2011年08月14日

ひびき合う学校、学級、学習へ(1)

syabondama もう30年近く前になる。わたしの勤務するA小学校は、『一人ひとりの子どもの心の豊かさを育てるための学級経営の研究』に取り組んだ。目指す姿は、『ひびき合える学校・学級・学習』であった。

 今、手元に、そのときの研究紀要がある。その紀要についての、ある先輩の言葉が忘れられない。
「よその学校の研究紀要は、いくらいいなと思っても、ポイントになるところしか読まないけれど、toshiさんの学校のこの研究紀要は、初めから最後まで、一気に読んでしまったよ。そのくらい引き込まれてしまったな。」

 わたしにとっても、この紀要は、『心の財産』といっていい。今、初任者指導に携わっていられるのも、このころの財産があるからだと強く感じる。
 今、その一部を紹介させていただこう。

『〜。
 わたしたちは、どの子も目を輝かせ、喜んで学校に来られるようにしたい。そうした学校には、子どもの期待感があり、充足感があるはずだ。
 大事なのは、
・一人ひとりの子どもが主体的に物事に取り組む。
・困難なことにも立ち向かうなかで、自己実現を図る。
・他人の心の痛みが分かる心を育む。
 それらを自分自身の力で成し遂げようとする、そんな子どもの育成である。

 これまでの研究で、子どもたちは確かに意欲的に学ぶようになってきた。授業中よく発言するようになり、学習に活気が出てきた。無気力な子どもの姿は影をひそめるようになった。
 しかしながら、自己の想いを主張しようとするあまり、自己表現が強すぎて、他の存在を認めようとしない激しさもみられるようになってきた。それは、学習の場でも生活の場でもみられる。

 わたしたちは話し合った。
 自己実現、自己確立は、まずは、自己を主張することによって図られる。それは第一段階としては確かに大切であろう。そして、それはかなり実現するようになった。
 しかし、そこから、新たな課題が生まれる。
・相手の考えにもじっくり耳を傾けること。
・他の存在を自分にとり込むこと。
 これからの第二段階としては、それらを図る必要がある。それができて自己の変容があるのだし、自己実現、自己確立は、その先にあるのではないか。そして、真の自分らしさといえるものになるのではないか。

 他の存在を自己のなかにとり込もうとするとき、『ひびき合い』が生まれる。お互いがお互いを啓発し合い、磨き合っていくときに、心の豊かな子が育っていく。
〜。
 ただ、ここで重要なのは、『ひびき合い』とは、他を認めることではあるが、やみくもに自分の考えや自分の立場を修正していくことではないということだ。そこがあやふやだと、他に付和雷同することにもなりかねない。
〜。
 学級経営を正面にとり上げ、しかも心の豊かな子の育成をテーマに掲げた今、あまりにも研究の範囲が広いことにぼう然とする思いもある。
 学校教育目標の見直し、全体構造の明確化、子どもの内面に沿う学級経営のあり方、道徳教育の充実、週ごとの学級経営の反省記録、保護者や地域とのかかわりの深化など。
 どれをとっても、心の豊かな子を育てるには不可欠だ。
〜。』
 


 本日の紀要の紹介は以上とさせていただこう。今、読み返しても、約30年前とは思えない。きわめて、現代的な課題を述べているようにも思える。
 こうしてブログを運営させていただいている今、大人も同じだ。お互いに切磋琢磨し、より確かな自分を創り上げていくこと。そのことの大切さは痛いほど感じている。


 さて、本シリーズの初めにあたり、本記事では、研究の中身について2つ、また、軽いエピソードを1つ紹介させていただこう。
 

その1

 上述の研究内容。それらは、もちろん、教員同士話し合って研究の一環としてやっていこうと決定したことだ。そのなかの反省記録については適宜学級経営研に提案、より充実した学級経営にするための話し合いをした。
 今、そのなかから思い出深い話し合いを紹介させていただこう。とは言っても、すでに過去記事にあるので、再掲させていただく。
 リンク先記事をご覧くださる方は、その後半、かなり長い空白行をとった後の『ここで話を変える。』からがそれにあたる。
    学級経営の研究へ 問題解決学習の問題点(5)
 
 それでは、ちょっと長い『再掲』に入るが、どうぞ。



 〜。
 ある若い担任(中学年だったと思う。)が、学級経営の反省記録をもとに、研究会で報告、指導を仰いだことがあった。

 その内容の大まかは、
「学級のKちゃんのことで悩んでいる。Kちゃんは、よくわたしに甘えてくる子で、ちょっとしつっこいなと思うこともある。特に問題視するほどではないが、必ずしも友人関係がうまくいっていない。
そのKちゃんが、作文で、わたしに質問し、返事を求めてきた。でも、わたしはどう応えたらいいか、よく分からなかった。分からないままこのように書いたのだが、この返事でよかったか、不安に思っている。そこで、今日は、先生方にお教えいただければと思う。」

 作文には、友人関係での悩みが書かれていた。そして、末尾は、『仲良くしたいのだけれど、仲良くなれない。先生。どうしたらいいの。』というような内容だった。

 それに対する、講師の先生(他校の校長)の指導が忘れられない。
「このKは、先生に、認めてもらいたいのだ。先生と信頼関係で結ばれたいのだ。大好きな先生に、受け止めてほしいのだ。
 だから、わたしなら、こういう返事は書かない。

 先生が書いた返事は、『こういうとき、こうしたら、仲良くなれるのではないかな。がんばってごらん。』というように、理屈で答えている。でも、Kは、先生に、理屈で応えてほしいわけではない。
 先生が言うように、Kは先生に甘えたいだけなのかもしれない。なんか満たされないものがあるのかもしれない。
 だから、『先生は、Kちゃんのこと、心に留めているよ。今日は、相談してきたからうれしいな。確かに心配だね。でもね。Kちゃんはやさしいところがあるから、先生は安心しているよ。これからも、何でも言ってきてね。』そのような返事になるだろう。
 つまり、理屈ではない。情緒に訴えるのだ。心を満たしてあげたいのだ。
言外の意味を汲み取るように努めよう。」

 なるほどと思った。それからというもの。わたしも情緒的な会話を多用するようになった。
すると、子どもの表情、しぐさ、言動などが明らかに変わっていった。もともとにこにこはしていたが、度合いが明らかに変わっていった。
 子ども同士の人間関係もより豊かになった。それによって、発言する子も、ぐうんとふえ、ひびき合う授業といった感じになった。

 ああ。上に、『情緒的な会話を多用』と書いた。しかし、すぐ、『情緒的な会話を楽しむ』ようになった。



 再掲は以上だ。

 この記事にあるように、理屈でなく子どもの情感に訴える。

 リンク先記事にはざっと書いただけだったが、この研究会が終わった後、A小の授業がおおいに変わった。
 
 ああ。でも、ごめんなさい。『おおいに変わった。』といいながら、以下は、変われずに失敗した事例である。みんな、大いに反省したのだった。


 その2

 道徳の授業だった。低学年の授業で、『しあわせの王子』のお話をとり上げていた。
 この授業の最中、Bちゃんが、いきなり上半身、服を脱ぎ始めた。そして、何とはだかになってしまった。
 研究授業なので、他校から講師の先生もお見えである。わたしも含め、参観中のA小教員は、みんなハラハラして見守った。
 隣りの席のCちゃんも、
「Bちゃん。どうして服を脱いじゃうの。みっともないでしょう。早く着なさい。」
と注意したが、いっこうに効き目がない。

 担任のDさんも内心こまっただろう。しかし、見て見ぬふりをして授業を進めた。
 お話の場面が変わると、Bちゃんは服を着始めた。一同ほっとした。

 
 さあ。読者の皆さんは、ここまでで、何かお感じになりましたか。

 このときのA小教員は、わたしも含め、誰一人、Bちゃんの行動の意味が分からなかった。

 あとの研究討議の場で、講師(先ほどとは別の校長)の先生がおっしゃった。
「先生方。今日の授業で一番活躍したのは、授業で発言こそなかったですけれど、服を脱いではだかになったBちゃんではなかったでしょうか。
 先生方はお気づきでしたか。なんで、Bちゃんがはだかになったか。研究授業の最中にはだかになるなんてこまった子と思っていなかったですか。
 Bちゃんがはだかになったのは、お話のなかの幸せの王子さまが身につけた金箔を脱いでいった、ちょうどその場面で話し合いをしていたときだったのです。きっと王子様と自分とを重ね合わせていたに違いありません。・・・。」

 ああ。講師の先生のお話はまだ続いたのだったけれど、わたしは、もう以後の話はまったく記憶にない。ただただ、感動、後悔、恥ずかしさ・・・そんな思いが錯綜していたようだ。

 それからというもの、わたしも含め、A小の教員は、理屈だけでなく子どもの情感を大切にするようになった。


その3 

 この研究を進めていたときの校長と教職員とも、ひびき合った。
 上記リンク先記事にも書いたように、校長先生は、全教員の週案に朱書きでお返事というか、校長としての想いというか、必ず魅力的なコメントを書いてくださった。

 週案が返される月曜日は、楽しい光景が職員室で見られた。
 机上に置かれた週案をそっと手にとり、わずかに開いては、中をのぞき込むようにして校長の朱書きを読む教員がけっこういた。
 誰かが、その光景を見て、
「もう、まるで、学期末、通知票を受け取る子どもみたいだな。」
と言った。ひびき合いは楽しかった。

 それから、しばらくして、校長先生は入院された。数が月の安静治療を要するとのことだった。
 職員室に、上のような光景は見られなくなった。教員一同、さびしい思いをしていることがよく分かった。
 わたしはそのとき教務担当。誰から頼まれたというわけではないが、教頭先生にお願いをすることにした。
「〜。というわけで、教頭先生。どうか、一人ひとりの週案に、朱書きを入れてくれませんか。」
「ええっ。わたしがかよ。・・・。いいよ。遠慮する。とても、校長先生のようには書けない。」

 口ではそうおっしゃったが、なんと、翌週から書いてくださったのだ。すぐお礼を言いに駆け付けたが、教頭先生は恥ずかしそうだった。
「あんなもんでいいかあ。先生方の学級経営をそんなにみれているわけではないから、むずかしかったよ。」
「いいえ。ほんとうにうれしいと思いますよ。先生方は。・・・。ここ数回は、一方通行のさびしさを感じていましたから。」
 校長不在時の教頭はほんとうに大変なのだ。わたしは、教員に対しても、
「忙しい教頭先生が書いてくださったのだ。校長先生のときと同じように、そおっと開けて、終業式の日の子どものように、胸をときめかせて読めよ。」
と冗談を言った。職員室の教職員は、ますますひびき合っていった。


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 しあわせの王子様のお話におけるBちゃんの活躍は、なにやら、前記事における、我が孫のお絵描きに似ていなくもないなと思いました。

 ほんとうに、子どものやることに、意味がないことはありません。それに大人が気づいて上げられるかどうか、それは、子どものより良い成長にとって、実に大切なことだと思います。


 しあわせの王子では、わたしにも思い出があります。低学年のときでした。当時は学芸会といっていましたが、この劇をやったのです。
 わたしは市会議員の役。セリフはたった一つでした。それは、
「こんなみすぼらしい王子の像など、我が町の恥だ。さっさと取り壊してしまえ。」
 かすかな淡い思い出です。

rve83253 at 21:18│Comments(6)TrackBack(0)教員の指導力 | 教育観

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この記事へのコメント

1. Posted by M・K   2011年08月15日 23:52
以前、コメントさせていただいた香川県で教員になることを目指している宮崎です。今は1次試験を無事に通過し、2次試験に向けて勉強中です。
私自身が、生徒の気持ちや考えを大切にしたいと思い教員を目指していて、自分が教員となったときどのようなことができるかを具体的に考える中、行き詰ってしまって再びここにヒントをもらいに伺いました。するとこの内容でしたので非常に参考になりました。
こどものちょっとした行動から何をもとめているのかを考え、気持ちで接するというのでしょうか、心の温かさで触れ合う大切さを学べました。個性を認め、のばすためにもこういう心で触れ合う大切さを感じました。
これを参考にしっかりと自分の教員像を深く掘り下げて考えていこうと思います。
2. Posted by toshi   2011年08月16日 06:31
宮崎さん
 一次試験を通過されたとのこと。まずはおめでとうございます。続く二次試験も無事突破されますよう、祈念しています。
《こどものちょっとした行動から何をもとめているのかを考え、気持ちで接するというのでしょうか、心の温かさで触れ合う大切さを学べました。個性を認め、のばすためにもこういう心で触れ合う大切さを感じました。》
 おっしゃる通りです。あと、子ども同士で学び合い、高め合っていくといった気運を盛り上げることが大切といえるでしょうか。
 ただね。いくら努力しても、子どもの内面は分からないままとなるのが多いのです。分かったつもりで修正を余儀なくされることもあります。
 それでいいのだと思っています。
 決定的なのは、はなからそういったものに関心を示さない教員と、関心を示しつつも分からないままで終わってしまったと悔やむ教員とでは、結果はものすごく違ってくるだろうということです。
 後者は、分かる(感じる)こともあるわけですし、そういう努力をしているうちに分かる(感じる)ことはふえていくわけですからね。
 どうぞ、無事突破され、教員になられた暁には、あせることなく、地道に、着実にあゆみ続けられますよう、そういう意味で、がんばってくださいね。
3. Posted by ゆっこ   2011年08月16日 17:06
朱を入れるって、気分いいです♪
自分の能力も人柄も試されてるから緊張もします。

先日、中学生の職業体験を受け入れ、日誌に毎日コメントしました。どの職場でもやってるのかと思ったらウチだけでした。
toshi先生のいう響き愛が職場に生まれました。事前に配慮すべき生徒の情報がなかったので、生徒の字や文章から予想。その子に合った仕事に挑戦してもらえました。
(学校では支援員がついてた子も2人いました。ホンネは、よく事故を起こさず終われたものだとホッ。個人情報云々と弁解してましたが・・・)

いずれ、やりっぱなし・やらせっぱなしでなく、確認・激励の「朱」は大切だと思います。学校の中だけでなくて。
4. Posted by toshi   2011年08月17日 00:18
ゆっこさん
 《響き愛》
 ああ。いいですね。この言葉、30年前にいただいておけばよかったなと、今、思いました。
《事前に配慮すべき生徒の情報がなかったので、》
 それはちょっとまずいですね。まる投げみたいで。子どもたちへの愛。ほんとうにありがとうございました。
5. Posted by minami   2011年08月17日 12:47
toshi先生、こんにちは。

情緒的な会話を楽しむこと、素敵ですね。
子どもは理屈ではないですもんね。
「いいもんはいい」「だめなもんはだめ」そういう教育も、とっても必要だと思います。それが受け入れ合える関係をつくることも、教師にとっては大切ですよね。
もっともっと、情緒的な会話をゆったりと楽しめるような余裕が、先生方には必要ですね。
6. Posted by toshi   2011年08月18日 16:42
minamiさん
《「いいもんはいい」「だめなもんはだめ」》
 これが通用する師弟関係、親子関係でありたいと思います。
 そう言えば、宮台真司氏が『日本の難点』のなかで、利他的な者がそういう関係をつくれるのだと言っています。これも教育に身を置く者として、心したいものだと思いました。
 

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