたは学識があるようですから、私の議論の水準が低く見えるのでしょう。

それはそれとして、「無知は罪だ」とあなたは仰いますが、あなたにとって「知」とは何でしょうか?ぜひご教授頂きたく存じます。あなたは2回の書き込みでレディネスという言葉を2回使っていらっしゃいます。これは私のような無学者には少し難解な言葉です。あなたは「その人を下げることも上げることもせず、適切な言葉かけあるいは支援で伸びていくのです。」これだけではそこらのコーチングの類とあまり変わりません。もう少し丁寧にご教授お願いします。
11. Posted by toshi   2010年08月14日 10:40
伊藤さん
 いつもお世話になります。ありがとうございます。
《単純なイメージですけど、よい学校は職員室に入りやすいですよね。》
 伊藤さんのコメントを拝読して、思い出したことがあります。ちょっと、我田引水、自画自賛になってしまいますが、このことにかかわる過去記事があります。本コメントのtoshiをクリックしていただければ出るようにしましたので、よろしかったらご覧ください。
12. Posted by toshi   2010年08月14日 10:53
YKさん
 やはり、効率を追う教育というのは、本シリーズ最終記事に書かせていただいた『システム化』と共通するのでしょうね。
 『システム化』すべてが弊害とは思っていないのですが、やはり、画一化につながったり、機械的になったり、惰性に流れたりと、そうなることが問題なのでしょう。
 YKさんがおっしゃるように、今後、さらに、きめ細かな一人ひとりの実態の応じた指導ができるようにならないと、この危機はますます深まってしまいそうです。

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