2011年01月16日

活性化した日本を!(3 ) 世界に冠たる授業研究の国なのだから、 

GRP_0000 元旦の朝日新聞には、心躍るものがあった。教育が国家百年の計であるなら、未来の日本の建設に明るい展望を開かせてくれたことになる。

 ともすると、今の日本は、かつて、『坂の上(にあったはず)の雲』のなかに入り込んでしまった感がある。雲のなかだけに、まったくまわりが見えない。ある意味、閉塞感でいっぱいだ。そんな思いがするだけに、同新聞に教育の方向を示していただいたことは、望外の喜びであった。

 これを契機に、『教育において大切なものは何か。』を、読者の皆さんとともに、真剣に考えていきたいと思った。

 本記事では、同新聞の第二面をとり上げる。ここでは第一面の授業風景を受けて、これからの教育のあり方を示していると言えよう。

〇世界に冠たる日本の授業研究

 こんな見出しをつけると、読者の皆さんはびっくりされるのではないか。でも、真実である。

 そう。ある意味、日本の公教育における授業研究は、伝統的にすばらしいものをもっている。それは、世界に誇れるものである。

 
 同新聞によると、日本語の『jugyo-kenkyu』は、そのままで通用する国があるくらい、海外で注目されてきたとある。

 そうなのだ。わたしも、ある先輩教員から聞いたことがある。
「日本の授業研究は世界からすごいと評価されているよ。あんな30人から40人もいる子どもたちをたった一人の先生が指導する。その子どもたちが、いきいきと、『ああでもない。こうでもない。』と話し合って、価値を追求している姿を見ると、まず、自分たちの国にはない姿だと、いたく感動するようだ。だから、わたしたちが研究していることは、世界に誇れるのではないかな。」


 いきなり余談で恐縮してしまうが、わたしも実際経験したことがある。

 学級担任時代、わたしの勤務したA小学校には、全国各地から教員がお見えになったが、たまには、外国からお客さんをお迎えすることもあった。あるときはヨーロッパから、あるときはインドから、また、アメリカから、数人の視察団がお見えになった。自国で教育行政に携わっていらっしゃる方、あるいは、教員の方など、顔ぶれは多彩だった。

 校長はたいがいそうした方々を案内して教室に入ってくるが、そのときの校長は英語が堪能だった。だから、子どもたちの発言の一つ一つを通訳してやっていた。視察団の方々もにこにこしながら聞いていらしたから、『ああ。いいなあ。一人ひとりの発言の中身までちゃんと理解してもらえる。うれしい。』そんな思いでわたしも授業を進めていた。

 ところが、ハプニングが起きた。校長は席を外さなければならなくなったようだ。それで、我がクラスの一人の子ども(Bちゃん)をそばに呼んだ。わたしは、『えっ。なんで、Bちゃんが視察団の方々のそばに行っちゃうの。』とばかり、不審の念を抱いた。

 でも、すぐ分かった。Bちゃんは帰国子女だった。だから英語ができた。それで、校長はBちゃんに通訳を頼んだのだね。子どもの発言の通訳だから、子どもでも十分役目を果たすことができるのだった。視察団の皆さんはこのハプニングに喜び、にこにこしながらBちゃんの英訳を聞いていらした。

 授業が終わると、その方々は満面の笑みを浮かべ、Bちゃんに握手を求めた。そして、お礼を言っているようだった。後でうかがった話だが、やっぱり、校長室で、上記先輩教員と同様の感想をおっしゃっていたようだ。


 余談はこのくらいにして、同新聞の記事に戻ろう。

 記事によれば、海外から日本に研修に来る教員がいる。彼らが、ふつうよく見られるような教え込みの授業をする。そうすると、日本の教員が、
「子どもたちが知りたいと思うしかけをつくってください。教師でなく、子どもが展開する授業にしてください。」
と助言するのだそうだ。

 ああ。まことに失礼だが、この言葉はそのまま、教え込みを得意(?)とする日本の教員にも言ってやりたい言葉だね。


 そう。日本の、こうした授業の特色は、一クラス30人から40人といった子どもたちが一斉に学び合っている授業だ。そうしたなかで、子どもたちが主役となり、自ら知りたいと思い、ともに考え合っていく。指導者は、それを陰で支えるべく、『しかけ』を用意する。それが大切な仕事なのだ。

 『しかけ』。なつかしい言葉だ。拙ブログで、記事にしたことがある。もしご覧でなかったら、そちらもお読みいただければ幸いである。

    しかけどころ


 ただ残念ながら、新聞記事は、これと矛盾したことも書いている。

 上記のように、『教師でなく、子どもが展開する授業に〜、』と言っていながら、『jugyo-kenkyu』の中身としては、『授業プランを教師たちで練り上げ、系統立てて全員に一斉に教える授業のうまさは、世界にも響きわたっている。』としている。そして、『それだけでは、思考力や発想力は伸ばせないという考えも、国内外に広がってきた。いま各国がめざしているのは、子どもの多様な意見を吸い上げ、〜、子ども同士で対話させる授業だ。』と書く。

 なんだい。上では、『教師でなく、子どもが展開する授業を』と日本の教員が助言したと言っておきながら、これでは、まるで、子どもの思考力や発想力を伸ばす授業は、これまで『jugyo-kenkyu』の対象外だったという感じではないか。

 もちろん、そのようなことはない。子どもの思考力や発想力を伸ばすべく、子どもが展開する授業を創造するのも、立派に『jugyo-kenkyu』の中身であり、そうした意味で海外に知れわたってきたのだ。


 ただ、ここまで、多くの読者の皆さんは不審の念を抱かれたと思う。なぜなら、そうした授業が、一般的にどこの学校でも行われるようにはなっていないからだ。それどころか、全国的に見れば、きわめて少数といっていいかもしれない。それは残念なことだ。


〇同新聞に、ある大学教授の言葉が紹介されている。次のようだ。

 「上海などアジアの都市部では、電子黒板をつかい、国の施策として子ども主体のコミュニケーション教育をしている。日本も、これまで採り入れてきたディベートや、分からない子に分かる子が教える『学び合い』ではなく、互いに考えをひびき合わせ、共同で創造する授業にもっと転換すべきだ。」

・この前半部には、疑問を抱いた。

 ほんとうに上海などアジアの都市部では、子ども主体のコミュニケーション教育が行われているのだろうか。特に中国だが、コミュニケーションを豊かにし、それによって自立した人間を育てたら、国はかえってこまるのではないかね。多様性を認めたくないお国柄のようだから。

 ちなみに、ネットでいろいろ調べてみたが、少なくとも上海においては、日本以上に過熱した受験システムがあるようだった。そして、『子ども主体のコミュニケーション教育』など、うかがい知ることができなかった。

・後段部分は、大賛成だ。近年、ある大学教授が提唱する『学び合い』が広まっているらしい。わたしは、その大学教授の主張をネットで拝読したが、どうも『学び合い』と称しているものの、実質は子ども同士の『教え合い』のようであった。
 わたしも、『教え合い』をダメとは言わない。言わないが、それは、『子どもが展開する授業』の一つの姿にすぎないであろう。やはり本筋は、『考えをひびき合わせ共同で創造する授業』ではないか。そう思う。

  
〇研修会に集まった教員を子どもに見たてての模擬授業の紹介もあった。

 まさに多様性を認める算数の授業だ。特に、次の言葉がうれしかった。
「円柱の展開図など、円と長方形になると画一的に教え込まないように。円と平行四辺形だって、組み立てれば円柱になりますよ。トイレットペーパーやラップの芯は、斜めに切れ目が入っていませんか。」

 それ以外にも、いろいろな展開図の紹介があった。いずれも実際の子どもたちが書いたものだ。そう。教員主導ではとうてい思いもつかない展開図が示されていた。

 それに対し、ある教員の頭はかたい。
「長方形と円で教えないと、表面積や体積の学習につながらない。」
と主張する教員がいたようだ。だけれど、そうかね。円と平行四辺形だって立派につながると思うけれどね。また、こうした研修を積んでも、なお、『教える』意識から抜け出せないでいるようだった。

 子ども主体の授業、子どもが主人公の学習は、多様性を認めることから始まる。また、上述のトイレットペーパーの話など、子どもの生活実感が反映されているよね。


・わたしは、この項を読んでいるとき、かつて自分が勤務した学校の若い教員が挑戦的に授業を進めていたのを思い出した。

 夏の林間学校で、子どもたちはケーブルカーに乗った。ご承知のように、ケーブルカーは平行四辺形である。それに対し、平野を走る電車はみな長方形。双方の違いに着目し、『どうして違うのか。』
 それぞれそのかたちになる必然性を考え合う中で、平行四辺形の特徴をつかんでいった。

・上記研修会に参加した教員の言葉が載っている。今度は頭のやわらかい教員の声だ。

「ある授業では、子どもたちは、考えを言い合い、能力に関係なく、違う意見を認め合っていた。いかに速くいかに正確に正解を出すかの授業とはまったく違っていた。」
「授業を変えれば、その教育を受けた次世代の教師はもっと変わる。」

 わたしは、『いいなあ。』とばかり、目がしらの熱くなるのを覚えた。まさに、『ただ今、教員の意識改革が進行中。』そんな感じだ。指導力アップにもろにつながる研修会だなと思った。


〇読解も大事だよ。

 新聞記事によれば、「国は、読解も、主題の読み取りではなく、読んで感じたこと、考えたことの話し合いを重視していく考えだ。」とある。

 これについては、違和感を覚えた。もしかしたら、『主題の読み取りだけではなく、〜。』の間違いではないかな。

 やはり、まずは、主題の読み取りであろう。『わたしは、ぼくは、作者、筆者の言いたいことは、〜だと思う。』といった意見の交流はぜひ力を入れてやるようにしたい。そうでないと、『勝手気ままな解釈を許してしまう』危険性はないかと危ぶむ。その後に、各自、読んで感じたこと、考えたことの話し合いがあるのではないか。

 これについては、格好の過去記事がある。下記リンク先記事の冒頭部、『そこで、わたし独自の意見となるのだが、〜。』からが、該当部分にあたる。

    人権教育(9) 両性の違いは?

 そう。読解も大切なのだ。このリンク先記事の場合、作者は、『男の子は男の子らしく、女の子は女の子らしくふるまうことが幸せにつながるよ。』と言いたいのだろう。この記事に登場する我がクラスのAちゃんは、それをちゃんと読みとった。読みとった上で、・・・、いや、読みとったからこそ、『でも、わたしは、男の子っぽかったときのせっちゃんの方が好き』と発言する。そうした態度を養うことが大切なのではないかと思う。

 
 ここで、ちょっと観点が異なるのだが、第一面で紹介され、拙ブログの前記事でとり上げた、『平和のとりでを築く』の授業に再度ふれたい。

 前記事ではすばらしい授業としているのに、まことに恐縮してしまうが、申し訳ありません。

 そう。すばらしいのですよ。子どもが豊かに思いを発表し合う授業が行われている。それは間違いない。でも、・・・、

 指導者のCさんは、『筆者が一番主張したい段落はどこでしょう。』と発問する。そして、1〜13の番号が黒板に書かれるのだが・・・、どの段落かを考えることがそんなに大切なのだろうか。子どもたちの最大の関心は、段落番号の方にいってしまっているため、『核兵器をつかわないでと言っているから12段落。』『11段落で平和を求める気持ちを書いているのはどうなるの。』『核兵器も大切だけれど、13段落の人の心の中に平和のとりでを築くことが一番大切。』など、いずれも議論が薄っぺらなような気がしてならない。

 やはり、『人の心の中に平和のとりでを築く』とはどういうことか、もっと議論を深めてほしいものだ。この話なら、原爆が広島にもたらした惨害の様子、原爆ドームを残すか残さないかの意見の対立、世界遺産登録への動きなど、子細に読み取ったり、それぞれの思いを発表し合ったりする話し合いがぜひほしい。そうして初めて、『平和のとりでを築く』ということの意味が深く理解し合えるようになるのではないか。

 こうなってしまうのも、前記事でふれたように、教員が学習問題を設定しているからではないか。どうも、大人はある種の価値観がじゃまをする。この場合なら『段落』だろう。
 もし、子どもが学習問題を生み出す授業なら、こんな学習問題にはなるまい。もっとストレートに今みんなで話し合いたいこと、知りたいことに着目するはず。たとえば、
『平和のとりでって何を意味しているのだろう。』
『原爆ドームを保存したいと言った人たちは、どのような思いだったのだろう。』
などが頭に浮かぶ。そうして、結果的に、『筆者の一番主張したかったことは、第〇〇段落に示されている。』と押さえられるのなら、まったく正当と思う。


〇白熱教室か。

 『白熱教室』とは、多くの読者の皆さんは、『ああ。あれっ。』と思われるだろう。そう。ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の大学における授業だ。テレビでも大々的にとり上げられた。お正月もNHKの教育テレビで再放送されていたよね。

 そう言えば、読者の方からメールをいただいたっけ。
「この授業は、toshi先生がブログに書かれる授業とよく似ているなと思いました。ほんとうに学生たちの意見のぶつかり合いが白熱していて、すごいなと思いました。」
と書かれていた。

 せっかく似ていると指摘されたのに、申し訳ないが、率直なところ、わたしが主張する問題解決学習とはかなり違うなと思った。

・学生自身が抱いている問題ではないこと。
・教授がしゃべり過ぎていること。教授が学びの方向性を示し、その範囲内で、学生に主張させていること。

 でもね。大学なのだから、あれでいいと思う。それは、かつてYKさんのコメントにお答えした通りだ。下記リンク先記事の末尾、『〇それでは、最後に、前々記事に寄せられたYKさんの想いに答えてみたい。』からがそれにあたる。

    差別に気づき、差別と向き合い、差別を許さない授業の実践(3)


 ただ、テレビを見て、それとはまったく異なる感想ももった。こうして大学の講義がテレビで公開されることの意味についてだ。

・これが一種の流行となってほしい。聴きたい講義がネットに蓄積され、見たいときに見ることができる。そうなってほしい。いや。そうなる日も案外近いのではないか。とりあえずは、聴講システムの改革にすぎないかもしれない。しかし、これがオープンになるということは、やがて受験システムの崩壊につながるのではないかという期待も抱かせる。
 同新聞記事によれば、今、ある大学教授のパソコンには、世界の教授たちの講義が蓄積されているという。やがて、それらがネットをにぎわすようになることを夢みる。

・わたしは今、ブログで良質な授業の紹介をしているが、やがてはこれも、ネットに蓄積される日がやってくるのではないか。全国の教員がネットによって今あたかも研究授業の教室にいるかのような思いで、授業をみる。そうして指導法をみがいていく。みがかない教員は、どんどん取り残される。
 もちろん、授業をみるだけでは不十分で研究討議も大切だが、そうしたツールも開発されていくだろう。


〇結びにかえて、

 自分のパソコンに世界の教授の講義を蓄積している教授は言う。

 「今の日本の学生は、パソコンやカメラなどの機材を渡すと、すぐうまく使ってプレゼンテーションする。だが、対話させてみると、論理矛盾が多く、議論がかみ合わない。」

 そうだろう。論理矛盾やかみ合わない議論は、政治家をみても、また、多くのブログを読んでも痛感するところだ。いや。わざと議論を避けたり、かみ合わせなくしようとしたりすることもありそうだ。また、お互いに自説をいいつのるばかりで、不毛に終わるやり取りも多い。

 これは、学生に限らず、今の日本の大人の最大の課題ではないか。『民主主義の危機を感じる。』といっても過言ではない。

 同新聞記事では、大学で対話型授業をするための教室もつくられているという。でもね。大学からではもう遅いのだよね。そう。ずっと述べてきたように、小学校からそれをおし進める必要がある。『鉄は熱いうちに打て』だ。


 もう一つ。この教授の言葉から思うのだが、

 多くの教育関係者が誤解していると思うのだが、

 黒板を背に一斉学習を行うのは時代遅れで、パソコン、電子黒板など、最新の機器を使っての授業が望まれるといった論調がある。もちろん、最新の機器を使うことはいいことだ。それは間違いない。でも、そのことは、最重要課題ではないはず。
 
 問題になるのは、教員が一方的に教え込む指導であろう。これはやはり時代遅れと言わざるを得ない。そう。だから、それは、たとえ、最新式の機器を使っていても同じ。みかけにごまかされてはいけない。

 子どもが創造する授業なら、子どもは育つ。


 以上、新聞記事を追いながら書いてきたが、本記事の結論は、

 伝統的で、日本が大切にしてきた、子ども主体で子ども同士が考え学び合う学びの創造。

 しかし、残念ながら、現状では、それは、公教育の一部にとどまる。なかなか広がっていかない。

 そうした状況を受け、朝日新聞が、元旦の一面トップに、小学校のすばらしい授業風景をえがいてくださった。

 今年が、教育改革元年になることを期待したい。


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 正月早々、東京都世田谷区の教科『日本語』について批評した拙ブログ記事を読まれた方から、鮮烈なるメッセージをいただきました。

 以下の通りです。


 〜。

 まったくひどいものですね。あきれてものが言えないほどの憤りを覚えます。

 どのような人たちが どうしたらそんな思考が生まれてくるのか首を傾げます。でも、世田谷の実態は氷山の一角であり、似たようなケースも多々あるのではないか、そして、しかも教育界の上層部の連中がしていることと思うと憂国感に陥ってしまいそうです。

 更に言えば、現実論として、私もはじめて知った事ですし、このような教育が現実に行われている事を大部分の国民が知らないということは将来の国益を損なう恐れすらあり、非常に重大な問題と思います。

 要は十年、二十年先の事などどうでもいいと言う無責任な教育施策ではないでしょうか。ちょっと違うかもしれませんが、問題となった昔の年金担当官僚と同じですね。
 年金支給時にはもうとっくに退職しているし、今の年金支払者も受給年齢となる何十年前のことはみんな忘れてしまっているから、誤記入・インチキ記録がわかるはずがなく、また何の責任も問われないという無責任極まりない姿勢です。

 少々オーバーな事を書いてしまいましたが、つい最近も前ブレア首相が 「一に教育、二に教育、三に教育」と言われたように、将来の人材を本当に育成するという国の強固で確固たる教育方針と、現場レベルでの真摯で責任ある教育の実践が行われるようになることを祈るばかりです。

 ともかく、保守的発想からの大転換が図られる事が大事で、当ブログ等の声が少しでも影響力を持つようになればと期待します。

 
 ありがとうございました。ほんとうにおっしゃる通り。

 国家百年の計を誤らないためにも、今こそ、教育の正常化、活性化に向け、真摯に取り組んでいきたいものです。

 

rve83253 at 00:46│Comments(5)TrackBack(0)教育観 | 指導観

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この記事へのコメント

1. Posted by しょう   2011年02月12日 21:41
 しょうです。こんばんは。
 toshiさんは心配されているようですが、授業研究の成果はそれなりの広がりを持って現場(特に小学校・中学校)に定着しているのではないか、と私は考えています。中学校の研究授業を参観したり、保護者として小学校の授業を参観しながら、「問いかけや子どもたちの思考を少しでも深めていくような工夫」を感じることは多いです。

 大きな問題は高校の現場で授業研究の取り組みがなかなか広がっていないことでしょう。

>近年、ある大学教授が提唱する『学び合い』が広まっているらしい。わたしは、その大学教授の主張をネットで拝読したが、どうも『学び合い』と称しているものの、実質は子ども同士の『教え合い』のようであった。
>わたしも、『教え合い』をダメとは言わない。言わないが、それは、『子どもが展開する授業』の一つの姿にすぎないであろう。やはり本筋は、『考えをひびき合わせ共同で創造する授業』ではないか。そう思う。

 以前、拙ブログで紹介した「授業づくりと学校づくり」
http://plaza.rakuten.co.jp/shchan3/diary/?ctgy=26
を貴ブログでも好意的にご紹介いただきましたが、実は「報告者」の I さんの学校がそのような取り組みを進めていくきっかけになったのが、まさに「ある大学教授(佐藤学)」の提唱する「学びの共同体」でした。

 私も昨日「東京大学附属中等学校の研究授業」を参観しましたが、教室での実践は佐藤氏のHPの主張を超えてtoshiさんが大切にしていらっしゃるような創造的な授業に近づいているように思われます。

 また、「授業研究と学校づくり」をしっかり結びつけた運動として広がりつつあることには、やはり大きな意義があると考えています。上記付属中等学校の研究会には全国から参観者が集まり、大きな体育館がいっぱいになっていました。
2. Posted by しょう   2011年02月12日 21:43
 ちなみに私の所属する高校においても先月、授業研究会が行われました。研究授業を行ったのは4名でしたが、全職員がいずれかの授業を参観し、研究協議を行いました。ちなみに私も研究授業(日本史)を行ったのですが、toshiさんが紹介してくださった「差別に気づき、差別と向き合い、差別を許さない授業の実践」が大いに参考になりました。

 「歴史のその時に当事者として参加していたとすれば、どうしたと思うか(どうしたいか)」という問いかけは本当に重要な意味を持ちますね。授業に参加した生徒からも参観した職員からも「面白かった。まるで自分がその歴史を直接体験しているかのようだった、」という感想をもらいました。

 全職員が参加する授業研究会は、私の所属する学校では初めての試みで、ささやかな一歩ではありますが、「やってよかった」という感想を大部分の職員が共有できたことは、貴重な前進だったと思います。
3. Posted by しょう   2011年02月12日 21:56
>〇読解も大事だよ。
>新聞記事によれば、「国は、読解も、主題の読み取りではなく、読んで感じたこと、考えたことの話し合いを重視していく考えだ。」とある。

>これについては、違和感を覚えた。もしかしたら、『主題の読み取りだけではなく、〜。』の間違いではないかな。

 例えばネット上でも「激しいやりとり」を目にすることがありますが、自己主張する以前に「まず、しっかり読み取ること」の大切さを痛感させられます。

 実は、文月さんにtoshiさんのブログを紹介したのは私なのです。「教室における具体的な場面で展開される生きた実践」に触れることで「個人の体験からくる『強い確信』を少しでも問い直していただければ」という想いからだったのですが・・・。

 toshiさんが述べておられることをもっとしっかり読み取っていかれれば全く違ったやり取りになったのになぁ、と残念に思います。
4. Posted by toshi   2011年02月14日 07:23
しょうさん
《toshiさんは心配されているようですが、授業研究の成果はそれなりの広がりを持って現場(特に小学校・中学校)に定着しているのではないか、と私は考えています。》
 いやあ。わたしにしたところで、全国各地の実態を把握しているわけではなく、
・いただくコメントやメール
・マスコミなどで伝わる情報
から判断しているにすぎませんので、しょうさんのようにおっしゃっていただけると、ほんとうにうれしくなります。ありがとうございます。そう。いい情報は伝わりにくいですものね。
《大きな問題は高校の現場で授業研究の取り組みがなかなか広がっていないことでしょう。》
 ごめんなさい。高校となるとますます分かりません。はっきり申して、しょうさんのブログから伝わってくるものだけです。ですから、今後ともよろしくお願いしますね。
《学びの共同体》についてほんの少しネットで調べてみました。小学校の実践例もありますが、おもに中学校、高校を中心として広がりつつあるのでしょうか。子どもたちの学ぶ姿の盛り上がりが感じられて、とてもうれしく思いました。
 教え合いとの違いも書かれていましたね。『我が意を得たり』という思いがしました。
《「授業研究と学校づくり」をしっかり結びつけた運動として広がりつつあることには、やはり大きな意義があると考えています。》
 おっしゃる通りです。車の両輪のようなものだと思います。どちらが欠けてもうまくいかないでしょう。考えてみれば、わたしの初任者指導もまったく同じです。もっともこの場合は、『授業と学級』となりますがね。
5. Posted by toshi   2011年02月14日 07:23
《ちなみに私も研究授業(日本史)を行ったのですが、toshiさんが紹介してくださった「差別に気づき、差別と向き合い、差別を許さない授業の実践」が大いに参考になりました。》
 うわあ。すごくうれしいです。こうして異校種の方ともひびき合っていけること、涙が出るような感じです。
 でも、参考などとはとんでもない。高校生の学びですから、差別についても、きっとより大人の思いに近く、自分自身を見つめる思いもとぎすまされたものになっていたのではないでしょうか。
 すてきな学びを経験した子どもたち、『おもしろかった。』は、わたしがよく言う『楽しさ』と同じでしょうね。学びの充実感であり、もっと言えば、思考を深めたという意味での達成感があったのではないでしょうか。また、授業を参観された教員と、《「やってよかった」という感想を共有できた》ことは、今後の研究への確かな盛り上がりを感じることができます。
《ネット上でも「激しいやりとり」を目にすることがありますが、自己主張する以前に「まず、しっかり読み取ること」の大切さを痛感させられます。》
 わたしも、しょうさんとまったく同様の思いをもちます。読解力はほんとうに大事ですね。わたし自身も、『先入観念で人のブログを読み、後で読み返してまったく誤読であったことが分かる。』ということがあり、自戒せねばと思っています。
 自己中心性からの脱却。客観的なものの見方。多様性の理解。いずれも大切ですね。
 しょうさんの想いや願い。よく分かりました。拙ブログをご紹介いただけることに感謝しています。広がっていくことはとてもうれしいことですので、どうぞ、今後ともよろしくお願いします。

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