2011年02月26日

名実ともに、『世界に冠たる授業研究の国』へ、(3)

PAP_0002 すみません。これまでの歴史的考察の続きを書く前に、ふれさせていただきたいことがあります。よろしくお願いします。

 前記事に対し、かげちゃんさんからご質問をいただいた。『どうして、「ゆとり教育」や「子どもが主体の授業」を礼賛されるのでしょうか。』とのこと。

 これはもう、本ブログのテーマや実践にかかわる、根源的なご質問だ。ただ『礼賛』と言われると、ちょっと違うのだけれどね。
 礼賛ではない。わたしは、授業はそうでなければならないと思っている。切実なのだ。

 この答えはいくつかある。

・一つ目 
 子どもが学びの主体者だから。
 子どもを受け身の学びに追いやってはならない。何度も言うように、日本の子どもの学ぶ意欲は、世界最低なのだ。(すみません。2009年PISA調査の結果は不明。)

・二つ目
 子どもの思い、こだわり、疑問、学力の実態などを把握したうえで授業を進めないと、学習についていけない子どもをつくってしまうから。
 これは過去記事に書いている。かげちゃんさんへの回答(コメント3・4番)にも書かせていただいたが、よろしければ、ご覧いただきたい。

みんなちがって、かわいそう? わたしと小鳥とすずと

・三つ目
 逆に、知的にすぐれている子も伸ばすことができるから。
 子ども一人ひとりが主体的に学んでいれば、指導者一人の教材研究では及ばないほど価値ある表現をすることもあり、それは、感動を伴うこともしばしばである。

 育つ初任者 スーホの白い馬

・四つ目
 知識・技能の習得だけが学習ではない。それと並行して、生きる力、学ぶ力をはぐくむ必要もあるから。

・五つ目以下 まだまだあるが、ここでは、省略させていただこう。


 そこで、本シリーズをしめくくるに当たり、再度、読者の皆さんと、『ゆとり教育』『子どもが主体の授業』について確認してみたいと思う。(すみません。まだまだ前おきが続きます。)

 そもそも、『世界に冠たる授業研究』とタイトルに表記したのは、朝日新聞の元旦記事を読んで、わたしがむかし先輩から聞いた言葉を思い出したからだった。

 同新聞記事には、日本の教員が研修に来た外国人教員に対し、
「子どもたちが知りたいと思うしかけをつくってください。教師でなく、子どもが展開する授業にしてください。」
と助言すると書かれていた。

 そう。この精神こそ大切なのだ。『しかけづくり』及び、『子どもが展開する授業』ということだね。
 それには、教員にも子どもにも、心にゆとりがなければならない。『世界に冠たる授業研究』は、ゆとりがあってこそ成立するのだ。
 

 それでは、ここでいうところの『世界に冠たる授業研究』とは、どのような授業を目ざして行われるのか。これまで拙ブログに書いた言葉でまとめさせていただくと(朝日新聞に載った言葉も含む。)、次のようになる。

・子ども同士の対話で進む授業。子ども自身、『自分たちで学習を創っている。』と思える授業。
・対話しているうちに、子どもによって自然に学習問題が生み出される授業。
・子どもたちが、話し合いの中で、自分の思い、考えを深めたり修正したりして、価値を追求することのできる授業。

その結果、子どもたちはお互いを思いやり、協調し、自分をみがこうとするようになる
・指導者は、子どもが知りたいと思うしかけをつくる。子どもが展開する授業を支える。

・子どもの思考力や発想力を伸ばす授業
・互いに考えをひびき合わせ、共同で創造する授業

 すみません。ちょっと重複した部分もあるようだが、そんな感じになるだろうか。それこそが、『ゆとり教育』の授業でもあるというわけだ。

 したがって、近年、マスコミやネットで盛んに揶揄されてきたような『たるみ教育』とか『ゆるみ教育』などではまったくない。


 それでは、お待たせしました。

 いよいよ、本シリーズの(1)(2)と進めてきた、歴史的考察の続きに入ろう。


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 『ゆとり教育』は、それ以前の『つめ込み教育』『教え込み教育』の反省から生まれた言葉だった。始まりは昭和50年代だっただろうか。『やれ、偏差値教育だ。やれ、落ちこぼれだ。やれ、暴力教室だ。やれ、不登校問題だ。』など、など。
 当時、こうした報道も狂騒状態にあった。今のように、ある意味、なれっこになっていなかったから、市民には驚きをもって受け止められた。

 そう。『つめ込み教育、教え込み教育ではだめだ。子どもの心のはぐくみを大切にした教育でないといけない。』そうした声があふれるようになった。
 だから、当時、『ゆとり教育』の意味や価値は、市民からも好意的にみられ、すなおに受け入れられた。


 こうして迎えた平成元年度の学習指導要領改訂にあたっては、『新しい学力観』なる言葉が生まれた。

 しかし、わたしたちは、それを『新しい』とは思わなかった。昭和20年代の新教育の復活であり、『歴史は繰り返す。』というとらえだったのである。
 上記リンク先のWikipediaにもある通り、『新しい学力観』は、
「自ら学ぶ意欲や,思考力,判断力,表現力などを学力の基本とする学力観である。」とし、さらに、「これらのことから,『新しい学力観』は『生きる力』と軌を一にし、21世紀を生きる学力の基本」とした。

 ああ。なんと崇高なとらえだったことだろう。だから、もしそのままこの学力観でいったなら、『世界に冠たる授業研究』は、今ごろ満開の季節を迎えていたかもしれない。


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 ところがもうご案内のように、その後、『ゆとり教育』の概念は、マスコミ、教育評論家、一部教員らの手によって、捻じ曲げられてしまった。この言葉ほど、多くの誤解、曲解に見舞われ、泥まみれになった言葉はないだろう。
 まことに残念だった。

 その誤解、曲解の象徴が、前述の『たるみ教育』『ゆるみ教育』なる言葉か。
 先ほどとは逆の意味での『歴史は繰り返す。』となってしまった。


 なぜ、このように、泥まみれになってしまったのだろう。

〇『つめ込み教育』『教え込み教育』の弊害が、人々の意識から薄れてしまった。それはまったく解消などしていなかったのに・・・、

 市民は、この種の社会問題について、なれっこになってしまったのかな。熱しやすく冷めやすい国民性が、ここにも現れたか。

〇それでも、『いじめ自殺』『校内暴力』のような事件が起きると、そのときだけは、『心をはぐくむ教育』の大切さが声高に叫ばれる。 
 でも、これも、線香花火のようだったね。またすぐ忘れ去られてしまう。

〇代わりに強烈に叫ばれるようになったのが、またまた、『学力低下論』だった。
 この、二度目の学力低下論は、強烈だったね。マスコミ、評論家、一部教員の誤解に満ちた見解は、すさまじかった。

 その影響だろう。昭和20年代後半の『学力低下論』のとき以上に、市民は、即効のきく断片的な知識・技能の学力を求めるようになった。

 ああ。亡父の言葉が思い出される。
『(ゆとり)教育が実を結ぶには、〜、十年、二十年という年月がかかるのだ。』

 しかし、市民はとてもそんなに待てないようだった。短兵急ぶりは以前にましてひどくなったと言えよう。

 以上、このように、知識・技能の注入と心をはぐくむ教育と、行ったり来たりしたのが、日本の教育の状況だ。

〇それでは、『ゆとり教育』は、なぜ、本来の意味から離れ、捻じ曲げられてしまったか。

・それは、ほんらいのゆとり教育の概念にないものまで、ゆとり教育にとり込まれてしまったからだ。

 その最大のものは学校5日制だっただろう。それまでも、週授業時間数は微減していた。しかし、この、学校5日制導入時は、急減だったものね。

 この学校5日制。ゆとり教育の産物のように言われているが、そうではない。
 わたしは、宮台真司氏の『日本の難点』を読んで具体的に知ったのだが、そもそもはアメリカからの経済要求項目にこれが含まれていたのだ。『やれ。日本人は働きすぎだ。エコノミックアニマルだ。(ああ。なつかしい言葉だね。)やれ、学校の授業時間数も多すぎる。』

 そういえば、あまりにも私的なことで申し訳ないが、わたし自身、5日制導入の国の方針を知ったときは、えらいとまどいを覚えた。ほんとうに唐突だったもの。
『えっ。こんな、問題の多い日本の教育事情、学校事情なのに、それを無視して学校5日制にしてしまうの。
 時期尚早だろう。少なくとも10年は早い。』
と思った。とてもついていけない気持ちになったのである。市民の皆さんの多くもそんな思いではなかったか。

 それにかかわる過去記事もある。リンクさせていただこう。
    定  見(2)

 そんなわけで、ちょうどタイミングが重なってしまったことが、『ゆとり教育』への誤解を増幅させたと言えよう。『やれ、授業時数の3割減。やれ、円周率は3だって。やれ、教員のゆとりになってしまっている。』などと言われるようになってね。

・ところで、このころ、国もミスリードする面があった。わたしに言わせれば、誤解をまき散らした面があるのだ。それが後々禍根を残すことになる。これも、過去記事にリンクさせていただこう。

 定  見(1)

 ねっ。『人間、やりたいことだけをやっていればいい。』などと、どうしてそんな説明をしたのだろう。そんなのは、『新しい学力観』とも相容れないものだった。
 上記リンク先記事は、国の無定見ぶりを書かせていただいたが、まさか、アメリカからの要求に、そこまで書いてあったわけではあるまい。


靴弔畊み復活へと向かうようだが、

 もう、現代史といってもいい段階に話が進んできた。まだ湯気がたっているようだ。学習内容大幅増、授業時数微増の学習指導要領が、小学校においては、この4月からスタートする。

 上記、リンク先記事にも示したように、心配のタネは尽きない。つめ込み、教え込みに走り、学校が荒れなければいいがという思いには、切なるものがある。だって、『歴史は繰り返す』のだものね。ああ。今回だけは繰り返さないようにしたい。
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弧ね茲龍軌蕕鯡世襪するために、

 さあ、それでは、これからの教育を実りあるものにするために、わたしたちが努力すべき点を考えてみよう。
 歴史を学び、そこから教訓を得ることができれば、必ずしも悲観的になることはない。明るい未来を築くこともできそうだ。

〇序論 

 しょうさんからのコメントを再掲させていただこう。
『toshiさんは心配されているようですが、授業研究の成果はそれなりの広がりを持って現場(特に小学校・中学校)に定着しているのではないか、〜。』
とのこと。
 上記のように、つめ込みの時代を迎えようとしているときに、こうしたメールをいただけるのは、大変力強い。

 また、ある出版社の社員の方からは、
『・・・現行の制度をいかに利用して、先生方を元気づけるか、ということを、ずっと考えていました。
 でも、研究したところで、声をあげなければ何も変わらない、逆に今の時代、声をあげれば、制度だって動かせるんじゃないか、とも思っています。 』

 そうだよね。『声を上げれば、制度だって動かせる。』

〇子どもを大切にする教員よ。声を上げよう。

 『子どもの思い、こだわり、疑問』。そういったものを大切にして実践を積み重ねてきた教員の皆さん。声を上げようではないか。
 もう、教室に、学校に、地域の教育界に埋没し、『目の前の子どもたちを相手に奮闘していればいい。』という時代ではなくなった。

 ネット社会の足音は確実に大きくなりつつある。今や、市民が大きく声をあげる時代だ。
 ならば、わたしたちも、わたしたちの実践を理解し、共感し、多としてくださる市民の皆さんと連帯しようではないか。そして、その連帯の輪を広げようではないか。そうすることによって、上記出版社の社員の方がおっしゃるように、『制度だって動かせる時代』がやってくると思う。

 思えば、これまで、わたしたち、現場の実践家は、おとなしすぎた。これまでの、日本をとり巻く教育施策の右往左往に対しても、なんか、達観してやり過ごしてきたように思う。
 
 そうなるのも無理はないけれどね。
 日々、自身の授業の質の向上に励んで、子どもの変容、成長を喜びとし、生きてきたのだものね。
 そう。もともと実践家は地味なのだ。でも、でも、もう黙っている時代ではない。 
 
〇声を上げてたたかおう

 戦う相手は、とりあえずは、国でないような気がする。だって、国は無定見で、声の大きい方になびくのだもの。

 だから、それは、市民と連帯できた後の話ではないか。

 今は、やはり、『どんな子どもを育てているか。』の実践で勝負する。

 思い起こせば、今年、先輩からいただいた年賀状に、次の記述があったっけ。再掲させていただく。
 『問題解決学習もどきの授業やマニュアルが横行しています。たたかっていきましょうね。』
 わたしも、年頭にあたり、覚悟を新たにしたっけ。

・そこで、まずは『問題解決学習もどき』について、

 これは、冒頭のかげちゃんさんからのコメントに対する回答でも、一つだけふれさせていただいた。4番である。

 そう。これまで、ブログにおいて、問題解決学習批判の声を何度も聞かされてきた。しかし、それらは皆、『問題解決学習もどき』の授業をみて、批判を浴びせてきたのだ。
 今、典型的な過去記事の一つを紹介させていただこう。

    問題解決学習への誤解(1)

 こうした授業については、『そんなのは問題解決学習ではありません。似て非なるものです。そんな授業では、子どもは育ちません。』と声を上げる必要がある。

 たとえば、一部のできる子だけが活躍して、あとの子はお客さん状態になっている授業だ。

 また、学習問題を子どもがつくったかのようによそおって、実質は指導者がつくってしまっている授業。

 どちらも、大変問題だ。

 でも、しっかり見極めたいことがある。

 このように、もどきの授業であるにもかかわらず、それで良しとする教員とは戦おう。
 ただし、もどきの授業であることに、悩んだり葛藤したりしている教員には、連帯の手を差し伸べよう。

・次に授業をマニュアル化する動きに対して、

 『この人、ほんとうに教員かしら。』と思うようなはったり好き、おどし好きの者がいる。声高で、教育界を席巻している感もある。
一部は国の文教政策の重要な位置を占めてもいる。

『やれ。東大に多くの子どもが入った。』
『やれ。跳び箱を学級全員に跳ばせることができる。』
『やれ。学級の平均点は90点以上。』
『やれ。目的のためには手段を選ぶな。』
『やれ。音読が大事だ。意味など分からなくていい。やがて分かるときがくる。』など、など。
 ひいては、
『どの学級も、わたしの言うとおりにやれば、成功する。』

 まるで新興宗教の教祖様のようだ。雨後のタケノコのように林立している。

 こうした、教育者にあるまじき、はったり屋さん、おどし屋さんに共通していることがある。『初めに子どもありき』の教育実践でないことだ。つまり、子どもの発想、子どもの思い、子どもの疑問から出発する授業ではない。

 こうした声を聞くたびに、『ああ。日本は声の大きい者勝ちなのだなあ。』そう思わずにはいられない。

 そう言えば、学級崩壊の原因の一つは、まさにこれだったね。担任(国)に指導力がないと、子どもはあるがままの姿を増幅させる。つまり、自己主張の強い子はますます強く(はったり屋さんはその度合いを強め)、自己主張できない子はますます弱くなっていく。

 拙ブログに寄せられた声(リンク先の39番)で忘れられないものがある。『マニュアルで人の心が動かされると思いますか。』とあった。子ども時代TOSSのメンバーが担任のクラスにいたという方からいただいたのだった。

 そう。先ほど、『子どもを大切にする教員よ。声を上げよう。』と述べた。そのことの切実な理由は、ここにもあるね。
 定見のない日本で、いつまでも、自己主張できない子(?)のままでは、声の大きいものに牛耳られっぱなしになってしまう。
 
〇自己改革、指導力アップに努めよう。 

 と同時に、教員は、さらなる自己改革、指導力アップに努力しよう。しょうさんからいただいたコメントにあるような世界を広げよう。

・繰り返しになるが、

 それはもちろん、子どもを主体とする授業の構築だ。
『子どもたちが知りたいと思うしかけをつくってください。教師でなく、子どもが展開する授業にしてください。』
に向けて努力したい。

 そこで、具体的実践だが、

 わたしがかかわった実践を紹介させていただくのは大変恐縮してしまうが、ちょうど、指導力アップに焦点を当てた記事となっているので、紹介させていただきたい。 

    初任者の成長(13) 指導力アップにかかわって

 もう一つ。総合的な学習の時間のとらえにかかわった記事にリンクさせていただく。
 ご案内のように、今回の改定では、この時間は週2時間に減らされてしまった。学校が学習内容を決めることのできる時間だし、子どもの主体的な学びを保障することのできる時間なので、それがへってしまったのは残念だ。
 しかし、これは、『ゆとり教育』の象徴ともいえる時間なので、精力的に取り組んでほしいものである。 

    教員の指導力アップとは(1) 総合的な学習の時間の実践から

 どうだろう。『世界に冠たる授業』の実践は、子どもの変容が見えるから、教員だって、充実感をもち、生きがいを感じることのできる授業となる。

・次に、内容精選に努めよう。
 
 ここでは、そうした授業を可能にする意味でも、『学習内容の精選』に努めることにふれたい。

 繰り返すが、来年度より学習内容が急増する。それにもかかわらず、授業時数は微増だ。

 うっかりすれば、教え込み、つめ込みに走らざるを得ない状況だ。
それでは、また、『落ちこぼれの問題』『校内暴力』『いじめ』などの問題に悩まされるようになる可能性が強い。

 ここは、学習内容の精選に努め、過密にならないような配慮をしてほしい。

 例によって、新学習指導要領は総花的だ。つめ込みのすすめのようにみえる同要領だが、総則第4の『指導計画の作成等に当たって配慮すべき事項』の1の(3)には、『各教科の各学年の指導内容については,そのまとめ方や重点の置き方に適切な工夫を加え,効果的な指導ができるようにすること。』というように、内容精選を指向したとみられる文言もある。

 だから、ここは、努めて、つめ込みにならないような指導計画の作成が望まれる。

    『ゆとり教育との決別』か? 来年度からの教科書をめぐって(2)

 ああ。いけない。同記事のタイトルを『ゆとり教育との決別か?』などとしてしまった。

 ここは『決別』とならないよう、全力をあげたい。

 いろいろ大変だろう。

 もしかしたら、保護者から、『教科書にある内容なのに、なぜやらないのですか。』などと苦言を呈せられるかもしれない。
 しかし、それに対しては、はっきりと、『教科書で教える』のであって、『教科書を教えるのではない。』ことを、具体的に説明しよう。

 細かくは上のリンク先記事に譲らせていただきたい。
 なお、同記事に寄せられたコメントの数々には、大変おもしろい考え方が示されているので、ご覧いただけたらと思う。


垢泙箸瓩砲えて

 市民の方から寄せられたメールに、次のようなものがあった。再掲させていただこう。
 『今の子供たちが社会人となり親になる30年先ぐらいで理想に近いレベルになりますか?それまでの道のりは遠く遠く長い時間がかかるのでしょうけれど、貴ブログがその時間短縮になればと期待します。』

 ああ。拙ブログをこのように評価してくださって、大変ありがたい思いになった。
 これからも微力を尽くさせていただきたいと思う。


 ふり返ってみれば、『世界に冠たる授業研究の国』シリーズは、今年元旦の朝日新聞から始まったのだった。

 従来はややもすると、マスコミ受けする、声の大きい者に、教育界は支配されがちだったと思う。そのマスコミの一端が、こうした記事を書いてくださったことに対しては、身震いするくらいの感動を味わった。

 これからは、マスコミとの連帯も図れたらいいな。

 そうして、理想の実現の短縮に向けて、手を携えていきたい。タイトルのように、名実ともに『世界に冠たる授業研究の国』となるよう、夢見て。


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 教育改革。もう、制度をいじるようになって10年を超えたでしょうか。その多くは改悪につながっていると思います。まだまだ続くのでしょうか。『どこまで続くぬかるみぞ。』といった感じです。

 でも、あきらめず、立ち向かっていきましょう。

 そして、今という、ネットによって国民こぞって表現できる時代は、我らの側の教育改革も、市民の皆さんのご理解をいただき、市民の皆さんとともに歩む努力をすることが大切です。

 
 最後に、本シリーズは、拙ブログの総集編のような感じになってしまいました。そのため、リンクがものすごく多くなっています。わずらわしい思いをもたれた方もいらっしゃることでしょう。どうも、申し訳ありません。

 ほんとう。お時間のある折、関心のあるところを、少しずつでもご覧いただけたらと思います。

 よろしくお願いします。


rve83253 at 21:56│Comments(10)TrackBack(0)教育観 | 教育風土

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この記事へのコメント

1. Posted by フルタ(1/2)   2011年03月01日 12:27
前回のtoshi先生の記事を読んで、私は「過密な学習内容を教え込む授業」の時代に育ったのだろうと思いました。大学を卒業時は売り手市場でしたし、順調っぽく過ごしてきました。そして、自分が受けた教育が正当な教育のように思っていました。このため、娘がゆとり教育の中で過ごしているとき、マスコミや身近では上級生のお母さん方の心配が私にも伝染してきました。

けれど、最近ようやく、娘やその友達から、ゆとり教育が良かったのだろうなと感じ始めました。民主主義的で、自分の考えを持ち、他人の考えも理解しようとし、自分が好きなこと(趣味)ややりたいことが分かっている子が多いように感じます。
そして、こんな子達がこのまま大人になって、日本を形成してくれるなら、互いを認め合う住みやすい社会になるだろうなと思っています。
2. Posted by フルタ   2011年03月01日 12:28
下の子は、今、詰め込み教育のまっただ中にいます。授業もtoshi先生の『みんなちがって、みんなかわいそう?』のような授業にはなりません。先生からの発問形式で、知っている子、分かってる子が答えます。うちの子は基本的に「自分の思ったことが正しいかどうかが分からないから手を挙げられない」、「質問の内容がこうなんだか、それともああなんだかが分からないから手を挙げられない」、「授業はおもしろくない」と。私自身にも似たような思い出があり、だとすればせっかく学校で集団で勉強しているのにもったいないなと感じます。教科書を万便なくやりましたよりは、『みんなちがって、みんなかわいそう?』の方がよほど子ども達みんなが、考えたり、理解を深めたりすることができたと思います。
ですから、toshi先生の提案
<<しかし、それに対しては、はっきりと、『教科書で教える』のであって、『教科書を教えるのではない。』ことを、具体的に説明しよう。>>
には、そうなって欲しいと願っています。
そのためにも、ゆとりは必要だと思います。
3. Posted by toshi   2011年03月02日 05:37
フルタさん
 教育が流行に支配されるのは、ほんとうはおかしいと思うのですね。発展途上の社会にあるときと成熟した社会とでは違って当たり前という見方も成り立つかもしれませんが、しかし、元来、子どもはいつの時代も同じ子どものはずなのです。
 ただし、時代によって異なるという面をまったく否定はしません。子どもをとり巻く環境が異なってくることは確かですので。
 でもその場合でも、学習内容に限定されるのではないでしょうか。指導法は不変だと思います。
 話は変わりますが、フルタさんからいただいたコメントを読んで思うところがありました。
 今の子はゆとり教育によって育った世代。しかし、その保護者は、内容過密の時代に育った世代だとすれば、ゆとり教育の意義や価値の説明などは、そうした意味でも大切になってくるでしょうね。人間、自分が受けた教育は空気みたいなものなので、それと違うとつい批判したくなるということは、大いにありうると思うからです。そういう意味で、
《娘がゆとり教育の中で過ごしているとき、マスコミや身近では上級生のお母さん方の心配が私にも伝染してきました。》
は、よく理解することができます。
 今回書かせていただいた、『声を上げることの大切さ』はここにもあるのだなと思いました。ありがとうございました。

4. Posted by toshi   2011年03月02日 05:38
《うちの子は基本的に
「自分の思ったことが正しいかどうかが分からないから手を挙げられない」
「質問の内容がこうなんだか、それともああなんだかが分からないから手を挙げられない」
「授業はおもしろくない」
と。私自身にも似たような思い出があり、だとすればせっかく学校で集団で勉強しているのにもったいないなと感じます。》
 これは、多くの教え込み教育、教員主導の教育にありがちなことだと思います。
 ある校長が、自校の教員に言っていましたっけ。「うちの学校の子どもたちは市、全国の平均点よりかなりいい点をとっています。しかし、『授業がつまらない。』と言っている子も多いのです。これは問題です。わたしたちは、もっともっと授業の工夫をしなければなりません。」
 いやあ。こういう学校はけっこうあるのではないでしょうか。行政にも真剣に考えていただきたい点です。
 また、記事に書いたような、できる子ばかり活躍するもどきの授業は、これも、『みんな違ってかわいそう』などという思いは出るわけがありませんので、やはり多くの子にとってはつまらない、分からない授業になりがちです。

5. Posted by toshi   2011年03月02日 05:38
《民主主義的で、自分の考えを持ち、他人の考えも理解しようとし、自分が好きなこと(趣味)ややりたいことが分かっている子が多いように感じます。
そして、こんな子達がこのまま大人になって、日本を形成してくれるなら、互いを認め合う住みやすい社会になるだろうなと思っています。》
 ゆとり教育、さらに言わせていただければ、『世界に冠たる授業』が行われていたのかなと思いました。フルタさんは保護者でいらっしゃると思いますが、市民の方にこのようにお認めいただいて、とてもうれしい思いがしています。
 

 
6. Posted by フルタ   2011年03月03日 11:10
私は、学力低下論が叫ばれていたころ、toshi先生がこのシリーズの(1)に書いておられる<<読者の皆さんは、ご自分の子ども時代に受けた授業をどのくらい記憶しているだろう。>>、そして、「それが今どう活かされているか」をなぜ自問しなかったのだろうと後悔しています。

<<ゆとり教育、さらに言わせていただければ、『世界に冠たる授業』が行われていたのかなと思いました。フルタさんは保護者でいらっしゃると思いますが、市民の方にこのようにお認めいただいて、とてもうれしい思いがしています。>>
今ちょうど定年を目前にされようとしておられる上の子の4、5年生のときの担任の先生方は、まさに『世界に冠たる授業』されていたのだと思います。参観した授業を思い出すと、toshi先生が紹介されている授業の様子ととても似た感じがします。

教育者ではありませんが、「子どもが学びの主体者」となる教育に向けて私も何かできないかな、何かしたいなと考えています。
7. Posted by 伊藤   2011年03月04日 14:49
TOSSの大会をのぞいてみましたが、あまりの宗教的な感覚に辟易してしまいました。

4月から新しい教科書がやってきます。教育実習も始まります。
しかし、やっていることは基本的に学制が始まっていない変わらないでしょう。

ゆとり教育といわれても、誰にとってのゆとりだったのか。
教科書の内容量は戻す。しかし、休みはそのまま。
勉強も大事だけれども学校内の楽しみのある行事が授業確保のために四苦八苦する。
労務を見たときに表面上、教師の休みは増えたのかもしれないが、見えない残業で休みはない。

東大や甲子園。もちろん、私学にとってはいい宣伝材料だと思います。東大がすべてなのか、医学部がすべてか。
学力だけで判断されるのであれば、それこそ学歴社会であると思いますし、学校の教員も東大じゃなきゃダメだみたいな風潮になりかねないですね。

表面だけいじっくて何も変わらない今の現状では期待はしません。教育の重要性がわからない人間に何を言っても無駄な気もします。
8. Posted by toshi   2011年03月05日 09:45
フルタさん
《参観した授業を思い出すと、toshi先生が紹介されている授業の様子ととても似た感じがします。》
 そうでしたか。うれしいなあ。けっこう広がりを見せているということ、今回、いろいろな方からコメントやメールをいただき、実感することができました。
 そういう授業は、保護者として参観されていても、とても楽しくありませんか。
『ほう。子どもってこんな考え方をするのか。』『子どもの考えることって、おもしろいなあ。』など、我が子に限らず、新発見もいろいろあったのではないかと思います。
《教育者ではありませんが、「子どもが学びの主体者」となる教育に向けて私も何かできないかな、何かしたいなと考えています。》
 ありがたく思います。以前、PTA任意加入の問題でも感じたことですが、こうして輪が広がっていくこと、大切だと思います。
 でも、リアル社会においては、無理はなさらないでくださいね。はねっ返りも心配されますので。

 本シリーズを通し、民主主義社会を守り、育み、成長させていくうえで、子ども時代の教育は大きな役割をもっているなと強く感じた次第です。

9. Posted by toshi   2011年03月05日 09:45
 学校教育が、断片的な知識・技能の注入に終わっているとしたら、学校教育の役割など無に等しく、社会に与える影響などというものは、まったく期待できないでしょう。

 たとえばの話ですが、
 わたしより10歳上の世代は、学童疎開や勤労動員を経験し、戦後すぐは墨塗り教科書になった世代で、まともな学校教育など、ほどんど受けられなかった世代だと思います。
 でも、わたし自身、企業や学校で働き、そうした世代の方々のご指導をいただきながら成長(?)してきたわけですが、そうした世代の方々を能力がないとか、学力がないとか、思ったことはまったくありません。ご指導いただいた方々はみんな立派でしたし、人生を生き抜く上で力をいただき、感謝することがたくさんありました。これは、皆さん、同じ思いでいらっしゃると思います。
 
 ねっ。ここからも、『学校が知識・技能の注入のみをやっていたら、学校の存在意義を問われかねないことになる。』となるのではないでしょうか。やはり、『生きる力』『学ぶ力』をはぐくむ教育でないと・・・、逆に言えば、『世界に冠たる授業』ゆえ、これが成功すれば、日本は間違いなく、世界のリーダーとなりうると思うのです。 
10. Posted by toshi   2011年03月05日 10:05
伊藤さん
《TOSSの大会をのぞいてみましたが、あまりの宗教的な感覚に辟易してしまいました。》
 そうでしたか。新興宗教のようではなくて、まさに新興宗教そのものだったのですね。教育がそうなるというのはこわいですね。それにね。本シリーズは歴史的な考察を加えてきたわけですが、まさに、根のない浮草のような存在なのだと思います。
 あっ。そう言えば、TOSSをやめた方がおっしゃっていましたっけ。『あれは、見た目きれいに見えても、しょせん、切り花の美しさなのですよ。』
わたしは、『学ぶ力』『生きる力』を養う教育とは無縁なところにあると理解しました。

 伊藤さんもおっしゃるように、4月からの学校教育は、見方によっては危機がいっぱいではないでしょうか。
 子どもも環境のせいで、むかしとは変わってきています。つめ込みに耐えられる子どもは減ってきているでしょう。

 初任者指導も新しい段階を迎えそうです。でも、あきらめませんよ。

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