2011年09月04日

小学一年生の孫をめぐって(2) 絵の見方

PAP_0032 本タイトルの(1)は、もう2年前になってしまった。我が長女の長男にかかわる記事だった。そして、今回は、次女の長男にかかわる話となる。

 どちらの記事も、我が娘たちにとっては、喜ばしい話ではない。子育てに関してわたしから注文ばかりつける感じで、そんな記事を掲載するのは申し訳ないと思う。
 でもね。娘2人をダシにして、多くの読者の方にお考えいただければ、それはそれでいいのはないか。そんな思いで、今回も、
「絵の見方についての話は、多くの保護者が関心をもっている話題だと思うので、許してちょうだい。」
とお願いし、まあ、しぶしぶ(?)了解してもらった。
 ごめんね。

 さて、この夏休み、孫の家で孫と2人で過ごす日があったことは、『先にもふれさせていただいた。』

 この日は、まだ次女が家にいるときに到着した。テーブルの上には、大きな画用紙に描いた孫の絵が置いてあった。それを見るなり、わたしは、
「うわあ。すごい。いい絵だなあ。これは滝を描いたのだね。」
「うん。夏休みにお父さんとお母さんと行ったの。大きな滝があったんだよ。」
「そうかあ。すごいよ。この滝の思い出が頭の中につまっているんだね。滝の水がたくさん、いかにもワアッて流れ落ちている感じでダイナミックだ。それに、滝のまわりの緑も、みんな同じ緑色じゃなくて、いろんな緑がつかわれているね。あっ。緑じゃないところもある。これは岩かな。」
 孫はうれしそうにはしていたが、当惑の表情もあり、言葉にはならなかった。

 さて、娘と2人だけになったとき、娘まで、当惑顔で言う。
「お父さん。あの絵、そんなにいいのう。」
「おお。いいよう。しっかりと描けているし、たくましさを感じる。あの滝の水の流れ落ちるところなんか、水の量感まで感じられて、しっかり描けていると思ったよ。」
「そうかあ。わたし、『何、これ、ざつねえ。描きなおしたら。』なんて言っちゃった。」
「ええ。それはこまったね。まったく反対になっちゃった。」
「そう。だから、Aは、おじいちゃんにそう言われて、すごくうれしそうだった。・・・。でも、わたし、子どもの絵って、どう見たらいいのか分からなくなっちゃった。」

 娘は、かたちよく、ていねいに描いた絵がいい絵と思っているようだった。

「うん。そうむずかしく考えることはないんだ。子どもの絵って、どこかほめるところを見つければいい。絵の見方が分からないと思っても、自分が感じたままを口に出してほめてやればいいのではないかな。分かる、分からないよりも、感じたままを大事にする。たとえば、
・人物が大きく描けているね。
・すごい。ワッていう感じで力強さを感じるよ。
・何人も人物が描けていて、しかも、一人ひとりがみんな違った表情や動きをしているね。すばらしい。
・色をたくさん使って描いているね。
・とってもていねいに色がぬれているよ。
など、とにかく感じたままでいいのだ。たとえば、子どもって、何人人物を描いたとしても、みんな同じ格好で同じ顔で、まるでコピーのようになってしまうんだ。そういう絵が多い。だから、みんな友達なのに、一人ひとり違った人物を描いていたら、これはもう、うんとほめてやっていい。
 しかし、逆に、多くの絵と同じように同じ格好で同じ顔だったら、今度は、それをけなすのではなくて、何か別な、ほめる観点をさがすようにすればいい。
 とにかく、今、ここにいるのは我が子と親である自分だけなのだから、自信がなくったって自信ありげにほめればいいよ。それが絵を好きにさせる一番の方法だ。
 客観的に見て下手な絵だとしても、親ならやはりほめる観点を見つけるようにしたい。
 

 そして、一つの思い出深いエピソードを語った。

 1年生担任のときだった。Bちゃんの絵は、すべて水色だった。水色一色だった。しかし、その水色はしっかりぬれていることは確かだった。わたしは、Bちゃんに聞いた。
「ごめん。何を描いたのかな。分からない。」
「水泳をしているところだよ。プールなの。」
「ふうん。でも、泳いでいる人がいないね。」
「今ね。ぼくも友達もみんなもぐっているの。もぐっているから見えないの。」
「そうか。もぐっているのか。なるほど。」
とは言ったが、わたしも、それをいったいどう評価したものか。正直のところとまどいがあったことは否めない。でも、とにかく先ほども述べたように、色がしっかりぬれていることは確かだったから、その点はほめた。

 そして、他にも水泳を描いた子は何人もいたから、それぞれお話をしながら、その動きだとか、表情の豊かさとか、ことさらほめるようにした。学級の子全員に言っているのだから、当然、それは、Bちゃんも聞いている。
 その後、Bちゃんの絵にとまどいを感じたことはない。人物もしっかり描くようになった。

 さて、次女との話に戻ろう。わたしが、『子どもの絵って、どこかほめるところを見つければいい。』と言ったのに対して、
「だけど、わたしが子どものとき、そんなふうに絵をほめてくれる先生なんかいなかったよ。みんな、『ここは、こう直しなさい。』とか、『こうよくないから描き直しなさい。』とか、そんなふうに言われたことした思い出せないもの。」
「そう。それは分かる。わたしも若いころは、絵の見方って正直のところよく分かっていなかった。40代になって、わたしの勤務した学校が図工の重点研究をするようになって、それからだな。『とにかく子どもの絵は、どこかいいところを見つけてほめるようにしよう。』と思うようになったのは。
 そして、どこがどうすばらしいのか、一人ひとりの絵をほめるようにした。その評価はクラスの子全員が聞くわけだから、『ぼくは、わたしは、Cちゃんの絵のマネをしよう。』と思うようになるだろう。その積み重ねによって、学級全員の絵がすばらしくなっていった。」
「だけど、わたしなんか、Aの描く絵しか見ていないもの。」
「Aの教室に行ったとき、絵が貼ってあったらよく見ればいいじゃん。我が子の絵だけじゃなくて。
 あっ。だけど、よその子が描いた絵とくらべるためじゃないぞ。あっ。『この絵はこう言ってほめればいい。』そんなことを感じながら見るようにすればいい。
 もっとも、この夏休みの絵は、親の手が入った絵もいっぱいあるだろうから、参考にならない可能性もあるね。」
 最後は冗談のようになってしまった。

 さて、ちょっと話題をそらすが、
 この、『どの絵もどこかいいところを見つけてほめる。』ということ、小学生にしか通用しないなと思ったことがある。

 それは、長女が高校生のときだった。長女が、自分が描いた自画像の絵を持ち帰った。よく本人に似ているし、しっかり描けているし、感動した。それで、
「すごい。さすがだ。高校生ともなると、こんなすばらしい絵を描くのだね。いやあ。よく描けている。」
自分が子ども時代絵を苦手としていたこともあって、そんなふうに言ったら、
「いやだ。お父さん。高校生が描く絵って、こんなもんじゃないんだよ。わたしなんかすごい下手な方だよ。みんな、表情も豊かに描けるし、色も複雑で微妙な感じをよく出して表現するし、うまいんだよ。高校生が描く絵を知らないから、そんなふうに言うんだよ。」
 まあ、そう言われてしまうと、確かに、高校生が描く絵を見る機会などないし、分からないから黙るしかなかった。それにそう思っている高校生にいくらほめても、効果などないことを実感させられた。

 小学生の場合、親にも教師にもよく言うのは、『他の子の作品とくらべるものではありません。くらべるならその子が以前描いた絵とくらべてください。そうすれば、どこかよくなった点が見つかるでしょう。』 ということだが、もう、高校生ともなれば、親や教師がそんなことを気にするまでもなく、本人がしっかり友達とくらべてしまっていることもよく分かった。


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 最後に書いた、、『他の子の作品とくらべるものではありません。くらべるならその子が以前描いた絵とくらべてください。そうすれば、どこかよくなった点が見つかるでしょう。』ですが、これについては、わたし、失敗経験があり、それを過去記事に載せています。よろしかったご覧ください。
 下記リンク先の中ほど、『このとき、わたしの学校は、図工の指導法の研究をしていた。わたしは1年生の担任だった。』からが、それにあたります。

    『長所、得意』を伸ばす

 もう一つ。娘にも紹介したのですが、『子どもの絵の見方』で検索にかけると、けっこういいものが見つかるように思います。関心のある方はやってみてください。

rve83253 at 17:51│Comments(13)TrackBack(0)評価観 | 保護者

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この記事へのコメント

1. Posted by 消耗品   2011年09月05日 02:51
実は私、絵と字は今でもコンプレックスなのです。字や絵が汚い事に対し、子供のころ「もっと真剣にやらないから」「集中していないから」「慎重にやらないから」と叱られたものです。

そんな私でも一度だけ絵で賞状を頂いた事があります。しかし、実を言うとそれは私が描いたものではなく、先生が描いたものだったのです。校内写生会の時でした。校庭で校舎の絵を描いていたのですが、先生が来て
先生「空を見てごらん?本当に青?」
私「う〜ん、白かな」
先生「白?」
私「薄いねずみ色かなぁ」
先生「そうでしょ。じゃあ、薄いねずみ色で塗ろうよ」
私「でも、どうやったらその色出るの?それに絵具もこれしかないし」(当時、絵具セットは全員に同一の物を渡されておりましたが、それを使わなければいけないというわけでもなく、それぞれが各自自慢の絵具セットを持ってきておりました。絵具の色が豊富なものや、ひとつひとつの量が多い物、その他大きなパレット等・・・私は色の数も一番少なく、大きさも小さくて量も少なく、パレットも小さいもの、これもまたコンプレックスでした。思うに私は子供のころからコンプレックスの塊でしたね。)

先生「この色はね、この色とこの色を混ぜて・・・」先生は自前の絵具でその色を作りました。
先生「じゃあ、これで塗ってみて」と言って、その場を離れる先生。
私は言われた通り、その色を使って空を塗り直すのですが、やがて色を使い果たし、どうしたらよいか分からなくなってしまい、絵を放り出して鉄棒の方へ遊びに行ってしまいました。
2. Posted by 消耗品   2011年09月05日 02:53
それを見た先生が、また私の所に来て
先生「どうして遊んでるの?もう終わったの?」
私「もう色がなくなっちゃった。」
先生はまた絵具を出し、今度は私に色を混ぜさせて、その色を作らせました。
そして、空の色を塗り終えると、今度は校舎を指して、「本当に校舎はこんな色をしてる?」と聞いてきました。
「してない。」
そして先ほどの空と同じように、先生がその色を作ってくれました。
たしかにこんな色はしていないのですが、その色は何色と言ったらよいのか、今でも分からないような微妙な色・・・先生もこの色を作るのにかなり苦戦しているようでした。そしてそうしているうちに先生がその作業に夢中になっていくのを子供ながらに感じ取りました。先生はその色を作り出すと、私の描いた校舎を塗り始めたのです。真剣に。もう夢中でした(笑)私はそれを不思議そうに見ておりました。先生が授業や私たち以外の事に夢中になっている姿を初めて見たからです。絵心のカケラも無い私の汚い、崩壊したような絵をどこまで修復できるか私も興味があったし、先生もそのことに夢中でした。
先生が我に返ったのは本当に最後の仕上げごろでした。私は先生が一生懸命描いた作品を壊さぬよう、慎重に残りわずかな部分を仕上げました。

そして、その絵が賞に選ばれ、廊下に張り出された時、嬉しいやら恥ずかしいやら訳の分らぬ気持ちになりました。真実を知っているのは私と先生だけです。
思うに私の頃は、その年齢に合わせての絵の忠実性、どれだけ現物に近く描けたかを求められていたような気がします。
絵に限らず字もでしょうか。どれだけ対象物に似せて再現できるかといった感じでしょうか。
3. Posted by 消耗品   2011年09月05日 02:55
習字も習っていたのですが、一向に上達しないのです。習字教室では私だけ皆と違う課題をやらされました。皆は先生の赤字で書かれたお手本を見ながら、それを練習するのですが、私に限っては、そのお手本を赤色が見えなくなるまでなぞってから、練習させられたり・・・
どう言ったらよいのでしょう・・・模写する能力、物を見て、その画像を記憶して、白いキャンバスにあった縮尺で、見たままをなるべく忠実に再現する能力が欠けていると言ったらよいのか・・・
これが私にとっては、字も絵も同じようにあてはまる気がするのです。
習字や絵画だけではなく、授業中のノートも。よく「ノートはきれいに、丁寧に書くように」と言われましたが、たとえば算数の時間、円や直線を描くことが多いですが、定規を使わないと綺麗に書けないのです。綺麗にどころか、まともに描けないのです。円はおもいっきり楕円になったり、ふにゃふにゃ酷く蛇行した線になったり。
私は高校になっても選択科目で書道(ただし、ペン習字が中心)を選択しましたが、自ら字が上手くなりたいと思って選択したぐらい、やる気もありましたし、真剣にやっていたのですが、ダメでした。
大学卒業間近に、ある教職科目担当の先生から「あなたはペン習字を習った方がいいです。」と言われましたが、この時はもう完全に諦めておりました。
4. Posted by 消耗品   2011年09月05日 02:58
小学校の絵と言うと、もうひとつ思い出す事が夏休みの宿題の絵です。

私が小学生時代、夏休みの宿題に、夏休みの思い出の絵を描く宿題がありました。私の家は貧しく、父も会社人間で月に一度休みがとれるかどうか。家族旅行などはほとんど行った事がありませんでした。よって朝のラジオ体操は皆勤賞、夏休み中のプールも皆勤賞、これは実は僕にとって恥ずかしい事だったのです。プールもラジオ体操も皆勤ということは夏休みにどこにも連れて行ってもらえなかった事を意味するのです。そしてそれはイコール貧乏と馬鹿にされることでもありました。
特にお盆あたりのプールなど5人いるかいないかの寂しい物で、先生が「〜時まで自由に遊んでいなさい」と言って、僕らは少人数で広いプールを貸し切り状態。しかし、喜ぶ気も起きません。人数が少ないから盛り上がらないし、お盆に田舎にもどこにも行かず、学校のプールにいることが虚しかった。休憩時間、プールサイドで寝そべって蝉の声を聞いていると「今頃〜ちゃんは伊豆に行って、カブトムシでもいっぱい獲っているんだろうな。帰ったら自慢するだろうな。」といったような思いが次から次へと浮かんでくるのです。そしてこのお盆が終われば夏休みも終盤、夏休みの思い出の絵の事が気がかりになるのです。「今年もどこにも行けずに夏休みが終わるだろう。そしたら一体何を描けばいいのか?」と。
5. Posted by 消耗品   2011年09月05日 03:00
小2の2学期の初めに提出した時のことです。私は先生に呼ばれ、私の絵を見ながら「本当にあなたの見た海はこんなものだったの?」と怖い顔で言われました。私は「ハイ」と答えました。すると先生はその絵を私に見せながら「こんなところにクジラがいたの?じゃあ、これは何?タコ?本当にいたの?サメが本当にいたの?」私は何も答えられませんでした。夏休みの思い出の絵と言えば、皆、海か山の絵を描いておりました。しかし、私はどこにも行っておらず、思い出と言えばプールとラジオ体操ぐらい。しかし、それを描くわけにはいきませんでした。小さいながらもプライドはありました。そして、海に行ったことにして、想像上の海を描いた結果がそれでした。海と言って連想される物を何でも構わず描いてしまったのです。皆の前で叱られるし、クラスの皆からは笑われ、馬鹿にされる、苦い思い出となりました。ですからお盆時期の人のいないプールにいると、その苦い経験が思いだされ、今年はどうするか悩んだものです。
6. Posted by 消耗品   2011年09月05日 03:29
私の思い出話を勝手に長々と書いてしまいましたが、ひょっとすると

>「だけど、わたしが子どものとき、そんなふうに絵をほめてくれる先生なんかいなかったよ。みんな、『ここは、こう直しなさい。』とか、『こうよくないから描き直しなさい。』とか、そんなふうに言われたことした思い出せないもの。」

私と同じ時代に同じような教育を受けられていたのかもしれませんね。
ちなみに私は昭和50年生まれ。第二次ベビーブーム世代です。

当時、褒めて伸ばすという姿勢はあまりなかったようにも感じますし、むしろ注意されたり、叱られてばかり。子供としては褒められたいから頑張るといった感じでした。ただ、頑張っても結果が出せなくて褒められない時、逆に叱られた時、「世の中、結果が全てなのか・・・・」と思ってしまったものです。そして、私の場合、いつしかそれは失望や挫折につながりました。
こういった事が、その後、大人になってからも影響しているように思うのです。
7. Posted by ゆっこ   2011年09月05日 10:44
絵ほど いいとこ探しできるものはない♪

よく母の日とかにスーパー主催でずらっと掲示されてますね。
園ごとにコピーしたかのような同じ色・同じ描かせ方
こういう指導して恥ずかしくないのかなあと思います。
反対に へたうま?個性的な絵を堂々と出品する園。
指導が入っていない!と批判する先生もいるそうですが。

夫が「チューブの色だけで描かない。必ず何か混ぜる」
と娘たちに指導していました。私はこの指導は1度もなし。
しかも延々と描かせてる。何時間も何日も。
学校では1か2時間で提出させられるので、描きたいように描けないのだと。ちまちました絵で消化不良。
家だと完全燃焼できると、楽しそうに描いてました。

絵心のある先生に担任されるかどうか運ですね。
ほめてもらえるかも運。

だけど運がなくてトラウマになったと気付いているのでしたら、自分の分も対数的に♪大袈裟なくらい
子どもたちを ほめてあげてほしいなぁ
8. Posted by toshi   2011年09月06日 04:38
Aさん
 Aさんや我が娘に限らずだと思います。日本という国の教育の恥ずかしい部分は、まさにこれだという気がしています。ほめないのですよね。そして、『ああしなさい。こうしなさい。』ばかりが横行します。わたしの子ども時代はもっとひどく、『toshiは絵が下手だなあ。』と、教師が平気で言っていました。これで、好きになるはずがありません。苦手意識は、こうしてつくられるといっても過言ではありません。
 また、絵に限らず、図工、体育、音楽など、その点みな共通していますね。
 ただ、我が地域は、ここのところ急速に変化し、好ましい、《ほめる教育》中心になりつつあると思います。その大きな理由の一つは、国際理解教育の広がりにあるのではないかと思っています。と言いますのは、外国人講師は、ほんとうに、よく子どもをほめるのですね。一授業時間に、十回以上はほめる言葉かけがあります。
 子どもにしてみれば、あるがままの姿を大事にしてもらえ、それぞれが自分の持ち味を発揮するなかで伸ばしていけるという、いい循環が始まりつつあると思います。
《こういった事が、その後、大人になってからも影響しているように思うのです。》
 はい。その通りと思います。苦手意識はそのままトラウマになっているといっていいでしょう。そして、それが次世代へも大きな影響を与えます。この悪循環はどこかで絶たないといけませんね。
9. Posted by toshi   2011年09月06日 05:59
ゆっこさん
《絵ほど いいとこ探しできるものはない♪》
 わたしも初任者にはそう言っています。どんな絵もほめる観点を見つけることができるようになってほしいと。その見つけた観点や子どもの興味・関心(これも指導者の指導力が強く関係してきます。)によって、子どもがどこまで伸びるかが決まるのだと。
《へたうま?個性的な絵を堂々と出品する園。》
 それでいいのです。いや、そうでなければいけないのです。『指導が入ってない。』などというのは、言葉が違います。『指導者が思う方向に子どもを引っ張っていない。』と言うべきです。別な言い方をすれば、『子どもの個性、持ち味、発想などを大切にしての指導をしている。』ということになりますね。
 よい教師に恵まれるかどうかは運ですが、その場合はせめて親くらいは理解してあげないと・・・、子どものためにはそんな思いになりました。
 わたしの立場でこのようなことを申し上げるのはほんとうに申し訳ないことです。


 
10. Posted by 消耗品   2011年09月08日 00:28
自分たちがこういう教育を受けて、こんな風になってしまったのだから、同じ事は繰り返してはいけない、という事が大切だと思います。
学校に限らず、あらゆる社会で必要だと思います。

「自分たちがこうやって厳しく絞られたのだから、おまえたちにも同じようにする」こういった風潮はさまざまな組織で見られます。私の部活でもそうでした。
私が主将になった時「伝統を大切にするのは良いけれど、悪いところは改めなければならない」と、それまでの悪習をすべて廃止しました。予想はしておりましたが、OB、OGから猛反発、批判を受けました。それでも曲げませんでしたが。現在になっても部の方からOB,OG会の出席・欠席の葉書が来ますが、一度も参加した事は有りません。
全体主義の日本で、私のような者は、子供の頃からはみ出し者になりやすいです。
よく遠まわしに個性的だとは言われますが。
出る杭は打たれる、という言葉があります。
おそらく私は出る杭です。出る杭は(出方の度合いにもよるかもしれませんが、)打たれるというより、引っこ抜かれることが多いです。(ここをいつもご覧になられている皆さんもお気づきの事と思います。私の発言を不快に思われる方、申し訳ございません。)
11. Posted by toshi   2011年09月12日 19:50
Aさん
 ごめんなさいね。いつも、《我が地域では》と書いていますが、今回もまた同じになってしまいます。
 我が地域は改革おおいにけっこうといった感じです。悪しき慣習はなくさなければなりません。ところが、教員社会はけっこう慣例主義なのですね。そうした対立はないわけではないですが、あくまでその時だけのこと。通り過ぎれば、もうわだかまりなく仲良くやっています。もちろん、個人の問題に属する部分はまた別なものがありますが、まあ、体制的には大丈夫です。出る杭。大いにけっこうではありませんか。
12. Posted by モニママ   2011年10月02日 09:35
学校でまともな美術指導を受けるというのは、今は難しい気がします。
学校教育は評価をつけるので
・色使い(多色、混色)がされているか
・丁寧に描いてあるか
・指示通りの描き方がされているか
など、素人目にもわかる技術的観点で評価することになってしまうようです。
構図など知識を要する部分は評価につながらないことが多く、ましてや描く意義、伝えたいことなど、芸術的部分については…。
教育系の学芸員としては思うところはたくさんあります。
子どもには自由に描かせたいです。
技術や指示を守る受身なことより、本人の自主性、動機、趣旨が重要だと思いますから。
水色一色の絵。心底から誉めてしまいそうです。
13. Posted by toshi   2011年10月02日 10:48
モニママさん
《学校でまともな美術指導を受けるというのは、今は難しい気がします。》
 はい。自分が教員でありながら認めざるを得ないのは、ほんとうに申し訳ない思いです。我が地域は比較的子どもの想い、発想を大事にする風土をもっていると思うのですが、それでも絵となると話は別といった実践が多いように思います。
《子どもには自由に描かせたいです。技術や指示を守る受身なことより、本人の自主性、動機、趣旨が重要だと思いますから。水色一色の絵。心底から誉めてしまいそうです。》
 もうおっしゃる通りと思います。自由に描かせ、後はほめる、感動する、そんな言葉かけによって、どれだけ子どもの力を伸ばせるかということでしょう。
 かく申すわたしにしても、水色一色の絵は、ほめることはほめても、心底からとはいきませんでした。今、改めて励ましていただいた思いがしています。ありがとうございます。
 考えるまでもなく、『自由に・自主性・動機・趣旨など』、こういったことは、絵に限ることなく教育全般にわたり大事にしなければいけないと思います。

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