2010年10月07日

日本は子どもの規格品をつくっているのではないか。(3)

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 初めにお詫びを申し上げます。

 前回予告させていただいた内容についてですが、申し訳ありません。変更させていただきます。あしからず、ご了承ください。

 
 また、もう一つ。お断りしたいことがあります。

 本記事から、大阪地検をめぐる事件からは離れます。その代わりといったら変ですが、本シリーズ(1)でふれた、わたしが初任者当時の勤務校、A小学校の、その後の取組について書かせていただきたいと思います。
 
 それは、すなわち、『中学受験推進校』(?)からの脱皮を目指した取組です。別な言い方をすれば、いかに、『子どもの規格品づくり』から脱皮し、『子どもが生きる教育』へと変貌を遂げたかを述べることになります。

 最後は、それらの記述を受けて、現在の学校教育の課題にもふれてみたいと思います。


 それではよろしくお願いします。



 話は、わたしの初任者当時、約40年前にさかのぼる。

 そこで、前々記事をご覧でない方は、まずはそちらからご覧いただきたい。(記事のなかほど、『この記事にあるように、わたしは、40年前、初任者として、そういう地域の学校に着任したのである。』からがそれにあたる。)

 公立小学校でありながら、わたしが着任する数年前までは、中学受験推進校と言ってもいいようなありさま。

 それが、ふつうの公立小学校らしく、『児童の人間として調和のとれた育成を目ざし、〜。』(当時の学習指導要領総則より)適切な教育課程の実践を目指すようになったのは、わたしの着任のころといっていい。まさに、A小学校にとっての改革元年であった。


 その大変革が進んだことについては、やはり、受験教育をになった4人の教員が順次転任していったのが大きい。わたしが着任した年、入れ替わりにその1人目が転任した。

 そして、同時進行で、変革推進派の教員は、校長の方針のもと、徐々にではあったが、改革の手を打つことになる。それは、

・全教職員参加の職員会議、
・ほぼ毎週のようにある、地域の研究研修会への積極的な参加体制づくり、
・受験教育目あての越境転入学をなくす取組、

などであった。

  

 こうしたなかで、一大エポックとも言うべき取組に、校内国語部の教員を中心に行った、学校文集の創刊がある。当時、我が地域においては、多くの学校がこれを発刊していた。しかし、『受験教育推進校』のA小学校においては、これを、よけいなもの、必要ないもの、じゃまになるものとし、発刊していなかったのである。

 この創刊号には、『児童の人間として調和のとれた育成を目ざす』教員たちの熱い思いが込められた。


 今、我が手元に、その創刊号がある。

 中を開き、読み進めるだけでもなつかしい。特別な感慨がある。

 特に、校長の巻頭言からは、教育正常化へふみ出すことのできた喜びを読み取ることができる。まさに、『子どもの規格品づくりからの脱却』である。その感慨はひとしおだったに違いない。

 それでは、まず、その巻頭言の一部を紹介させていただこう。



   学校文集『B』のたんじょうを祝う    A小学校長 C

 わたくしは、まえまえから、A小学校のみんなの作文や詩を集めて、一さつの文集を作りたいものだと考えていました。そうした願いが、先生方のご指導とみなさんの努力によって、こんなに立派な文集となってたんじょうしたことは、ほんとうにうれしいことです。

 〜。

 わたしたちは、家や学校などで、大ぜいの人々に接し、いろいろな経験をしています。そして、その折、いろいろなことを感じ、あるいはいろいろなことを考えます。楽しかったこと、つらかったこと、喜びで胸がふるえるようになったこと、悲しさやくやしさで一ぱいになったことなど、数えきれないほどあるものです。そうしたことを作文や詩にすることは、ただ作文や詩がじょうずになるというだけでなく、人間としての心がいっそう豊かになり、ものを見る目が開かれてきます。

 〜。



 こうして生まれたA小学校の校内文集。

 わたしはそのとき、初任2年目で、5年生担任だった。校長をはじめ先輩教員諸氏の努力によって、越境入学はほとんどなくなり、受験教育に取り組む必要もなくなった。そんな高学年は、A小学校にとっては初めてだったに違いない。
 
 今振り返れば、実にありがたいことだった。そうしたタイミングでA小教員になることができたのだからね。わたしにしてみれば、何のしがらみもなく、まっとうな教育に邁進することができた。


 それでは・・・、この校内文集に載った我がクラスの子どもの作文を一編だけ紹介させていただこう。

 実は、その作文を拙ブログに掲載させていただくにあたり、当時の子どもであったDさんにお願いをした。Dさんとは何十年ぶりの会話だっただろう。遠方にお住まいなため電話での話だったが、むかしの子ども時代と変わらぬ、明朗かっ達な声に接し、もう、なつかしさでいっぱいになり、涙が出そうになった。

 それでは、どうぞ、ご覧ください。




   ゆめにまで見たアコーディオン    5の2  D

 今、わたしは、心がはずんでいます。なぜなら、明日、アコーディオンを買いに行くのです。

 わたしがようち園のころ、姉たちが学習発表会で、器楽合奏をするのを見に行きました。姉は、はしの方で、何かへんなものを動かしています。

「ママ、あれなあに。」
と聞くと、
「アコーディオンよ。ピアノみたいにひくの。」
と言いました。わたしはそれをひいてみたくて、父や母に、
「ねえ。アコーディオン買ってよ。」
とねだりました。でも、
「Dは、まだ小さいんだから、あんなものかかえたらひっくりかえっちゃうわよ。もっと大きくなってからね。」
と言われてしまいました。それからも時々ねだっていましたが、
「もっと大きくなってから、きっと買ってあげるからね。」
と言って、承知してくれません。

 それから、しばらくして、お正月にしんせきの人たちから、お年玉をもらいました。その時、これでアコーディオンが買えるかもしれないと思い、
「ママ、これでアコーディオン買える。」
と聞いたら、
「まだまだ、これだけじゃとても買えないわよ。」
とわたしをがっかりさせました。その時からアコーディオンを買うために、貯金しはじめたのです。

 それから時々、
「まだ買えない。」
と何ども聞きました。デパートに行ったらいつもアコーディオンを見ていました。でもなかなかたまらないし、ほしいものがたくさんあるし、マンガの本がほしくても、母は、
「おこづかいで買いなさい。」
と言って買ってくれないので、もうアコーディオンを買うのをあきらめようかと何度も思いました。そんなことがありながらもためていきました。

 ある日、いくらたまったか、計算してみると、思ったよりたくさんありました。姉は、
「小さいのなら、もう買えるわよ。買ってしまいなさい。」
と言ってくれました。でもせっかく今までがまんしてきたのだから、もっと大きいのがほしいので、もう少しためてから好きなのを買おうと思いました。

 祖父の家に行った時、祖母に、
「アコーディオンもう少しで買えるのよ。」
と言うと、祖母が、
「そんなにたまったの。それじゃたりない分を、おじいちゃまにお願いしてごらんなさい。」
と言ったので、わたしは、
「おじいちゃま。アコーディオンもう少しで買えるのよ。だから少しだしてよ。」
と言うと、
「よしよし。」
と言ってたりない分をくださいました。その時のうれしかったこと。こんなうれしいことは、はじめてです。

「ああ。もういつでもアコーディオンが買える。わたしのものになる。」
「ウフフ。」
最初に、何をひこうかしら。うまくひけるかしら。アコーディオンのことばかり考えているとわらいたくなってしまいます。

 いよいよ、あすは、父、母、姉とわたしで、Eへアコーディオンを買いに行くのです。姉も買い物があると言っていますが、わたしは、一番先にアコーディオンの売り場に行くやくそくをしました。姉が、
「アコーディオンを買っても、すぐ帰る帰ると言わないで、みんなの買い物についてくるのよ。」
と言います。わたしは、
「ウン。」
と言っていますが、アコーディオンを買ったら、一もくさんに帰りたい気持ちです。



 作文は以上だ。


 こうした生活文、それに、詩、読書感想文、記録文、手紙文など、など。それらが満載された校内文集だ。

 今、それらを読み返して、思う。ほとんど、上記の繰り返しで申し訳ないが、

 A小学校の校内文集に示された子どもの心の数々。これはA小学校にとって革命的な変化だったと言えよう。

 受験から脱皮した教育。子どもが子どもらしく生きることのできる学校。子どもが自己実現できる学校。『規格品づくり』でない学校。まさに、学習指導要領にうたわれる『児童の人間として調和のとれた育成』をめざす、ふつうの公立小学校に変貌を遂げることができた。


 当時の改革派教員の喜びの声が、今もこの耳に残る。

 子どもが格段に明るくなった。子どもらしくはずんだ声が、校内にひびきわたるようになった。休み時間の校庭は、徐々にではあったが、楽しく遊びまわる子どもたちでいっぱいになった。

 そうしたなか、わたし自身も、子どもとよく遊んだ。なにしろまだ若かったからね。


 『子どもに開かれた学校』。

 ああ。何か変なひびきだね。こんな言葉、あるのだろうか。あまりにもあたりまえ過ぎる。



 さて、ここからは、むかしの話からは離れ、標題に戻る。そして、以前の、『国語の授業がおかしくなっている・・・かな!?』シリーズの続きのようになる。

 まさに、現代の教育の問題だ。


 同シリーズ(1)に関連するのだが、

 今、我が地域において、校内文集を発刊する小学校はめっきり減ってしまった。これは全国的にも言えることでないかと想像する。それには、

・教員の多忙化
・費用の問題

などがあげられるだろうが、それ以上に、学習内容の変化が大きいと思う。


 
 今、我が地域で使用する教科書からは、『生活文』を扱う単元が消えてしまった。つまり、上記、Dさんの書いたような作文を書く時間はなくなってしまったのだ。だから、たとえ校内文集を発刊したとしても、それを活用できる時間はほとんどないことになる。

 これは、もちろん、学習指導要領がこうした内容を極端に軽視するようになったからだが、

 とは言っても、これらを禁止しているわけではないから、学校によっては、今もこうした学習を大切にしているところもあるだろう・・・とは思う。

 しかし、どうだろう。そうした動向はまったく分からない。


 さて、話を戻し、大きく変化したのは、それだけではない。教科書に掲載される『物語』は半減した。

 それだけではない。(繰り返しですみません。)

 物語の学習においても、それを読み味わう授業から、音読中心の授業へと変貌してしまった。


 そして、ますます時間をかけて学ぶようになったのが、『言語事項』など。教科書の言葉で言うと、『言葉の窓』とか『漢字の広場』とか、そういうもの。

 これがやたら多い。


 
 もうお察しいただけただろう。

 学習内容的にも、再び、もとの『子どもの規格品づくり』に舞い戻ってしまった観がある。

 むかしの『規格品』はA小学校タイプの学校だけの問題だった。それは少数だったといっていい。でも、今のそれは、全国的な問題だよね。なにしろ、学力低下論から始まって、やたら、知識のつめ込み的な内容が増えた。


 そして、公立小学校の中学受験教育こそないものの、受験教育(?)そのものは花盛りだ。


 子どもの心のはぐくみは軽視されつつある。


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 『国語の授業がおかしくなっている・・・かな!?』シリーズの(1)は、いろいろ物議をかもしたようです。

 『生活文、読書感想文などなくていい。言語事項重視でかまわない。』というご意見がかなりありました。

 それは、ご自身の子ども時代、『書きたい内容などない。』『感想文など書かせるから読書が嫌いになるのだ。』そういう思いでトラウマになった経験があったからのようでした。


 でもね。これは、指導法の問題でしょう。

 しっかりと、それこそ、『子どもの生活』、『子どもの描くストーリー』を大切にすれば、そんな学びにはならなかったはず。そう思うのです。

 つまり、簡単に申せば、

 その単元に入ってから、『さあ、生活を振り返りましょう。』『さあ。読書をしましょう。』とするから、トラウマになるのです。

 日ごろから子どもの生活を見つめ、そこに浮き彫りになる印象的、感動的な事象を大事にし、単元に入ったときそれを生かして学習を進めるようにすれば、子どもは自然に興味、関心を深めるようになったはず。

 そう思うのです。


rve83253 at 06:05│Comments(31)TrackBack(0)むかし | 教育制度・政策

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この記事へのコメント

1. Posted by 常勤講師   2010年10月07日 09:23
こんにちは。
「日本は子どもの〜」(1)〜(3)を興味深く拝読させていただきました。

toshi先生が初任でお勤めになった学校、恐ろしいな、と感じました。そして学校改革にはやはり教員同士のつながりこそが大切なのだ、と再認識しました。

私は講師、という立場上、1〜2年で異動になります。そのため数年で多くの学校を経験させていただきました。

そこで感じたのは以下のことです。
「学校は管理職の意向と職員の意向に溝ができる」

管理職が「○○したい」という学校方針を打ち出す。ちょっと待ってくれ、自分の意見も聞いてくれ、取り入れてほしい、という教員と溝ができ…という光景を幾度も見ました。

管理職は「教員の規格品を作りたいのではないか」と感じてしまいます。

********************

先日、とても悲しい思いをしました。

ある講師の先生が作った定期試験に、生徒を題材にしたものがありました。
しかも「○○はいくら努力しても失敗する」「△△以外はみなそのことを知っていた」を英作文にする、という内容で、人権上の問題があるものばかりでした。

ゆゆしき事態だと思い、周りの先生に相談すると「これは教務、教頭先生に伝えた方が良いよ」と言われ、すぐにその問題用紙を持って教務室に向かいました。

すると…。


「で、先生はどうしたいの?」


という第一声をいただき、思わず「エ?」と身を乗り出して聞き返してしまいました。

「このクソ忙しいのに、何おおごとにしてんの?」という雰囲気で取り合ってもらえず、その後も何事もなかったようにされています。

この設問を作ったのは講師の方ですし、こういうときこそ、管理職から強く注意していただきたかったんですが…。

その生徒の親や設問にされた生徒の気持ちを考えると、本当に心が痛みます。
2. Posted by 伊藤   2010年10月07日 15:48
学年文集は作りましたね。
小学校も中学校も卒業文集を書きました。

うちの地区は60年近く前から地域で募集し、優秀作品を載せる文集を発行しています。
中身は紀行文や感想文だけでなく、随筆、小説、短歌、俳句などいろいろあります。

愛国心を鍛えるうえでどうして母語である国語の教育をしっかりしないのか。
新しい教育基本法の理念を実現するなら、私は外国語活動をすぐに廃し、国語とくに読み書きを低学年から時間数を確保してやるべきでしょう。
もっというと、戦後日本語の体形が変わり、それまでの口語と文語の差が開き、なぜ「こんにちは」なのかであるとかの説明すらできない状況です。

国は英語に力を入れていますが、必ずしも英語ができる人は小学校から勉強しているとは限りませんし、日本国内にいる限り日本語しか使わないことも多いです。

ならば、子どもが何かを伝えたい、発したいならば母語である日本語を鍛える以外に何もないのではないでしょうか。そこから初めて個々の持つ思いを表わせるように思います。
3. Posted by toshi   2010年10月08日 01:06
常勤講師さん
《管理職は「教員の規格品を作りたいのではないか」と感じてしまいます。》
 わたしも一応管理職のはしくれだったので、複雑な心境です。
 《「で、先生はどうしたいの?」》も含め、我が地域では、そういうことはないと思っていますが、まあ、断定はできません。
 学校が落ち着いているのでしょうか。我が地域ならすぐクレームが来そうです。おっしゃる通り、人権問題ですもの。

 
4. Posted by toshi   2010年10月08日 01:11
伊藤さん
 ああ。卒業文集は別です。これは、我が地域でも、すべての学校がやっているでしょう。たぶん、記念品的意味合いがあるからでしょうね。
 小学校における英語教育ですが、これが国際理解教育として行われるとともに、外国人講師による楽しい授業なのであれば、国際人的感覚を養うという観点から、わたしは賛成します。
5. Posted by 今日   2010年10月09日 08:23
ご無沙汰いたしておりました。

「日本は子どもの規格品をつくっているのではないか」という大事な題でのブログの企画、すごいなあと感心しました。

教育への情熱を感じました。

僕には、なかなか、こういうことを企画する勇気がありません。

でも、非常に大事あ切実な課題だと、常日頃、思っているのです。

(1)・(2)を読ませていただきました。結論は出なかったようですが、それぞれのご意見から、感じること・学ぶことがあり、考えさせられました。

この考えるということが、大事なことの1つではないでしょうか。

それを貴ブログが果たしてくれたと思っています。


(3)は、ガラッと変わって、教師の研修・指導力・学習指導要領などに視点を向けましたが、これも重要なことですよね。

大変、問題のある教育界ですが、その大変な中でも、教師が力をつける。このことが、その大変な問題を持った教育界を前進させていくものだとおもっています。

今後の記述に期待、致します。


* 私は、国語科教育のことを考えていますが、この世界も、ちゃんとした整理が必要かなと考えております。

人格形成と言語の教育の両方を大事にした国語科教育が、今、多くの方の共通理解になるといいのかなあと、考えています。






6. Posted by ドラゴン   2010年10月09日 17:54
toshi先生


本筋から離れますが、私と先生、またここに来られる方と、登ろうとしている山は同じなんだろうと思います。子どもを善くすると言う山です。ただ、そのルートが少しずつちがうのでしょうか。そして、私には、まだその頂上が見えていません。無理に見ようとして蛇行したりしている、そのような感じです。
そして、時折、先生が設営されたベースキャンプで休ませていただいているような気持ちです。

いろいろと僭越なことも書きましたが、これも「何が子どもにとって善いかもがき苦しんでいる」ためのこととご容赦ください。

7. Posted by ドラゴン   2010年10月09日 18:00
記事の小学校はすごいですね。
実は、子どもが通っている小学校も半数近く中学受験をします。でも先生方もそれを気にしている様子はありませんし、みな伸び伸びとしています。

私は、受験制度に問題があると思いますが、受験そのものが直接子どもに悪影響を与えるとは思っておりません。
確かに、受験ノイローゼになるものもいます。ただ、スポーツでもプレッシャーに負けて、心を病んだケースも見ています。でも誰もスポーツを止めようとは言いません。

私も高校受験、大学受験を経験していますが、特にそれが自分の心身に悪影響を与えたとは思いません。また、友人には灘高校やラサール高校を出身の者もおりますが、そう言う意味でも問題もありません。もちろん、エリートとしての犯罪も犯しておりません。
8. Posted by ドラゴン   2010年10月09日 18:09
ただ、子どもに直接影響をあたえるものではありませんが、受験制度が、本来の教育を曇らせたり、ゆがめたりしている点はがあると思います。

例えば学力の問題、受験学力という言葉がありますが、受験のために本来子どもにつけたい力が付けられないと言うことが大きな問題の一つと思っております。
お受験の保護者が書いている掲示板がありますが、こうした保護者の学力観、教育観は、酷いものを感じます。
先ほどの挙げた山の例では、私たちとは登ろうとしている山が違っているように思います。

だから、例えばPISAの問題が、一つの山を示してくれたように、例えば東大や各大学、高校が、適切な山を示してくれれば、それだけでも大きく変わるように思います。
例えば、「うちの大学では、知識量だけではなく、体験に基づいた生きる力をつけた学生がほしい」と言ってくれるだけでも、ずいぶんと変わるような気がします。
9. Posted by toshi   2010年10月09日 20:42
今日さん
《この考えるということが、大事なことの1つではないでしょうか。》
 ありがとうございます。勇気づけていただきました。共感していただける方が多ければ、それはありがたいことですが、しかし、みんなが考える契機としていただければ、それが最大の喜びということかもしれませんね。
 わたしの本記事は、今日さんに失礼だったかもしれません。『漢字の広場』を、簡単に『子どもの規格品づくり』に含めてしまったからです。
 今日さんの実践では、『現象』という言葉に、なぜ、『現象』とはまったく関係のない、動物の『象』の字が使われているかなど、考えさせる学習になっているのですよね。感動したことを覚えています。
 わたしは、社会科を専門としているものですが、今の仕事が初任者指導であるため想いは複雑です。それは、週時数等の関係です。国語、算数の授業はどの学年もほぼ毎日あるのに対し、社会科は時数が少ないうえ、低学年はありません。したがって、どうしても拙ブログでとり上げるのは、国語、算数が多くなりがちです。
 国語、算数の素人が論じているため、失礼なことも多々あるのではないかと思います。その際はご指導賜りたく、よろしくお願いします。
 
10. Posted by YK   2010年10月10日 00:09
私も多くの学校では“規格品”を造ってると思いますよ。で、その教育の反動は必ずくると思いますね。私も歴史が好きですから、どのような形で反動が来るかを言い当てますと、必ず「愛国」を語る「自称」愛国者によって始まり、どっちつかずの大衆は、愛国的リーダーの単純な世界観に喜びながら付和雷同するでしょう。それによって人々は、国家による言論の統制を受け入れ、その時点で民主制は終了するでしょう。例えば、今の日本は「表現の自由」が保障された国家だからそんなことは有り得ないという考えは割りと危険だと思いますね。「表現の自由」が「ある」ことを教えるのは教育でも何でもないわけで、それは只のファクト(事実)を突きつけることで、素晴らしい「価値」だという精査をするのが教師の仕事と言えるでしょう。例えば、「『表現の自由』には扇動家を生み、民主制を揺るがす危険がある」というのなら、まだ歴史の教育と言えるかもしれません。付和雷同しないことの重要性を伝えることも教師の役割でしょう。ただ、その場合は教師の価値観が入らないわけにはいけないので、責任の所在は常に明らかにしないといけないということでしょう。
11. Posted by toshi   2010年10月10日 03:54
ドラゴンさん
 わたしもドラゴンさんの想いとたいした違いはないように思います。『水がこれしかない。』と思うのか、『まだこれだけある。』と思うのかの違いのように思います。
 まず、わたしは受験システムに反対し、このシステムをなくすことを訴えているのであって、現状における個々の受験については、いろいろな事情があることでもあり、決して反対はしておりません。
 また、初任のころこそ、若気の至りで、受験反対を子どもや保護者に対し言っていましたが、ある程度、年数を重ねるに従い、そのようなことは、子どもや保護者に対し口にしなくなりました。
 なぜかと言いますと、これも、いろいろあったなかで簡単な言い方になってしまいますが、学級経営が充実し学級がまとまったことにより、『仲良しの友達と別れたくない。いつまでも一緒にいたい。』という思いが優先するようになりました。したがって、受験を取りやめ公立中に進学するムードに学級内が包まれるようになりました。
 だから、家庭の考え方により、受験したケースももちろんありますけれど、そのようなことを口にする必要がなくなったのです。また、口にすることによって学級のまとまりが崩れるのは申し訳ないと思うようにもなったのです。
 くわしくは過去記事にありますので、本コメントのtoshi欄にそのURLを貼り付けさせていただきました。ご覧いただければ幸いです。
 ただし、これは、今、半数以上の子どもが受験する学校はいくらもありますから、そういう学校でも通用する理屈ではないですね。もうそんなに多くなると、学級経営の次元では語れないと思います。それくらいのインパクトがあります。
 つい先日も記事にした、人間関係が希薄化した日本。だからこそ、将来の日本が怖いのです。

12. Posted by toshi   2010年10月10日 04:35
受験そのものは、子どもに悪影響ないとのこと。しかし、そうでしょうか。青春の貴重な時期、受験システムなどなければ、いろいろな意味で自己実現できるのに、受験にのめり込まざるを得なくなるわけです。これは、国家的規模での損失でもあると思いますがね。
 受験が自己実現?まあ、そういう人もいるかもしれませんが。
 ドラゴンさんもいろいろ弊害を上げられていますから、分かってはいらっしゃるのですよね。だから、申し上げる必要はないのかもしれませんが、気になったところだけ。
 ドラゴンさんはスポーツを例に挙げられました。心が病んだら、それへの対策を考えるのが当然でしょう。考えない方がおかしいのではないですか。
 また、かつて10円まんじゅうさんが記事にされていたように、当事者が心の病んでいることを自覚しなくても、まわりから見れば、愕然としてしまうようなケースもあります。
 最後に、大学についてですが、受験システムをつくり出している根源の一つは大学の考え方にもあると思います。一般的に大学へ入ると勉強しなくなるというのも、受験システムが生み出す弊害の一つでしょう。そして、これも、国家的規模での損失をもたらしているように思います。

 すみません。もう一言。
 40年前の、子どもの作文。何やら郷愁を感じるとともに、ほっとする想いになります。この心をそのまま伸ばせる日本でありたいと思います。 
13. Posted by toshi   2010年10月10日 04:36
YKさん
 規格品をつくる教育の反動。わたしもあると思います。いや。現状、もうあるのだと思います。まだ人々が気づいていないだけではないでしょうか。
 本シリーズでは、エリートの犯罪と結び付けましたが、それ以外にも、自己の主張の押し付け合いで議論にならない状況とか、利他的言動がとれず利己的な言動に終始するとか、政治の混迷とか、もろもろあります。
 だんだん社会が機能しなくなっていくのではないかと思います。
 でも、やがて、人々は気づくでしょう。
 その光明を、地球環境問題にみる思いがしています。京都議定書以前、人々はまだ地球環境悪化についてさほど関心を示していませんでした。電気自動車、風力発電など、ずっと以前から開発の必要性の話はあったものの遅々として進みませんでした。でも、今、いろいろ問題はあるにしても、人々の意識が変わったことだけは確かですよね。
 人間、切羽つまらないと、本気にはなれないようです。 

14. Posted by yoko   2010年10月10日 14:12
Dさんの気持ちが手に取るように伝わってくる素敵な作文ですね。きっと、早く帰りたくてそわそわしていたのだろうな、帰ったら真っ先にアコーディオンを弾いたのだろうなと読んでいて思わず微笑んでしまいました。
なかなかこのように書けるものではありませんね。
こうやって、自分の気持ちや考えを表現するというのは、人と交わり生きていく上でとても重要な力、生きる力ですね。知識の詰め込みなんかより、もっともっと大切で、そして一朝一夕では身に付かない大事な国語力ですね。
うちの娘は、この『自分の気持ちや考えを表現する』ことが(作文に限らず)苦手で、いつも先生からこれができたら…と言われています。ちょっぴり悩ましいところです。
15. Posted by やまびこまま   2010年10月10日 16:50
過日、4歳の一人息子を小学校させるというお母さんに出会いました。志望校ではザリガニの手づかみが入試に出るらしい、との情報があったので夏休みに「ザリガニ牧場」へ連れて行ったのだそうです。とにかく情報に溺れてしまう、と話していました。
ご紹介の文集に合った校長先生のお言葉が素晴らしいですね。「・・作文が上手になるだけでなく人間としての心がいっそう豊かになりものを見る目が開かれてきます。」
このようなお考えの先生のもとで過ごせた子どもたちは、きっと色々な思い出が作れたことでしょう。
受験は、知識の量と正解を導きだす技術力が問われているのだと思います。ある意味においてはとても大切なことだと思います。ですが、主要5教科(小学校では4教科)以外はいらないのかな、とも感じてしまいます。
正解を追い求めて進学して大学を卒業、さあその先は自分で正解を導きだす世界だよ、と言われた時に何をよりどころにするのでしょう。切羽詰まって、生きる力が問われますよね。

16. Posted by 今日   2010年10月10日 17:44
9の
<わたしの本記事は、今日さんに失礼だったかもしれません。『漢字の広場』を、簡単に『子どもの規格品づくり』に含めてしまったからです。>についてです。

そのようなことは、ありませんよ。
規格品作りになっていることもありますから。

2年生で、新出漢字が11字あり、その読み・意味・書き方を丁寧に指導しないで、その漢字の分類をしましょうという指導書がありました。

これで、子どもは、どのようなことができますか。
意味がわかない・書き方が分からない・読み方が分からない状態ですよ。

このようなことは、教育のイロハで、やってはいけないことです。

でも、そのように書かれた指導書にどれだけの先生が、意見を申し出たか、?です。

教師は、子供に責任を持って指導するのですから、このようなことは、当然、教科書会社に意見を言うべきです。

このようなことを、一人一人の教師が、もっと、率直に言うべきではないでしょうか。それが、規格品作りではない教育につながると思います。

僕らは、そうではなく、読み・意味・書ききちんと指導してから分類する指導書を書きました。

もし、以前の指導書通りで授業をしていたら、子どもは、先生の指示通りにしてしまいます。これは、考えない子ども作りでありますから、規格品作りになります。
17. Posted by YK   2010年10月10日 19:59
>>規格品をつくる教育の反動。わたしもあると思います。いや。現状、もうあるのだと思います。まだ人々が気づいていないだけではないでしょうか。

私もかなり進んでいると思います。戦後、アメリカでは軍需産業が栄え、日本では受験産業が栄えた。どちらも環境問題の深刻さに比べれば詰まらない事業なのですがね。私が危惧するのは、工業成長時代ならば、そんな人生もアリなのかもしれませんが、日本経済の凋落を受けて、受験産業は停滞するかと思いきや、更に怖い段階に入ったことだと思います。それは、「個性」すらも完全に「ビジネス化」しようとする動きです。個性尊重を掲げながら、実際に考えていることは、保護者の精神をどう圧迫するか、であり、心理学や精神分析の手法、ありとあらゆる手を使ってカネを絞り取ろうとする。00年代の受験崇拝マンガの影響もあるでしょうが、怖いレベルです。

これが今、成長中の個別指導塾の正体ですね。今後、更に巨大資本が参入するとも聞いているので(もうしたかもしれませんが)、特に地方は荒らされるのではないかと思います。
18. Posted by YK   2010年10月10日 20:07
>>その光明を、地球環境問題にみる思いがしています。京都議定書以前、人々はまだ地球環境悪化についてさほど関心を示していませんでした。電気自動車、風力発電など、ずっと以前から開発の必要性の話はあったものの遅々として進みませんでした。でも、今、いろいろ問題はあるにしても、人々の意識が変わったことだけは確かですよね。

おっしゃる通りで、人類の究極の目標は環境問題の解決になるかと思います(それに付随する人口問題、食糧問題、貧困問題の解決も含めて)。もっとも、日本が60年代に通り過ぎた公害という道を、中国が今通っている最中ですので(たぶん、公式の発表より公害の規模は大きいでしょう)、環境産業が日本の生き残る道になる可能性も多いにあるかと思います。

幸か不幸か、鳩山はストーリーすら描く能力がなかったわけですが、ブッシュ政権の描いたストーリーで、世界が混乱し、オバマが新しいアメリカのストーリーを描こうとしているわけですから、ストーリー作りは政治でも大変なようですね。

19. Posted by toshi   2010年10月11日 07:29
yokoさん
 Dさんの作文に感想をお寄せいただき、ありがとうございました。Dさんも喜んでくれていると思います。
 yokoさんがおっしゃるように、『自分の気持ちや考えを表現する』学力は、受験には役立たないかもしれませんが、人として生きていくうえでは、生涯大切な力ですよね。民主主義社会においては、それを支える力にもなります。
 そして、yokoさんからはメールもいただいていますので分かるのですが、お嬢さんはこの力を豊かにおもちです。大丈夫ですよ。
 ただ、国語の力、なかんずく作文の力ということになりますと、これはもう記事に書かせていただいたように、国が軽視するようになってしまいましたから、日本全体の課題のように思います。
 そういう意味で悩ましく感じている昨今です。
20. Posted by toshi   2010年10月11日 08:11
やまびこままさん
 受験ママさんの《とにかく情報に溺れてしまう》ことについては、宮台氏も『日本の難点』のなかで書いていました。こうした母親の多くは、『常に不安な気持ちから逃れられないのではないか。』とありました。
 その場合、母親の不安な気持ちは、子どもにも移っていくことでしょう。
《正解を追い求めて進学して大学を卒業、さあその先は自分で正解を導きだす世界だよ、と言われた時に何をよりどころにするのでしょう。》
 これは、初任者指導をしていても感じるところです。初めは多くの初任者が、正解か間違いかという心理から抜け出せないでいます。しかし、やがて、学級経営とはそういうものでなく、一人ひとりの子どもの人間性を豊かにしていくには、多様な見方、取組が必要であることを学んでいきます。
 しかしながら、これも多様で、なかなかそうはいかず、自己の観念にとらわれっぱなしのものも少数ながらいるようです。
 
21. Posted by toshi   2010年10月11日 09:02
今日さん
 わたしもむかし、某社の社会科教科書、指導書の編集等にかかわらせていただいたことがあります。その感覚で貴コメントを拝読すると驚いてしまいます。今だって教員が編集等にかかわっているでしょうにね。考える力を養うことを考えない、一方的に教え込むことしか考えない教員がやっているのでしょうか。それもこわいことですね。
《これは、考えない子ども作りでありますから、規格品作りになります。》
 ほんとうにその通りです。
 さらには、考えるとしても、一様にワンパターンの考えしかできない子どもを育てているのだとしたら、それも、規格品づくりですね。

22. Posted by toshi   2010年10月11日 09:10
YKさん
 わたしも、かつて、《日本経済の凋落を受けて、受験産業は停滞する》だろうと思っていました。もうそんなものは、はやらないと思ったのです。しかし、どうして、どうして、すごい勢いですね。
 『凋落したからこそ、』ではないかと言う人もいます。でも、それでは、さらなる凋落が約束されたようなもの。
 《実際に考えていることは、保護者の精神をどう圧迫するか、》
 まあ、多分その通りなのでしょう。それに、見事にのせられてしまっているということなのでしょう。残念なことですね。
23. Posted by YK   2010年10月11日 21:05
少し話が脱線してしまったので記事のテーマに沿ったお話をします。

今年、私は母校の中学校で、卒業生代表としてスピーチをする機会を頂きました。生徒が自分の「夢」を発表して、卒業生が生徒を励ますという企画だったですが、生徒の中に、「将来は音楽業界で働きたい」という女の子がおりました。

それを聴き、私は何かを伝えることができないかと考え、一青窈さんの例えを話すことにしました。音楽の創作には、作詞家も作曲者も、演奏者もいるが、まずは詩人というものが、どれだけ自分の感動を大切にし、自分のなかに蓄積をつくり、自分だけの言葉で歌詞を創造するか、ということを話しました。国語教育と言いましても、単純とは思われません。まずは自分が何に感動するかをきちんと見定めることから始めないとどうも話が進まないと思うのです。

この曲をちょっと聴いていただきたいと思います。これを聴けば、この記事のDさんの感性に一青さんの感性とも重なる部分があることに気付かれるでしょう。Dさんの文章の感動は、率直であるが故に、私たちの記憶のなかにあるアコーディオンの感動を呼び起こすためです。

残念ながら、このような感動は規格的な教育からはほぼ生まれ得ぬのです。
24. Posted by toshi   2010年10月12日 06:43
YKさん
 いやあ。もう感動です。すてきな曲を紹介していただきました。
 わたし、知らない曲でした。何度も何度も聴いてしまいました。そして、大好きになりました。おっしゃるように、本記事のDさんの作文とも重なってきました。この曲同様、むかしのむかしの想い出。40年前がついこの前のようになりました。

《私たちの記憶のなかにあるアコーディオンの感動を呼び起こすためです。》
 Dさんも、この曲を聴きながら、きっと想い出にひたってくれることでしょう。YKさんに、わたしたちの想い出をより確かなものにしていただいた思いです。木造校舎のなかの音楽室、その校舎にはさまった中庭、それに、あどけない指と指と。

 
 YKさんのお話もしっかりと伝わってきました。音楽も感動であると・・・。すてきなお話でしたね。その中学生の心に深く刻まれたことでしょう。

《残念ながら、このような感動は規格的な教育からはほぼ生まれ得ぬのです。》
 もう、ほんとうにおっしゃる通り。規格的な教育と感動は、まるっきり別世界の産物でしょう。

25. Posted by 伊藤   2010年10月12日 09:18
私は楽しい授業ならそれでいいというのもちょっと疑問があります。

基本的にやってくる外国人の方は英語圏ばかりであり、複雑なしがらみではっきり言うと通訳や教師の介入は禁止されていますし、やってくる人々もいわば高額な報酬目当てのアルバイトであって必ずしも専門的な教育を受けているわけでもありません。

国際理解とは何か?
ただ、外国人の垂れ流すネイティブな外国語を聞くことか?
これが今の外国語活動の全てです。

また授業ではなく活動なので教科書もなく学校にも指導をできるような授業もありません。

変な話ですけど、英語さえできればいい、グローバル社会に対応できる人間を形成したいなら強制的に日本から飛びさせないといつまでも日本を引きずる以上駄目だと思います。
26. Posted by toshi   2010年10月13日 00:38
伊藤さん
 ううん。わたしは、『楽しい授業ならそれでいい。』と言っているつもりはないのです。国際理解教育という観点は大事にしたいと思っています。
 拙ブログのカテゴリーには、『国際理解教育』と『英語の指導』がありますので、そこを適宜ご覧いただければ幸いです。
 ただ、伊藤さんがおっしゃることも理解できる部分があります。国が英語教育をとり入れてから、我が地域においても、ただ単語のカードとか絵とかをつかって反復練習を繰り返すだけの、子どもも飽きてしまうようなそんな授業がみられるようになりました。
 やはり、子どもが興味をもつ授業でありたいとは思います。 
27. Posted by フルタ   2010年10月14日 00:08
toshi先生
すみません。ドラゴンさんへのお礼が言いたくて・・・この場をお借りします。
遅くなりすぎですが、(2)での私に向けたコメントありがとうございました。

<<<もともと善さが備わっているわけでもなく、逆に大人が善さを子どもの中に作り込んでいけるわけでもなく、ただひたすら「善くなろう」としてもがき苦しみ、時に方向性を失いそうになっている子ども>>>、このことはこれまでも知っていたはずなのに、衝撃を受けました。

高校生と小学生の子どもがいますが、もがきが見えてくると、私に対応する様子も変わってきたような気がします。何を言ってもいいんだって安心している感じです。すると、「善くなろう」という子ども達の有り様がさらによく見えてきて、いろいろなこと(主に時間や考え)を融通できるようになったり、まともな(子どもの耳にすっと入る)助言ができ、良い循環となっているような気がします。

この循環を維持するのも私には努力がいりそうですが、楽しいことでもあるので、少し頑張ってみます。
28. Posted by しょう   2010年10月17日 12:19
 ドラゴンさんへの応答で、toshiさんがコメント欄11と12で述べておられることに関連して(気になりながらタイミングを逸した感もありますが)、思うところを述べさせていただきます。

 受験競争やスポーツも含めて「競争に対する論議のかみ合わない理由と考え方」について、以前、古山明男さんがブログ記事の中で簡潔に整理しておられました。(「やる競争」と「やらされる競争」)
http://educa.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-25d3.html

 私自身は受験競争も含めて「やらされる競争」の弊害は大きなものがあると考えます。
 実際、toshiさんがおっしゃるように「当事者が心の病んでいることを自覚しなくても、まわりから見れば、愕然としてしまうようなケース」は少なくないでしょう。
 また、私が民間教育研究サークルの仲間から聞いた話では、「若い同僚で進学校から大学に入学・卒業後、母校に採用されて他の高校での勤務を経験していないものが何人もいるが、受験体制に条件づけられた自分自身の視野の狭さにまったく気づいていない場合が多い」ということでした。

 他方で個人(自分自身)の「意識」=「ものごとの見方・考え方」がどのように形成されるかを考えた場合、「必ずしも受験体制によって因果的に決定されているわけではない」、「受験競争とうまくつき合い、いい刺激にしながら生徒会行事や部活動もそれなりに楽しむ学校生活を送るものも多い(因果的に人格的なひずみを生み出すわけではない)」という主張もよくわかります。
29. Posted by しょう   2010年10月17日 12:21
 しかしながら、社会全体としてみた場合「やらされる競争」の弊害は甚大なもので、それを乗り越えていくためには、
?toshiさんがおっしゃるように「受験システムに反対し、このシステムを変えていく展望をたとえ困難であっても切り開いていくこと」(この点では古山氏も同様の見解)、
?当面「やらされる競争」の弊害を最小限にするため、競争に埋没しないような価値観・感性を膨らませていくような教育実践や「発信」を行っていくこと、(まさにtoshiさんや10円まんじゅうさんのしておられること)が大切だろうと思います。

 そして、個人に関しても「やらされる競争」の横行する社会に否応なく条件づけられている点について、「問いかけ、振り返り、自覚をしつつ弊害を最小限にすること」を目指していくことが大切なのでしょう。スポーツで心を病んでしまう子どもが出るというのも、指導者や周囲が「競争も刺激にしつつ楽しむ」本来のスポーツではなく「追い立てられやらされる競争」に埋め込むような圧力をかけてしまう場合が少なくないからだと考えます。

 スポーツも含めて競争を自己目的化し追い立ててしまう「教育・指導」とは別のものを目指していくべきだ、ということについて(一般論としては)多くの合意が成り立ちそうに思うのですが、にもかかわらず追い立ててしまう現状を自覚していくことが大切ですね。

 私も以前、拙ブログ記事「教育実践と競争」の中で考えをまとめておきましたのでよろしければご一読いただけますか。
http://plaza.rakuten.co.jp/shchan3/diary/200903060000/
30. Posted by toshi   2010年10月18日 06:49
しょうさん
 古山氏の主張をご紹介いただき、ありがとうございました。もうおっしゃる通りと思います。
 わたしも、以前同趣旨の記事を書いたことがあります。よろしければご覧ください。本コメントのtoshiに貼りつけさせていただきました。
 受験システムが必ずしも弊害につながらない側面があるということは、わたしも確かにそうだろうとは思いますが、だからといってシステムそのものを肯定することはできないと思うのです。

 しょうさんの記事、拝読しました。
 すばらしいと思ったのは、初めは、『何が何でも優勝しよう。』を学級目標としたのですね。子どもたちのその思いを認めたうえで、『優勝するためには、』ということで、学級のまとまりとか、みんなへの信頼とか、そうしたことの大切さを学んでいくわけですね。
 そうした、まずは子どものストーリーを認めたうえで、『そのためにはどうするか。』ということで、教える側の想いが入っていくということ。それがすばらしいと思いました。子どもの競争本能をうまく生かしていますよね。
 
31. Posted by toshi   2010年10月18日 06:56
フルタさん
 わたしからも、コメントさせてください。最後に書かれた、《この(よい)循環を維持するのも私には努力がいりそうですが、楽しいことでもあるので、少し頑張ってみます。》
 このなかの、『楽しいことでもあるので、』の部分にすごく感動しました。
 子どもがよく見えるようになったという実感があり、それが『阿吽の呼吸』と言いますか、『打てばひびく』と言いますか、そうした味わいにつながり、さらには楽しさを感じるようになるという、ほんとうに好循環ですよね。
 まことに僭越ではありますが、そういったことではないかと推察しました。

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