2010年12月09日

差別に気づき、差別と向き合い、差別を許さない授業の実践(1)

PA0_0014 すばらしい人権教育の実践をみた。A小学校の6年生である。わたしは講師を務めさせていただく幸せを感じた。と同時に、『この学校の教員に何を話すか。』それを思うと、緊張感に襲われた。

 子どもたちは日ごろから、こうした授業に慣れているのであろう。気負ったところはなく淡々とした話し合い学習だったが、言っている内容は実に迫力あるもので、そうした子どもたちの姿に対し、目がしらの熱くなるのを覚えた。
 聞くところによると、授業者のBさんはまだ20代。教職経験6年目とのこと。それでいてこれだけの実践力をそなえているということ。ただただ舌を巻く思いだった。

 また、授業後の教員たちの研究討議にも、心打たれるものがあった。先輩教員がBさんら若い教員を支え、盛り立てている様子が分かり、『すばらしい学校だな。だから、こうした実践ができるのだ。』その感を深めた。


 わたしは授業研究会に招かれたとき、問題解決学習の観点から課題として話をさせていただくことが多い。しかし、この授業は、それらすべてを達成しているように感じた。

 今、それを挙げてみよう。


 と、そのまえに、本記事では、学習指導案に示された、授業に取り組むにあたっての、Bさんのいろいろな思いを中心に書かせていただく。本授業そのものは、次回記事に譲らせていただきたい。

 それでは、どうぞ。



〇社会科と総合的な学習の時間との融合

 差別の問題は、総合的な学習の時間の学習内容として、それぞれ、社会科の歴史学習と関連づけてとり上げられている。たとえば、

渋染一揆は、江戸時代の身分制度を扱うなかで、
解放令は、明治政府の四民平等を扱うなかで、

とり上げられている。


〇確かな単元観

 指導者Bさんのなかで、おさえたい事実が具体的で明確になっている。たとえば、

・解放令においては、『制度上、差別はなくなったこと。』
・ある老人の日記においては、『それでも、人々の心に差別意識が残ったこと。』
・米騒動、公害問題においては、『近代化のかげで差別問題だけでなく、労働問題や公害問題などが深刻化したこと。』
・そして、本時とり上げる全国水平社宣言においては、『差別されてきた人々が日本人初の人権宣言をとなえたこと。つまり人はすべて尊敬されるべき存在だとする精神(人類普遍の原理)が書かれていること。』

ととらえている。

 そして、全国水平社宣言については、

・差別に対抗するために団結して立ち上がったという点では、渋染一揆と同じだが、
・一揆が自分たちの尊厳を守るためにたたかったのに対し、宣言では、『すべての人の尊厳を守ろう、人は皆、尊敬されるべき存在だ。』とうたっている。
・日本で初めてとされるこの人権宣言のすばらしさに気づき、全国水平社宣言は為政者に対しての訴えではなく、社会を構成するすべての人へのメッセージであり、運動だということをふまえることで、憲法の基本的人権の尊重の学習へとつなげていきたい。

と述べる。


 このように指導者のなかで、この単元を推し進めるうえでの羅針盤が明確にあり、漂流状態にはならないという、授業をみる立場からすれば、きわめて安心できる記述がなされている。


〇子どもの成長のとらえと授業への願い

  わたしは以前、
 『激しく議論し合ったからこそ、お互いに考えや思いを深め合うことができた。』という実感を抱かせることが大切である。担任がそう評価することによって、『激しく議論し合うからこそ、仲良し』という学級集団をつくることができる。
と述べたことがあるが、このクラスは、それも達成しているようにみえた。


 担任のBさんは、子どもたちの成長を次のようにみる。

 4月当初、学級で話し合いをすると、強い主張をする一部の子の意見に引っ張られて、C対Dの結論は、強い子が推すCの意見になることが多かった。しかし、最近はDの意見になる場合が出てきている。これは流されやすい子たちが、強い子が推すCの意見に追随せず、だれが出した意見であろうが、ほんとうに良い意見を見極めて、自分の意見を発信できる力が育ってきたことのあらわれだと感じる。

 また、当初あった、対立を避けようとする動きについては、おかしいと思ったことをおかしいと言えるような忌憚のない意見交換ができるようになってきた。

 それとともに、本学級の子どもたちに、

・寛容な雰囲気、
・失敗しても短絡的に責めず、『背景に何かあったはず』と思いやる気持ち、
・『どうしてそうなったの。』と、相手の思いを聞き出す行動、
・能力の違いに対しても、見捨てず、突き放さず、励まそうとする気持ち、
・違った意見に対しても、とことん話し合おうとする雰囲気

などが醸成されつつある。


 また、差別の問題について、子どもたちの姿を次のように分析する。

・渋染一揆では、差別される側の思いに迫り、差別に気づき、団結して立ち上がることの大切さを学んだ。『逃げればいい。』という意見もあったが、それに対しては、『それじゃあ、差別はなくならないじゃないか。』という意見が多かった。
 また、解放令、ある老人の日記を学習して以来、『けっきょく差別は永遠になくならないのではないか。』と感じている子が出てきている。

 
 さらに、本時を迎えるにあたっての子どもたちへの願いとしては、

・本時は、全国水平社宣言をとり上げるのであるが、指導者が一方的に『この宣言はすばらしい。』と教えるのではなく、『差別はなくせるのか。』『どうすればなくせるのか。』など、みんながもっている疑問をみんなで考えていく。その過程で水平社宣言という歴史を検証していく。そんな授業を大切にしたい。
 それこそが、ほんとうに子どもたちが知りたがっていることではないか。
 ほんとうに知りたくて友達の意見を聞きたくなる。そんな授業を目指したい。

  
 そして、『寄り添っていきたい子』として、Eさんをとり上げる。

 Eさんはどちらかといえば、基本的な生活習慣が身についていないと思われる子である。そのEさんを通し、Eさんとのかかわりのなかで、学級の子一人ひとりをみていく。

 Eさんはどちらかと言えば、面倒くさいことは簡単に投げ出してしまう子だった。そのEさんが人権問題を扱った単元では、大変意欲的に意見を発表するようになった。
 差別の問題に対しては関心が強く、『差別はおかしい。なくしたい。』と思っていることがうかがえた。

 だがその思いとは裏腹に、暴言で相手を黙らせようとすることもある。強い口調で言うことについては、『だって、強く言うとみんな黙るから。』とのことであった。

 そのEさんに担任として寄り添いながら、『差別はいけない。』だけではなく、『自分が人を差別してしまうことがある。』ことに気づかせ、言動の変容を目指したいと思った。

 渋染一揆の学習では、『自分たちはまだましだ。』と思わせる優越感のことを、
「それは上から目線だ。」
と指摘した。そして、
「それなら俺にもある。テストの点が悪くても、自分より下の点数の子がいると安心する。」
と、日常の自分をふり返っていた。
 
 また、ある老人の日記を読んだときは、
「俺たちが遊んでいて、途中から『入れて。』と入ってきたやつに、ルールを変えようとされるとむかつく。そういうのと似ている。」
とふり返った。

 「解放令が出ても、一人ひとりが変わらないと、差別はなくならないんだ。」
と、堂々と発言したEさんは、今、『一人ひとりを変えるにはどうしたらいいのだろう。』を知りたいのだと思う。
 全国水平社宣言は、いくら平易に書き直すとはいえ、むずかしい表現が多いので、Eさんが読解するには時間がかかるだろう。でも、『強訴ではなく宣言だった。』という事実から、『みんなに呼びかけていく運動』の尊さに気づいてくれたらと思う。


〇学習問題が焦点化され明確である。

 本時は、『解放令が出て制度的に差別はなくなったにもかかわらず、人々の心のなかに差別は残っている。』事実を受け止め、『(それなら、)差別された人々は、(次に)どのような行動を起こしたのだろう。』を考え合う。

 とかく、『江戸時代は江戸時代、明治時代は明治時代』とばかり、各時代別個の学習となりがちだが、Bさんの実践においては、学習が一つの流れとなっている。

 それも、わたしがよく主張するように、Bさん自身の確かな単元観(羅針盤)と、子どもが描くストーリーとの融合がみられる。

 だから、子どもも、本時何を学習するのかがあらかじめ分かっていて、『総合の時間になったら、〜と発言しよう。』という思いで本時を迎えることができる。
 抽出児Eさんの項に書かせていただいたが、『全国水平社宣言』はむずかしい表現が続く。しかし、それにもかかわらず、多くの子の発言が期待できそうなのは、こうした本時を迎えるまでの、Bさんの緻密で行き届いた取組があるからであろう。

 ちなみに、本時の最後に生みだされる次時の学習問題も、ほんとうに自然に、子どもたちの手によって生み出されることになる。
 

〇本時出す資料は一つ
 
 本時Bさんから出される資料は、ただ一つ。『全国水平社宣言』。それだけだ。

 とかく社会科の研究授業というと、次から次へめまぐるしく資料が出されるものがある。子どもは資料に追いまくられる。
 そうではない授業の姿に、じっくり考えさせたいというBさんの思いを感じることができた。
 


 以上、まとめになるが、

・本時に至るまでの学習の流れ、
・どの子も話し合いに参加できそうな分かりやすい学習問題、
・子ども同士の意見は対立するが多様さを認め合う学級の雰囲気など、

 本授業の話し合い学習でも、問題解決学習としてのすばらしさを感じることができた。その様子は次回の記事に譲らせていただくが、

 『心のはりとゆとり』。いい授業を称してそう言った先輩教員がいる。

 本授業でも、子どもたちは活気ある話し合いを展開するかと思うと、深く考え込んで話が途絶えることもあった。そんなとき、Bさんは温かなまなざしで子どもたちを見守る。


 それでは、次回記事にご期待いただきたい。


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〇以前、拙ブログにおいて、『子どもが描くストーリー』で物議をかもしたことがありましたね。リンク先コメントの7〜9、12、16番です。

 本記事のBさんの考え方、実践にも、その意味するところが明確に示されているように思いました。すなわち、

 本時は、全国水平社宣言をとり上げるのであるが、指導者が一方的に『この宣言はすばらしい。』と教えるのではなく、『差別はなくせるのか。』『どうすればなくせるのか。』など、みんながもっている疑問をみんなで考えていく。その過程で水平社宣言という歴史を検証していく。そんな授業を大切にしたい。
 それこそが、ほんとうに子どもたちが知りたがっていることではないか。
 ほんとうに知りたくて友達の意見を聞きたくなる。そんな授業を目指したい。

のところです。指導者は明確に、単元観、差別への想いなどをもっています。これなくしては授業は漂流状態になってしまいます。しかし、その単元観、差別への想いを子どもに教え込もうとするのではないのです。

 ほんとうに子どもが知りたがっていることは何か。授業に何を望んでいるか。

 そうしたことへのBさんの確かな思いが感じられます。

 ですから、子どもたちのなかには、『そんなの差別とは言えないのではないの。単に区別しただけじゃん。』と言う子もいて物議をかもしたり、『自分にも差別はある。』と自分自身を見つめる契機としたりしています。

 
〇総合的な学習の時間としてのふくらみ

 差別の問題については、教室での話し合いだけでなく、学年合同で渋染一揆の劇をつくるなどしたようです。擬似体験を通しても学んでいるわけですね。

 Bさんの話によれば、台詞づくりや演技についても友達同士意見交換するなどして、差別された人々の思いに迫っていったようです。


 そう言えば、校長先生からもお話をうかがうことができました。

 「6年生による劇の発表があった日、わたしはじっとその喜びをかみしめていました。誰かに話すと、その喜びがどこかに飛んで行ってしまうのではないかと思えたからです。それほどに衝撃的でした。
 子どもたちの熱い想いを感じました。フェスティバルのテーマは『今、伝えたい。わたしたちのメッセージ』だったのですが、まさにそれにあるような、熱い思いを感じました。」


 ああ。わたしもその劇を見たかったです。 


rve83253 at 06:48│Comments(12)TrackBack(0)人権教育 | 問題解決学習

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この記事へのコメント

1. Posted by み   2010年12月09日 22:26
是非とも、そのような授業を、「学歴と学校歴、職業と学歴」と、「発達障害とクラスメートの一員、彼らの能力と負の能力」について、とりあげていただきたく思います。
ありがとうございました。
2. Posted by toshi   2010年12月10日 00:59
みさん
 そうですね。より深い観点を与えてくださったように思いました。ありがとうございます。
 なお、拙ぶろぐにおいて、「発達障害とクラスメートの一員、彼らの能力と負の能力」については、たぶん過去にとり上げたことがあるといっていいのではないかと思います。
 そのURLを本コメントのtoshi欄に貼りつけました。ご批正いただければ幸いです。
3. Posted by 伊藤   2010年12月13日 20:47
こういった授業を今だからこそ、何とか共有化したいものですね。
指導案があるでしょうから、ぜひ見て真似させていただきたいものです。
道徳の学習にも含まれるとは思いますが、起きてしまうこと、やってしまったことをなじるよりもなぜそうなってしまったのか?ということを考えさせるのは難しいです。
特に外国人の問題や片親など差別をしようと思えば、いくらでも要因があります。だからこそ、教師の重要性が増すのではと考えるところです。
4. Posted by みかん   2010年12月13日 21:33
はじめまして。いつもTOSHI先生のブログを楽しみにしているみかんと申します。

初めてのコメントなのに、以下辛口の意見です。
(本当にごめんなさい)

差別に気づき、差別と向き合い、差別を許さない学校・・・先生方には、本当に頑張って頂きたいと思う気持ちでいっぱいです・・・が、実際の教育現場は、現場の教師からこれを教えなければならない学校もあるんじゃありませんか?

父が経営する会社を定年退職した方が、シルバー事業団の派遣で都内のある小学校に用務員として派遣されたのですが、先日お会いした際、こんな話をしておりました。
その学校の先生方は、用務員さんに朝会っても「おはようございます」の挨拶一つないそうです。
勿論、その方は、あちらがしてくれなくても、いつも挨拶しているそうです。だって、その方は、父の会社で役員さんでしたし、ご自身も(その息子さんも)剣道をたしなむゆえ、礼に対しては、非常にしっかりした方なのです。
あまりにも、用務員にたいする差別がひどいので、ある時校長先生に「子供に挨拶しましょうと言ってる先生が挨拶出来ないようじゃ、しょうがないねぇ」と言ったそうです。校長先生は、当たってるだけに無言だったそうですよ。その方は、「たぶん、校長も分かっちゃいるけど、どうにもならないんだろうな」と言っていました。

TOSHI先生のブログを拝見するたびに、「こんな素敵な先生が身近にいる学校は良いな。」「こんな先生が校長先生だったら、現場の先生も素敵な先生が多いんだろうな・・・」と、羨ましいです。

子供が学校でトラブルを抱えて帰ってきても、担任に相談出来ない環境って、けっこう辛いんですよ。
5. Posted by かげちゃん   2010年12月14日 08:16
差別の問題はどう取り扱うか難しい、と思います。先生は実際に差別がはっきりわかる史料をご存じですか?

私の知っている限り最も早いのは、慶長16年(1611年)の千葉県のお寺に残る葬儀のやり方について、僧侶が「差別されている方と心の病気の方は一般庶民と同じ葬儀をしないこと。」を指示したものです。

文言を読んでいると、「一度人間に戻した上で」と書いてあり、死してなお人間として扱われなかった実態が浮かび上がってきます。

児童生徒には、「自分が同じことをされたらどう思うか?」を考えてもらえるような授業の展開が必要です。

先生方も、活字でもいいから是非読んでいただきたい、と思います。
6. Posted by toshi   2010年12月14日 20:27
伊藤さん
 本記事は、Bさんが書かれた指導案をもとにまとめさせていただいています。ぜひ、考え方、とらえ方を共有していただければと思います。
 自虐史観などという嫌な言葉がありますが、そもそも人間というものは崇高な部分と醜い部分と双方をあわせもっているもの。その深淵に踏み込むことが大事と思っています。
 差別の心は自分にもあると、まずその認識から始まるのではないでしょうか。そして、それを克服する営みを大切にする授業でありたいと思います。
7. Posted by toshi   2010年12月14日 21:28
みかんさん
 辛口などということはないと思いますよ。拙ブログを始めさせていただいてからというもの、ご批判いただいたような学校の実態は、確かにあるなと実感させられることが多いです。
 わたしの現職最終校でも、民間企業を経営されていた方が、退職後は地域とともに過ごしたいと、非常勤の学校用務員になってくださった方がいらっしゃいました。企業経営の貴重な体験談をたくさんうかがいました。わたしは、折々そうした話を教職員にも紹介しました。
 あいさつ一つとっても、管理職のリーダーシップは大きいと思います。率先垂範はもちろんですが、それだけではなく、学校で働く者は全員教育者という認識をもって、そうした営みに感謝の気持ちをもつとともに、学校内外で、よきコーディネーター役をかって出る必要があると思っています。
8. Posted by toshi   2010年12月14日 21:49
かげちゃんさん
《児童生徒には、「自分が同じことをされたらどう思うか?」を考えてもらえるような授業の展開が必要です。》
 おっしゃる通りと思います。
 Bさんの実践でも、そうした子どもの発言がみられました。子どもが主体的に発言していますので、自分を見つめたり、自分に問いかけたりするような発言が多くみられました。

 
9. Posted by YK   2010年12月14日 23:41
このBさんは私と年齢が近いようです。彼の実践は問題解決型の学習として優れているように思います。特に「寛容な精神を養う」ことを討論を通じて実践しようとしている点は感銘深く思われます。子供たちが互いに認め合うことによって次の社会は形成されるでしょう。

ただ、私が思いますに、教師としての資質としては、「問題解決学習で学習の成果を上げる」よりも「まず、教師自身が<差別とは何であるか>を知っているかどうか」の方が重要なのではないでしょうか。つまり、

<史的事実の提示>→<討論>→<相互理解>

よりも、

<史的事実の提示>→<討論>→<差別に関する教師の解釈の提示>→<(生徒と教師の)質疑応答>→<生徒の理解(新しい疑問)>

の流れのほうが教師がより勉強する必要があり、授業にも緊張感が生まれるように思われます。

私はこのような流れを好んで採り入れているのですが、toshi先生のご意見を頂ければと思います。
10. Posted by nick   2010年12月15日 01:10
はじめまして。中学校で社会科教師をしている者です。

最近、障がい者に関する総合学習を学年(1年生)で取り組み、その主担として関わらせてもらいました。

「差別」に気づく、それは決して対岸の火事として起ここっているものではなく、自らのすぐそばで、あるいは自らも関与していることであり、無関心でいて欲しくないというメッセージを発し続けました。

「差別はあかん」で終わらないように。

子どもたちにそれが通じたか、成功だったのかどうかは今後の様子を見守っていくこととし、初めて8コマに渡っての学習を創っていったことに達成感を持っています。


続編、楽しみにしています。
11. Posted by toshi   2010年12月18日 09:10
YKさん
《特に「寛容な精神を養う」ことを討論を通じて実践しようとしている点は感銘深く思われます。子供たちが互いに認め合うことによって次の社会は形成されるでしょう。》
 はい。問題解決学習の意義の根幹にふれる言葉をいただいたと思います。将来の日本社会の形成に、ますますその重要性は高まっていると思います。
 ただ、後半部の、
《教師としての資質としては、「問題解決学習で学習の成果を上げる」よりも「まず、教師自身が<差別とは何であるか>を知っているかどうか」の方が重要なのではないでしょうか。》
については、『問題解決学習の成果を上げるためにこそ、教師自身が差別とは何であるかを知ることが大切になってくるという、そういうとらえが大切と思います。
 記事でも、『学習が漂流状態にならない。』と書かせていただいた部分については、そのことを指しています。
 YKさんが書かれた
<史的事実の提示>→<討論>→<差別に関する教師の解釈の提示>→<(生徒と教師の)質疑応答>→<生徒の理解(新しい疑問)>
は、学ぶ意欲が備わっている集団、もっと言わせていただければ、目的意識をもって学ぶ集団なら、効果的と思います。意欲を培うところから始めないといけない集団となれば、まして子どもが相手ですから、それはむずかしくなるのではないでしょうか。
 なお、このことは、大変大きな問題を含んでいると思いますので、近いうち記事に書かせていただこうと思います。その折はよろしくお願いします。
 
12. Posted by toshi   2010年12月18日 09:18
nickさん
 コメント、ありがとうございます。
 真摯に総合的な学習の時間に取り組んでいらっしゃること、大変うれしく思いました。中学校もこうした取組はますます重要になっていくでしょうね。
 差別について、まさに自ら関与していることに気づくということ、とても大切なことだと思います。本実践でも、そうした子どもの姿がみられます。初めは人ごとなのですよね。それが学習が進むにつれ、意識の深まりを見せるとともに、自分のこととしてとらえるようになります。次回もどうぞ、よろしくお願いします。

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