2011年08月05日

孫と過ごした一日は、 〜通信票の記載をめぐって〜

syun2 夏休みも中盤にさしかかったある日、次女は用事があり、わたしが一年生の孫と二人で一日過ごすことになった。
 家に着くと、孫が一人で留守番をしていた。お母さんは出かけたばかりとのこと。ああ。ちょっと来るのが遅れてしまった。

 テーブルには、
「〜。A(孫)には学校の宿題をやるように言ってあるので、宿題をみてくれたらうれしいです。」
と書きおきがあった。しかし、孫は一向にやる気配なし。
「おじいちゃん。将棋、やろう。」
 孫の気の向くままつきあって、一日が過ぎた。(でも、くわしくは後述するが、まったく宿題をやらなかったわけでもない。)

 夕方、次女が帰宅。
 一瞬、宿題をしていないということで、ムッとした表情。しかし、わたしの手前(?)もあってか、はたまた、孫はゲームに熱中していることもあってか、そのことについては何も言わずに、話題は別なところへ。
「通信票をもらってきたけれど、なんか、よく分からないのよね。『あんな通信票じゃあ、意味ないね。』ってお母さん方みんなで言ってるの。たとえば、むかし、わたしたちが子どものころは、教科ごとにAとかBとかついていたでしょう。それが今は、全然ないのよね。
 また、細かな項目がいっぱい並んでいるけど、だからどうなのって言いたくなる感じ。」
 わたしはただただ苦笑いだ。

 そこで、まずは講釈をたれた。

・通信票の中身は国が定めた評価項目、評価法等に基づき、各学校が決めていること。
・学校が行う評定(各教科ごとにA、B、Cをつけるなど)は、2000年ごろ、相対評価から絶対評価に移行したこと。つまり他人との比較ではなく、目標に照らしてどこまで達成したかを示すようになったこと。
・それと同じ時期、低学年では評定を行わないと、国が決めたこと。つまり、国語はAとか、算数はBとか、そういうつけ方はしないとしたこと。また、3年生以上でも、むかしのような5段階評価ではなく、3段階としたこと。(なお、中学校は5段階)
・娘が言った各教科ごとに3〜7項目くらい並ぶ『〜ができる。』『〜意欲的に取り組んでいる。』などは観点別学習状況といい、これも、目標に照らして、その実現状況を観点ごとに評価し記入していること。
 「十分満足できる」と判断されるものをA、
 「おおむね満足できる」と判断されるものをB、
 「努力を要する」と判断されるものをC、
(ただし、多くの学校は、《◎、〇、△》などの記号で表記していると思われる。)のように記入している。
と、まあ、そんな講釈をたれていたら、

「でも、そんな大ざっぱじゃあ、何にも分からないよね。それに、わたしの子どものころは、もっと先生が書く文章がたくさんあったよね。教科ごとに書いてあったし。」
 娘は、担任が学習状況などを文章表記する『所見欄』がほとんどないことに強い不満を感じているようだった。

 いつの間にか、娘は孫の通信票をとり出し、見せてくれた。確かに、学校生活全般にかかわっての所見欄が一つあるだけ。これはさすがのわたしも、さびしさを感じた。
 わたしは、拙ブログに、通信票文例集を4回にわたり掲載しているが、そうしたことを書く欄すらないのでは、通信票のうえでは、担任の先生の子どもへの愛情が伝わってこないし、ひいては、学校と保護者との信頼関係の構築という意味でももったいないように思われた。
 しかし、これは学校が決めることであるから、実情は様々であろう。

 「まあ、物足りないのはよく分かる。でも、何も分からないということもないだろう。所見欄が少ないのは確かにさびしいが、観点別学習状況の『◎』や『〇』からは、どんな観点をすばらしいと担任がみているか、それくらいは分かるのではないか。」
「うん。まあ、そうだけれど、でも、そうかあ。今は、『他の子の多くはできるのに、うちの子はできない。』とか、その逆とかは分からないのかあ。」 
「それは確かに分からないね。今は、国も、それぞれの目標に照らして達成しているかどうかが分かればいいとしているわけで、B(娘)が言っているのは、他人との比較だからね。
 でも、いいではないか。自分の子が何を得意としているか、それが分かるだけだって。・・・それに日ごろの生活をしっかり見ていれば、それだけでも、けっこういろいろなことが分かるものだぞ。」

 そうして、今日一日の孫の様子と、そこから分かったことなどを具体的に話すことにした。


〇まず、朝、書きおきがあったが、前述のとおり、孫はまったく宿題をやろうとはしなかった。そこで、おじいちゃんも、
「宿題はしなくていいのか。」
と声を出したが、それも無視されてしまった。
 したがって、この段階では、観点別学習状況の《意欲》について、まずは多くの教科に《△》がつくかな。そう思った。実際の通信票に《△》はなかったけれどね。

〇ところが、少したつと様子が違ってきた。
 車のおもちゃを出して遊んでいるうちに、車を船に見たてたのかな。
「船でも描いてみましょうと、お猿が船を描きました。」
と調子よく言い出す。国語の教科書に載っている詩の一節だ。

 わたしは、『おおっ。』とばかり楽しくなり、調子を合わせた。
「なんだか少しさびしいと、しっぽを一本描きました。」
と続ける。すると、孫は、『おじいちゃん。教科書の詩、知っているんだ。』とばかり、うれしそうに笑い出す。そして、今度は、孫の方が続けた。
「ほんとに上手に描けたなと、さかだち一回やりました。」
「すごい。教科書の、お猿さんの詩、全部覚えているのか。」
「うん。覚えてるよ。だって、おもしろいじゃん。お猿さんが絵を描くなんて。・・・。おじいちゃん。さっき、おじいちゃんが言ったのちょっと違ってるよ。」
 あらら。孫に間違いを指摘されてしまった。

 確かに、この詩は、子どもたち、好きだ。わたしが担当している初任者Cさんのクラスの子たちも、休み時間、突然、音読でもするかのように、言い出す子がいたっけ。調子もいいしね。

 それで、
「国語の教科書見せてよ。おじいちゃん、少ししか覚えていないから。」
すると、さっそく見せてくれた。おじいちゃんが教科書を開けると、孫は、得意になって詩を全部暗唱し出す。
「ほんとうだ。すごい。全部完璧に覚えちゃってるね。それに、ただ覚えているだけではない。上手だよ。読み方が。」

 しばらくたち、気づくと、孫は、絵の具や筆を取り出して、絵を描いていた。すごい。今度は、絵を描くお猿さんに刺激されて、自分も絵を描きたくなったか。ちゃんと子どもなりの脈絡があるのだ。ただ無意味に絵を描いているわけではない。
「おじいちゃん。これ、なんだか、分かるう。」
「うん。何だろう。池かな。」
「池じゃないよ。海だよ。ほら、これはヒトデ。」
「うわあ。ヒトデか。そうか。お猿さんは船を描いたけれど、Aちゃんは、海とヒトデを描いたんだ。」
 わたしはほんとうに楽しい気分になった。そして、どうして、どうして。学ぶ意欲は、一気に《◎》になったなと感じた。
syun2
 そう。そう。そうした流れのなかで、実は算数の宿題もやり出したのだ。宿題のプリントをわたしに見せるので、それを見ながら出題し孫が答えるというかたちになったのだけれどね。

〇お昼を食べに、車で町へ出た。マクドナルドへ行きたいという。ハッピーセットというのがあり、それにつくおもちゃが新しくなったばかりなのだとのこと。なんだ。おもちゃ目当てなのか。
「おじいちゃん、そのお店、知らないよ。案内してくれるか。」
「うん。いいよう。ぼくが通っていた幼稚園のそばだよ。」
 これがくるい始めだった。

 わたしは、幼稚園目指していけばいいのだなと思い、出ると、
「ちがう。道が反対だよ。お父さんはそっちへ行かない。」
と言う。おかしいな。反対に行ったら幼稚園からは遠ざかる。

 それで、細かなやり取りは省略させていただくが、一連のやり取りと目指すマクドナルドへ行くまでの経過のなかで分かった孫の学力は、

・距離感はまったくダメだ。幼稚園のそばどころか、1キロメートルくらい離れていた。
・でも、国道の向こう側という意味では合っている。
・途中、右とか左とか言ってくれたが、これはすべて正解だった。
・話しているうちに、マクドナルドは国道沿いだと分かったので、カーナビで国道方向に向かったら、なんと、そこは立体交差になっている。
「うわあ。だめだ。国道はあんな上だよ。入れない。」
すると、
「大丈夫だよ。バックして、向こうに行けば、行けるよ。」
という。これも正解だった。
 でも、それなら、『何で、さっき、幼稚園のそばなどと言ったのだ。』と、これはカゲの声。

 ところで、
 一年生は、生活科で地図を書くことがありうる。(『ある。』とは書かない。だって、そんなのが学習内容として決められているわけではないからね。)
 一年生の書く地図は、だいたい、距離感や東西南北は無理だ。ただ、目的の場所に着くまでの順序性と右、左の感覚が合っていれば、それでオーケーだ。だから、実際地図を書いたわけではないが、話のやりとりからすると、この辺の学力はまあまあといったところか。まあ、《△》も一つだけあったけれど、総合的にみれば、《◎》と《〇》の境目くらいの力はありそうだ。

〇車で走りながら、マクドナルドまでの案内をしてくれたわけだが、途中、一か所道を間違えた。それで、大まわりをして、再度差しかかったわけだが、そこでの孫とのやり取りを再録しよう。
「おじいちゃん。ここを左へ曲がるんだよ。」
「いや。違う。ここはさっき左へ曲がった。そうしたら、国道はものすごく上の方にあって、それで、Aちゃんが、国道に入れる道を教えてくれたけれど、マクドナルドはなかったでしょう。だから、ここはまっすぐ行くよ。」
「違うよ。ここを左に曲がれば行けるんだよ。行けるって言ってるじゃん。」
「だめ。さっき曲がったんだから、行けない。」
「行けるよ。」
 最後は強硬に言い張る。

 直進してしばらく行くと、
「ああ。そうか。おじいちゃん。これでいいんだ。ぼく、さっき、間違えちゃった。」
明るく、素直に、自分の間違いを認めた。その態度がとてもかわいらしく、我が孫ながら、好感がもてた。
 『おお。いいぞ。間違いを素直に認めることができるのは、・・・。これも立派な学力だ。』
 だって、学習指導要領道徳には、低学年の項に、『うそをついたりごまかしをしたりしないで,素直に伸び伸びと生活する。』とあるのだからね。ただし、《◎》とか《〇》とかはつけない。だって、道徳は、教科ではないのだもの
 

 そう。学習指導要領まで持ち出すのはオーバーとしても、日ごろの生活のなかで分かる学力、感じる学力。それは間違いなくある。

 わたしは、職業柄、微に入り細に入り書かせてもらったが、保護者の皆さんにしても、たとえバクゼンとはしていても、お子さんの学力のほどをうかがい知ることのできる場面はあるのではないか。それを前向きに、明るく受け止め、子どもをほめ、励まし、やる気になるような評価(ああ。また、商売根性が出てしまった。)をしてやりたいものである。

 我が子だものね。


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 以前、娘に言われたことがあります。
「もう、おじいちゃんたら、孫にはまったくあまいんだから、・・・。わたしの子どものときとは大違い。」
 すみません。やっぱり、孫となると、責任がないからね。

 いや。歳をとり、子育て、教育のなんだかが分かるようになり、客観的にみられるようになったからかもしれません。今なら、いい子育てができるのではないか。でも、もう、今度は、体力がもちません。うまくいかないですね。

 その、いい子育てに含まれるかどうかは分かりませんが、我が孫は、『宿題をしなさい。』などと真正面から言うと、強烈な拒否反応を示すようです。しかし、自然なやり取りにゆだねると、けっこう意欲的にもなるのですね。
 『のせる』というか、『気づいたら、宿題をやっていた。』というか、その呼吸、間合いにポイントがありそうです。


rve83253 at 21:56│Comments(15)TrackBack(0)保護者 | 子ども

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この記事へのコメント

1. Posted by ゆっこ   2011年08月12日 15:17
ほほえましいですね
私以外の同窓生は、ほぼ教員ですから、同じような話を聞きます。

特に息子の孫より嫁の孫の扱いが難しいらしく
かつての恩師から「ヘルプ」の電話が来たり・・・
「えぇ?先生ならお手のもんでしょう」
「いや、孫となると別物だよ」

特に福島では教員の子の不登校が半端なく多いんです。
何度か書いてますが、被災教師は被災者扱いされず、
家族だけ避難して自分は計画避難区域に勤務など激務
そこで祖父母に教育を委ねるのですが・・・

問題抱えてる子たちのおじいちゃんがtoshi先生だったらいいのにね
2. Posted by toshi   2011年08月13日 07:31
ゆっこさん
 《息子の孫より嫁の孫の扱いが難しいらしく、》
 あらあ。そうなんですか。わたしは娘2人なので息子はいず、ちょっとその辺は分からないのですが、けっこう娘の子どもでも、気軽に付き合わせてもらっています。それで孫は3人とも男子ですので、これまた、新鮮なふれ合いとなっています。女の子と男の子は幼いときからかなり違うものだなというのが実感です。あくまで我が体験に即しての実感ですがね。
 《福島では教員の子の不登校が半端なく多いんです。》
 ほんとうに、被災地のことはいつもゆっこさんから教えてもらっていますが、悲惨ですね。でも、家族別々というのは教員に限らずだと思うので、よけい気が滅入ります。こういう点では、地震、津波被害に加え、原発事件がさらに事態を深刻にしていますね。
 原発を推進してきた国、技術者は、原発周辺から放射能を除去し、人々が居住できるようにする技術を早急に開発する義務があるのではないでしょうか。
3. Posted by ゆっこ   2011年08月13日 11:21
]娘がヨメになってましたね。失礼^^;

toshi先生の体験・実感
こういう小さな(1人の)つぶやきに共感して、悩みから脱却できる現職、少なくないと思います。
守秘義務に縛られ、つぶやけない・相談できない先生って多いですから。

この夏休みも、県外避難に躊躇し残ってる親子の、期間限定受け入れをしています。
休みが終わればまた戻るのですが、津波孤児のように里親として方針も責任も一任して頂ける場合と違い、親が健在で、しかも教員家庭の場合、婆(祖父母?)になったようで気を遣います。
なにしろ外遊びや宿題をやる習慣を付けようとしている時に、ゲームソフトが届くんです
日頃の激務を知るだけに、休みぐらい、研修だ付き合いだを置いといて、わが子と向き合えばいいのに・・・と思うのですが、その指示を出せる立場の人も、やはり不登校の子を抱えていたり、精神疾患を患っていたり・・・
内部被爆検査よりもストレスチェックで強制休養させた方が、のちのち機嫌よく教育に専念できる気がします
4. Posted by 消耗品   2011年08月15日 01:13
3段階で所見欄も少ないとなると、親も本人も不安になると思います。特に勉強が苦手な子の場合、本人も親も。私は勉強が苦手な子ばかりが集まる高校をあちこち転々としてきましたが、多くの教員が「何度説明しても理解してくれない。どこからわかっていないのかわからない。そういう生徒にどう教えたらいいかわからない。」と嘆く同僚を多く見て来ました。(英語の場合、文法的な事は中学から始めるので、他教科と比べると、生徒がどのあたりから理解していないのかが比較的わかりやすいのですが。)
実際学期の終わりに貰う通信簿は3〜4カ月の学習具合を総合して出した成績です。出来ない子(私もそうでした。)の場合、何が得意というものではなく、全体的に悪いけれども、〜は比較的マシな方かな?といった感じなのです。たとえば算数を例に挙げますと、得意ではないけれど計算問題は比較的マシかな。でも分数は全然わからないし、先生の言っている意味がわからない。本人で自己分析できるのはここまで。なぜ理解できないのか分からないことでしょう。親には「先生の話を聞いていないからだ」と怒られる。親もその子が何故理解できないのか、どこから理解していないのか分からないと思います。おそらく個別指導でもすれば、この子がどこからわかっていないか、わかるはずです。(ですが、その時間すら無い保護者が多いですね。)たとえばこの例の場合、掛け算九九を暗唱できていない、割り算もできない、まずはここから押さえなければと。これが1学期間の3〜4カ月ですから、わからなくなっている範囲も相当広がっているはずです。しかもここで挙げたのは算数一教科だけです。他教科も同様の事が言えると思います。
5. Posted by 消耗品   2011年08月15日 01:15
その膨大な範囲の中でその子が理解していないこと、学ぶべきことは相当あるはずです。それが3段階評価で所見無し。どの教科も70点以上取るような子ならまだいいと思います。ミスした30点を学習すればわかることですから。しかし、20点30点の子はどうでしょう?
もう10年以上前からですが、うちの近隣の自治体では小学校も中学校も定期テストは非常に簡単なものをよく目にします。大学時代、勉強が出来ない子が通う「補習塾」の講師をしておりましたが、彼らは「学校のテストは勉強しなくてもその場で考えれば点数が取れるテストなんだ。よく見ると答えがあちこち書いてあったり、クロスワードパズルみたいなゲームであったり。勉強しなくても80点取れる。」
私どもの時代では在り得ないものでした。
6. Posted by 消耗品   2011年08月15日 01:16
ここまでは出来ない子を例に挙げましたが、以下は出来る子の例です。
何年前だったか、当時昼間は高校で非常勤講師、夜間は塾の講師をしておりました。塾では高校受験を控えた3年生を担当しました。その子が入塾した当初、保護者の方がこう言いました。「うちの子は英語だけが成績が良かったんです。学校のテストも毎回90点以上。でも3年になって模試を受けたらボロボロなんです。もう夏休みだし何とかこの子を助けてやってください!」その塾は個別指導だったのですが、なるほど、文法的な事は基礎の基礎から中途半端の状態でした。I my me mineやbe動詞から教えました。
この例の場合、教科は英語ですし、中途半端でも知識がある程度あったから3年間分の埋め合わせもなんとか間に合いました。しかし、他教科はどうでしょう?小学校まで遡って、できない要所要所を押さえることは、あの短期間では不可能であったかもしれません。親はもちろん本人すら、自分ができないことに気付かなかった例です。
テストも良い点を取っている、通信簿も良い、所見欄、特になし、このまま中3まで来て全国模試で親子そろってショックを受ける・・・

実際に私が見た例です。
7. Posted by 消耗品   2011年08月15日 01:51
そして、全教科総合して出来ない子が私の勤めるような学校に来ます。
そして同僚たちは「何度説明しても理解してくれない。どこからわかっていないのかわからない。そういう生徒にどう教えたらいいかわからない。」と嘆くのです。
以前にも小中高を分けることに疑問を感じている旨を書きましたが、あれは生活指導面だけでなく、教科指導も含めて述べました。
小中高連携が取れ、細かな情報も共有できれば、小中高、どの段階においてもリカバリーしやすくなると思うのですが。
私が勤めるような高校には、こんな子もいました。
ある放課後、3年生の就職の面接指導で、ある生徒が遅刻してきました。彼は「腕時計を忘れたので遅れました」と言いました。私は「でも教室で待機していたんだから教室の時計があるよね。見なかったの?」と聞くと「見ました。」と答える彼。
「じゃあなんで?読めなかったのか?」と聞くと何も答えない彼。もしやと思って時計を指して「今、何時何分だ?」と聞くと、うんうん唸って何も答えられません。そうです。彼はアナログ時計が読めなかったのです。彼の腕時計はデジタル時計だったので、デジタルであれば時計も読めるわけです。では彼は小学校から今までどうやって生活してきたのか聞いてみると、給食の時間や授業の時間は長針と短針の位置関係で「給食の時間だ」「2時間目だ」と判断してきたそうです。高3までアナログ時計を読めないまま生きてきたのです。おそらく親も彼を受け持ってきた担任も知らなかったのでしょう。知っておれば、これはマズイと、すぐ教えたはずです。生きていく上で非常に大切なことですから。
話が纏まりませんが、通信簿やテストを見ると、ふとそういった出来事を思い出します。
8. Posted by toshi   2011年08月15日 17:59
ゆっこさん
《日頃の激務を知るだけに、休みぐらい、研修だ付き合いだを置いといて、わが子と向き合えばいいのに》 いやあ。ほんとうにそうですよね。ふつうのときとは違うのですから、ゆっこさんがいつもおっしゃるように、家族がそろってすごしてほしいもの。教育委員会もそのくらいの気配りはしてほしいですね。 
9. Posted by toshi   2011年08月16日 06:15
Aさん
《3段階で所見欄も少ないとなると、親も本人も不安になると思います。》
 わたしも、現職のとき、所見欄はすごく大事にしてきました。ですから、その裏返しとして、そうした保護者の気持ちはよく分かるつもりです。
 あと、もう一つ。仮に、所見欄が豊富にあるとしても、今は、『できていること、長所』しか書かないと一般的に信じられてしまっていることも問題でしょう。信頼関係があり、愛情をもって、子どもが意欲的に、やる気になるように書いてあるのであれば、『できないこと、短所』の記載もかまわないはずなのですが、そうは受け取られていないようです。

 すみません。以下、Aさんのコメントはあまりにも問題が大きく、どこからお返事しようかと困惑してしまっていますが・・・、

 感じたのは、これは小学校教育の問題と深くかかわっているなということでした。九九が言えない高校生、時計が読めない高校生。間違いなくこれは小学校低学年段階でのつまづきです。Aさんがおっしゃるように、小学校段階で誰もそれに気づかなかった。あるいは、気づいても手を打たなかった。その結果でしょうね。
10. Posted by toshi   2011年08月16日 06:16
 初任者指導をしていて思うことの一つに、『ああ。あんな指導では、理解力のある子しか分からないだろうな。』ということがあります。ですから、わたしの初任者指導では、『どの子も分かる授業の創造』が柱の一つとなります。それをより具体的にいうと、『理解力の乏しい子も、ある子もともに活躍できる授業の創造』となります。
 その場合、指導者は子どもに説明するのではありません。子ども同士が学び合おうとする気運を盛り上げその活動を支えるのです。拙ブログで紹介している授業はそういうものばかりです。
 この双方がうまくいけば、高校段階において、前述のようなことはなくなるはずといった思いがあります。少なくとも、九九が言えないとか、時計が読めないとかいった高校生がいる状態は、小学校教育の失態と言えるでしょう。
 わたしには、指導者が教え込もうとすればするほど、それに対し、心の壁をつくってしまう子どもの姿が目に浮かびます。
 Aさんからいただくコメントでも、本コメントではあまり心の壁の問題にふれられず、実態把握と個別指導があればとおっしゃっているように感じますが、これまでいただいたコメントからは、心の壁の問題を強くおっしゃっているように感じていました。
 いずれにしても、ツケを高校に回しているようで、申し訳ない思いが強くあります。
 
11. Posted by 消耗品   2011年08月16日 14:07
心の壁は常にあらゆる状況で障害となっております。
そして例に挙げた出来ない子の場合、小学校の頃からずっと蓄積されてきた劣等感、コンプレックスが高いハードルとなっている気がします。これらが入学前からモチベーションも奪っております。
「出来ない子」というより「落ちこぼされてきた子」と言った方が正確かもしれません。

また、高校だと学力が一定だと思われがちですが、そういった学校の中でもかなりの個人差があるのです。上記に挙げたような時計の読み方や掛け算九九、言葉、漢字の知識、歴史、地理の知識(ヨーロッパが国だと思っている子や九州が県だと思っている子もおります。)、自分の住所も分からない子、それぞれどの部分の知識が大幅に欠落しているかに大きな個人差があります。学力以外に常識、モラルに関してもです。
その他、経済面、家庭状況、、、、、
高校でも依然としてあらゆる面において格差が存在しております。それらを把握する手段として個人指導は適していると感じました。逆にそういった事を把握せずに、45人みんなが分かる授業、自発的に活動する授業はできないとも思いました。
12. Posted by 消耗品   2011年08月16日 14:56
学力等の大きな個人差に関して、生徒同士で学び合う空間の中にも心の壁を見ることがあります。

A「そんなこともわからないのかよ!これは以前習った〜と同じように」

B「〜って何?」

A「・・・・・・」

そしてBは省かれた状態になり、Bは学習を諦めてしまう。さらにここでも劣等感を植え付けられます。
高校までの間に個人個人の格差は時を隔てた分だけ広がってしまったのかもしれません。
13. Posted by toshi   2011年08月17日 09:28
Aさん
 わたしは、どの子も伸びる授業づくり。学級づくりを目指してきました。今の初任者指導も、もちろんそういう考え方で進めています。
 学力に違いがあるのは当然のこと。しかし、それが劣等感につながったり、モチベーションを奪ったりすることにつながったりしないように、学級経営に力を尽くしてきました。
 わたし、よく言っているのですが、もともと跳び箱7段跳べる子が、やっと5段跳べるようになった子の喜びを共有できるような、そういう学級をつくらなければなりません。
 Aさん、そうした記事が過去にあります。そのURLを、本コメントのtoshi欄に貼りつけました。よろしかったらご覧ください。
 こういう学級づくりを広めていければなあと思っています。
14. Posted by 消耗品   2011年08月17日 22:41
管理人様
今は現職ではないため、果たして私の勤めて来たような高校の教育困難校でそのような学級経営ができるかどうか分かりませんが、高校であってもそのような人間関係を構築できる学級は理想の姿であり、担任であれば試みてみたいと思いました。ただ、どうすればそれが可能性を帯びたものになるか、現時点で過去の経験を思い返す限り、全く具体的な方策が見えてこないのです。
また、私は今まで褒めることにウェイトをおいてきたわけでもなく、逆に叱ることにウェイトをおいていたわけでもなく、ケジメをつける事にウェイトをおいてきました。すると必然的にああいった学校では叱る機会が多くなります。あれをやっている限り生徒たちが主体的に学び合ったり喜びを共有できるような環境は作れないのかもしれないと、記事を読みながら感じました。ただ言い訳かもしれませんが、問題行動のレベルが高校の教育困難校では、即やめさせなければならない緊急性のあるものが多いため、本気でぶつからなければならないケースが多いのです。


話はずれますが、
自分が、おもいっきり憎まれ役になることでクラスや集団が悪い意味で一致団結、仲良く纏まることは比較的簡単なことですが、、、いじめも同様のパターンがありますね。
お互いを思いやる集団作りは難しいですね。学年が上がるほど。これも言い訳になってしまうかもしれません。
15. Posted by toshi   2011年08月18日 16:46
Aさん
 わたしは現状において、教育困難な高校に、こうした教育はできないだろうと思います。ほんとうに申し訳ないことだと思っています。
 鉄は熱いうちに打たないと、かたまってしまいますものね。
 それだけに、小学校教育が大事なのだと痛感しているのです。小学校教育が何を目指さなければいけないか、それを申し上げたつもりです。

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