2010年09月30日

日本は子どもの規格品をつくっているのではないか。(2)

PA0_0057 本シリーズでは、大阪地検特捜部主任検事が犯した『押収した証拠の改ざん問題』をとり上げ、そこから、教育の問題を考えている。


 今回、一連のマスコミ報道に接し、ビビビ〜ンと感じてしまったことがある。

 それは、『検察のつくったストーリー』なる言葉だ。何やら、日本の教育が、悪しき規格品づくり(?)を行っているように思われてならない。

 というのは、わたしは、この『検察のストーリー』なる言葉を聞いたとき、学校教育現場における悩ましい問題を強く想起してしまったのである。


 ところで、前記事では、日本の受験システムの弊害を述べた。それは、むかしから日本に存在するシステムの問題であった。

 しかし、今日述べるのは、システムの問題ではない。学校教育現場にむかしから巣くう、『教員のつくったストーリー』の問題である。



 今日は、心してかかる。なぜか。

 『教員のつくったストーリー』について、次のように思う教員も多いと思うからである。

 『それは当たり前ではないか。教員の授業研究も教員の指導性も、はたまた、学習指導要領も教科書も、教員がストーリーを描いて授業にのぞむことを要請している。そうしなければ職務に忠実とは言えないではないか。』

 

 そこで、もう一度、今回の事件の原点に戻り、検察の不祥事を検証してみよう。

 現段階で確定的なことは言えないが、


・当初検察官が得た情報は、郵便物の料金システムを悪用する官僚と業界の癒着だったのではあるまいか。

 たまたま、それが下級官僚だった。

・こういう問題が起きると、最初はいつも下級官僚だ。

 だけれど、こんな悪事を、一下級官僚だけでできるはずがない。そこには、政治家や高級官僚の癒着構造が必ずあるはずだ。

 検察官は、そうにらんだ。


 ここまではいい。

 検察の正義感も感じることができる。強きをくじき、弱者に味方する。国民はこういう犯罪の摘発に拍手喝采をおくるに違いない。そう思ったかどうか。

 
・そこで、検察は、政治家や高級官僚がかかわるストーリーを描いたわけだ。

 これもいい。

 でないと、捜査自体が行われないことになるからね。


・さあ。問題はここからだ。

 捜査が進展するにつれ、検察が描いたストーリーと食い違うことがいろいろ出てきた。検察は内心あせったに違いない。

 ここで、分かった事実に対し、謙虚であればよかった。

 謙虚になれなかった理由。

 これまでも、数限りなく自白強要はあった。これは、もう無数に報道された。

 もちろんそれもひどい。しかし、わたしが知る限り、無実の罪をきせたと判明しても、そののち、自白強要の検察官が逮捕されたり、裁判にかけられたりすることはなかったと思う。

 それで神経がマヒしてしまったのかな。


 繰り返す。それもものすごくひどいが、

 しかし、今回の事件は、証拠をねつ造したわけだ。検察の描いたストーリーに合うように。


 ストーリーと事実が食い違った場合、どういう態度で事件に臨むべきか。

 当然のことではないか。またまた繰り返す。すみません。

 検察は事実の前に謙虚でなければならない。そうでないと、犯罪者をねつ造してしまう。良心的な市民を悪人に仕立ててしまう。これは、人権蹂躙の極致と言っていい。民主主義社会において、とうていあってはならないことだ。


 この検事は、こんな恐ろしいことを、『時限爆弾を仕掛けた。』と言ったという。信じられない。

 これは、『神経がマヒ』といった次元ではない。

 正義感に燃え、良心的な心で、こんな恐ろしいことを成し遂げるという、その人間性。

 それはどこでつくり上げられたのだろう。


 わたしは、そこに、むかしからの日本の学校教育の姿をみる。

 心身の成長発達の大事な時期。小1から大学4年に至る16年間という長い時期、多くの子どもは、教員の描いたストーリーに付き合わされる。

 いや。いや。付き合わされるなどという生易しいものではない。


・教員の描いたストーリーは正義だ。
・教員の描いたストーリーに自分を合わせなければいけない。
・教員も理不尽なことをすることがある。それでも、自分はその理不尽さに合わせていくべきだ。
・なら、自分が大人(エリート)になったとき、自分の描いた正義に人を合わせさせるのは、何も問題がない。それも正義だ。

 とまあ、こんなことを教わりながら、大人になっていくのではあるまいか。

 暗黙の了解のなかで、教わる方も教える方も無意識な世界のなかで、実は大変なことが行われているというわけだ。皮肉をこめて言わせていただければ、これこそが、究極の『生きる力』の教育になってしまっているというわけだ。


 話は逆だ。

 子どものときから、自分をしっかりと表現できるように育てられていれば、

・子どもである自分の思い、考えが、たとえ教員の描いたストーリーとくい違っていても、教員は自分の思い、考えを大切にしてくれる。
・だから、自分も、教員や友達の思い、考えを大切にしていかなければいけない。
・互いの思い、考えが食い違う経験は、多様性の理解に役立つし、お互いに議論し合って真理を追究していくことにも役立つし、より深く事柄の本質をつかむことにもつながる。
・真理(事実)の前には、お互いに謙虚でなければいけない。

 
 ねっ。こうした経験の積み重ねが、皮肉でない、まさに、正真正銘、『生きる力』を育てていくことになる。



 ここでお断りしておきたいことがある。


 わたしはストーリー性そのものを否定はしない。いや。それどころかすごく大事なことと思っている。

 しかし、それは、あくまで、子どもが描くストーリーでなければならない。


 『そんなばかな。子どもが、ストーリーなど、描けるわけはないではないか。』

 そういう教員の声が聞こえてくる。

 拙ブログにも、『子どもの自主的、主体的な学びなどあり得ない。』という、教員のコメントが複数寄せられたっけ。

 いや。描けるのですよ。日ごろからそういう授業をやっていればね。


 では、その辺を、もう少し具体的に述べよう。


  
 こうした考えに根差す授業実践は、これまで数限りなく拙ブログにおいて紹介させていただいた。それこそ、リンクもできないくらいで、どこをご覧いただいてもかまわない。


 そこで、ここでは、逆に、問題性を強く感じざるを得ない場面を2つ紹介させていただこう。


 ある事例1

 かつての社会科。5年生の伝統的な技術を生かした工業の授業である。授業者は、伝統工芸士が伝統工業製品を作っているところをビデオ撮影し、それを子どもたちに見せて、感想を求めている。

・おじいさんだから、何十年もこの仕事をやっているのだと思う。すごく修業を積み重ねたみたいで上手だ。

・さすが伝統工芸士だけあって、仕事に慣れている。すごい技術をもっているのだと思う。

 そういった、いわゆる『いい子発言』が相次いだ。指導者も満足そうに板書する。

・そんなところで、一人の子Aちゃんが、発言する。

 「でも、あのおじいさん、手はふるえていたよ。」

 とたんに、指導者の目はきびしくなる。指導者の描いたストーリーにはない発言だ。それで、板書もしないし、無視してしまった。『他に。』といって、話題転換を図る。


 でも、この発言、そんなに、つまらなく意味のない発言か。


 考えてもみよう。一番真剣に、ビデオを見ていたのは『手がふるえていた』と発言したAちゃんではなかったか。前者2つは、いわゆる『模範回答』で、ちょっと見ただけでも、優秀児なら言える発言だ。そのクセ、上滑りで本質には迫れない。単に知識を獲得しただけ。


 「そう。手がふるえていたの。細かいところまでよく見ていたね。ところで、みんなは手がふるえたときってある。」
 「うん。あるよ。」
 「そう。それはどんなときかな。」

 そんなふうに問いかければ、『真剣にやるとき』『緊張しているとき』『心配なとき』などと、いろいろ出てくるのではあるまいか。

 そうしたら、伝統工芸士のおじいさんの手のふるえは、『真剣だから』とか、『いい製品をつくろうとして緊張しているから』とかいろいろ出てくるだろう。
 
 そうした過程を経て理解した『修業や技術』こそ、真に身につく学力と言えるのではないか。

 子どもと指導者と共に創っていくストーリーだ。


 ある事例2

 2年生の生活科である。まちたんけんの学習で、学校近くの公園に行った。そこには、公園の掃除をしたり樹木の剪定をしたりしているおじさんがいた。

 子どもたちは、そのおじさんに関心をもち、いろいろ話しかけた。質問もした。

 さて、学校へ戻って、そのおじさんの仕事について話し合った。

・おじさんは一生懸命働いていた。公園をきれいにしてくれる。

・ぼくたち、わたしたちは、公園をよごしてはいけない。

 これも模範回答のオンパレードだ。


 そこへとび出したBちゃんの発言。

・あのおじさんはね。公園のお医者さんなんだよ。


 とたんに指導者の目はけわしくなる。

 そして、何も受け答えせず、無視してしまった。これも、指導者の描いたストーリーにはなかったのだろう。


 でも、実際、よく考えるまでもなく、すばらしい発言ではないか。公園のお医者さんなんて。

 子どもの豊かな感性を感じる。感動してやってほしいくらいの発言だ。


「すごい。どうして公園のお医者さんて思ったの。」

 そう問いかければ、樹木の剪定のことが、低学年の子どもらしい表現で、より具体的、実感的にとらえられたに違いない。



 ところで、どちらも、ベテランの教員だ。そして、どちらも自分の敷いたレールの上を子どもに走らそうとしている。

 こうした授業にならされると、子どもは、指導者が何を期待しているか、何を言ってほしがっているかを気にするようになる。子どもだって、指導者にほめてもらいたいものね。指導者ににこにこしてほしいものね。

 その結果、子どもらしさを失い、上記のような感動を呼ぶ発言はしなくなるのだ。


 
 もっとすごい例がある。

 ただし、これは、授業の話ではない。ここにも、教員の『思いこみ』という名のストーリーがある。


・誰がやったか確かめもしないで、Cちゃんがやったと決めつけ、しかりとばす事例。

・子ども同士のけんかに対し、簡単にけんか両成敗の裁定を下してしまう事例。

 拙ブログにも、こうした事例が、保護者の方から寄せられることがある。



 ねっ。こうした環境で育まれた(?)子どもは、大人になったとき、どういう行動に出るか。もう、多くを語るまい。先の検察官の事例を思い浮かべずにはいられない。


 上記、2つの事例で、『子どもが描くストーリー』の意味がご理解いただけただろうか。

・ストーリーは、一人の子どもが描くものではないこと、当然のことだ。学級の子どもたち全員と教員とによる共同作業である。

・そこには、教員の洞察力が養成される。『おっ。すごいとこまで観察しているな。』(あるいは、)『すばらしい感性を発揮しているな。』
 こんな子どもが育っているなんてうれしい。

 よし、子どもの観察力、感性を、学習の流れに位置付けることはできないか。いや。できそうだ。Aちゃん、Bちゃんの発想を学習の流れに位置付ければ、〜というねらいを達成できる。

 こう考えられれば、子どもが描くストーリーに近づく。



 それに関連して、ごめんなさい。やっぱりリンクさせていただこう。

・ずっと以前記事にさせていただいた座席表指導案なるものだ。これも、子どものストーリーを大切にすればこそ、生まれた指導案である。

・まだある。それは、教員が『しかける』授業である。

 これも一つ、過去記事から紹介させていただこう。

    しかけどころ(2)

 これは、見方によっては、『なんだ。いろいろ言っても、けっきょくは教員がつくるストーリーではないか。』と見られてしまうかもしれない。しかし、肝心な点で違うのだ。

 問われるべきは、子どもがどう認識しているかである。

 子どもが、『自分たちのストーリー』と思っていればオーケーなのだ。だって、わたしたちは、子どもの主体的な学び、子どもの自主的な学びを目指しているのだものね。

 ここでは、『教員の描くストーリー』は陰にかくれ、子どもの目には見えていない。



 さて、ここまで述べて・・・、冒頭述べた、『教員のつくったストーリーは当たり前。』という思いは払しょくしていただけただろうか。

 いや。読者のみなさんのなかには、次のような思いを抱かれる方がいらっしゃるかもしれない。

 『子ども時代、教員が描くストーリーに子どもがつきあわされる事例はいくらでもあるではないか。日本全体でみれば、枚挙にいとまがないくらいだ。しかし、大部分の大人はちゃんと、心やさしく、協調的に暮している。だから、大局的に見れば、問題ないのではないか。冒頭の検察官の事例に関連づけるのは言い過ぎではないか。』


 そう。これまではそうだった。

 それは前記事にくわしく述べたつもりだ。

 しかし、時代は変わった。・・・。これからは・・・、

 

 そう。その辺は、前記事に寄せられた、10円まんじゅうさんのコメント(4番)が、回答となるであろう。

 そう。時代が変わってしまったのだ。人の心が変わってしまった。



 ここで、話題を変えさせていただこう。と言っても、ほんとうは変わらないのだが・・・。



 先日、拙ブログでお近づきいただくようになったマスコミ関係の方Dさんと、わたし同様退職校長2人と、計4人で話す機会があった。


 話の途中で、Dさんが質問された。

「今は、教員の質が低下したと盛んに言われますが、そんなに質は落ちているのですか。」

 それに対し、わたしたち、退職校長3人の意見は一致した。


 まとめると、こうなる。


 いや。教員の質が落ちたとは思わない。むかしも今も、いろいろな教員がいたし、いる。そういう意味では、同じと言っていいかな。

 いや。むかしの方が、ひどかったとも言い得る。

 たとえば、宿題忘れとか、友達に暴力をふるったとか、さまざまな問題行動があると、『ぼくは、わたしは、宿題を忘れました。』と大きな紙に書かせ、それを首にぶら下げさせて、一日中学校生活をおくらせる。そういうことは、我が地域においても、めずらしくはなかった。でも、今、そんなことをする教員はいない。

 人権問題になるし、すぐ、新聞で報道されるだろう。


 でも、むかしは、おしなべて家庭がしっかりしていた。(この一行、後日、書き変えさせていただきます。『でも、むかしは、家庭も含め、社会に、濃密な人間関係が構築されていた。』とさせていただきます。)だから、ひどい教員がいても、子どもはそこそこ学級のなかでミニ社会を形成し、主体的、自主的、協調的に生きていた。


 でも、今は、家庭の教育力が問われる時代だ。(ここも、『社会における人間関係が希薄になってしまった。』とします。)子どもたちのかなりの部分は、社会性を身につけないまま、学校に入学してくる。だから、学級のなかにミニ社会を形成することができない。せいぜい小グループでまとまっているようにみえるくらいだ。


 だから、今は、教員の力量がもろに問われる。教員の指導よろしきを得れば、今もすばらしい学級をつくることができる。子どもの本来の姿は、むかしも今も変わらないのだからね。


 その力量とは、

 端的に言えば、

・教員が子どもの描くストーリーを大切にするということだ。

 気に入らない発言はとり上げない。都合が悪い意見が出ると、聞こえないふりをしてしまう。そして、自分の描いたストーリーに子どもを沿わせてしまう。それではダメということだ。

・教員の気に入る子どもの規格品をつくることは、もうこれからは許されない。事実として、子どもがもう、それを受け入れなくなりつつある。

・もう一つ、言いたいこと。ちょっとストーリーからは離れるが、

 教員と子ども一人ひとりとが、日ごろから、心豊かなふれ合いをしているか。豊かなコミュニケーションが交わされているか。それも教員の力量にかかわる。

 それができていれば、子ども同士も豊かにふれ合うようになり、主体的、自主的、協調的な心でつながるようになる。こういうのを、『転移』と呼ぶ。

 しかし、その1、その2で示したようなかかわりをしていれば、子ども同士も、『空気を読め。』とか、『自分の気に入らない奴とは付き合わない。』とか、簡単にそういう関係になってしまう。


 再度言わせていただく。

 今という時代は、教員の指導力、力量が、もろに問われる時代となっている。


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 冒頭に述べた、『教員のつくるストーリー』に何の違和感も抱かない教員については、それこそ、教員の意識改革が必要でしょう。そして、それは、日本の将来のために、急務であると言ってもいいくらいです。

 わたしは、『教員免許更新制』には強く反対しています。大学の講義で、こうしたものの意識改革がなるとはとうてい思えないからです。あくまで、現場における実践のなかで、研究研修を積み重ねることが大切でしょう。


 次回は、上述の、マスコミ関係の方と退職校長3人の、飲みながらの話に焦点を当てるつもりです。

 よろしくお願いします。  
 

rve83253 at 08:10│Comments(32)TrackBack(0)教育風土 | 教員の指導力

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この記事へのコメント

1. Posted by YK   2010年09月30日 19:22
いわゆる戦後教育のなかの秀才(あえてエリートとは言いません)が社会の中核に現れてきたことと、このような低レベルな事件が起きたことは無関係ではないでしょう。もっとも、それを批判するマスコミ、メディア関係者も戦後教育の枠組みのなかで育ってきたから手に負えない。彼らこそ、「自由」「平等」を無批判に受け入れ、それを建前にしてきた。他人の批判はするが良心の呵責で苦しめられることなどない。こうした扇動的なマスコミの流す濁流のなかで、本物の哲学者も文学者も飲みこまれてしまったのでしょう。
戦後政治の秀才たちが政治の舞台に本格的に入ってきている現状(つまり民主党政権)について言えば、私はもはや手遅れのように思われます。日本の歴史から考えれば、どこかで革新的な政体ができて、それを受けいれることで次の時代に突入するのかもしれませんね。
2. Posted by toshi   2010年10月01日 10:18
YKさん
 『戦後教育』と一言でくくられると、そこには、『いいこともたくさんあった。』と言いたくなります。
 わたしたちは、よく、『そんなのは自由・平等の教育ではない。ただ野放図な教育をしただけだ。』と言います。民主主義国家なのですから、『自由・平等の教育』はいい教育に違いないのです。この辺のこと、すごく大事なのですね。使う言葉が混乱することによって、『戦後の自由・平等の教育は間違っていた。』と言われてしまうことがよくあります。これは、民主主義にとって、大変迷惑なことです。
 直近では、『ゆとり教育』がまさにそれにあたります。
 YKさんがおっしゃるように、『本物の哲学者も文学者も飲みこまれてしまった。』とすれば、それは、こうした言葉の混乱のせいと言えなくもないでしょう。
 
3. Posted by やまびこまま   2010年10月01日 15:37
「教員の作るストーリー」に何の違和感も抱かない先生が娘の担任だった2年間を思い出しました。ベテラン年代の先生でしたが、本当に、何をどう意識改革をしたらよいのかがわからない。私の何がいけないんでしょう、どうしたらいいのでしょう?との言葉には校長先生も困っておいででした。
しかしながらこの先生も、かつてご自身が子どもの時代には、教員の作るストーリーに何の違和感を感じることなく、優秀のまま成長して教師になったのかしらと想像すれば気の毒でもあり、もう諦めるしかないかと思ったものです。
最近思うことは、子どもの頃からの意識の積み重ねというものは、想像以上に大きいものではないかと、自分の子ども時代も振り返りながら感じているところです。どんな小さな事柄でも、自分が体験したことでなければ、見聞きしただけでは本当のところはわからないことが多いのですよね。
話題の検察官がどんな子供時代を過ごしたのかは知る由もありませんが、彼を育てたご両親は一生懸命子育てされたでしょうに、どこでボタンを掛け違えてしまったのかと思うと同じ親として心が痛みます。




4. Posted by 伊藤   2010年10月01日 17:43
一つ思いますが、彼は出身は案外地方じゃないですか?

勝手な思い込みというのもこういうのでしょうね。

エリートが犯罪→挫折を知らない→常にトップでいられる→競争が過熱してない地方出身

ま、こんなところでしょう。ストーリーを描いてみました。

ストーリーというもの考えるなら、給与体系もそうでしょうし、教師の犯罪というものもかつてのアニメや漫画=悪のような報道もそうでしょう。
今はパソコンをはじめとして、自己発信ツールが増えましたし、発信者に都合のいいものも必ずしもすべてその通りに進まないというものもあります。

今のままの免許更新制にも教育学部6年制&教育実習1年間も大反対です。

再教育という観点で気軽に大学へ来る、また、教員そのものの人脈開拓など授業そのものより付帯するおまけのほうが重要とも思います。
ここでもう少し考えると、学校外における横の連携はどれだけ教員はとれるのだろうか、ということも考えます。
5. Posted by toshi   2010年10月01日 19:55
やまびこままさん
 そうでしたね。やまびこままさんから最初にいただいたコメントを思い出しました。分かってしまえば、『何でこんな簡単なことが理解できなかったのだろう。』とおかしくなるくらいのことですが、分からないうちは、分かるのはほんとうに困難なことなのだと思います。
 わたし自身も、若いときは、子どもを受容することと甘やかすこととを混同していた時期がありました。(関係記事を本コメントのtoshi欄に貼りつけさせていただきました。)
 それだけに、教育現場における研究研修の重要さを痛感しています。
《最近思うことは、子どもの頃からの意識の積み重ねというものは、想像以上に大きいものではないかと、自分の子ども時代も振り返りながら感じているところです。》
 はい。わたしも、実は、昨日、初任時代の教え子と数十年ぶりに話す機会があり、それを痛感したところです。担任であったわたしからの感化は大きいという教え子の述懐に、『複雑な喜び』を感じました。そう。こわさも痛感したといったところです。
 その教え子は述懐してくれましたけれど、こういうのって無意識であることが多いのでしょうね。
6. Posted by toshi   2010年10月01日 20:02
伊藤さん
 はい。先日、たまたまテレビで見たのですが、地方出身なようでした。ただ、中学受験をしたかどうかまでは分かりませんでした。
《学校外における横の連携はどれだけ教員はとれるのだろうか、ということも考えます。》
 そうですね。我が地域は比較的、横の連携がとれています。ですから、ある学校の教育実践は、まわりの学校に波及していきやすいです。
 しかし、他の多くの地域では、ある学校がすばらしい取組をしていても、それがなかなかまわりの学校に波及していかないと聞いています。
 研究、研修組織がしっかりしていず、教育委員会主催のものだけなどというところもあるようです。
 我が地域は、自主的な研究研修会が毎週のように行われていますが、よそはその辺、どうなのか。ちょっと気になるところではあります。
7. Posted by ロートル教員   2010年10月03日 10:59
エントリーを拝見して,思うところがあったので,コメントさせていただきます。失礼の段,お赦しください。

「子どもの描くストーリーを大切にする」

それもまた,toshi先生の描いた理想的なストーリーではないでしょうか。例えば,多くの子どもが「学校には行かない」というストーリーを描いたら(子どもにとって,とても自然なストーリーだと思いますが),そして,それを大切にしたら,「学校」そのものが成り立ちません。このことからもわかるように,学校教育そのものが大人が描いたストーリーなのです。そのことを,それこそ謙虚に認めるべきではありませんか。お書きになっている事例は,教師のストーリーの押しつけというよりも,教師のストーリーの未熟さから来るものでしょう(この点,大阪地検の事件も同様ですが)。むしろ,教師は,自らのストーリーをさらに鍛えあげるべきではないでしょうか。
8. Posted by toshi   2010年10月04日 02:38
ロートル教員さん
 はい。おっしゃる通り、『子どもの描くストーリーでなければならない。』とする、わたしのストーリーです。それは記事にも書いた通りです。
 ただ、『理想的』という言葉には引っかかりがあります。わたしは、『座席表指導案』や『しかけどころ(2)』などのリンク先記事で、その具体的実践を示しています。現実なのですがね。
 なお、『子どもの描くストーリー』については、記事でも述べている通り、子どもが、『自分たちの描くストーリーで、学習(授業)が進んでいる。』と思っているかどうかが肝要なのです。それを陰で支える『教員の描くストーリー』があるのは至極当然のことだし、それなしでは、漂流状態になってしまうでしょう。
 
 次に、
《例えば,多くの子どもが「学校には行かない。」というストーリーを描いたら(子どもにとって,とても自然なストーリーだと思いますが)、〜。》とありますが、
 これを、《『学校には行かない。』というストーリーを描く子どもがふえている》と置き換えれば、まさに現在進行中のことです。
 不登校の子どもの増加原因は様々ではありますが、学校教育の現状にもあるのは否定できないでしょう。
 その部分についてですが、それは、『子どもの描くストーリー』を大切にしているからなのでしょうか。そういう授業を実践しているからなのでしょうか。
 違いますね。『教員の描くストーリー』を押し付けているからなのだと思いますよ。

9. Posted by toshi   2010年10月04日 03:23
 ここでお詫びですが、
 記事中に、『家庭の教育力が問われる時代』と、書いてしまいました。これは、ちょっと間違いでした。ごめんなさい。訂正させていただきます。
 先の『いま、先生はから思う。(4)』の記事に書かせていただいた通り、『社会における人間関係が希薄化してしまった現代』というのが正しいでしょう。
 こうした時代においては、『教員の描くストーリー』の押し付けに耐えられない子どもが増えているのです。
 ロートル教員さんがおっしゃっているのとは反対の意味で、このままいけば、『学校教育』は成り立たなくなってしまいますよ。それが近未来の現実です。
 もういい加減に、『学校教育そのものが大人が描いたストーリー』という認識から脱却しないと、大変なことになってしまいます。わたしが述べる教員の意識改革の核心です。

《お書きになっている事例は,教師のストーリーの押しつけというよりも,教師のストーリーの未熟さから来るものでしょう。》
 まあ、こんなことで言い争っても仕方ないでしょうが、どちらもベテラン教員の実践であり、未熟という言葉が当たるかどうか。ただ、押し付けであることは間違いないでしょう。『未熟さゆえの押し付け』という言い方も成り立つかな。

《むしろ,教師は,自らのストーリーをさらに鍛えあげるべきではないでしょうか。》
 これは意味不明です。理解できません。何をおっしゃりたいのでしょうか。
 わたしの記事は、大阪地検検事の不祥事の原因が、幼いころから受けてきた、『教員のストーリーの押し付け』にもあるのではないかと述べています。そこのところをスル―してこのようにおっしゃられると、何やらすごくこわい未来を感じてしまいます。そうおっしゃっているのではないだろうと思いながらも、不安です。
10. Posted by ドラゴン   2010年10月04日 19:29
toshi先生

いつも勉強させていただいております。
このエントリーは、先生の真意を理解できずにおり、何か違和感をもっておりました。
まず、タイトルの「日本は」が何を指すのかが、分からなかったからでもあります。

ただ、ロートル教員さんへのコメントで、「わたしの記事は、大阪地検検事の不祥事の原因が、幼いころから受けてきた、『教員のストーリーの押し付け』にもあるのではないかと述べています。」については、ちょっと同意できません。
というのも、この検事、上司をふくめて、どのような教育を受けてきたかは、まったく分からないからです。「犯罪を犯した=悪い教育を受けた」というのは、あまりにも飛躍ではないでしょうか。
むしろ、そう考えてしまうことで、問題の本質を見失うことにもなるように思います。
教育の問題では、個別に考えるべきところと、全体として一般化して考えるべきところを整理して考える必要があると思います。
そして、このような特殊な事件は、個別に考えるべき問題だと思います。
11. Posted by ドラゴン   2010年10月04日 19:29
以前あるところで、新聞記事の「高卒で三桁のひき算ができない」事例をあげて、学校教育のカリキュラムの問題だと指摘された方がいたので、反論いたしました。
ご承知のように文科省の学力テストのA問題では、同様の問題の正答率は9割を超えています。その意味で、このひき算ができない高校卒業生は特殊な事例にあたり、この例だけをもとに、カリキュラムを変えるのは、余りにもナンセンスだと思いました。まったく問題の本質を見失っております。
同様に報道では、特異な例をよく取り上げられますが、例えば少年による殺人も、今は減っております。ただ、そうした事件はセンセーショナルなので、報道では大きく扱われ、その少年をもってその世代の代表とされて、「今の少年は」なんて議論もよくなされます。当然、今の少年もいろいろな悩みをもっています。しかし、その事件を起こした少年をもって、今の少年全般の悩みを考えることができるでしょうか。
前回、不登校を特殊だと表現しましたが、ちょっと不適切かと思い訂正しますが、不登校の問題も、そうした学校教育一般の問題ではなく、個別に考える問題だと思います。
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/19/08/07080133.htm
文部科学省による、不登校の原因の統計ですが、原因は様々です。これを、「教師のストーリーを押しつけているから」としてしまっては、例えば友人関係や家庭の問題で不登校になっている子どもは、どうなるのでしょうか。そこが本質を見失うかどうかになると思います。
12. Posted by ロートル教員   2010年10月04日 22:40
ご丁寧なご返事をありがとうございました。
 言葉が足りなかったところがあるようなので,補足させてください。
 「子どもの描くストーリー」を本当に大切にするならば,「学校に行かない」という子どものストーリーもまた大切にされるべきだということになると言ったつもりです。不登校は問題にならないということです。そして,「学校に行かない」子どもが増えれば,「子どもの描くストーリー」を大切にする立場からは,学校を解体するというのが妥当な結論です。しかし,もしも子どもが学校で学ぶことが学校に来ないよりもよいことであるというのであれば,論理的には,それは,大人のストーリーに子どもを合わせようとしているにすぎません。子どもは担任を選ぶことが出来ず,学習指導要領や時間割や登校時間は子どもの自由にはなりません。極端に言えば,学校(公教育)とはもともと子どもに「押し付け」をする機関として成立しているのであり,それを否定することはできません。そのことに対して,教師は謙虚であるべきです。私の言った「自らのストーリーを鍛え上げる」というのは,学校教育は大人が子どもを社会化するための押し付けの機関であるということを十分自覚した上で,子どもの心情に寄り添うことができるだけの余裕をもった大人の豊かなストーリーを構築すべきだということです。
 なお,「大阪地検検事の不祥事の原因が」「『教員のストーリーの押し付け』にもある」というのは,私はとても危うい発想だと思います。彼が受けてきた教育の事実を確認できないことはもちろん,人間の行動に関して,その人の受けた教育がどの程度影響するのかを実証することも不可能です。したがって,前提となる事実を正確に確認できていないことに関して因果関係を推論してもそれは憶測にすぎず,これこそ先生のつくったストーリーあるいは蓋然性の薄い仮説にすぎないということになってしまいます。
13. Posted by toshi   2010年10月05日 00:57
ドラゴンさん
 ドラゴンさんのご指摘は鋭く、納得できる面が多々あり、わたしの方こそ、勉強させていただいています。ほんとうにありがとうございます。
 ただ、今回のご指摘については、わたしの真意をご理解いただきたく、よろしくお願いします。

《教育の問題では、個別に考えるべきところと、全体として一般化して考えるべきところを整理して考える必要があると思います。》
 おっしゃる通りと思います。そして、主任検事の《検事が描くストーリー》、さらには、《ねつ造してまでのストーリー》は、学校教育の現状と相まって、一般化できるものと考えました。
 ただし、本記事を書くにあたっても、前記事の末尾にあるように、
『こうした考えを抱くのは、わたしだけかもしれない。それに、それを裏付ける証拠もない。だから、どれだけわたしの思いに共感してくださるか。』
そうした思いで書いています。
 ただ、それは、前記事の文章ですから、やはり舌足らずは否めず、その点、申し訳なかったなと思っています。すみませんでした。
(続きのコメントの14、15番は、逆に入ってしまいました。15、14の順にお読みいただければと思います。)
 
14. Posted by toshi   2010年10月05日 00:58
《不登校の原因の統計ですが、原因は様々です。これを、「教師のストーリーを押しつけているから」としてしまっては、〜》
 わたしもドラゴンさん同様原因は様々と考えており、その一点のみが原因とは書いておりません。ただ、大きな要因の一つとは思っています。また、学校現場における個々の問題については、それこそ、個々の対応となりますが、だからといって、一般化できないとも思いません。すべて個別としてしまうと、試行錯誤や暗中模索の取組が増えてしまうように思います。

 最後に、わたしは、今回の事件で、受験システムと並び、学校の授業のあり方等に関連し、大きな危機感を抱いたのです。
 これは日本社会の未来の姿をうつしているのではないかと思いました。
 早いうちにそれに気づいて手を打たないと、将来の日本は大変なことになると思いました。
15. Posted by toshi   2010年10月05日 00:58
 また、一人の検事をとり上げて、断定はしていないにしろ、『〜にもあるのではないか。』とした点は、確かに勇み足でした。この点もお詫びします。すみませんでした。
 
《「犯罪を犯した=悪い教育を受けた」》と言うつもりはありません。
 『子どもに見え見えの教員のストーリー』をわたしは問題視しますが、これはロートル教員さんのように、そうあるべきだという人もいて、見解が分かれるところです。それから、『=』とも思っていません。いろいろな要因がありうることは確かです。

 わたしは、本記事において、
・社会における人間関係の希薄化の進行
・受験システム
・大人のストーリーの押し付け
を上げていますが、まだまだ要因はあることでしょう。

16. Posted by toshi   2010年10月05日 01:24
ロートル教員さん
 思いは違いますが、ロートル教員さんのコメントからは誠実さを感じることができ、大変ありがたく存じます。
《「子どもの描くストーリー」を本当に大切にするならば,「学校に行かない」という子どものストーリーもまた大切にされるべきだということになると言ったつもりです。》
 わたしから見れば、ロートル教員さんがおっしゃることは、『大風呂敷を広げ過ぎだな。』と思います。なぜなら、わたしは、繰り返し述べているように、《『子どもの描くストーリー』については、子どもが、『自分たちの描くストーリーで、学習(授業)が進んでいる。』と思っているかどうかが肝要としているのです。それを陰で支える『教員の描くストーリー』があるのは至極当然のことだし、それなしでは、漂流状態になってしまうでしょう。》
と述べているからです。
 つまり、子どもがどう認識しているかなのです。大人の論理ではありません。
 子どもが、『先生にやれと言われたからやっている。』と思っているか、『自分たちでやりたいからやっている。』と思っているか、それを問題にしているのです。それ以上でも、それ以下でもありません。
 リンク先記事も、ご覧いただけたのでしょうか。そうしていただければ、『子どもの描くストーリー』の意味が、より具体的にご理解いただけるのではないかと思います。
 最後に、末尾の6行については、ドラゴンさんへのコメント同様、お詫びします。
 ただし、実証とか因果関係とか、そういうのを待たないと何もできないというのでは、ことはどんどん進行し、後の祭りともなりかねません。あくまで、事柄によってはということですが、推論を大事にし、あとはどれだけ共感してくださる方がいるかが大事。そのために、わたしは、ブログで訴えています。
 ただ、今回は確かに勇み足でした。
17. Posted by フルタ_1   2010年10月05日 01:56
現在まさに規格Aの子ども達を量産しようとしているように思われる小学校に子どもを通わせており、また私自身が先生や上司のストーリーに忠実だったせいもあり、toshi先生が書かれておられることに私は共感していました。
ただ、私はとてもエリートとは言えませんが、地位が高い人に憧れていたために、先生や上司の指示が無理だと思っても当然のことのように従い高い目標を掲げ喜ばせる行動をとっていました。そのため会社では同期入社の同じ部の男子達よりも良い評価(給与査定)を受けていました。冷静に判断して無理なことを説明した男子の中には、能力や生産性が優れていても非常に低い評価しか得られない人もいました。メーカーでしたが、現在管理職になっているのは、私と同様に当時から上司に忠実だった人が多いようです。会社自体は、命である開発部門が縮小し良い方向とは言えないようです。
18. Posted by フルタ_2   2010年10月05日 01:57
ですから、小学校教育が100%関わっているとは思いませんが、toshi先生が14に書かれておられる危機感も理解できます。

このため、私のようになって欲しくない気持ちから、子どもへの先生の指示が変だなと気付いた場合は、子どもに「先生だって判断を間違えることがあるのよ」と言うこともあります。規格Aを目指して子どもが焦っていると、「あれもこれもできなくてもいいよ」、「明日までに仕上がらなくてもいいよ」(と言ってもなんとか仕上げます。「もう、今日は終わりにしなさい」と言いきった方がよいのかもしれませんね)と最近はよく言って聞かせます。
19. Posted by フルタ_3(終)   2010年10月05日 01:58
あまり関係ない事例かもしれませんが、子どもの参観日に席順に子ども達が次々とあてられました。順調に正解を答えていましたが、ある席で間違いを答える子がいました。その次の子があたりその子も間違えました。そこで先生は「この答えがわかる人?」とクラスに問いかけ、その2人を除くほとんどの子が手を挙げました。で、次の席の子があたり正解を答えました。「他のみんなは分かっていますが、分からないのは2人だけですね」そして笑いで終わってしまいました。子どもの話から、参観日でなくても子ども達は同様の経験を重ねているようでした。担任はベテランで、子どもを従わせるという面で校長からも大部分の保護者からも信頼されている先生です。

思い付いたまま、書いてしまいました。的外れであれば、17-19をどうぞ消去してください。
20. Posted by ドラゴン   2010年10月05日 20:51
toshi先生

「ただし、実証とか因果関係とか、そういうのを待たないと何もできないというのでは、ことはどんどん進行し、後の祭りともなりかねません。」
実証は、それぞれの専門家にまかせてもよいのではないでしょうか。先生がいつものように、子どもの姿、教師の姿、授業の場面で語られていることが、私にとって一番の勉強です。
当然、先生の学校の子どもたちで全国の子どもたちは代表できないでしょう。北海道の子どもとも沖縄の子どもとも違うでしょう。都内でも、半数が中学受験する小学校もありますし、学力に課題をもつ小学校もあります。「子どもという名の子どもはいない」と言われるように、子どもは千差万別です。そうした子どもの具体的な姿で語ることも、非常に大事なことだと思います。
21. Posted by ドラゴン   2010年10月05日 20:52
先生が課題に思われていることは私も同感です。とても大事なことだと思います。ただ、課題の捉え方が、微妙に違うかもしれません。

ただ、「教師のストーリー」と言う言葉で議論するのは、非常に難しいと思います。
みなさんのコメントを拝見していて、微妙なずれを感じました。
うまく説明できませんが、フルタさんは「規格」と捉えられたのでしょうか。ロートル教員さんは、「成長のストーリー」でしょうか。toshi先生は、「授業の流れ」などもストーリーとして捉えられています。
そして、検察官が立てたストーリーは、また異なっています。
いかがでしょうか。
僭越ながら、こうした点も整理された方がよろしいかと思います。

22. Posted by ドラゴン   2010年10月05日 20:53
一般論としてですが、私は、日本の先生方を信頼しております。現場から研究者まで含めてです。
一般論としたのは、個別では、当然ダメな教師もいるからです。

以前も紹介しましたが、横浜国立大学と横浜市教育委員会と横浜の現場の先生方で作成した教育実習の評価規準です。
http://www.edhs.ynu.ac.jp/gp/model.html
その教師の基本的な素養の第一が「すべての児童を人間として尊重し、一人ひとりのもつ高い可能性を期待する」です。これは、とてもすばらしいと思います。研究者も教育委員会も現場の先生も、これを第一にあげています。
様々な学力テストの報告でも、「できない子どもをどうするか」が、第一の議論になっています。研究会でも、協議会でも、様々な雑誌の論文でも、その多くが「できない子どもをどうするか」です。エリートを育てようというのはほとんど見たことがありません。
個々の先生には、問題のある授業をされている方もいます。教科書を教えるだけという教師も多いでしょう。でも、多くの教師は、クラスのできない子どもをなんとかしてやりたい、そう言う願いをもっているように思います。時々、研究会などで授業をみることもありますが、そのように思います。
そうしたことから、教師が何らかの価値や学習を子どもに押しつけるというのも、まず、子どもをよくしたいという教師の善意があるのだろうと思います。TOSSの先生方もそのように思います。実はこの善意も悩ましいところですが、何らかのきっかけで、toshi先生がひごろから言われているような授業観、教育観をもってもらえれば、ずいぶんと変わるようにも思うのです。
23. Posted by やまびこまま   2010年10月06日 10:58
私は保護者ですから難しいことはわかりません。ですが、何かこわいな不安だなと思っていたところでしたので、toshi先生のお話には共感しております。これは理論的ではない、本能のようなものかもしれません。

周りにお子さんの発達障害に悩む方がいたので話を聞くと「定型発達でないと言われた」いう言葉が出てきて衝撃を受けました。障害がないと定型発達っていうのですね。
公立の学校にはいろいろなタイプの子どもがいますから「その子どもたちを教育をする仕事」はどんな教科書があっても指導要綱があってもマニュアルどうりにはいかないものだと思うのです。その日々の中で、子ども達は先生方の描くストーリーがどれほどの魅力あるものであるのか、を鋭く見抜くのだと思います。
公立の学校の場合、先生方の描くストーリーが魅力ある広い世界であれば、はみ出す子供も少なく「勉強させられた」と感じることもないままに楽しい学校生活をおくり、幅広い知識と知恵を授かれる場所であると思うのですが。理想的すぎるでしょうか。

24. Posted by フルタ   2010年10月06日 16:47
ある地域のある小学校の心配し過ぎのたった一人の母(読解力に自信がなくて「的外れであれば・・・」などと言い訳もしつつ、感情に任せて長いコメントを書き、はたまたストーリーは何処に向かっていくのやら状態にしたことを後悔しつつ、昨晩から時折こちらに訪れていました。
そのたびに、toshi先生のドラゴンさんやロートル教員さんとのコメントのやり取りや、再度のドラゴンさんややまびこさんからのコメントを読み返して、ジ〜ンとするものを感じています。
子どもの教育の場に、こんな自由や思いやりがあれば素適だろうなとも。
特に今はドラゴンさんのコメントに感謝したいような気持ちです。
25. Posted by ドラゴン   2010年10月06日 19:49
フルタ さん

お褒めいただき、大変恐縮です。
それで、ちょっと調子にのって、もう一言。
私がこう思うことの根っこの一つに、教育哲学者の村井実先生が言われる「人はみな善くなろうとしている」という言葉があります。
悪くなろうと思う子どもはいません。叱られるようなことをした子どもも、元々悪いことをしようとしたのではなく、「ただ楽しいことがしたい」と思ったのかもしれませんし、「お母さんの手伝いをしたいと思っても失敗してしまった」ということもあるかもしれません。
どの親も、子どもに善くなってもらいたいということを願うでしょう。そのために、「勉強しなさい」を言ってしまうこともあります。これも善くなってもらいたいという善意です。
誰もが善くなりたいと思って、生きているのです。
26. Posted by ドラゴン   2010年10月06日 19:51
でも、そうしたことが、逆の効果になってしまっていることが教育の場面ではあります。
では、どうすればよいか。村井先生は重要な指摘をされています。直接読める文章があればよいのですが、分かりやすく解説したものがありましたのでご紹介します。
http://www.gsis.kumamoto-u.ac.jp/opencourses/pf/4Block/13/5_renaisetu.pdf
「「何が善くて何はダメか」は大人が決めている。「子どもの可能性を引き出す」といっても大人が「善い」と思うものだけを引き出すことになる、と指摘する。」
このあたりが、toshi先生のストーリーにもつながるのではないでしょうか。
それに対して、
「もともと善さが備わっているわけでもなく、逆に大人が善さを子どもの中に作り込んでいけるわけでもなく、ただひたすら「善くなろう」としてもがき苦しみ、時に方向性を失いそうになっている子どもの成長の手助けとして、これまで大人が同じ思いで培ってきた「文化」を「教科」の形にして、「先生」が示していく。それをガイドとして、子どもの「善くなろう」という動きが活発化する。」
というのが村井先生のご指摘です。
私のまわりでは、こうした考えを取り入れて算数の授業に取り組んでいる方々もいます。
また、村井先生は、政治と教育を切り離すことの必要も説かれています。このあたりもtoshi先生とつながるところかと思いました。
27. Posted by ドラゴン   2010年10月06日 19:51
伊藤さん
教員養成についての問題は、伊藤さんのご指摘には私も賛成です。教員養成を6年としてしまうと、つぶれる私立大学もでるでしょう。4年生でまわりが就職していく中で、それを眺めながら学校に通い続けるというのも難しいでしょう。そうしたことから優秀な人材も確保できなくなります。
先に紹介した横浜スタンダードは、伊藤さんが教員養成について関心がおありのようでしたので、紹介したいと思っておりました。
28. Posted by toshi   2010年10月06日 20:07
フルタさん
なんか、大変なご心労をおかけし、申し訳ない思いでいっぱいです。フルタさんがおっしゃるように、このブログを訪れてくださる方は、皆さん、善意のかたまりだなという思いがしております。ほんとうにありがたいことです。
《現在まさに規格Aの子ども達を量産しようとしているように思われる小学校に子どもを通わせており、》
 こうしたコメントやメールをいただくことが多く、また、マスコミ報道を通して聞こえてくる地方教育行政府の施策、さらには、口コミで聞こえてくる学校教育の実態など、憂慮すべきものは多いです。実際そういう教育がどのくらいのパーセンテージで行われているかは分かりようもないわけですが、まあ、けっこう多いのだろうなとは思っています。
《小学校教育が100%関わっているとは思いませんが、〜。》
 これについては、やまびこままさん、フルタさんからお寄せいただいたように、多大な影響力をもつとされる思いに、わたしも共感しております。これについては近いうちに記事にしてみようと思っています。
《子どもに「先生だって判断を間違えることがあるのよ。」と言うこともあります。》
 これも、わたしの思いと一緒です。大人のストーリーに素直に従ってしまうのではなく、『でもさあ。』と言える子どもを育てたいと思います。それも、『子どものストーリー』の大切さを思えばこそです。
《子どもの参観日に席順に子ども達が次々とあてられました。〜。》
 これはひどい話です。笑いで終わりとは。これはまさに人権問題でしょう。それに、これは単なる答え合わせのようで、とても授業と呼べるものではありません。それを授業参観でやるとは、驚いてしまいます。
29. Posted by toshi   2010年10月06日 20:39
ドラゴンさん
 いろいろ問題提起をいただき、また、まとめていただいたようでもあり、ありがとうございます。
 別に議論を吹っかけたいわけではありません。わたしの想いを少し述べさせていただくと、わたしは、以前、拙ブログに、性無説と言いますか、そういう記事を書かせていただいたことがあります。やはり、人間は、崇高な面もあれば、醜い面もあるといった、一人の人間が双方とももっているのではないかということです。で、まわりの大人の温かな支えによって崇高な面が伸びていく場合もあれば、まわりの大人の無思慮な言動によって醜い面が支配的になっていく場合もあると、そういうことではないかと思っています。
 だから、教育って(子育ても含みます。)こわいのです。どちらにもいく可能性がありますからね。大人が子どもをしめつけようとすれば、次世代もその傾向になっていきます。大人が子どもを包み込むようにして子どもの内面を育もうとすれば、次世代はさらにその傾向を強めていくでしょう。まあ、貧富とか環境とか社会のシステムとかいろいろあり単純でないことは確かですが、原則としては言えることだと思います。
 また、人間が諸問題(矛盾と言ってもいい。)に気づき何とかしないとと思うのは、事態がよほど深刻化しないと無理なのかもしれません。歴史がそれを示しているようにも思います。わたしは、今、もうすでにかなり深刻化していると思っているのですが、世間一般の認識はそうでもないようです。
 でも、めげずに、ブログで頑張って主張していきたいと思います。
 すみません。一老教員の述懐でした。
30. Posted by toshi   2010年10月06日 21:07
やまびこままさん
 『定型発達』。わたしもブログを始めてから知るようになりました。
 いやな言葉ですね。現職のとき、ふつう級、健常児というのも嫌でしたが、この定型発達はそれ以上です。
《理想的すぎるでしょうか。》
 日本にも、ある意味理想を現実にした学校があるのです。わたしもブログを始めてから知りました。公立ではありません。
 拙ブログ読者のまいさんが教えてくださいました。きのくに子どもの村学園と言います。ちょっとホームページをのぞかれたらと思います。
http://www.kinokuni.ac.jp/nc/html/htdocs/index.php
31. Posted by YK   2010年10月07日 01:42
私も今年は学校で400人くらい教え子を見ていますが180人くらいは“規格品”かなと思います。もちろん、感謝はされますが、正直、あまり刺激がないですね・・。ここには親御さんもいらっしゃるようですが、私の教育観など価値はないでしょうね。あえて言えば、○○義塾のような個別指導塾だけは通わせないで欲しいです。あんな巧妙な集金システムはなかなか見られないです。あそこ通わせるために家計からやり繰りする親御さんの姿を見るだけで、私は悲しくなります。
32. Posted by toshi   2010年10月08日 01:14
YKさん
 400人ですか。すごいですね。
 塾も千差万別ですね。学校以上かもしれません。子ども手当は賛成ですが、こういう方面に使われることもあるのかと、その点では憂慮しています。

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