2010年10月18日

交換日記からメールへ

zukohnojugyoh ここのところ、感動のあまり、わたしの心は変調をきたしている。

 ふり返れば、

 『日本は子どもの規格品をつくっているのではないか。』なる記事を書いていたとき、その後、それが一青窈さんの歌にまでつながるなんて、想像だにできなかった。


 今、あらためて、実感している。

 読者の皆さんと交流するなかで書き進めるという、ブログのすばらしさを。



 そんな折、Dさんからメールをいただいた。数回やり取りしていたら、Dさんのこんな文章があった。

 『先生の文章を読ませていただいていると、あれから40年近くたったことが信じられない思いです。

 まるで『あのね帳』(いえ。そんな名前じゃなかったですね。反省ノートが進化して、先生との交換日記になったものです。覚えていらっしゃいますか?)を書いているみたいです。

 いつも濃いピンクのペンでぎっしりお返事してくださいましたよね。』


 そうだ。そうだ。そんなこともやったっけ。

 
 当時は45人学級。とても毎日は見れないので、班ごとに提出する曜日を決めて、7人分くらいずつ、まとめて見たのではなかったか。

 となると、わたし自身のことを、前記事で『粗悪品』と書いたが、それほどのこともなかったかな。


 それにしても思う。『思い出』についてだ。

 これは、教え子に限らない。たとえば、旧友などと話していても、お互い、覚えていることって、すごくずれるのだよね。それがおもしろさでもあり、こわさでもある。


 まあ、そんなわけで、わたしのなかでは、

 初任のころの記憶や、文集の作文に示された、あどけないDさんと、今、メールに、すばらしい教育論や子育て論を書かれるDさんのイメージとが錯綜してしまう。

 不思議な感覚だ。


 その不思議な感覚には、次のことも含まれる。

 先日、Dさんは、『toshi先生の感化をものすごく受けている。』と言ったっけ。

 だけれど、わたしの想いはまた別だ。

 どうして、どうして。『Dさんの教育論や子育て論からは、わたしの方が感化される』。そう思うこともあった。

 
 そんなわけで、まだ当分、わたしの心の、うれしい変調は続きそうだ。



 さて、それでは、Dさんのご了解もいただいたので、そのメールの中身を紹介させていただこう。
 (ただし、適宜、わたしの想いも書きこませてください。Dさんのメールを分断するようで、申し訳ありません。
 なお、※でDさんのメールの内容を示し、わたしのコメントを〇で記入させていただきます。)



※toshi先生

 一青窈さんの『あこるでぃおん』のことを知らせてくださってありがとうございました。本当に素敵な曲ですね。胸がきゅんと苦しくなります。

 今年、私は50歳になったんです。私の現在の姿を想像できますか?家族からは、(男性の)〇〇に似てるなどと言われますょ。トホホ
 でも、
「お前のお母さん。一青窈に似てるな。」
って、よく息子の友人たちが言ってくれていたんです。

 『彼女のような清らかな透明感は、私にはないのにな。』と思いながらも、ちょっとくすぐったくて良い気分でいました。ですから、YKさんが、私の作文と『あこるでぃおん』に感性の共通を見てくださったことが、本当に嬉しくて感激です。


〇いやあ。すごいね。

 YKさんが、Dさんと一青窈さんをつなげてくださったのだけれど、もう一つ。息子さんのお友達もつなげてくれていたのだね。

 でも、そう言われてみれば、確かに似ているよ。わたしはDさんの幼顔しか知らないけれど。


※私、ずいぶん生意気な子供だったようですね。

私が先生のことをそのように評価していたり(本当に失礼いたしました)、差別の授業での発言内容は覚えていませんが、今でも差別的な発言を聞くと敏感に反応してしまい反発したり激怒したりしていますよ。


〇いえ、いえ。ぜんぜん生意気などと思ったことはありません。Dさんは、前にも書いたように明朗かっ達。さらに言わせてもらえれば、純粋で、あるがままの姿がすばらしかった。
 
 『清らかな透明感』というのは、小学生にはちょっと無理だろうけれど、『きらりと光るもの』は、当時のDさんに感じていました。

 差別についてはちょっと驚きました。『三つ子の魂』というけれど、まあ、そこまではいかないにしても、『小6の魂』はしっかりもち続けているのですね。自分で言うのもおこがましいが、あらためて、『小学校教育の大きさ』を感じました。
 いいえ。もって生まれた、Dさんらしさなのでしょうね。


※2人の息子の子育てを通して、先生がテーマにしていらっしゃる内容について母親の立場から少しだけ。

 心豊かに子供を育てることが難しい今の日本で、教育現場での先生方のご苦労は想像するに余りあります。

 子供を持つと、望まなくても夫婦だけでは接触する機会のない範囲にまで、社会が広がりますよね。
 私達夫婦は職業的に稀な存在らしく、なかなか価値観を共有できる人に出会うことは少ないです。
 子供を持つと同時に、私も様々な価値観の方々とお付き合いする機会ができました。
 こちらはマイノリティなことを存じていますので、違って当然との思いで皆さんに接するのですが、多数の方からはこちらのことを理解していただけない部分が多いように感じています。


〇ここからは、読者の皆さんに向けた書き方とする。

 前記事にも書いたように、Dさんご夫妻は、芸術の道を歩まれている。

 それだけに、ふつうの社会との接点においてはご苦労も多かったであろうと、容易に想像できる。

 これは、そんな世界にはいないわたしにしても、経験するところだ。


 たとえば、

 あまりにも、自分と感じ方、考え方が違う人と毎日のように接していると、どんなに自分の感じ方、考え方に確信を抱いていても、『自分が間違っているのではないか。』とか、『自分が異常なのではないか。』とか、ぐらついてしまうことがある。特にそれが上司だったりすると、よけいそうで、ほんとうに生きにくくなってしまう。

 まして、自分のような価値観をもつものは少数派と認識させられてしまうと、我が子を仲立ちとしてのお付き合いなど、画一化の日本では、つらいものがあるよね。疎外感をいだいてしまうこともあったのではないだろうか。

 それだけに、前記事に書いた、Dさんが持ち続けた想い。『〜。わたしは何でこのような感じ方、考え方をするのだろう。ずっとそう思っていました。〜。』には、あらためて身につまされるものを感じた。


※社会的に良い関係は違いを認めることから始まるのではないでしょうか。

 先生方には教育の場で、子供たちにその違いに出会う喜びや認めることのすばらしさ、楽しみを教えてあげてほしいと思います。

 また、子育ての最中には、ご自身の観念とずれる子供や親にしり込みされる一部の先生方にも、価値観の違いを認めることを楽しんでいただきたいと思うことがありました。


〇もう、これは、Dさんの言うように、拙ブログのテーマといってもいい。

 わたしの尊敬する先輩もおっしゃった。

 「違いと間違いは違うよ。間違いは正さなければいけないけれど、違いは尊重しなければいけない。ところが、日本人は、往々にして、違いを正してしまうのだよね。」

 このことをくわしく書いた過去記事があるので、リンクさせていただこう。たいした文量ではないしおもしろいと思う。ご覧いただけたらうれしい。下記リンク先の前半の方、『この前、ある新聞を読んでいたら、こんな投書がありましたよ。』からが、それにあたる。

    子どもの見方が変わるかな。(4)


 でも、Dさんは、すごい。

 『尊重』ではなく、『すばらしさ、楽しみを』と書いている。


 多くの教員への、Dさんからの願いといっていいだろう。

 そう。教員が、保護者や子どもとの価値観の違いを認め、そのことを楽しむことができたら・・・、教員のストレスも減少するだろうし、精神疾患にもならずにすむと・・・、

 まあ、いろいろなことがあるから一概には言えないにしても、『確かにそうした面もあるなあ。』と感じさせてもらった。


 そう。そう。それに第一、教員自身が楽しむ境地にならないと、とても、『子どもに、その違いに出会う喜びや認めることのすばらしさ、楽しみを教え』ることはできないよね。

 
※息子たちを見ていて思うのですが、価値観や感性の形成には環境が深く影響するけれど、決して受け継がれていくものでもないとも感じます。

 親としては息子たちとの価値観や感性の違いに直面すると、がっかりすることも多いけれど、それで良いのでしょう?先生。

 子供との価値観の違いを彼らの成長の証ととらえるようにしようと心がけています。

 違いを認め尊重することを子供たちに話すことは国際理解教育や人権教育にもつながりますし、特権に固執するエリート君たちや規格品をつくる危険性も回避できる可能性があるのではないでしょうか。


〇『価値観や感性の形成には環境が深く影響するけれど、決して受け継がれていくものでもない。』

 ほんとう。そうだよねえ。こればっかりは遺伝しないのだね。

 そのことを感じた場合、『違いを認め、尊重する』ことは、我が子に対しても適用しなければいけないのだね。

 ああ。わたしは、この点失格だったかもしれない。娘2人の父親だけれど、反省ばかりだ。

 今、娘2人は子育ての真っ最中。娘が孫に接する姿勢をみていると、かつての自分の失敗を見ている思いのすることがある。

 ああ。こういうところは、引き継がれてしまう・・・こともあるのだね。


 娘に言うことがある。
「父親としてえらそうなことは言えないのだけれど、ごめんね。祖父としては思うのだ。そこは、こうしなければだめだ。」
謝りながら、注文をつける・・・ことがある。

 だから、Dさんに対しても、『(ねっ。)先生。(そうですよね。)』といった感じで同意を求められたけれど・・・、

 もう、まさに、Dさんの言うとおり。いや。Dさんの方が立派だ。


 ああ。そう言えば、そんな過去記事もあったなあ。

 反省の意味も込めて、リンクさせていただこう。下記リンク先の前半部、『さて、今日は、2月14日の記事での保護者の悩み〜。』からがそれにあたる。

    保護者の皆さんへ(2)


※それから英語教育についてですが、

学生時代英語学習が大嫌いで、海外への旅行でも日本語とジェスチャーだけできりぬけるタイプでしたが、思うところあって2年前から英会話サークルに参加しています。

 かたことしかできないけれど、英語で英語圏の方と話すと驚くほど会話が弾み楽しいことが分かりました。

 英語アレルギーが消えると、外国製品の取り説ぐらいなら英語が苦手な私にも辞書片手に読めることが分かりとても便利ですし、突然老いぼれパソコンがDOSV画面に変わってしまっても、うろたえることなく画面の英文の指示通りに処理するようにもなりました。
 現代アートについての難解な日本語の言い回しの記事???な内容でも、英語文に訳されているものを読むとすっと腑に落ちたり、映画や海外ドラマの楽しみは倍増しますし。
 我が家の仕事の情報はネットでもなかなか探すことはできませんが、英語で検索してみるとたちまち多くの情報を得ることもできます。

 目からうろこの連続に、この歳にして英語学習にはまっています。

 英語学習の喜び、楽しさ、便利さを本格的な英語文法教育が始まる前に、是非教えてあげてほしいと思います。


〇わたしは、相も変わらず英語は苦手だが、Dさんの想いは、よく分かるような気がする。拙ブログに寄せられる声は賛否両論だね。Dさんの意見も参考にしていただけたらと思う。


 なお、これは、読者の皆さんやDさんへの情報提供(?)だが、

 我が地域の小学校の英語教育は、平成元年度頃より全学年を対象に始まっている。そして、いずれも、外国人講師による、ゲームや簡単な工作などを通しての楽しい初歩的英会話が中心だ。

 しかし、今回の学習指導要領改訂により、全国で高学年の英語教育が始まった。これは、なんか、わたしのまわりでは、単語を繰り返し唱えるなど反復訓練的で、あまり楽しくないのだ。

 全国的にはどうなのだろう。ここしばらくは見守っていきたいと思っている。


※今は子育てから手もすっかり離れて、息子たちのことは頭の端っこにしかありませんが、子育てやママゴンたちとの付き合い方の悩み多き数年前に、先生に相談させていただくことができれば良かったなと、とても残念に思います。

 先生のお住まいの方にはめったに行きませんが、また機会があれば是非お会いしてゆっくりお話を伺いたいものです。

 今後も先生のブログを楽しみにしていますね。

 ありがとうございました。
                                                      D


〇いやあ。いろいろ失礼なことも多かったと思います。ごめんなさい。

 でも、40年前の、交換日記(?)への朱書きのような調子にはならないよう、気をつけたつもりです。

 こちらこそ、ありがとうございました。

                  toshi


にほんブログ村 教育ブログへ
 ninki



 だんだん、保護者の価値観も多様化していますので、たとえ少数派でなくても、わかり合うことがむずかしくなっていますね。

 でも、教員の指導よろしきを得て、子ども同士、違いを尊重し、多様性を認め合うようになると、不思議と保護者同士もそうなるものです。『保護者は子ども次第。』などと言ったら言い過ぎかな。

 だから、Dさんが言うように、『教員が多様性を認め、それを楽しむ』と、きっと、子どもも、保護者も楽しんでくれるようになるでしょう。

 これからの学級経営には、ぜひ、参考にしてほしいところです。


そうか。そうした過去記事もあったな。直接『多様性を認める』ことにふれた記事ではないが、紹介させてください。

    豊かな人間関係の構築を(3)

 
 最後、Dさんの想いに補足させていただきました。



rve83253 at 04:01│Comments(7)TrackBack(0)エッセイ | 自己啓発

トラックバックURL

この記事へのコメント

1. Posted by 伊藤   2010年10月18日 11:34
私は介護体験中からちょっと体調をくずしてしまい、もともとひどい過敏性腸症候群ですけど、胃痛と痔を併発しまして、通院しております。

日本の英語教育を批判する大学の先生はかなりいると思う反面、大学で英語を教えているということは日本の英語教育で英語を習得した人ともいえます。

英語というとフィンランド、韓国のように教科としてきちんと教えるのか、アメリカの留学生向けのような英語授業をするのかというようなとにかく使えるという前提に立って考えています。
日本で学ぶ英語なら母語を介して学ぶのが一番なのかそれとも極力英語だけに絞って学んでいくのか、の二つがあると思います。

あとは、来てくれるALTの教育を少ししてもらいたいですね。このままだとただのスピーカーですから。
2. Posted by toshi   2010年10月19日 16:48
伊藤さん
 どうぞ、お体に留意され、早く体調が回復されますように。
 日本の英語教育は、自分の体験からしても、使え
ることを目指す教育になっていないですよね。いまだにそうでしょうね。
 今、我が地域の小学校が行っている英語教育は、記事にも書きましたが、けっこういいセンをいっていると思っています。
 Dさんが、『英語学習の喜び、楽しさ、便利さを本格的な英語文法教育が始まる前に、是非教えてあげてほしいと思います。』と言っていますが、そんな感じだろうと思います。(便利さまではちょっと?ですが。)
 しかし、中学以降は問題ありではないでしょうか。『本格的な英語文法教育』でいいのかなという思いがあります。
 

 
3. Posted by 伊藤   2010年10月19日 18:06
アメリカへ行ったときに英語を使うことがありましたが、中学英語で十分だと思いました。

ただ、困るのはしゃべるのはそんなに難しくなくても書いたり読んだりするのは結構難しいですね。中学くらいなら外国語活動の延長線のような教え方でもそれほど問題ないと思います。
ほとんどが高校へ進みますし、そこで文法の再教育を含めて理屈で英語を習得していくようにしていけばいいんじゃないかと思います。

がちがちのアメリカ英語を日本では行っていますけど、日本特有の表現を生かしたジャパニーズイングリッシュも悪くないはずなんですけどね。

やっぱり言語には文化がしみ込んでいますから。
4. Posted by やまびこまま   2010年10月20日 11:22
Dさんのおたより、うんうん、とうなずきながら読ませていただきました。
私は両親とも稀な職業でしたので、子どもの頃からなんとなく「うちは親はちょっと違うような気がする。私もみんなと違う?」と思いながら過ごしていました。
価値観や感性の形成には、まさに環境が深く影響していると実感しています。子どもは親を冷静に見つつ、自分の中のDNAとも折り合いをつけながら成長していきますから、たしかにそのままを受け継いでゆくものではないような気もします。子どもである私は両親と同業ではないものの、やはり稀な仕事を生業としていますが、弟は一般的な会社勤めですからいわゆる遺伝はしていないかもしれません。

子どものころから「うちはうちだから」と親に言われ、自分でもみんなと同じでなくても私は私なんだと無意識に感じていたせいか、自分の子どもにも「感じ方がみんなと違っても無理しなくていいよ」と声をかけていたりします。でも、それを聞いている長男は「みんなと同じがいい」という生活を無理なく過ごし、長女は「私は私」・・ですから本当に面白いと思います。
「異」はそのまま「悪」になるばかりではないことを、保護者も先生方も子どもに伝えてあげられたらと思いますけれどそのまえに、大人同士が多様性を認め合えるようにならなくてはいけないのでしょうね。

5. Posted by toshi   2010年10月21日 04:53
やまびこままさん
 やまびこままさんとDさんは、かなり、似た環境だったのかなとも思いました。お子さんのこと、特に、ご長男とご長女とタイプが違うようであることも、『ふん。ふん。大いにありそうなこと。』とも思わせていただきました。
 《「異」はそのまま「悪」になるばかりではないことを、保護者も先生方も子どもに伝えてあげられたらと思いますけれどそのまえに、大人同士が多様性を認め合えるようにならなくてはいけないのでしょうね。》
 やまびこままさんのおっしゃる通りと思います。
先輩が言ったという、『違いを正してしまう日本人』。それは、日本社会の風土ともいえるものなのか、日本の教育の所産なのか、おそらくその双方と思いますが・・・、多様性を認め合う社会でないと、真の民主主義社会とは言えないでしょう。

6. Posted by やまびこまま   2010年10月21日 09:52
多様性を認め合う社会、そのスタートが公立の小学校なのかな?とも思います。
いろいろな職業の保護者がいて、家庭環境も様々で、健康な子供もいれば、病気を抱えながらも頑張っている子供もいて・・・子どもたちはその中でもまれながらいろんな経験をして成長できるのですよね。
娘の通う小学校は4年前に特別支援学級が加わり、授業によっては支援級のお友達も一緒に勉強しています。
放課後の学童保育にも支援級の子がいますいが、子どもたちは遊びの仲間に入れたり見守ったりしながら自然に過ごしています。迎えに行くと、親もその「自然に」の中に加わることができて楽しいですよ。

学校の授業で答えを導き出す時、
答えは一つだけなのか、他にもありそうなのか、違うのは絶対にダメなのか。
答えは一つだけでも、そこまでの道のりは一つしかないのか、他にも考え方があるのか・・・
先生がいつもおっしゃる問題解決学習が進められると、子どもたちは「いろんな考えがあるのだね」と多様性を感じる習慣がつくのでしょう。
7. Posted by toshi   2010年10月22日 06:00
やまびこままさん
 いつもありがとうございます。
《多様性を認め合う社会、そのスタートが公立の小学校なのかな?とも思います。》
 おっしゃる通りと思います。鉄は熱いうちに打てといいますが、熱いときに、《もまれながらいろいろな経験を》することがいかに大切か。
 やまびこままさんは、交流教育の大切さもおっしゃっていますね。拙ブログにはそうした実践をつづった記事もあります。本コメントのtoshi欄に貼りつけさせていただきました。もうご覧いただいていたらごめんなさい。

 算数はよく、『答えは一つ。』と言います。しかし、その算数だって、答えにたどり着くそのたどり着き方は多様です。それぞれの解き方に良さがあり、また、課題もあります。そのなかで、どの解き方でこれから解いていこうかをみんなで考え合います。
 それなのに、『人の生き方』や『社会のあり方』を考える社会科のようなものまで、正解は一つとする教育が蔓延しています。
《先生がいつもおっしゃる問題解決学習が進められると、子どもたちは「いろんな考えがあるのだね」と多様性を感じる習慣がつくのでしょう。》
 はい。少なくとも民主主義の実践は、心を無視して獲得させる『知識・技能』にあるのではありません。『学び方・生き方』の問題ですものね。そうした学びを経て獲得した知識・技能こそが本物なのではないでしょうか。

 今回、そうした思いをDさんと共有できたのも、うれしいことでした。 
 

コメントする

名前
URL
 
  絵文字