2010年08月13日

『いま、先生は』から思う。(4)

10228132701900045542_swspsv6lvw[1] 朝日新聞の連載をとり上げての本シリーズも、本記事をもって終わりとしたい。


 わたしが本シリーズを始めようと思ったのは、もちろん、朝日新聞の連載を読んだことが直接のきっかけだが、それ以外にも、時期を同じくして、宮台真司氏の『日本の難点』を読んだことが大きい。

 同書は、直接、教員の勤務にかかわって論述されたものではないが、その困難な状況の背景については、実にくわしく分析、考察されていると思う。


 ここから先、その本から受けたわたしの思いを中心に書かせていただく。それが、本シリーズ(1)に書かせていただいた、
『社会は大変貌を遂げた。人間の気質を中心に、学校を取り巻く環境は大きく変わったのだ。』
にかかわるだろう。



 日本社会が混迷を深めている。

 共同体としての地域社会が、崩壊の危機にひんしている。


 かつて、国民の生活は、地域社会に支えられていた。人々の善意や自発性にもとづく地域社会によって守られていた。 

 しかし、今、それは、役割、マニュアルを重視した、システム化された生活へと移行してしまった。

 
 また、かつての地域社会は、比較的人間関係が固定していた。生まれたときに始まる人間関係は死ぬまで持続するのがふつうだった。そして、貧しかったがゆえに、助け合い、支え合う生活には、濃密なものがあった。地縁、血縁によって、生活が支えられていた。

 今は、交通、通信網の発達により、流動性が増している。かかわる人がときの流れとともに変わるから、ふれ合える人の数は大幅に増えたものの、その分、一人ひとりとは淡白な関係になった。いやになれば交わりを絶つことも比較的簡単である。


 こうして、人々の善意や自発性に基づくコミュニケーションが豊かだった暮らしは影をひそめ、人々の言葉や感情や人間関係は、軽く、薄くなってしまった。

 そうしたなかでは、地縁、血縁はかえってじゃまになる。なまじ濃密な人間関係を築いてしまうと、わずらわしくて仕方がない。

 
 同書はおもしろい例をあげる。かつての恋愛と今のそれとは基本的に大きく異なるのだそうだ。

 愛を確かめ合う行為。・・・だったはずが、今は根本的に違うのだという。

 愛の持続性に自信が持てないので、愛を確かめ合うはずが確かめることにならず、かえって、この関係はいつまで続くかという不安を増幅してしまう。相手の愛に確信がもてないので、恋人(?)がいても、心はいつも飢えているのだという。


 心の飢餓状態。

 人間とは勝手なものだ。助け合い支え合うのは嫌だ。わずらわしい。自分のやりたいようにやって生きていきたい。しかし、孤独もいやだ。人からは愛されたい。

 でも、みんながそう思っているから、この欲求が満たされることはない。


 もっと言おう。人をなかなか愛せないことに悩むのではなく、愛することがどういうことかを想像することもできないので、映画、テレビなどでそういう姿を見せつけられると、本能的に(?)拒否反応を示してしまうのだという。

 それでも、その人なりの愛は求めているから、ややっこしくなる。

 
 要するに、隣人との関係性が薄れているので、自分という存在もよく分からなくなってきているのだ。



 以上、わたしは、この著作から多くを学ばせていただいた。


〇わたしは、かつて、拙ブログに、人の心の移ろいについて記事にさせていただいたことがある。その記事では、人々の心の変化を、『物質的に豊かになったが故。』ととらえた。

 過去記事にある。今、リンクさせていただこう。

 本著作は、それをさらに深めてくれたという思いがしている。


〇これまで、わたしは、これを、若い人の傾向だと思っていた。同書も、若い人の生き方として書いている部分が多い。

 しかし、これは、かなり違うね。


 ここ10日ほどと言っていいかな。100歳以上の高齢者の行方不明が連日報道されている。亡くなったかどうかも分からない。

 家庭崩壊。テレビはそのように報道している。

 まあ、内情はいろいろあり、一言では言い尽くせないものの、かなりの部分はあたっているだろう。


 100歳以上。だから、子どもも80歳近辺。それでいて、家庭崩壊だ。

 ねっ。何も若い人に限定した話ではない。

 つまり、かつては、濃密な人間関係にどっぷりつかっていたはずの人たちも、社会、環境の激変によって、すっかりその波にのみこまれてしまったのだ。


〇ちょっと、話がそれるが、わたしは、日本社会が激変してしまった後で、濃密な人間関係を目の当たりにし、

むかしなつかしい思いになったことがある。


 それは、過去記事にある。阪神淡路大震災のときだ。このリンク先記事の前半部、『阪神・淡路大震災 見聞記』からがそれにあたる。

・見知らぬもの同士が、電車のなかで、にぎやかに会話していた。
 
・近隣同士支え合っている姿もふんだんに見られた。コミュニケーションも活発にかわされていた。


 つまり、生存の危機にひんする共通体験をして、『お互い、生きていてよかったなあ。』という思いが強く、黙っているわけにはいかなくなったのだろう。見知らぬもの同士でも、その苦難を語り合いたくて仕方がない。そんな感じだった。

 また、積極的にコミュニケーションを交わさないと生きていけないという現実もあった。

 そんなこんなで、古き良き時代の日本が戻ってきたことになる。


 危機に直面しないとこうした生活に戻れないのかと思うと、なさけない気もしたが、でも、末尾でふれようと思うが、ここに、今、直面する学校の危機打開策のヒントがかくされているように思う。 




 さあ。それでは、いよいよ、本題に入ろう。


 そういう日本社会の現実のなかに、今の学校はある。



〇教職員自体も、そうした社会の中で生きてきた。だとすれば、豊かな人間関係を構築した経験もなく、もっと言えば、豊かな人間関係とはどういうことかも分からず教員になったものがいたとしても、別に不思議ではない。

 そこに、教職としての特殊性が加わる。


 どういうことか。


 つまり、社会が変貌したにもかかわらず、学校というところは、むかし同様に、『豊かな人間性の構築を目指した学級経営』というように、濃密な人間関係が求められる。

 矛盾だ。

 そこで、

・手っ取り早く成果を求める。楽(らく)して実りある成果を求める。だから、『こうすればいいのですよ。』というノウハウものがあればとび付く。

 でもね。ノウハウものは、あくまでノウハウだ。人の心にまではひびかない。一見うまくいっているように見えても悲しいかな。そこどまり。うまくいかないことだって多い。

 根本的解決にはならない。


・まだある。

 今、思う。わたしも若いときは、けっこうこうした世の中の変化に敏感(?)で、もっと言えば、こうした社会の変貌を先取りしていたかもしれない。それは、前記事にいただいたやまびこままさんのコメントへの返信に書かせてもらった。リンク先の4番にあたる。


 再掲させていただくと、

 わたし、若いころは、
『大人と子どもは違う。自分は子どもを育てるために教員になった。でも、大人同士は教育するとかされるとかいう関係ではない。だから、気の合うものとだけ付き合っていればいい。』
といった思いがありました。うまくいかなかった会社経験があったがゆえに、大人恐怖症になっていたかもしれません。

 うん。今の教員のなかにも、当時のわたし同様の人がいるだろうね。


 いや。朝日新聞の連載を読むと、こうした気持ちで教職についているものは、案外多いのかもしれない。『さわらぬ神にたたりなし。』といった思いもあるだろう。また、『大人恐怖症であるがゆえに、子ども相手の教職についたのだ。』というものも多い・・・かな。

 ところが、現実は、けっこう大人とも付き合っていかなければならない。そこで、ストレスがたまる。

 そういうこともあるのではないか。

 

〇保護者も、もはやむかしと同じ保護者ではない。

 あっ。ごめんなさい。上述のように学校の現況が現況なので、現実に、『保護者の要望はもっとも。』と思える事例も多い。だから、ここでは、問題ある要望等に限定しての論述としたい。


 どうだろう。

 今、保護者の間では、『自分は学校に対し、何もしたくない。しかし、我が子は大事にしてほしい。』そういう願望(?)が高まっているのではないか。

 また、そこまではいかなくても、学校への要望が、短兵急になってきているのは否めない。さらに、子どものことを考えず、親の感情をぶつけているだけということもありそうだ。

 だから、保護者同士も気まずい雰囲気になりうる。



 実は、遠方に住んでいる娘夫婦の子ども(孫)の学級が、今年度、学級崩壊気味である。今は夏休みだから小休止だが、ひところは頻繁に電話がかかってきた。

 1年生のときは、落ち着いていた。いい雰囲気だった。それが、2年生になって担任が替わったとたん、4月末で、もう、子どもたちの様子は激変したという。授業が成立しなくなったようだ。

 学校へいろいろ要望したが、そのときだけの対応だったらしい。


 以下は娘の言い分だが、

 「学校へ要望しても、ちっともらちがあかないので、もう、あきらめたみたい。」

 そうなると、今度は、それでも落ち着いた生活をおくっている子どもの親が、授業を成立させない子どもの親へ苦情を言うようになったのだという。

 「今、子ども同士は教室で仲良くやっているようなのだけれど、保護者同士は、ちょっと険悪ね。このままじゃあ、いつ、うちも責められるようになるか、それが心配。」


 これは、次の2つが考えられる。

・『言いやすい相手に言う。』ということなのだろう。

・我が子大事というよりも、自分の感情が大事になっているのだろう。


 だから、こういう対立を続けていると、今は比較的仲良くやっている子どもたちも、2学期になれば、いじめ事件を起こすのではないかと心配になる。

 現に、自分の子どもに対し、不必要なくらい叱責したり、無理を要求するような調子で励ましたりするといったことがあるようだ。


 「やっぱり、保護者はまとまって、学校に対し、担任支援体制、担任を指導する体制の充実を求めるのが筋だろう。」
娘にはそう言った。


 ああ。公立学校教員であるわたしが、こんなことを娘に言わなければならないとは・・・、何ともなさけない。

 わたしが、その担任の指導にいきたいくらいだが・・・、ああ。もちろん、冗談です。



 もう一つ。

 本シリーズの(2)から宿題にしている、2年前のバンキシャの画像をみての、わたしの思いにふれよう。

 ある教員の一日の勤務の様子を画像付きで紹介し、その多忙な様子を他地域の保護者に見てもらう。そして、保護者に感想を求めるのだが、

 一人目の保護者こそ、家庭教育の問題に言及しているが、あとは、

「多忙なのは、教員だけではない。」
「みんながみんな、こういう教員ばかりではない。」

そういう意見が相次ぐ。


 それはそれ、確かにその通りではあろう。

 でも、そこに、思いやり、共感といったたぐいの言葉はない。

 それで、司会者が、
「それでは、教員の多忙は、『このままでいい。仕方がない。』ということですか。」 
と切り返す。

 すると、
「このままでいいとは言わないが、でもねえ〜。」
と、あいまいなままで終わるのだが・・・、


 ここに、宮台氏が主張する現代の世相の一断面をみる思いがする。

 保護者と教員の関係について、『利害が共通している。』というよりも、『対立している。』という気運の方が濃厚だ。


 その教員は、テレビ画像で、
「サボってないんですけれど、子どもと接する時間、自分の力量を高める時間というのは少ないですね。」
とぼやく。

 それなら、保護者は、教員と対立するのではなく、かわいい子どものために、『先生が子どもと接する時間を増やしてほしい。』とか、『(指導の)力量を高めるための時間がもてるようにしてほしい。』とか、そういう感想をもつのが自然ではないか。教員を支えてこそ、成果が上がるというものではないか。

 そう思うが、どうも現実は、そこまでの心のゆとりがないようだ。



〇さあ、それでは、そうした時代の教育行政はどうか。その点について考えてみよう。

 実は、宮台氏の著作は、このことに、ほとんどふれていない。

 しかし、察することはできる。キーワードは、『システム化』だ。


 冒頭の言葉を再度、引用させていただこう。


 かつて、国民の生活は、地域社会によって支えられていた。人々の善意や自発性にもとづく地域社会によって守られていた。しかし、今、それは、役割、マニュアルを重視した、システム化された生活へと移行してしまった

 
 そう。国民生活そのものが、かなりシステム化されてしまった。


 しかし、教育にシステム化はもともとなじまない・・・はずだった。

 この点も、すでに述べている。繰り返させていただこう。


 つまり、社会においては、人間関係が薄く、淡泊になったにもかかわらず、学校というところは、むかし同様に、『豊かな人間性の構築を目指した学級経営』というように、濃密な人間関係を求められる。
 矛盾だ。


 引用は以上だが、


 ごめんなさい。教育行政にふれるはずだったが、しばらくお待ちください。


 教職員自体が、矛盾を抱えこんでしまう例は、ここにもみられる。つまり、システム化を求めている。


 わたしは、先の、バンキシャテレビ画像にある、教員の多忙をとり上げた内容から『システム化』をみた。


 子どもの生活習慣や学習状況について、子どもに自己申告させる姿だ。忘れ物や人への感謝、一日一善といったしつけまで、毎日、毎日、担任がチェックする。

 ああ。学習状況はともかくとして、あとは、自己申告させてチェックする内容かね。

 こんな仕事も、『多忙』の一角を担っている。

 もっと、子どもと直接ふれ合い、コミュニケーションを交わすことこそ、大切なのではないかね。ほめたり、笑い合ったり、しかったり・・・、そうした営みの中で、子どもの心を育てていくのが本来の姿ではないか。

 担任が教室にいても、子どもを見るわけでもなく、かかわるわけでもなく、ただひたすら、チェックものに追われる姿。かなり変だ。

 ここにも、現代という時代の縮図をみる思いがした。



 それでは、教育行政についてだが、


 これがもう、システム化のオンパレードだ。制度いじりばかりやっている。何年かたって、もとへもどす動きも見られる。

 学校自由選択制しかり。2期制しかり。休日も増やしたり減らしたり。


 学校に対する外部評価にも、わたしはかなり懐疑的だ。これは記事にしたことがある。

    いじめの問題(8) 管理職として


 ね。読者のみなさん。

 『教育のシステム化』によって、いじめは防げるようになると思われますか。学校の外部評価や教員の人事考課を充実させれば、いじめはなくなると思われますか。

 そうではないでしょう。管理職をはじめ、教職員が一致団結して、いじめに取り組める環境づくり。それこそが大事でしょう。


 その力量が教職員にないと思われるのなら、システム化ですか。

 それも違うでしょう。力量を高めてもらうための児童理解、授業の質の向上、学級経営力。それらを高めるための研修、研究こそ、充実させるべきでしょう。


 
 ただ、これは時間がかかるのだよね。

 辛抱強く、『日本の子どもの幸せのために、』といった気持ちで、取り組んでいただくことを願う。


 そうしていただけると、子どもが輝き、豊かな人間性を育むことのできる学校教育の創造につながるはずだし、教員も健康を取り戻せるのだと思う。



〇最後に、わたしが思う、改善策を述べることにする。


 と言っても、すでに過去記事にある。紹介させていただこう。

    豊かな人間関係の構築を(3)


 そう。学校が音頭をとって、保護者同士を仲良しにしてしまえばいい。濃密な人間関係をつくってしまえばいい。

 どうせ、6年間、子どもたちは一緒に過ごすのだ。濃密な人間関係をつくるための土壌は、そこにあると言っていい。

 それなら、早い方がいい。1年生の、それも、4・5月くらいから始めたらいい。

 大震災のような危機に直面したわけではないけれど、宮台氏が言うところの、むかしの、地縁、血縁関係に近い関係をつくってしまえばいい。

 このようにして、『支え合ったり助け合ったりすると楽しいわね。』という経験を積んでもらったらいい。



 教職員の皆さん。 

 保護者同士が仲良くなってくれたら、学年経営は楽ですよ。また、楽しくなりますよ。おすすめです。


 保護者同士が仲良くなることの効用。

 わたしの校長時代の、あるエピソードを紹介させていただこう。


 ある学級に、一人の、どうにも落ち着けない、授業中も妨害ばかりしている子どもがいた。

 その子の保護者は、内心、いつも、『まわりから何言われるか分からない。』とびくびくする思いだったのではあるまいか。学校に対し、あるいは、同級の保護者に対し、ちょっとしたことでも、すぐくってかかるような調子になることが多かった。

 学級懇談会にも声をかけるのだが、警戒してか、やって来ない。


 そんな折、保護者代表が、『みんな、子育ての悩みは同じよ。あなただけではないのよ。みんなで一緒に考えましょうよ。』と声をかけてくださり、担任の言葉もあって、初めて、懇談会に参加した。


 学級の保護者全員が、先の代表の方同様、やさしい言葉をかけてくれた。


 身がまえていたその方の姿勢が、だんだんくずれていった。

 ほっとされたのであろう。


 ついに、涙ぐんで謝罪と自己反省の言葉を述べるようになった。もちろん謝罪など要らないのだけれどね。


 それからというもの、その子が一足飛びに落ち着くようになった。・・・とはいかなかったけれど、でも、よい方向に向かっていった。


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 宮台氏の本には、宮台氏の解決策が示されています。

 でも、ここでそれにふれるのはやめましょう。ちょっと難解なところもありますが、示唆に富んだ本だと思います。


 本シリーズは、今、教員を目指している皆さんには、大変重いものになってしまったかなと、ちょっと気にしています。

 でも、教員を目指す方々のコメントを読ませていただくと、皆さん、前向きでいらっしゃる。それをとてもうれしく思いました。

 そう言えば、朝日新聞の連載にも、

 『教員であるお父さんが、多忙の末、病に倒れたのですが、その息子さんが、教員を目指している。』といった事例が紹介されています。

 病に倒れたお父さんですが、そのお父さんを慕ってくる教え子の存在が、息子さんの心に大きく映ったようです。
 
 
 最後に、こうした時代は、子どもにとっても生きにくい時代なのだということにふれさせていただきます。自由にのびのびと育つことができないのです。

 わたしが初任者指導をしていて、ある子どもの現実に、びっくりしたことがあります。ほんとうに、曲折した子どもの心理です。


 今、リンクさせていただきましょう。

    いい子・・・だが!?

 

rve83253 at 08:18│Comments(31)TrackBack(0)学校経営 | 教育風土

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この記事へのコメント

1. Posted by YK   2010年08月13日 22:31
宮台氏の『日本の難点』は私にとっても刺激的な本でした。「人間は、なぜか、利他的な人間の『本気』に感染します」という文中の言葉は非常に良かったです。私も本気であることを教え子に示さなければならないと考えていますから。あと、尊厳に関する彼の議論も面白かったです(これは彼の『14歳からの社会学』という本にも詳しく書かれていました)。私が精神(心)の教育を重視するのも“心の飢餓”という状況を感じているからです。そこには、地域共同体をめぐる議論も含まれるし、実存をめぐる議論も含まれると思いますが、最終的にはtoshi先生がたびたび指摘される「自己肯定感を与えること」という問題に戻ってくるように感じています。
2. Posted by f   2010年08月14日 08:08
いつも読ませていただいておりますが、どの記事を読んでも、リンクがとても多く読みづらいです。リンク先を読むと、またリンク先を参照しろと、延々と続いてしまって…。
きちんとその記事だけで完結するようにまとめていただければ、嬉しいのですが…。
3. Posted by toshi   2010年08月14日 11:32
YKさん
 わたしも、宮台氏の著作から、大いなる刺激をいただきました。
《「人間は、なぜか、利他的な人間の『本気』に感染します」という文中の言葉は非常に良かったです。》
 そうですね。わたしも、『利他的に生きる人材を育てることが公教育の使命だろう。』という思いを深くしました。
 ただ、憲法第九条をめぐっての話には、とてもついていけない気がしました。日本の重武装は、いろいろな意味で、あってはならないことと思います。同氏のなかでは、つながっているのでしょうけどね。
4. Posted by toshi   2010年08月14日 12:15
fさん
 いつもご覧いただき、ありがとうございます。
 リンクの件は、申し訳ありません。
 ただ、最近は、リンクしながらも、リンク先に行かなくても済むよう要約を載せたり、リンク先に行っても、どこを読めばいいかにふれたりして、できるだけご迷惑を軽くするようにはしているつもりです。
 でも、そうでもないところも多々ありますね。
 考えてみましょう。
ただ、すみません。
 最近の読者の方には、もしお時間があるなら、関連するかたちで、過去記事もお読みいただければありがたいという、そんな思いもあります。
5. Posted by YK   2010年08月14日 18:13
>>日本の重武装は、いろいろな意味であってはならないことと思います。同氏のなかでは、つながっているのでしょうけどね。

宮台氏の論理では、「憲法9条の堅持(=専守防衛に限定)はクラスター爆弾の保有は認めてしまう(2008年に禁止)→それは一見平和的な方法に見えて、敵から侵入されたときにしか使えない(攻撃自体を抑える能力はない)→しかも、殺傷能力が高い(民間人を巻き込んでしまう?)→そのため、クラスター爆弾の保有は許せない→だから、憲法9条を改正し、重武装化し、対米追従の象徴であったクラスター爆弾を禁止し、アメリカからの中立も図る。」ということなのかな、と思いました。

私がこの論理が面白いと思うのは、あまりクラスター爆弾について、一般の国民は知らないのにそれに注目したということですね。クラスター爆弾は2003年のイラク戦争でも使われましたが本当に悲惨でした。爆風で学校や民家がふっとぶ光景は悲劇であり、怒りを感じざるを得ませんでした。その点で、この理論はヨーロッパの学者には受けるかもしれないですね。
6. Posted by YK   2010年08月14日 18:39
私は日本がアメリカから離れるのはナンセンスだと考えます。日米安保条約を堅持し、アジア太平洋の平和を守り、日本としては歴史的な問題を抱える中国・韓国との関係の回復に努める。日米安保条約もアメリカ議会が破棄すると決定すれば、来年には無くなるわけですが、その準備が日本国民に出来ているとは思えないですね(普天間基地問題などを見ると最後は誰かが何とかしてくれるという雰囲気が見えますね)。その時点で私は宮台氏の考えが受け入れられないです。日米安保がなくなれば、その時点で9条は改正せざるを得ないと思う。しかも「軽武装→重武装」となれば、核保有を目指すというでしょうが、そのためには、まずはNPT(核不拡散条約)から脱退しなければならないでしょう。となると、韓国も台湾も核保有を目指すことになる、そんなに核を持ちたければ持てばいいと思いますが、アジア太平洋諸国との協調は望めなくなるでしょうね。
7. Posted by toshi   2010年08月15日 07:38
YKさん
 わたしもこの点に関しては、宮台氏の主張に反対です。
 ただ、宮台氏も、東南アジア諸国の理解を得る努力、国民の意識を変える努力、米国から不信をかわない努力をしたうえでの『重武装、対米国中立』と言っているのですね。
 また、宮台氏の主張する、『人間は、利他的な人間の本気に感染します。』についても、そういう『本気』の人がどれだけ現れるというのか。』と考えると、重武装同様、かなり苦しい主張だろうと思います。
 でも、それをあまり主張すると、わたしも自家撞着に陥ってしまいます。
 わたしの改善策も、『同じではないか。toshiの主張する教職員の研究、研修に、どれだけの実現性があるというのか。』と言われそう。民主党の天下となり、一時はかなり明るい見通しを抱いたのですが、その後の、あの体たらくをみると・・・、やはり自家撞着です。
 あまり悲観論を述べたくはないのですが、YKさんがおっしゃる《最後は誰かが何とかしてくれるという雰囲気が見えますね。》ではないけれど、日本人というのは、あまり真剣に、かつ科学的に物事を考えない傾向があるので、『かなり行きつくところまで行ってしまうのかな。反省と改善はその後かな。』という気持ちもあります。
 その一方で、『日本はまだまだ捨てたものではない。』という思いもあります。記事では、宮台氏同様、『日本では、共同体としての地域社会が崩壊の危機に瀕し、かつてあった善意と自発性は、役割とシステムに置き換わった。その結果、自己を見失っている状況もある。』というような論旨を展開しましたが、
 しかし、その一方で、諸外国とくらべれば、『日本はまだまだ安全で善意の国とも言えるな。』と、そんな思いもあります。
 ごめんなさい。矛盾に満ちた内容で。 
8. Posted by 奈緒美   2010年08月16日 09:43
お久しぶりです。コメントをいただきありがとうございました。とても参考になりました。
toshi先生が書いておられる 親たちの教員に対する共感の乏しい反応、さまざまな場面で見聞きします。また、先生方の方も、この数年で変わったな〜という印象も持っています。

先日、ダンナが小学校で、子ども会主催の校庭キャンプの手伝いに行って来た時、ひとりの子の体操服が紛失したのです。
その子は事前説明会に来なかったため、持ち物に名前を書くといったルールをきちんと聞いていなかったのです。
いっしょのテントの子たちに、間違って入っていないかカバンを調べてもらっても体操服は見つからず、後日、どこかから見つかるのを待つ形になりました。
すると、なくした子の母親から「体操服は盗まれたから、子ども会が責任を持つべき」と苦情がきました。
子ども会主催とはいえ、とりあえず、学校行事なため、学校の始業式に再度、子どもたちに呼びかけるか、中古の体操服を貸し出す話を学校の教員が説明していると、
「子ども会は、学校に責任を押し付けるのか!」と父親まで出てきて、どなる始末。
どうも、無料奉仕のボランティア活動の人であれ、責めれる相手には責任追及をすれば、ごね得があると思っているようです。
9. Posted by 奈緒美   2010年08月16日 09:44
(続きです)
こんなんですから、何かすればどんな火の粉が飛んでくるかわからないと感じているのか、
以前は、子ども会や地域の人々とも親しかった教員たちが、自分の仕事以外にはいっさい関わりたくないという様子で、学校行事でも手伝わないばかりか、会っても挨拶もしないのが普通になってきているようです。
地域の子たちのために、ボランティアの行事を守っている地域の人々も、年々に減って、自分の子さえよければいい……という風潮が高まっています。
私は、「困った親がいるから、子どもたちのために何かするのはやめた〜」って考えはきらいなんですけどね。トラブルなんて起こるのは当たり前だし、それを覚悟して、解決しながら子どもの環境を作っていかないと、今後、子どもの生活は衰退する一方ですよね。もう少し、地域と教員とが、互いにコミュニケーションを取って、子どもが自立して成長する体験の場を作っていけたらと思っています。
10. Posted by 奈緒美   2010年08月16日 09:56
↑うまく説明できなくて、理解しずらい話になっていますが、
つまり、クレーマーや困った親はどこでも確実に増えていますし、共感がなくて、無料奉仕で他所の子のために働いている人も、突然、非難や攻撃をくらう世の中になってるんです。
そうした人々をいつも相手している学校が消極的になる気持ちもわかります。
でも、もともとの目的は、親たちから褒められたり感謝されるために何かしているのでなくて、「子どもたちの成長」のためにしているのですから、「文句言われるくらいならやらない」という考えは、本来の目的からずれていると感じるんですよ。地域の人にしても、先生方にしても。
そういう親が増えて、生きにくくなっている子が多いはずですから。クレーム処理の能力や協力体制を高めて、子どもの環境を守る覚悟がいると感じているんです。
(やっぱりうまく説明できていませんが)
11. Posted by やまびこまま   2010年08月16日 10:18
「保護者も、もはや昔の保護者ではない」
そうかもしれませんね。しかし、保護者からみれば
「学校の先生はもはや昔の教師ではない」のかも・・・。

バンキシャのテレビ画像を見て、子どもが生活習慣を自己チェックして担任が確認・・のくだりでは、あまりのバカバカしさにあきれてしまいました。これも教育委員会からの指示によるものなのでしょうか??

教員の忙しさに対して、保護者から先生を支えるような言葉がなかったのにはお気の毒、とも思いつつ、それは保護者に本当のことが伝わっていないのではとも思いました。
先生は、本当はその忙しい中で「本当は子どもと接する時間がもっと欲しいと思っている、自分を高める時間も確保したいと思っている」のだと、
クラス懇談会で保護者に向かってお話になったらいかがでしょう。どんな間柄でも話さなければ伝わりません。
先生が一生懸命子どもたちのことを考えてくれているのだとわかれば、まず子どもが察知するでしょうし、保護者も協力を惜しまないでしょう。うちの担任は自分たちが支える!と思いますが・・。
最近よく聞く言葉に「子どもは学校で人質になっている」
だから、先生や学校に要望なんかできないという保護者が
いるんですね。それもあって・・自分は声を出したくないけど「誰かが何とかしてくれる、してほしい」と思っていたりするのでしょう。
でもこれって、先生方も同じですか?
職員室の中ではやはり声を出しにくい・・のでしょうか。
12. Posted by toshi   2010年08月16日 16:55
奈緒美さん
 お久しぶりです。コメント、ありがとうございました。
 本コメント。『分かりづらい』とおっしゃいますが、そんなことはないですよ。おっしゃっていること、よく分かりました。
 社会が変貌した結果、奈緒美さんがおっしゃるように、『さわらぬ神にたたりなし』といった風潮は目立つようになっているでしょう。
 そして、同じ人間である以上、保護者にも、教員にも、こうした傾向が出てきているのだと思います。
 モンスターペアレントというのは、むかしのように、『うちの子がいろいろお世話になりまして。』という気持ちが見事に欠落しているのですね。
 ここではこのくらいにしておきまして・・・、実は、この問題を解決するヒントが、宮台氏の同書に書かれています。
 本シリーズは、これを持って終了のつもりでしたが、次回記事に書かせていただきますね。
 重要な指摘をいただきました。ありがとうございました。
13. Posted by toshi   2010年08月16日 17:55
やまびこままさん
 はい。日本社会の変貌の結果である以上、教員も大きく変わってきたと思います。
 そして、『システム化』。これも、社会がそのように変化しているのですから、教員も、学校も、教委も、そして、国も指向しているのだとおもいます。バンキシャに出た教員の多忙の中身も、あれで違和感を感じない大人が増えているのではないでしょうか。
《自分は声を出したくないけど「誰かが何とかしてくれる、してほしい」と思っていたりするのでしょう。》
 そう。こうした傾向も強まっているのでしょうね。無責任体制と言っていいでしょう。
 子ども人質論については、そうした声がある一方で、モンスターペアレントがいるのも、今の日本の現実ですね。もちろん、ちゃんと建設的に学校に物申してくださる方もいらっしゃいます。
 ですから、教員にも、声の大きい人もいれば、おとなしい人もいるし、真に力になる人もいるといったところでしょうか。
14. Posted by YK   2010年08月16日 19:13
アメリカの社会学者であるパットナムという人が、ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)という概念で地域コミュニティについて論じています。(残念ながら私は彼の『孤独なボウリング』を読んでおりません。)概要はリンク先にありますのでよろしければお読みください。おそらく、公教育機関(小学校)だけでは社会は不十分で、かといって個人だけでも社会は不十分で、多数の自発的な組織が活性化してこそ社会は成り立つという論でしょうが、地域コミュニティの衰退と過度の個人主義への反省から提唱されたようです。
15. Posted by YK   2010年08月16日 20:18
アメリカでもボーイスカウトの減少、教会による社会奉仕活動の減少などが社会問題になったようです。そこで「信頼」をキーワードに連帯しようというのがソーシャル・キャピタル論と私は解釈しますが、これを日本にあてはめると自治体の子ども会やボランティア活動になると思います。これが個人主義化(?)して地域コミュニティが衰退するのも無理からぬ話かと思います。

で、話は少し変わりますが、日本のコミュニティ論で時折見られるのが、日本の「生きづらさ(息苦しさ、窮屈さ)」についてです。都会は都会なりの生きづらさがあり、地方は地方なりの生きづらさがある。しかし、2つの「生きづらさ」の根底にあるのは多くの場合、人間関係の問題です。ここに私は今日の教育の難しさを見てとります。つまり、良心的な人ほど人間関係から疎外感を味わうという矛盾です(これは保護者のみに当てはまる問題ではなく、教師自身にも言える)。私はtoshi先生が自家撞着にあるとは全く思えないのですが(むしろ、これがキャリアというものかと感心しています)、若い教師は大変な人もいるのだろうと思います。私はモンスターペアレンツなど相手にするのは時間の無駄だと思っていますが、気にしてしまう場合もあるでしょうね。
16. Posted by 伊藤   2010年08月17日 00:01
個人的な考えです。

崩壊じゃなく無関心なんです。
高齢者不明なんて行政か警察が調べればもっと前に出てきたことが今出るのは無関心だから。
選択肢が増えたことで、無関心でいても生きていられるんです。

モンスターなんているわけがない。あれは他人に興味がないからできる。たぶん、他人を叱ることなんてできない。

受け身でもいられるから、ニートやパラサイトしても生きていける。

人間は長生きしすぎた。あまりに死を遠ざけて生きることすら無関心。だから虐待は加害者も周りも無関心でいられる。

私は日本という国家そのものが地獄を見ない限り変わる訳なんて有り得ないです。
結局、血を流してまで戦った戦争は今に至って無意味になってしまった。
17. Posted by toshi   2010年08月17日 11:55
YKさん
 《良心的な人ほど人間関係から疎外感を味わうという矛盾です。》
 ほんとうですね。モンスターペアレントにしても、教育現場で病に倒れたり中途退職に追い込まれたりする教員が増えているのも、その矛盾が大きく作用しているのでしょうね。
 個人主義については、欧米と日本では異なる様相を示しているのではないかと思います。
 欧米はもともといい意味での個人主義でした。一人ひとりを大切にするなかで、自由と責任をしっかり教えていたと思います。その点、日本では過去、やはり集団志向が強く、集団の和といったものを重視していたと思います。したがって、個人主義的になったといっても、その様相はやはり両者で違うのでしょうね。
 なお、欧米では、『我が子に、労働の対価として金銭を与える。』というしつけがあります。この点については過去に記事にしたことがあり、本コメントのtoshiをクリックしていただければ出るよう二しましたので、よろしければご覧ください。
 
18. Posted by toshi   2010年08月17日 16:35
伊藤さん
 そうですね。無関心も、今の日本の混迷の要因をなしているでしょうね。
 わたしは、拙ブログに、よく、『学校が時代の変化についていけない。そこに学校教育のジレンマがある。』という趣旨のことを書いているのですが、今の高齢者の行方不明問題は、役所が家庭崩壊という時代の変化についていけない姿だと思いました。
 人々の無関心もだんだん色濃くなっていると思いますが、崩壊も言えると思いますよ。
 くわしくは次回記事に譲らせてください。
19. Posted by YK   2010年08月17日 20:43
リンク先の記事を拝読しました。興味深いですね。個人主義は確かに欧米のほうが発達しているのでしょう。アメリカの場合、18歳で大学に進学するか、働くか、いずれにしても家から出なければ恥ずかしい、という風潮があると聞きます。日本の場合、社会性(自由と責任)とは無関係に個人主義化しているのかもしれません。つまり、家では可愛がられ、学校では自分の考えをはっきりと述べ伝える技術を持たないまま、初等教育を終えてしまうということです。私は基本的に小学校では「皆が同じことを言えるようになること」が目標でも構わないと思っています。好き勝手な意見をバラバラに主張するよりも、皆が仲良くし、互いを尊重するほうがずっと大事ですからね。

もっとも、これはやはり文化の問題とも言えるかと思います。日本の場合、弱い人のために働きたいという、おもいやりの文化もあるかと思います。その場合、小さい頃からおじいさん、おばあさんに接して色々な話を聞かせてあげるほうがいいと思うのです。アメリカは移民国家でもありますし、歴史も浅く「仁」の文化がありません(それにあたる英語がありません)。これからの日本の課題は若い世代と老世代の境界を上手く取り払うことにある、すなわち、世代間の断絶を超える発想が求められる、と私は教え子たちに伝えております。
20. Posted by はるくん   2010年08月17日 20:52
2 こんばんは。

初めまして。

最初から校長先生に対して厳しい言い方をさせていただきますが、先生が管理職で学校は大丈夫でしたか。

先生には義務より権利が大事なのでしょうか?公務員ならまず職務に忠実に、が第一です。

私は早期退職をしましたが、中学校に在職していた時、権利ばかり主張をする同僚の仕事を被っても、感謝されたことはありませんでした。

有名な革新自治体でしたが、「左翼」は大嫌いになりました。
21. Posted by yoko   2010年08月17日 23:19
はるくんさん

どこをどう読めば、『先生には義務より権利が大事なのでしょうか?』と感じるのか私には理解できません。toshi先生のブログを以前から読ませて頂いていますが義務より権利を主張されていた事など一度もなかったと記憶しています。
考え方は人それぞれですから、はるくんさんのようにtoshi先生と違った考えの方もおられるでしょう。
しかし、あなたのは『厳しい言い方』ではなくただぶしつけなだけではないでしょうか。
せっかくコメントされるなら議論できるようなコメントをされたらいかがでしょう。仮にもかつて教育者だったのでしょう。教育者の名が泣きますよ。
22. Posted by はるくん   2010年08月18日 05:41
2 おはようございます。

「不躾」、私は権利ばかり優先する、革新自治体で仕事をして来ましたが、無責任な管理職や教育委員会のために苦労しました。

退職した後も教育委員会の出した書籍のために尻拭いをやりました。もちろん自腹を切ってです。

貴方の上から目線、考えて下さい。
23. Posted by toshi   2010年08月18日 07:12
YKさん
 日本の教育の特徴といいますか、よい点、課題となる点の双方を示していただいたように思います。ありがとうございます。
《日本の場合、社会性(自由と責任)とは無関係に個人主義化しているのかもしれません。つまり、家では可愛がられ、学校では自分の考えをはっきりと述べ伝える技術を持たないまま、初等教育を終えてしまうということです。》
 これが一番の課題でしょうね。個人主義そのものは大切です。しかし、自由と責任の双方を押さえないといけないですね。そのためには、やはり、自分の考えをしっかり話す力を持たないといけないと思います。
《日本の場合、弱い人のために働きたいという、おもいやりの文化もあるかと思います。》
 これも、日本には、むかしからいいことわざがありますね。『情けは人のためならず。(自分のためである。)』その心は今も脈々と生き続けていると思います。
 もっとも今の時代、このことわざの意味が、『人に情けをかけるのはよくない。その人のためにならない。』とまったく違った意味に受け取られていることもあるようで、やっぱり軽く薄い人情になってしまったことを示しているように思います。
24. Posted by toshi   2010年08月18日 07:27
yokoさん
 大変お世話になっております。
 今回も、ふつうの市民の率直な声をお寄せいただいたと思っております。けっして『上から目線』などということはないですよ。また、多くの読者の皆さんも同様に思ってくださると確信しています。
 コメント20番は、拙ブログや本記事とはまったく関係ありませんし、ご自分の思いを、ぶしつけ、かつ、一方的に述べているだけですので、削除してもよかったのですが、先にモンスターペアレントの典型例を具体的に示したコメントをいただいておりますし、また、『学校の先生も、もはやむかしの教師ではないのかも・・・。』というコメントもいただいておりますので、その恰好な例と思い、残しておくことにしました。
 なお、今後も、同趣旨のコメントが入るようでしたら、そのときは削除することもあると申しておきましょう。
25. Posted by yoko   2010年08月18日 08:03
はるくんさん

『上から目線』ですか、それは大変失礼致しました。
大変なご苦労をされてきたのですね。お疲れ様でした。

toshi先生

有難うございます。次回記事も楽しみにしております。
26. Posted by 常勤講師   2010年08月18日 09:57
いつも拝読させていただいております。

励みになります。

覚えていらっしゃらないかと思いますが、東京都の教員採用試験1次(中・高)に挑戦し、なんとか合格しました。

今回が初受験でした。他県では10回受験し、すべて1次で敗退していたので、とてもうれしいです。

今週の土曜日に2次の面接に挑みます。

なんとかうまく行くと良いのですが…。
27. Posted by toshi   2010年08月18日 10:19
常勤講師さん
 わざわざ、お知らせいただき、ありがとうございます。
 一次合格とのこと。よかったですね。
 実は、もうお一人。その方ともブログ上のお付き合いですが、やはり、東京都の一次(中・高)に合格していらっしゃいます。(中・高)は厳しいでしょうに、すばらしいなと思います。
 なんとか、お二人とも、念願がかないますように、祈念しております。
28. Posted by totoro?   2010年08月19日 11:27
 toshi先生のブログは、いつも考えさせながら読んでいます。難しいことは分かりませんが.........

私は、教育は「人なり」と考えています。
確かに、私たちが子どものころと比べて、社会は大変貌を遂げました。人間の気質を中心に、学校を取り巻く環境は大きく変わりました。
 それなのに、学校の果たすべき役割、学校の指導体制など、そういったものはほとんど変わっていません。だからこそ、教師の専門性と指導力、自信と誇り、いわゆる教師の質の向上なくしては、いかなる崇高な理念の実現も、改革の達成も期待出来ないと思っています。

 最近、立場上、校長や教頭、教育委員会の思いに触れることが多くなりました。自分の気持ちがとても複雑になってきています。

 文部省が教育基本法の改正を受けて教育三法を変えました。様々な制度が始まると共に、それを受けて指導要領も改正されました。色々思う部分もありますが、現場としては決まった物は決まったもので、それに追従していくしかありません。

 すると、管理職や教育委員会の方針がそれに即したものになりました。管理職試験などは、それを理解していないとおそらく通用しないのでしょう。

 一つ一つの指示や説明は、なるほどと思ってしまいます。
 が、ちょっと待てよ。そんなの、今更言われなくても、もともとやっていたよという物ばかりです。

 それをいちいち研修し直し、それを具現化していく手順説明の文書や、総合計画、年間計画等を作り直し(作ったってだれも見ないのに)証拠作りに膨大な時間を費やします。

29. Posted by totoro 2   2010年08月19日 11:31
踊る大捜査線という映画があります。キャリヤ職員や本庁の考えていることと、所轄署の現実との違いをコミカルに表現しています。

 学校も同じと思います。重箱の隅をつつくような変革はさておき、
「こんな学校、こんな子供を育てたい」という有能な校長の下、教師が一丸となって理想の教育をに取り組めたら素晴らしいと思います。
 授業45分の中で子供の学力をのばし、毎45分の授業そのものが生徒指導であり道徳指導である授業。それが学校本来の姿なのではないのだろうかと思うのです。
 授業を通して学校を変えようと思えば、当然忙しくなるし私たちの仕事も厳しくなります。しかし、自分の指導力が向上している、子どもたちの関心意欲が高まっている、学校が落ち着いてきたという+の思いを感じれば、教師はたとえ忙しくとも忙しいとは感じないものです。
 そして、そういう学校ならば、職員同士がたわいもない会話や、子供や管理職の愚痴を言うのでなく、今度取り上げる教材の解釈や、全員に力を付ける方法についてなど、教育のプロとしての会話の多い職員室になっていくと思うのです。

 そう考えると、情報過多で複雑な社会の中、本当に指導力と見識のある校長の存在が欠かせないと思います。
 教育を森にたとえます。大空からその森の全体像や森と周りの自然との関係が把握でき、地上からその幹一本一本の状況が分かり、地下の根の張り具合まで見通すことのできる校長(おそらくtoshiさんはそんな校長先生だったと思うのですが)に、なかなか出会わないというのが実感です。
  
 また、優秀な若者の確保が大事です。こんなに学校や職員がたたかれる時代、しかも給料が安ければ、情熱+見識のある若者の確保が難しいのではないかと心配します。
30. Posted by toshi   2010年08月21日 12:28
totoroさん
 すばらしいコメントをいただいたなという思いでいっぱいです。ありがとうございます。
 totoroさんのコメントこそ、教育全体を鳥瞰するとともに、子ども一人ひとりに密着した指導をされている教員の言葉だという思いを強くしました。
 『教育は人なり。』もう、大賛成です。
 そう。この価値観はむかしも今も変わらないでしょうね。
 《だからこそ、教師の専門性と指導力、自信と誇り、いわゆる教師の質の向上なくしては、いかなる崇高な理念の実現も、改革の達成も期待出来ないと思っています。》
 『今の時代だからこそ要請される教員の資質』。そういったものがありそうです。何を差し置いても、ともかく一番に要請される資質とは何か。近々そういった記事も書いてみたいと思います。その折はよろしくお願いしますね。
《最近、立場上、校長や教頭、教育委員会の思いに触れることが多くなりました。自分の気持ちがとても複雑になってきています。》
 わたしもかつてそうした時期がありましたから、分かるような気がします。困難、不安、迷いなど、多かろうと思います。
totoroさんのブログを少し拝読しました。地道にすばらしい実践をされているなと感じました。ですから、釈迦に説法ですが、むずかしいお立場になることも多いと思いますが、子どものため、保護者のため、そして、仲間のためにご尽力いただければと思います。
31. Posted by toshi   2010年08月21日 12:29
 《管理職試験などは、それを理解していないとおそらく通用しないのでしょう。》
 これについては、地域ごとに事情は違うでしょうし、わたしのころとは時代も違いますから、下手なことは言えないと思っていますが、
・それは理解しているにこしたことはない。
・しかし、理解していないからといって通用しないということもない。
 そんな思いがしています。
 わたしが目指したころは、『学校5日制は是か非か。』が試験問題でした。わたしは時期尚早論を書きました。後で先輩から、『toshiはそんなこと書いたのかよ。ダメだな。五日制になることは、事実上もう確定したようなものなのだ。5日制を是認したうえで、それにどう対処し実りあるものにするかを書かなければダメだ。』そう言われました。
 それでも、その次年度には、昇任の辞令をいただきました。『上の方針を知っているかは大事だが、それより、もっと大事なものがある。』わたしはそんな思いがしています。
 totoroさんの考える、学校本来の姿につながる授業論とか、教員のプロの養い方とか、それらはすばらしく、確かなものです。どうぞ、自信を持って進んでください。
 なお、totoroさんのコメントを拝読し、痛感したのは、『信頼の教育』『信頼関係の構築』が、いかに大切かということでした。時代が変わったことは認識しながらも、『教育にとっては、むかしから変わらない大切なものがあるのだ。』という確信をもって、挑戦的に生きていっていただければと思いました。

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