2010年12月25日

差別に気づき、差別と向き合い、差別を許さない授業の実践(3)

PA0_0033 本シリーズも3回目を迎えた。Bさんの授業を見てもう3週間たった。でも、その感動が、今もわたしのなかに残っている。もちろん、Bさんの授業への感動なのだが、ストレートな物言いをさせていただければ、『B学級の子どもたちの学び』への感動だったといっていい。

 当日、J指導主事もお見えだった。Jさんは中学年の担当だったから、Bさんの授業をみることはできないはずだった。しかし、『指導案を読んで感動した。』と言って、5分間だけのぞきにきた。

 そう。もう、たった5分だけだって授業のすばらしさは分かるものだ。

 あとで、Jさんが言った。
「いやあ。やっぱり指導案に書かれた通りの子どもたちでしたね。お互い友達の意見をよく聞き合って価値あるものをつかもうとする、そうした真剣な姿勢をひしひしと感じましたよ。」
実にうれしそうに話された。

 講師同士だって、こうして喜びを共有できるということは、ありがたいものだ。それが感動を増幅させたといってもいい。

 
 それでは、本論に移らせていただこう。

 本記事では、(1)(2)で言い残した部分を、落ち穂拾いでもするかのように、書き綴っていきたい。

 また、前々記事にYKさんからコメントをいただき、その回答を宿題とさせていただいているので、最後に、そのことにもふれさせていただこうと思う。


〇『言い残した部分』と言っておきながら、冒頭から、すみません。まずは、前々記事でふれたが、

 B学級のEさん、Fさんに代表される、かつては学級のみんなが恐れるような物言い。『だって、強く言えばみんな黙るから。』と言っていた両名が、自分の意見を修正するようになったのと、学級のみんなが、正しいと思うことをはっきり言えるようになったのと。この双方は同時進行なのですよ。』と書かせていただいた。

 ここでは、それに付け足しをさせていただきたいのだが、

 上記のことと、『(差別に気づき、差別と向き合い、差別を許さないなどの)心情を養うこと』と、これもまた、同時進行なのではないかということだ。


 それを特に申し上げたい理由は、逆説的になるが、

 日本の教育では、『差別に気づけ。』『差別と向き合え。』『差別を許すな。』と子どもに言い聞かせて、それで人権教育がなったとする、そういう取組があまりにも多いのだ。

 過去記事でふれたことがある。平和教育に関する内容だったが、以下のとおりである。


 昨日のテレビで言っていた。
 平和教育を盛んに行っているとされる地域の中、高生にアンケート調査をしたら、『原爆を落とされてしまったことは、仕方のないこと』という回答が40パーセント以上あったとのこと。
 どうしてこうなるか。一方的に教え込んでいるからだろう。『こうあるべきだ。こう思うべきだ。』と、指導者が(価値を)押し付ける。
 押し付ける内容は、別に問題はない。『原爆は悲惨だ。決して容認できない。戦争は二度とやるべきではない。』
 問題になるのは、ただただ指導法なのだ。


 引用は以上である。

 ねっ。大人が子どもに言って聞かせるやり方は、子どもの心にひびかない。この場合で言えば、いわゆる平和教育もむなしい結果となってしまう。それならば、差別の問題だって同じだろう。
 考えてみれば、当然だよね。言って聞かせて何とかなるなら、教育なんて、こんな楽なものはない。人間はみな、そうではないから苦闘するのだろう。心を無視しての教育は成り立たないはずなのだ。

 でも、日本では、往々にして、心の教育は軽視される。
 
 言うまでもないが、子どもにとって、学級は社会そのものである。そこでは、大人同様、複雑で流動的な人間関係が繰り広げられる。それは、大人社会とくらべれば、未分化だったり原初的様相を呈したりするだろうが、それでも、近年は特にむずかしい問題も多発している。

 力の強いもの、声の大きいものがハバをきかせる学級であれば、そうでない子は、相対的に弱い立場に追い込まれる。そんななか、担任が、心をはぐくむことを軽視し、言って聞かせる式の経営、知識つめ込みの教育をしていれば、この人間模様はますます強化されていく。
 そして、知識と心は分離される。いわゆる平和教育を推し進めているのに、子ども同士は争いが絶えないということも起きる。同じように、差別を許さない教育を推し進めたとしても、子どもの心から差別的な言動がなくなることはない。

 悪いことに、やっただけ逆効果という事態も招きかねない。


 そんな風潮のなか、あらためてBさんの実践をふり返ってみる。そのすばらしさが再確認できるというものだ。

 Bさんはいったいどんな学級経営をしているのであろう。そんな話はしていないから、授業を見てのわたしの推測だが、

 少なくとも、大人の価値観の押し付けはしていないはずだ。

 たとえば、前時までの授業のはしはしには、子どもの差別的言辞もみられる。『いくら解放令が出たからといって、いきなり食事をよくしてほしいというのはやり過ぎだ。調子にのっている。』とか、『俺たちが遊んでいて、途中から入れてと入ってきたやつに、ルールを変えようとされるとむかつく。そういうのと似ている。』とかに、そうした心情を読み取ることができる。

 しかし、そういう言辞があるからといって、Bさんは、『そんな考え方はいけない。』などと、自分の価値観を押し付けるようなことはしていない。それを受け止め学級全体に返すことによって、子ども同士の話し合いにもっていく。そのなかで、価値を押さえようとする。

 そこにあるのは子どもへの信頼だ。

 
 だから、かつてのB学級だったら・・・、そう、Eさん、Fさんが、学級のみんなから恐れられていたころだったら、彼らが言えば他の子たちは黙ってしまうか、追従するかなのだから、子どもの話し合いにゆだねても、価値が深まることはなかっただろう。 

 そういう状況だったら、この差別の授業は成り立たなかったに違いない。


 おそらく、4月からこれまで、Bさんは、子どもたちのこうした状況があったとき、一方的なお説教をすることは極力控え、どの子の想いも受け止めようとしたのではないか。そして、生活上の問題を、粘り強くていねいに子どもたちに返し、考えさせてきたに違いない。そして、みんなが幸せになるような問題解決があったときは、それをうんと称賛してきたのではないか。
 その結果として、Eさん、Fさんたちは柔軟な心を獲得し、多くの学級の子たちは、『真理の前では主張する。』という強さを獲得した。

 そういう土壌づくりがあったからこそ、差別の授業が実を結んだものと思われる。

 心をはぐくむ教育。それがあって初めて、子どもの変容が期待できる。差別、平和の問題など、真理の前に謙虚であろうとする姿勢が育つ。まさに、『生涯を通じて生き抜く力』を獲得しつつあるのではないか。

 
〇2つ目

 Bさんの授業を見せていただいて、思い出したことがある。もう、30年くらい前のことだ。そのときの大先輩の言葉を思い出した。

 その先輩は、当時、K小学校長でいらした。戦前から自由教育を唱え実践された方で、なんとそのころ、治安維持法違反で検挙されたことがあると、他の方からうかがった。

 ある研究会で、わたしたち若手研究仲間は、『子どもが、〜という学習問題をつくって、〜。』とか、『それは、子どもがつくった問題ではないだろう。子どもがそんなことを言うとは思えない。』などと、やり合っていた。それを黙って聞いていた先輩が、おもむろにおっしゃった。

 「先生方は、さっきから盛んに、『学習問題をつくる。つくる。』と言っていますがね。はたして、学習問題というものはつくるものなのでしょうかね。・・・。そうではないと思いますよ。子どもが真剣に追求していれば、話し合うなかで自然に生み出されるのではないですか。気づいたら次時の学習問題ができていた。そういうものであって、わざわざつくろうとするものではないと思いますよ。」

 しばし、沈黙の時間が流れた。衝撃を受けた。わたしたちは、みんな『つくる』という意識だったのだ。でも、言われてみればまさにその通り。

 それからというもの、わたしたちは、『つくる。』という意識を捨てた。(言葉としては使うことがある。)


 と、ここまで書かせていただいて、もう、読者の皆さんはお気づきだろう。

 そう。Bさんの実践が、まさにそういう授業だった。『さあ。それでは次の時間の学習問題をみんなで考えましょう。』などという指導者の声はない。そこに、『つくるなどといった作為』は感じられない。子どもにしても、同様だ。

 今、ふり返ってみよう。

・『〜、この宣言の後、差別されてきた人たちがどのように動いたのかが気になる。』
・『この宣言で、差別がなくなったのか、知りたい。』
・『社会はどう変わったか。』
と、口々に発言したのだった。それらの言葉は、あくまで自然体であった。気づいたら、次時の学習問題が生み出されていたといった調子だったのである。


 これの意味するところは大きい。

・わたしは、以前から、『子どもが描くストーリーを大切に』と言っている。

 授業は毎時間続いている。ストーリー性をもって続いている。本時の学習問題は前時の最後に、(気づいたら)生み出されていた。そして、本時の最後も、(気づいたら)次時の学習問題が生み出されている。
 だから、子どもたちは、あらかじめ、本時どんな学習問題で、どんな話し合いになるのかの見通しをもって授業にのぞむことができる。言いたくてたまらない思いで授業を待ちかねている子も多いはずだ。

 子どもたちにしてみれば、自分たちの切実な思いによって生まれた学習問題だ。意欲的に追求せざるを得ない。また、安心して発言することができる。だって、切実な思いは共有している。だから、友達はみんな真剣に聞いてくれるもの。反対はされるかもしれない。しかし、無視されることはない。

 このようにして、学級のみんなでつくり上げるストーリー。当然、知識も身につく。いや。知識だけではない。Lさんが言った意見、Mさんが発見した価値。そんなことまで付加価値として身につく。子どもたちは、『何でも言い合えるから仲良し』という関係になっていく。

・だから、『導入』や『まとめ』は必要としない。いや。それどころか、そのようなものは学習のじゃまになる。見たくてたまらないテレビドラマを例にとれば、早く先が見たいのである。
 また、まとめについても、子どもたちは、授業終了時の想いは一人ひとりのものという認識になっている。だから、一人ひとり自分の想いをノートに書けばいいことだ。


〇3つ目

 読者の皆さんのなかには、『そんなこと言ったって、資料を用意し、出したのは先生ではないか。けっきょくは先生がストーリーをつくっているのだろう。』と思われる方がいらっしゃるかもしれない。

 でも、でもだ。わたしは何度も申し上げるように、肝心なのは子どもがどう思っているかだ。子どもが、『先生が考えましょうと言ったから、今、考えている。』と思っているのか、『自分たちが話し合い、解決しようとしていたから、先生が資料を用意してくれた。』と思っているのか、そこが問われるのだ。

 その証拠と言っては何だが、先生が、『資料がある。』と言っても、
・「ちょっと待って、考えたい。もうちょっと待って。」
・「ええっ。(資料を見ちゃうの。)」
・「(ああ。考えても考えても、考えつかない。もう、資料を見るしかないか。)くやしい。」
などと言う子どもたちだ。『子どもが描くストーリー』と言って、何も言い過ぎではないであろう。

 とは言っても、子どもに見えない(見えにくい)ところに、『教員のストーリー性』があるのはもちろんのことだ。


〇4つ目

 前々記事に、『若いBさんを支えるA小教員』と書かせていただいた。そう。研究の成果は共有財産だものね。そして、喜び、苦しみ、そういったものを共有することによって、若い教員は伸びていく。自信がつく。

 そこで、授業後の研究討議の様子を再現させていただこうと思う。若い教員をみんなで支えていることがご理解いただけるであろう。


・多くの子どもが、自分の考えをもち、積極的に発言している。また、友達の意見をよく聞いて、理解しようとしている。
・子どもたちが水平社宣言を理解することはむずかしいのではないかと思っていたが、子どもたちのふり返りを読んでみると、宣言に心動かされている子やすべての人間を対象としていることの意義について、しっかり理解している子が多いのに驚いた。本気で『差別をなくしたい。』とする子どもたちの一途な思いを感じた。これまでの学習の成果が表れていた。
・先生と子どもたちとの間に信頼関係があるなと感じた。資料を出すタイミングと、その出し方がすばらしいと思った。『まだ考える。』と言ったところでは出さず、『出して。読みたい。』というように、子どもが一番使いたいところで出していた。資料が出ることをくやしがる子もいておもしろかった。
・渋染一揆、足尾鉱毒事件など、これまでの歴史学習で学んだことを生かして意見をもてている。たとえば、『鉱毒事件のときをふり返ると、国に訴えるのはむずかしい。』などといった意見があった。

・ただ授業中の教室の雰囲気からすると、『宣言を早く読みたい。』『いったい何が書かれているの。』と強い関心をもっていたにもかかわらず、いざ読み終わると、それほどの反応はなかった。ふり返りでは、『感動した。勇気づけられた。』などと書いている子が多かったが、声としてそれがあまり出なかったのはどうしてなのだろう。
・ほとばしるような勢いで書き込む子が多かったので、自信がなかったとは思わない。
・『一揆を起こしたか。』『直訴したか。』『国に訴えたか。』などと考え合っていた子どもたちだ。また、『差別しているのは平民なのだから、平民に訴える。』という一方で、『それはかなりむずかしい。』として、思い悩んだ子どもたちだから、『仲間に訴える。』『人間の尊厳を訴える。』というのは、予想になかったことで、ただただ驚いたということだったのではないか。

・最後にMさんが、『わたしは、差別されてきた人たちに同情する気持ちばかりだった。差別されてきた人たちの気持ちは分かっていなかった。』と発言している。そういう子は一人、二人ではないだろう。そういう子たちが、これからの学習でどう変容していくか、また、『差別って今も残っている。』と書いたNさんもいる。今ある差別を見つめることも大切だろう。それらが、今後の課題となっていくのではないか。

・まずは、本時の最後に書いたふり返りの交流から始めるといいだろう。
・『仲間をはじめ、広く人々に訴えかける宣言』『人間の尊厳を説く意味』。むずかしいだろうが、きっと子どもたちは、新たな価値を発見するだろう。


 なお、A小教員の皆さんからBさんへの課題提示は、以下のとおりである。

・労働者の問題について学習しているのか、差別されている人の問題について学習しているのか、子どもたちの頭のなかでそれらがあやふやになってしまっているのではないかと感じる場面があった。そこは先生が出て、明確にする必要があったのではないか。
・子どもたちがつぶやく。それもあっちこっちでつぶやく。そうすると、話が途中で終わってしまう。『ああ。すごくいい意見を言いそうだな。最後まで言ってほしいな。何て言うのだろう。』と思う場面が何度かあった。おしいなあと思った。


〇5つ目

 前々記事の冒頭、わたしは、『講師を務めさせていただく幸せを感じた。と同時に、この学校の教員に何を話すか。それを思うと、緊張感に襲われた。』と書かせていただいた。

 そう。そんな調子だったから、研究討議の場での指導講評では、Bさんへの『今後の課題』を、話すことができなかった。

 後で場所を変え、校長室で話させていただいたのだが、

・これだけ子どもたちが意欲的なら、もっと先生は黙った方がいい。その分、子ども同士の話し合いにかける時間をふやすことができる。そのようにしても十分目標に到達するだろう。
>
・研究討議で、先生方から出た、『子どものつぶやきが多くて、話が途中でさえぎられることが何度かあった。もっとその先を聞きたいと思ったのだが、残念だった。』ということに関しては、『あっ。今は手を上げて話してね。あっちこっちでいっぺんに言われると分からなくなるからと言って、その先を言わせるようにしたら。』

その2つを話させていただいた。


〇それでは、最後に、前々記事に寄せられたYKさんの想い(リンク先の9番)に答えてみたい。

 YKさんは、以下のようにおっしゃった。


 〜。
 教師としての資質としては、「問題解決学習で学習の成果を上げる」よりも「まず、教師自身が<差別とは何であるか>を知っているかどうか」の方が重要なのではないでしょうか。つまり、
<史的事実の提示>→<討論>→<相互理解>よりも、
<史的事実の提示>→<討論>→<差別に関する教師の解釈の提示>→<(生徒と教師の)質疑応答>→<生徒の理解(新しい疑問)>の流れのほうが教師がより勉強する必要があり、授業にも緊張感が生まれるように思われます。
 〜。

 引用は以上だ。


・「まず、教師自身が<差別とは何であるか>を知っているかどうか。」については、まったく異存はない。「問題解決学習で学習の成果を上げる。」のと同様、大事だと思っている。
 ただし、どういう意味で大事と思っているかというと、指導者が『差別』のことを知らなければ、『子どもの描くストーリーを支えることができない。』と思うからである。


・次に、<  >でくくられた部分についてであるが、

 わたしは、学習者がどういう集団であるかによって違ってくるのだと思う。

 たとえば、YKさんがよいとされる方については、

 ある目的をもって集まっているため、学ぼうとする意欲が初めからある集団に対しては、効果的なのではないか。聞く姿勢も初めからもっている。比較的大人の集団で、〇〇カルチャースクールといったたぐいのものが思い浮かんだ。確か、YKさんは、そういう場で教えられていらっしゃるのではなかったか。


 しかし、義務教育において、子どもたちは、初めから自明の理のように学ぶ意欲をもっているわけではない。だから、学びへの意欲の喚起から考えていかなければならない。

 ならば、まずは、子どもたちを活動させることを考えるべきだろう。そして、学びの主体者にする必要がある。指導者の仕事の第一はそれである。


 言い方を変えよう。すでに自立している人たちの集団なら、YKさんがおっしゃるやり方の方がいい。効率的でもある。

 しかし、『自立する人間を育てる。』のであれば、やはり問題解決学習でいった方が、目的を達成できるのではないか。効率を考えない方がいい場合だってありそうだ。


 ただし、子どもたちが先生の意見、考え、正答などを求めてきた場合は別だ。すぐ答えた方がいいかどうかの判断はあるにしても、基本的には、子どもの要求に答えてあげた方がいい。

 本授業記録に、一度だけこういう場面が現れる。そこを再現してみよう。

T「資料があるけれど、見たい。」
「・・・。」
「質問だけれど、『一揆を起こす。』までは合っているんですか。」
T「その答えを聞きたいの。」
E「ちょっと待って、考えたい。もうちょっと待って。」
T「それでは、グループごとのフリートーキングにしましょう。」

となっている。

 一人の子がBさんに質問をする。この子にとっては、一揆を起こしたかどうかが切実なのであろう。
 Bさんは、『その子の質問は、多くの子も同じ思いか。』ということで、『その答えを聞きたいの。』と問いかける。すると、Eさんが、『ちょっと待って、考えたい。もうちょっと待って。』というので、答えるのをやめる場面だ。

 つまり子どもたちが要求するなら、指導者は話してやった方がいいが、あくまで自分たちで考えたいというのなら、遠慮した方がいいであろう。


・もう二つの理由がある。

 Bさんの学級のように子どもたちが育ち、学ぶ意欲を強く抱いているなら、指導者が話しても、子どもたちの知りたい、考えたい欲求を妨げることはなさそうだ。受け身の姿勢になってしまう心配もないだろう。

 しかし、それまで、問題解決学習を積み重ねてきた経過がある。『自分たちで価値を追求し、獲得した。』そういう満足感を味わい続けてきた。言い方を変えれば、発見の喜び、自力解決の喜び、そういったものを味わってきた。そういう子どもたちだ。その想いは持続発展させてやりたい。

 もう一つ。30人の子どもが考えることは、1人の大人よりも勝(まさ)っている。

 問題解決学習を推し進めていると、そういうことは常に経験することである。どんなに教材研究しても、どんなに子ども理解に意を尽くしても、これはやはり起きる。

・最後に、どうしても、指導者が言わなければいけないこと。それは、発見の喜びを味わっている子ども、自力解決する子ども、真理を追求している子ども、そういう子どもの姿に感動したら、その感動を口に出して話すことだ。これは、子どもの成長を促すに違いない。


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 同記事へのコメントは、みかんさんからもいただいています。『辛口の意見』などとおっしゃっていますが、『現場の教師から、これ(差別)を教えなければならない学校もある』というのも、残念ながら事実でしょう。校長のリーダーシップも問われるところです。

 その点、A小学校の校長先生は、しっかりとリーダーシップを発揮されていると思いました。

 Bさんの実践についてよく把握されていらっしゃいますし、子どもの成長に対しても思いを寄せられていますし、

 さらに、前記事にも書きましたように・・・、

 これは、我がブログのことで、申し上げるのも恐縮してしまいますが、『わたしども、日ごろの実践への勇気をいただいた思いです。』からは、校長と教職員が同じ方向を向き、ともに伸びようとする姿勢を感じることができました。

 こうした校長先生がいらっしゃるからこそ、一致協力して研究に邁進できるのだ。

 そんな想いを強くしました。



  

rve83253 at 13:13│Comments(19)TrackBack(0)問題解決学習 | 教育観

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この記事へのコメント

1. Posted by しょう   2010年12月28日 13:35
5  コメント欄ではご無沙汰しています。
(本日〔28日〕は、仕事納めですが、午後からお休みをいただきました。)

 本当に素晴らしい実践をご紹介いただきありがとうございました。そしてまた、toshiさん流の「紹介・コメント」が、授業実践の素晴らしさを見事に浮き彫りにしていることに感動しています。

 私自身、これまで充分わかっていなかった「問題解決学習」のイメージや意義が、かなり明確に理解できたように思います。

 子どもたちが直接体験していない「過去の現実世界」に「参加」しつつ、どう実践的に乗り越え解決していけるかを一緒に探究し、先人の実践を感動しながら学ぶ。これこそ本物の「歴史学習」でしょうね。

 拙ブログで紹介し始めている「現代社会」の実践(私の名前“しょう”にリンクさせていただきました)も現代社会に「参加」しつつ、現状について考え理解し、その改善に向けて一歩踏み出していくような性格を持っています。
 
 しかしながら時空を超えて、過去の現実に子どもたち自身がまるで直接参加しているかのように真剣な議論を行い、このような学びが成立しているのは驚きです。

 本当にありがとうございました。
2. Posted by PTA問題情報収集してます   2010年12月28日 14:27
今年PTA問題が話題になりました。参考にしたサイトです
http://pta.my-sv.net/
よろしければ、記事に取り上げていただけないでしょうか?色々な方に「PTAが任意団体であること」の認知が広がり、入会意思確認が徹底された上でのPTA団体が増えることを希望しています。
3. Posted by toshi   2010年12月29日 11:17
しょうさん
 高校においても、子どもの主体的な学びを追求されているしょうさんでいらっしゃいますから、こうしたコメントをいただけること、うれしく思いました。ありがとうございます。
 貴ブログも拝読しました。『討議民主主義』なる言葉は、新鮮にひびきました。どういう概念をもっているのか、今のわたしがちゃんと理解しているか自信はありませんが、学習者自身が話し合いを経て獲得していく知識は、終生忘れぬくらいのインパクトをもって身についていくものだと確信しています。
 もちろん、協調し合えるなかで言いたいことを言い合うといった学級集団の構築が欠かせません。
 教え込みも、ただ言いたいことを言うだけの討議も、民主主義の実践とはならないように思うのです。
 小学校でその基礎を育み、中学、高校を経て、充実した話し合い、生き方の構築につながるような学習が開花する姿を夢見ています。
4. Posted by toshi   2010年12月29日 11:43
PTA問題情報収集してますさん
 はじめまして。よろしくお願いします。
 もしかしたら、わたし、貴コメントの意味を取り違えているかなとも思いますが、拙ブログにおいて、『PTAは任意加入である。』との趣旨の記事は、すでに何度か書いております。拙ブログのカテゴリー欄のPTAをご覧ください。
 なお、その中の一つの記事のURLを本コメントのtoshiに貼りつけさせていただきました。
 と言いますのは、せっかく、『子どもの主体的な学び』を紹介させていただいた記事にコメントしてくださったものですから思ったのですが、
 『多様な生き方を求める大人が、学校教育の画一化を排除する上でも、大いなる力を発揮していただきたい。 』
なる趣旨を、同リンク先記事の末尾に書かせていただきました。ご高覧賜れば幸いです。
5. Posted by PTA問題情報収集してます   2010年12月29日 15:56
ご丁寧にありがとうございました。とてもわかりやすくて参考になりました。
6. Posted by 劉備義徳   2010年12月30日 05:44
5 来年も勉強させて頂きます。

よいお年をお迎え下さい
7. Posted by toshi   2010年12月30日 09:31
PTA問題情報収集してますさん
 いいえ。こちらこそ、ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。
8. Posted by toshi   2010年12月30日 09:32
劉備義徳さん
 ご愛読いただき、ありがとうございます。こちらこそ、来年もよろしくお願いします。
9. Posted by YK   2011年01月03日 14:13
あけましておめでとうございます。
本年も宜しくお願いします。

年内に返事を書きたかったのですが、この問題はなかなか難しく返事に時間がかかりました。

私は民間のカルチャースクールの講師ではなくて、一応、私学で授業と研究実践をしています。ですので、公立校において先生のおっしゃることはもっとものように思います。確かに、私の教え子は義務教育ではないです。突き詰めれば、興味がなければ聴く必要はないですね。

ただ、なぜ私の話を聴くかと言えば、私との議論、論難によって物事の考え方を身に付けることが嬉しいからではないかと思います。これは絶対に効率を追い求めたら不可能だと思います。

年齢に関係なく、人間の考え方、文章には必ず一種の癖のようなものがあり、そこには女性には女性なりの不安があり、男性には男性なりの不安もある。悪癖を正し、不安を解消し、その人にとってきちんとした道を示してやる。そうした仕事は効率的には行われないと思います。
10. Posted by YK   2011年01月03日 14:42
差別問題において一番簡単な問いは、「人間に差別はあるのかないのか」でしょう。

「差別は<ない>のに<ある>のは何故なのか。差別が<ある>のに<ない>と教えるのは何故なのか。」

例えば、こういう問いでも、明確に答えるのはなかなか難しいと思います。私が教師が差別を知っているかどうか、というのはこうした自問に自答できるかどうか、という意味です。
11. Posted by toshi   2011年01月03日 17:38
YKさん
 あけましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願いします。
《なぜ私の話を聴くかと言えば、私との議論、論難によって物事の考え方を身に付けることが嬉しいからではないかと思います。》
 このうれしさ。それはまったくもってYKさんと教え子とのあいだの信頼関係でしょう。教育者にとって一番大切なものですよね。
 YKさんはYKさんのおかれた環境のなかで、最善を尽くしていらっしゃる。たとえ、指導法は違ってもそれでいいのだし、すばらしいと思いました。

 わたしも若いころは、差別はないと思っていました。でも、いろいろな学校を経験し、構造的な差別を目の当たりにして、自分自身の心を見つめるようになりました。
 一つ記事に書き落としましたが、B学級の子どもたちのやり取りのなかにこのような意見があったと聞きました。
 『会社の上司が部下に上から目線なのは当たり前で、それだけでは差別とは言えないよ。』
 すごく真剣にやり取りしている子どもたちだなと思いました。こういうことの一つ一つを蓄積していく子どもたち。すごく大切なことだと思いました。


 
12. Posted by YK   2011年01月04日 14:11
>>わたしも若いころは、差別はないと思っていました。でも、いろいろな学校を経験し、構造的な差別を目の当たりにして、自分自身の心を見つめるようになりました。

B学級の実践は素晴らしいですね。

私も構造的な差別は存在すると思います。典型的なのは、人種・民族差別の問題であり、またこのテーマで取り上げられる「水平社宣言」のような人権問題でしょう。明治時代のはじめからまだ140年しか経っていないですからこの問題がすぐに解消するとは私には思われません。

私が考えるに、今後、日本で構造化するであろう差別は経済格差から起こります。ところが、日本経済はデフレであると言い、2年で克服すべきだと言いますが、仮にデフレを克服し、景気が良くなったとしても、労働力の価格の低下には歯止めが効かないでしょうから、平均的な国民が豊かになることはないだろうと思います。これによって、教育やサービスを受ける機会の格差は構造化すると思います。60年安保、70年安保の時代と異なり、今の若者には集団で暴動をする気力も発想もないからこの構造的差別は受け入れられることでしょう。
13. Posted by YK   2011年01月04日 14:36
したがって、差別について、私は経済格差から来る差別については取り扱わないようにしました。

家計が豊かでも親から虐待を受け、周囲からいじめにあっていれば不幸であり、家計が厳しくても、親や周囲から愛情を受けて育つことができれば、それは幸福であると考えるようになりました。

ただ、親の麻薬や児童虐待、その他もろもろの行為は、構造的差別を生み出す温床になると考えており、愛情について考えるとともに、対処しなければならない問題として認識しています。

>>このうれしさ。それはまったくもってYKさんと教え子とのあいだの信頼関係でしょう。教育者にとって一番大切なものですよね。

信頼関係というのは難しいですね。私は人間は普通は薄情なものであることを知っています。教え子もその親も普通は薄情なものでしょう。まあ、私が伝えることを卒業後も大事にする人もときどきはいるでしょうし、実際に進路などに影響を与えてしまうこともあるわけですから、私が勝手に満足していればいいのかな、という気もしています。
14. Posted by toshi   2011年01月05日 22:24
YKさん
 まず、お詫びをしなければなりません。すみません。
《わたしも若いころは、差別はないと思っていました。》
 これは、『我が地域においては、』という意味です。しかし、
《いろいろな学校を経験し、構造的な差別を目の当たりにして〜、》我が地域にも差別は厳然としてあるという想いになったという、そういうことです。
言葉足らずでした。
 構造的な差別という意味は、民族、人種、性、障害などによる差別および同和問題を指しており、差別をなくす取組は教育の大きな課題と思っていますが、この場合、経済的な意味での格差は、差別とは切り離して考えたいと思います。
 ただ、差別が原因となって生じる経済格差も色濃いものがありますから、それを考えるときは、切り離すことはできないと考えます。
 信頼関係についてですが、わたしは、ふつうは薄情とは思わないです。確かに今という時代はそういう面が目立ちますが、しかし、それだけに、『人を大切にする心』をはぐくむことは、教育の大きな目標になりうるし、もちろんそれは可能と思っています。
 
15. Posted by YK   2011年01月06日 00:07
>>構造的な差別という意味は、民族、人種、性、障害などによる差別および同和問題を指しており、差別をなくす取組は教育の大きな課題と思っています・・

なるほど、おっしゃる意味が分かりました。私は先生の差別の問題について、格差問題(主に経済)を重視しているのかと思ったのです(以前の記事で書かれたことが頭にあったのかもしれません)。同和問題については私なりには理解しているつもりですが、教育の経験は全くないのです。私はキリスト教の学校に勤務していますので、明治期における自由と平等の問題について勉強したことはあります。しかし、基本的には「自由平等に造られた人間には差別は<ない>のに、差別は<ある>としている。この矛盾は何であるか。」という問いに置き換えます。これはやはり構造よりも心の中にある偏見が生み出すものである、と考えます。この偏見については教えます。しかし、同和問題というスペシャルな問題については独学レベルです。ですからB学級の方法論については感心するとともに、「落とし所」がどこにあるのかな、と考えてしまうのです。ただ、先生のおっしゃる通り、「心を育てること」から外れないことが定石かな、と思います。

>>信頼関係についてですが、わたしは、ふつうは薄情とは思わないです。

これは、失礼かもしれないですが、60歳を過ぎてこのような発言をできるのはすごいと思います。私も基本は試行錯誤ですが、こういう姿勢は勉強させて頂きます。
16. Posted by toshi   2011年01月07日 05:17
YKさん
 またまた誤解を招く言葉遣いがあったようですね。ごめんなさい。なお、YKさんの、《差別は<ない>のに、差別は<ある>としている。》の意味も今回、よく分かりました。ありがとうございました。
 Ykさんからのコメントである先輩校長の言葉を思い出しました。
 『無知は偏見を生み、偏見は差別を生む。』という言葉です。『鉄は熱いうちに打て』ではないけれど、やはり幼少期から心をはぐくむとともに、しっかり差別の歴史を学ぶことも大切と思うのです。
 信頼関係については、
 わたしはかつて、性善悪共有説を主張したことがあります。そもそも人間というものは崇高な部分と醜い部分と双方を併せもっているもの。そう思います。これを進化の面から考察した記事にリンクしました。本コメントのtoshi欄に貼りつけましたので、もし、ご覧でなかったらよろしくお願いします。
 ですから、教育の力で豊かな信頼関係で結ばれるようにもできますし、教育が無力であれば、薄情にもなるという、そういうものだと思っています。
 やはり、人間にとって教育されることは不可欠なのですよね。
17. Posted by YK   2011年01月08日 14:03
>>わたしはかつて、性善悪共有説を主張したことがあります。そもそも人間というものは崇高な部分と醜い部分と双方を併せもっているもの。そう思います。

私もそう思います。人間は本来、清濁併せ持つもの。それを理解せずにどちらかの極端の価値観で測ろうとすれば、教育は必ず失敗するでしょう。例えば、YKという人間を見てみれば、社会的には善人であると見られても、一方で、私生活においても100%善人であることはあり得ない。あり得ないというか、少なくとも、人間関係においては摩擦も生じることもあり、誤解を生むこともあり、悪評を生むこともある。そのような自分を性善と断ずることは愚かなことだと思います。

教育を受ける教え子も、同時に教育を授ける私も人生の発展段階にあるという考えが私には正しいように思われます。

では善とは教育できるのか、教育できないのか、という疑問が生じるでしょうが、私は可能であると考えています。というよりも、初等教育でもっとも徹底して欲しい課題です。何故かと言うと、中高大では取り返しの尽かない影響を及ぼすからです。

多くの教育者が善とは「行動」であると考えている。これほどの誤りはないと思います。例えばボランティア活動をする、これは「善」であると教育者は評価する。しかし、別にこれは「善」ではない。行動はただの行動です。

「善」とは認識なのです。儒者の言う善という観念の中核は「仁」と「義」です。しかし、私は「仁」こそ、教育の一つの核心だと思っています



18. Posted by YK   2011年01月08日 14:14
「仁」とは「思いやり」です。「仁」を知ることが「行動」とは何の関係もないことを教育者が分かっていないことこそ、今日の教育の問題です。行動は強制されればほとんど学習することはないでしょう。しかし、自発的な行動でさえ、学習にならないことがあるのです。ボランティア活動でさえそうです。「経験」を積んだだけです。行動して経験を積むことで、その人の「仁」が磨かれることはあるかもしれませんが、「仁」を持たない人が行動をしても「仁」は得られないです。
「仁」を教えることが出来るのは本当の教育者しかいません。教え込みで得るのではなく、本来持っているものを獲得するのです。これは私は自分の教育の経験からは成功したと思っています。
19. Posted by toshi   2011年01月08日 18:00
YKさん
《教育を受ける教え子も、同時に教育を授ける私も人生の発展段階にあるという考えが私には正しいように思われます。》
 師弟同行の考え方につながりますね。わたしも同感です。
《私は可能であると考えています。というよりも、初等教育でもっとも徹底して欲しい課題です。何故かと言うと、中高大では取り返しの尽かない影響を及ぼすからです。》
 まったく同感です。成長過程の早い段階ほど、うまくいく可能性が高いと思います。鉄は熱いうちに打てですね。
《「善」とは認識なのです。》
 わたしたちは道徳的な心情を養うといいます。道徳のねらいとしては、善の行動も含みますが、それよりもっと道徳的な心情を養うことを大切にしていると思います。道徳がもし教科となり、評定されるようになれば、『行動が伴わないと評価されない。》ともなりかねず、それは憂慮すべきものと思います。おっしゃることにまったく同感です。 

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