2011年10月16日

自分の親が一番好き!! 他

kodomo4 前記事にいただいたゆっこさんのコメント(2番)は、いたくわたしの心を揺さぶった。言いたいこと、書きたいことがどんどんわき出て、新たな記事を書きたくなった。
 そこで、本記事では、ゆっこさんからのコメントに刺激された部分を思いのままに書き連ねたいと思う。

それでは、どうぞ。

◎みんな自分の親が一番好きなんですね。安心して「親」にチャレンジして頂きたいです。

 そうだ。その通りなのだ。未来の保護者の皆さんにおおいなる『安心感』を抱いていただけるはずなのに、また一番大切なことなのに、わたしはそれを書き落してしまった。どうも申し訳ありませんでした。

 さて、ゆっこさんのコメントに大いに共感できるのに、ちょっとニュアンスの異なることを書かせていただこうと思う。それは、以下のようなことだ。

 被災された方々、またそうした方を迎え入れて共に暮らしている方々は、やはりその体験があまりにも悲惨だったために、大変ナーバスになられているなと感じ、胸が痛むのを覚えた。
 というのは、わたしたちは日ごろ、親子の愛情、心の通い合いをそんなにも意識して暮らしているだろうか。それは空気みたいなもので、ふだんはほとんど意識していないのではないか。

 しかし、悲惨な体験をしてしまった人々は、何かというと、親子の愛情を確かめずにはいられなくなっているのではないか。同コメントにあった自分の親が一番と思う気持ちの裏には・・・、
 これはわたしが、被災した子どもたちの気持ちを想像するのだが、
『立ってもいられない大きな揺れに遭遇し、安住の地であるはずの大地が安住ではなくなってしまうのではないか。』
『いつか、あの大津波に自分も巻き込まれてしまうのではないか。』
 そういう恐怖心が、小さな、小さな胸のなかにわき上がる。それが、切実に親の愛を確かめることにつながっているのだ。
 親も大変だが、どうか、あたたかく子どもを包み込んでほしい。その思いには切なるものがある。
kodomo5
 同コメントからは、ゆっこさんが(親の愛が薄くて)かわいそうにと思ってしまう子どもたちも、自分の親が一番と思っている状況がうかがえた。(ゆっこさん。ちょっと意訳してしまいましたが、そんな認識でいいのでしょうね。)

 そうなのだ。だからといって、『親の愛は薄くったってかまわない。』などとはまったく思わないが、でも、そういう目にあっている子どもでも、切羽つまれば、『親が一番』の思いを自然に言葉に表す。だって、やっぱり自分の親がたよりだもの。親はかけがえがない存在だもの。

 その一方で、そういう目に遭わなかった人たちのことも考えてしまう。

 大多数の子どもたちは今も安住の世界にひたっている。だから、先述のとおり、親子のきずななどほとんど意識することはない。あらためて確かめ合う必要もない。そういうなかでは平気で自分の親を批判したり反抗したりすることもある。

 でもね。これは安心し切っていることのあかし。

 だから、未来の保護者の皆さん、また、多くの現保護者の皆さん。ゆっこさんがおっしゃるように、みんな自分の親が一番好きなのだ。安心して「親業」にチャレンジしていただきたいとわたしも思う。

  
◎同時に、暴力や育児放棄されてる子もいるわけで、学校で早く見つけて、いっぱいの愛情を注いであげたいですね。

 ほんとうに、今も暴力(虐待)や育児放棄の報道がなされると、わたしは胸が痛むのを覚える。いや。職業柄だろう。その種の報道を見聞きするだけで、すぐ胃が痛くなってしまう。

 暴力や育児放棄をする親に対してはもちろんだが、この種の事件を防ぐことのできない地域社会、また、学校に対してむっとした感情をいだいてしまうのだ。胃が痛くなる原因は後者の方が大きいかもしれない。

 この種の事件が起きるとよく地域の方へのインタビューがテレビに出てくるが、『そこまで分かっていたのなら、なぜ事件になる前にしかるべきところへ通報しなかったのか。』という思いになる。また、学校、幼稚園などにしても、評論家的な物言いをされる例が多く、これもちょっと無責任ではないかと感じてしまう。
 今という時代は、ベストを尽くしてもこの種の事件を完全になくすことはできないだろう。それは理解しているが、それでもやはりベストは尽くしてもらいたいものだ。

 あまりに子どもがかわいそうだもの。

 わたしが現職のときも、勤務校でこうした事例はあった。しかし、地域社会も親身になってその家族とかかわったし、学校もしかるべき機関や地域と連絡をとり合い、家族ともかかわるなかで少しでも子どもが救われるように対処したつもりだ。

◎学力や協調性を培う場から、保育園代わりの養育の場へと、少しずつ地域の要望が変わって来ているような気がします。

 これも、納得だ。時代とともに学校の役割も変わらざるをえない。子どもをとり巻く環境が学校に変化を要求する。
 学力をつける。大変けっこうだ。それが学校の最大の責務。いつの時代も変わらないだろう。

 このことに関し、わたしがブログを始めさせていただいた6年前、驚くべきコメントが入ったことがある。ある教員からだった。大意、次のようだった。
kodomo6 「学校で、『学力をつける。』やら、『心をはぐくむ。』やら、何もかもやろうとしても無理があると思います。『学校は学力をつけるところ。心をはぐくむのは家庭でやるべきこと。』そのようにしないと、学校で何もかもやろうとしても、それはけっきょく虻蜂取らず。失敗に終わるでしょう。」

 この方の、学力と心を見事に切り離す考え方には恐れ入ってしまった。おそらく学力というものを、単に記憶して覚える知識・技能とみているのだろう。そう。単に覚えるだけなら、心はあまり関係ないものね。
 しかしね。学級というところは集団だ。少なくとも1年間はともに過ごす。そうした場で学ぶ以上、学級集団の心をきたえることなくして、学力をつけることは不可能だろう。早い話が、学級崩壊している学級では、せまい意味の学力さえつくわけがない。
 それに、ゆっこさんがおっしゃる協調性は、家庭より学校の方が適しているよね。

 そうではないだろう。『学力をつける。』のと『心をはぐくむ。』のとは車の両輪のごときもの。ともに育んでいかなければ効果は上がらない。

 『養育の場』。そう。それが新たにつけ加わることになった。でもね。必要となれば当然ではないか。

 わたしにとってこれは今に始まったことではない。もう30年前になる。わたしのクラスではなかったが、朝食をほとんど家でとらず(とれず)、授業中もよく居眠りする子がいた。
 そう。わたしにとって小学生の居眠りをみるのは、この子が初めてだったね。

 この子の担任は、よく職員室で朝食をとらせていたっけ。そうすると現実に元気になるものだから、担任以外も自然に協力するようになった。

◎小さな命を失わせないように・・・

 これも、学校が『養育の場』的役割をもつようになった一つの事例だろうか。親の虐待を防ぐ役割も担うようになった。
 
 我が勤務校で、警察の青少年育成を担当する部署の方にお越しいただき、研修をつんだことがあった。そのときの、その方の言葉で忘れられないものがある。
「でも、よかったではないですか。小学生になるまで生きることができたのですもの。少なくとも、親に殺されることはなかったわけですから。」

 わたしは、コンビニ弁当をふつうのお弁当箱につめ替えるのも親の愛情という記事を書かせていただいたことがある。
    『生活科の成長単元』
 となれば、この話は『殺さなかったのも親の愛情』という、すごい話になる。まあ、こんなのを学習内容とすることはあり得ないけれどね。

 ゆっこさん。ごめんなさい。ゆっこさんはこんな意味で書かれたのではないでしょうね。でも、『小さな命を失わせないように』という願いは、文字通りの意味となってしまっていることを、我が経験から書かせていただきました。

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 ずっとむかし、本記事の学校の役割にかかわって、大変示唆に富んだコメントをいただいたことがあります。

 『〜。学校がみんなと信頼関係を持て十分に人間的に成長出来る場でありさえすれば、(たとえ家庭に問題があったとしても、)子どもは家庭の問題を決して学校に持ってくるはずはありません。
  むしろそういう子ほど学校に来たがり癒される場になるはずなのです。そういう学校にするために学校社会という場を競争社会には決してして欲しくはないと思うのです。』
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 このことに関し2つ。

・本記事に書かせていただいた、朝食を職員室でとる子は学校大好きなようでした。そして、放課後も、なかなか家へ帰ろうとはしませんでした。担任と級友をたより切っていたように思います。

・学校が新たに、『養育の場』としての役割を担うのであれば、確かに、変な意味での競争はいっそう避けなければいけませんね。
 いい意味での競争はあると思います。
 テスト、テストに毒されず、信頼関係で結ばれた子ども同士が自発的に行う競争は、子どもの心はぐくむでしょう。 

rve83253 at 10:24│Comments(4)TrackBack(0)保護者 | 教育風土

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この記事へのコメント

1. Posted by ゆっこ   2011年10月16日 11:26
大当たり〜

ハラハラしながら?コメントしたのです。
わが子の通う小学校の歴代の教頭先生は、
「それは学校教育の範疇にはありません」
「その必要はない。家庭の問題です」
が決まり文句でしたから、もしかして『養育の場』
『家庭に欠けた愛情・保育を補って下さい』などと書いて
叱られるかなと思ったのです。

心と学力と切り離せると考える教員がいるのは残念です。
ベニスの商人の 名判決のように 
「血を一滴も流さず肉を切り取りなさい」
と言いたい

骨(体力)にも肉(学力)にも血(こころ)が通ってるのですから

木賃宿のオカミにすぎない コメントを 素晴らしい記事にしてくださって感謝します。
2. Posted by toshi   2011年10月17日 06:09
ゆっこさん
 《ハラハラ》させてしまってごめんなさい。ちょっと思わせぶりなコメントでしたね。しかも日にちがあいてしまい、申し訳ありませんでした。
《わが子の通う小学校の歴代の教頭先生は、「それは学校教育の範疇にはありません」「その必要はない。家庭の問題です」 が決まり文句》
 それで子どもが幸せに過ごせるのなら、それでいいのです。つまり家庭が《養育の場》としてしっかりしているのであれば、学校は本来の学校の役割を果たすだけで済むでしょう。そうでない社会の状況が現実にあるので、記事のような考えになりました。
 早い話が、被災地域の学校はどうしたって避難所の役割を果たさなければなりませんものね。
《骨(体力)にも肉(学力)にも血(こころ)が通ってるのですから》
 いやあ。すごい名言をいただきました。ほんとうにその通り。体と学力をつなげてくださり、切っても切り離せない関係にあることを示してくださいました。ありがとうございます。 
3. Posted by ガッコの先生   2011年10月25日 19:23
5 大学4回生の教員志望の者です。

学級経営に関する卒業論文を書く予定で、いろいろ調べていたところ、このブログを発見し、読ませていただきました。

非常に深い内容で、今後も読ませていただきたいと思っています。

今年の採用試験は2次試験で不合格となりましたが、来年も試験を受けます!

4. Posted by toshi   2011年10月26日 19:26
ガッコの先生さん
 ご愛読賜り、ありがとうございます。また、深い内容などとおっしゃっていただいて、恐縮しております。卒業論文、採用試験といろいろ大変でしょうが、ご奮闘のほど、祈念しております。

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