2011年03月07日

『世界に冠たる授業研究』の記事批判か!?

PAP_0038 『世界に冠たる授業研究』シリーズを続けていたとき、ある読者の方から、メールをいただいた。

 『toshi先生のブログをとり上げて、ご自分のブログを書かれている方がいます。ご存知ですか。ちょっと変に批判めいてて、いやですね。』
とあった。

 なるほど。そういう方がいらっしゃった。吟遊詩人さんとおっしゃる。

 拝読しているうちに、『ああ。これは、せっかくだから、このブログ記事をネタに記事を書かせていただこう。そうすれば、自分の思いをさらに深めることができる。』と思うようになった。

 そういう意味で、吟遊詩人さんには感謝申し上げます。どうも、ありがとうございました。

 
 さて、吟遊詩人さんのブログ記事を拝読すると、
・ああ。わたしの地域と教育風土がまるっきり違うな。
・でも、共感できる部分もあるぞ。
その双方がうかがえた。

 そこで、その2点を中心に、わたしの思いを深めさせていただくことにしたい。


〇まずは、共感できた部分から、

・『大切なのは、どうしたらあのように授業を見ることができるのだろうかと思うことと、あとはそのための自分の努力をすることです。
 感心する感受性があるうちに、自分の授業を記録して繰り返してみてください。
 それで授業の実践力が身につきます。』
のくだりだ。

 これはもう、まったくおっしゃる通りで、つきつめれば、自分で努力する以外にはない。
 
 わたしも初任者によく言う。
「できるだけ、自分の授業を記録してみよう。自分の授業をテープにとれればなおけっこうだ。
 そんな時間がなければ、ふり返ってみるだけでもいい。そして、聞き直したり、思い出したりしてみれば、
『ああ。あの子の大切な発言を聞き逃し、とり上げないままにしてしまった。』とか、
『ああ。ここで、こう子どもに切り返せばよかったのだな。どうしてそれができなかったのだろう。』とか
いろいろ思うことがあるだろう。その繰り返しで、いい授業ができるようになっていくのだよ。」

 ただ、わたしは思う。

 初任者に対してはそれでよくても、やはり、多くの教員の皆さんに対しては、『授業分析の方法などは、しっかり学んで。』と言いたい。

・もう一つある。

 『達人の言葉や見方をノートにとってそれを覚えても、〜』も、強く共感した点だ。ただし、『達人』という言い方は、ものすごく引っかかりがあり、これについては後述させていただく。

 そう。とかく、初任者は、わたしの言葉だけを受け取り、必死になってノートをとる傾向がある。それがまったくおかしなことになってしまうこともある。そのことについては、つい最近も記事に書かせていただいた。
 下記リンク先記事の『その4』が、それにあたる。
    初任研は大丈夫か(2)

 ああ。すみません。今、読み返してみると、この項の結論は『ゆっくり話すようにした。』となっているけれど、考えてみれば、そんな小手先ですむ話ではないよね。

 やはり、『子どもの心をはぐくむことを最優先課題とする。』というわたしの思いを、この言葉を使わずして具体的に伝えていくことができなければ、初任者指導にあたるものとしては本物でないということになるだろう。

 吟遊詩人さんのブログは、そのことを思い起こさせてくださった。

・さらに、次の2つの文章も、共感を覚えたものであることをつけたさせていただこう。

《やってきたか、やっていないか、限界に気づいたか、気づいていないか、それに固執するか、もっと新しいものはないかと探すか、そのようなことを繰り返して、授業分析の工夫をしているかどうかのちがいなんです。》
《やれば誰でもできるし、やって一番得をするのは、その人がかかわる子どもたちです。》


〇次、吟遊詩人さんに、思わず敬意を表した部分もあった。

 それは、お若いときから、真摯に研究に取り組まれてこられた点だ。『逐語的授業記録分析』とおっしゃる。 

 そう。これはもう、生半可な取組ではない。
 同氏もおっしゃるように、一つの授業を録音、録画し、それを再生しながら担任のはたらきかけ、子どもの発言など、そのすべてを記録する。

 そして、たとえば、
・話し合いを深める契機となったのはどの発言か。逆に深まらなかったとすれば、どういう指導者のはたらきかけが必要だったか。
・指導者の言葉かけは適切だったか。言いすぎや逆に言葉の足りなかった点はなかったか。
・資料の提示のタイミングはどうだったか。
・etc.

 もう授業分析はきりがない。やろうと思えば、いくらでも分析が可能だ。

 そういうことをなさってこられた点、『すごい。』と思った。


〇しかし、『ああ。これは違うな。』と思う点も多々あった。

・まず、驚いたのだが、そして、おもはゆくもあるのだが、

 前述の『達人』についてだ。
 どうも、わたしは、『達人』にまつり上げられてしまったようなのである。大変光栄の至りと申し上げたいところだが、実は、わたし、先日、達人(カリスマ)などはいないという趣旨(リンク先の終わりの方、『〇最後は、新聞記者さんへのお願いだ。』からがそれにあたる。)のことを申し上げたばかりなのである。

 思うに、吟遊詩人さんの地域で『達人』は、日常、よく口にされる言葉なのだろう。この方も達人と呼ばれることがあるらしいしね。


 この点、我が地域とは教育風土が違うのだなと思わざるを得なかった。
 我が地域で、『達人』などとは聞いたことがない。わたしにとって、これは、退職後、ブログを始めて、よく聞くようになった言葉だ。


 なぜ、我が地域においては聞くことがないのだろう。それは、おそらく・・・、

 いや。これは過去記事にリンクさせていただこう。

    授業の『達人』『鉄人』『名人』に物申す。

 ねっ。我が地域では、むかしから一貫して問題解決学習の授業が行われている。それはもう、教員の授業力はいろいろあるにしても、少なくとも問題解決学習を批判する人はほとんどいないと言っていい。

 そこから言えることはなんだろう。

 要するに、子どもが生きる、子どもが活躍する授業にしたいのだから、子どもが活動してくれなければ始まらないということだ。単に発問がどうとか、資料がどうとか、そういう問題ではないということだ。
 そのためには、基盤としての学級経営、それこそが問われなければならない。


 具体的には、

 つい先日も、授業中のトイレ行きについて、文月さんとコメントのやり取りをしたっけ。授業のことではないが、教員としての心構えの問題だ。そこで述べた言葉を再録させていただこう。

 文月さんが、《(担任が)一人ひとりその子の性格、実態に沿った言葉かけをするというのは、目標としては大切ですが、現実には100パーセント完璧にするのは不可能です。必ずくい違いも出てきます。》とおっしゃったのに対し、

 わたしは、
 『それもよく承知しています。〜、(一人ひとりその子の性格、実態に沿った言葉かけをするという)努力は永遠だと、わたしは初任者に言いますし、ブログにも書いています。
 そして、わたし自身、現在もその努力は進行中と、これも何度もブログに書いています。』
と述べさせていただいた。

 つまり、わたしも含め、教員である限り、みんな常に修業中なのである。『子ども一人ひとりの把握など、これでいい。完ぺき。』などということは永遠にありえない。

 だから、そういう意味で、『達人』なんていう言葉になじむことはできないのだ。

 
 さらに言わせていただこう。今度は授業の事例だが、

 上記、リンク先記事では、3年生国語、『すがたを変える大豆』の実践例を示した。どちらかと言えば、学力の低いと思われる子が活躍する事例である。

 ねっ。おそらく、授業の『達人』なる教員は、このような不可解な子どもの発言など、とり上げもしないだろう。いや。そもそも、達人の授業では、子どもからこんな発言などとび出しはしない。指導者の発問に答えることしかないからだ。

以上、達人などいないと考えるわたしの想いを明確にさせていただいた。

・次に、吟遊詩人さんは、『古典的授業研究法には限界がある。』とおっしゃる。しかし、この点、わたしは、限界など感じたことはないのだ。

 同氏は、限界の事例として、
『実技系や個人の活動のある算数・数学、グループに分かれる生活科や総合的な学習の時間などでは、カバーしきれないのです。』
とおっしゃる。

 また、
『授業研究をするための授業記録を作るために、授業をそれに合うようにしてしまうのです。』
『それで、逐語的な授業研究をやっているところでは、〜。それで音楽や家庭でも、研究校に残された資料は、ほとんど話し合いばかりの授業になってしまっています。』
ともおっしゃる。正直、この2つには驚かされた。

 こうなると、おそらく、体育だって同様だろうね。運動、演技などの活動より、話し合いばかりの授業になってしまうのだろう。

 そこで、わたしは、体育を専門とする、ある校長に聞いてみた。その校長は言う。

「体育だって、問題解決学習をおし進めている点、他教科と同じですよ。だから、やっぱり話し合い学習は大事にします。
 ただしその話し合いは、『運動や演技を自分たちでより良いものにしていこう、完成させよう。』とするための話し合いですから、話し合い学習をしたからといって、その分、運動や演技がおろそかになるなどということはありません。
 もしそんなことがあったら、何のための話し合いかということになってしまいます。」kodomo57
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 ここで、すみません。ここで、ちょっと注記を。

 この2枚の写真は、同校長の学級担任時代のものである。許可をいただき、卒業アルバムから収録させていただいた。

 ねっ。そんなわけだから、
○授業記録を作るために授業をそれに合うようにしてしまうとか、
○逐語的な授業研究をやっているところでは、音楽や家庭でも、研究校に残された資料は、ほとんど話し合いばかりの授業になってしまうとかいうことはあり得ないし、
 実技系や個人の活動のある算数・数学、グループに分かれる生活科や総合的な学習の時間などでも、カバーしきれないなどということはない。

 それこそ、授業記録とともに、
○録音、録画なども併用するとか、
○複数の教員に、異なる観点をもって記録をとってもらうとか、
○抽出児を中心として、学級内の人間関係を観察するとか、
とにかく、古典的(?)な方法に固執することなく、いろいろ工夫して、意義あるものにしようとする努力が大切だろう。

 ただ、同氏のブログでも、すぐ上の6行分のことはおっしゃっていると思うし、
 また、
『(音楽の授業で)音の聴こえるような授業記録も稀にはあり、その教師の気持ちが伝わってくるようでした。』
とあるから、まれには実技を大切にしての授業記録もあったということか。

 少し、ほっとした。

・なお、あとちょっと、2点だけふれさせていただくと、

○『子どもたちの音楽表現を説明する文章をつけると、「それは主観だ」と言われます。』とある。

 でも、いいのではないかなあ。主観だって。

 それだって立派に、授業研究には耐えうると思うけれど。ただし、その場合大切なのは、参会された皆さんの共感をいただけるかどうかだろうね。
 『主観だ。』と言って初めから排除するのなら、それは論外であろう。

 そうだ。ある過去記事にリンクさせていただこう。これは授業の記録ではないけれど、わたしの『主観』のオンパレードだ。

    感動の歌声に魅せられて!


○もう一点。

 『子どもたちに文章化させれば資料として価値があると言われても、私は現実的には、それはほとんど意味がないと思っています。』

 なぜだろう。

 わたしは、子どもの発言、子どもの文章などは、極力大事にする。だって、『まず子どもありき』の授業なのだもの。
 わたしたちは、子どもの言葉、子どもの文章にも感動するのではないか。

 そうか。『文章化させる。』というところに、ある意味合いがあるのかな。
 感動のないところで、「文章に書きなさい。」と言って書かせても、それは確かに、ほとんど意味はないであろう。


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 おそらく、吟遊詩人さんは、わたし、あるいは、読者の方への警鐘として、この記事を書かれたのでしょう。

 しかしながら、読者の皆さんはもうお気づきのことと思います。

 仮に、わたしの授業記録をマネしようとしたとして、マネしたとたんに、もう子ども主体の授業ではなくなってしまいます。

 だって、子どもは生きています。わたしの授業記録と同じように、どこのクラスの子どもも発言するなどということはありえません。したがって、教員主導でないとマネはできないことになります。

 わたしが、読者のみなさんに申し上げたいのは、そういうことではありません。たとえば、以下のようなことです。

・子どもを大事にするとはどういうことか。
・指導者の役目は何か。
・授業とは、どういうものか。
・etc.

rve83253 at 01:11│Comments(9)TrackBack(0)教員の指導力 | 教育観

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この記事へのコメント

1. Posted by かげちゃん   2011年03月07日 06:41
おはようございます。toshi先生。

貴方はご自分への批判が受け付けられませんか?

先生のブログを読んでいると、「理想の初任研ここにあり。」と言いたいのがよくわかりますし、ご自分のやり方に自信満々に見えます。

私から見ると貴方の教育に対するスタンスは「日本教職員組合」の考え方そのものです。

私は教育とは子どもにある程度強制しても、社会の一員としての規範を身につけて、必要な知識を授ける営みだと思います。貴方のスタンスとは正反対です。

「日本教職員組合」の考え方を肯定する方が、新採用教員の指導をする、はっきり言います。

日本のためになりません。このブログを「政治的な発信」ととらえています。
2. Posted by toshi   2011年03月07日 08:02
かげちゃんさん
 おはようございます。
《貴方はご自分への批判が受け付けられませんか?》
 いいえ。受け付けていますし、反省、お詫びの記事も書いています。勉強させていただいたという思いになることもしばしばです。
《先生のブログを読んでいると、「理想の初任研ここにあり。」と言いたいのがよくわかりますし、ご自分のやり方に自信満々に見えます。》
 そうですか。それはどうもすみません。
 しかし、本記事においても、初任者指導教員としての至らなさを書いていますし、わたしも含め、人間、常に修業中とも述べています。達人などいないとも述べさせていただきました。

 わたしは、日教組と同じ考え方ではないという記事も、いくつかありますよ。組合は、いわゆる『平和教育』の推進など、子どもにある程度、地域によっては強烈に、その考え方を教え込もうとしますし、したがって、子どもの思い、疑問などを大切にする我々とは、一線を画するものと思っています。



 
3. Posted by 吟遊詩人   2011年03月07日 19:11
コメント・トラックバックについては申し訳ありませんでした。また、過分なお褒めのお言葉にも預かり大変光栄に思っています。そしてこの記事からも学ばせていただきました。ありがとうございます。

いささか誤解があるようですが、私は先生の記事の批判をしたというよりも、触発されて積年の思いを書いたというのが本音です。私の方に書かせていただいたように私自身が重松先生の直系の日比裕先生に教えていただきましたので、授業分析へのこだわりが相当に強くあります。それで先生のように授業分析を紹介される記事には基本的に賛同感謝いたしています。ただ日比先生から世代が代わるとともに「古典的授業分析」という呼び方でその限界を言われることもあり、ちょっと残念な気持ちもしながら、確かに限界はあるなあと思っている次第です。
先生にご指摘された問題点については、実は私の勤めていた研究校での極端な「逐語的授業分析」への批判がこめられてしまっています。要するに完全な形骸化が行われていました。ですから、授業分析が悪いのではなく、その使い方が本末転倒になっているという悪い例をたくさん見せられて、そのようなことにならないようにという思いが文面に強く出てしまったのだと思います。もちろんその学校でも何度も資料提供や提案をして、本当の授業分析になるように努力をしました。(つづく)
4. Posted by 吟遊詩人   2011年03月07日 19:12
たとえば体育の授業で、寒い運動場で45分のうち30分以上も「話し合い」をしている授業を何度も見せられました。また子どもに文章を書かせて、そこから都合のいいものだけを取り上げて分析している様子も見ました。こんな授業や授業分析を見たら、たぶん先生もおかしいと思われると思います。

また「達人」などの言葉もこちらの地域でも一般には使われていません。ちょっと耳にしたことがあるのは「法則化」の関係者や教育雑誌のなかでそのような言葉を使っているのを見て、私自身疑問を持ったのです。しかし私の授業を参観した人に「ことばの使い方が絶妙だ」というようなことから「達人」めいたことを言われて面食らったこともあるということです。ただしそのような言葉を使う人がいないかと言うといたのも事実でした。

問題解決学習も日比先生に始まって研究校までずっと私につきまとってきました。ここで1つだけ思うのは、せめて音楽だけはこの言葉を使いたくないということです。私は、課題達成学習、と言いたいのです。問題意識を持つのは大切ですが、音楽は楽しくやりたいので、問題ではなく目標としてとらえたいと思うのです。あとは、推論や実証や事実の結びつきなどという細かい部分で、いろんな応用ができればと思います。

長々と書いて申し訳ありません。記事にするとまた先生をご批判しているということになると思いましたのでコメントにさせていただきました。(つづく)
5. Posted by 吟遊詩人   2011年03月07日 19:12
何より先生に私の記事のためにこうして記事を書かせてしまったのが大変申し訳なく思うとともに、心の中ではどなたも反応がないのでさびしいなと思っていましたら、先生にこうして書いていただいて、ものすごくうれしい気持ちです。

なんだか上のコメントにちょっと私とは違う感覚のものがあるようですが、私は、授業分析と組合運動とはもともと何の関係もないと思っています。私は教育に運動を持ち込むのは断固として反対です。

私の地域では公立学校はほとんど授業分析をせず、研究校は極端な形骸化をしていたという実態がありました。そういうなかで、教師になってから一貫して自己研修として逐語的授業分析に取り組み、しかも自分自身が授業者になれるというのは、本当によかったと思っています。

先生の記事でちょっとひっかかったのは「世界に冠たる」というところだけでしたが、授業分析そのものがもっと当たり前のように行われるようになればと思っています。

お詫びとお礼を心から申し上げます。誤解を招き申し訳ありませんでした。そしてこうして書いていただきありがとうございました。

本当に心からうれしいです。ありがとうございました。(おわり)
6. Posted by toshi   2011年03月07日 21:22
吟遊詩人さん
 いやあ、もう、このようなコメントをいただき、感激、感動、感謝の極致におります。なんか、もう、涙ぐむ思いで拝読しました。
 本記事を入稿するにあたっては、わたしとしても、いささか、緊張に包まれる思いがありました。それが、こうしたコメントをいただいたことにより、一挙にほぐれた思いでおります。ほんとうにありがとうございました。
 それにしても、わたし、かなりいろいろ、誤解したようですね。申し訳ありませんでした。お詫びします。
 一番お詫びしたいのは、吟遊詩人さんの思いと御地の教育風土と勤務された学校の研究の姿勢と、それらをごっちゃにして論じてしまったなということでした。吟遊詩人さんの思いは、このコメントをいただいたことによって、痛いほどよく理解することができました。
 ですから、《こんな授業や授業分析を見たら、たぶん先生もおかしいと思われると思います。》については、もう、ほんとうにおっしゃる通り、授業分析のために授業があるような姿は、まさに主客転倒ですよね。音楽に生きる吟遊詩人さんとしては、忸怩たる思いだったこともたくさんおありだったのだろうなと思いました。

7. Posted by toshi   2011年03月07日 21:22
《せめて音楽だけは(問題解決学習という)この言葉を使いたくないということです。》
 はい。これも、なんとなく(すみません。なんとなくでは、申し訳ないですね。)理解することができます。)記事に書かせていただいた体育の校長にしても、地域がらこの言葉をつかったものの、やはり同じ思いではないかなと推察しました。
 わたしも若かったころ、ほんの数年でしたが、音楽部に所属していたことがあります。そのとき、講師の先生からよく言われたのは、『おんがくは音を学ぶのではありません。音を楽しむのです。』ということでした。
《授業分析そのものがもっと当たり前のように行われるようになればと思っています。》
 そうですね。まったく同感です。それとともに、授業分析が子どもの成長に奉仕するものであることが、何より望まれますね。
 最後に再度お礼申し上げます。ほんとうにありがとうございました。

8. Posted by JPM   2011年03月10日 20:56
授業分析については、授業以上に奥が深いのではないかという変な感覚になることもありますが、授業を改善する上で必要不可欠ですよね。

吟遊詩人さんもtoshi先生も、広い意味では同根だなぁと感じました。もし、かげちゃんさんが少しでも教育や社会科について学ばれている方なら、重松鷹泰先生や日比先生の名前で、日教組とは違うことがわかるでしょう。
9. Posted by toshi   2011年03月10日 22:01
JPMさん
《吟遊詩人さんもtoshi先生も、広い意味では同根だなぁと感じました。》
 いやあ。ある意味、ほんとうにそうなのです。わたしは驚いたのですが、わたしよく昭和20年代の亡父の実践や考え方を書かせていただいていますよね。亡父はそのころ、重松鷹泰先生の指導を受けているはずなのです。
 わたしは親不幸でしたので(ごめんなさい。)、亡父の指導を受けたということはないのですが、めぐりめぐり何代かの先輩を経て、わたしも指導してもらったかたちになるのです。
 わたしが50代のとき、ひょんなことでその系譜に気づかされました。奇跡のように思ったものです。
 授業分析についてはおっしゃる通りと思います。授業者であっても、参観者であっても、分析して分かったり気づかされたりすることはほんとうにたくさんあります。

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