2011年11月06日

郷土の先人に想いを寄せて、 

PAP_0045 またまたすばらしい授業を見せていただいた。昨年『差別を許さない授業の実践』を紹介させていただいたが、それと同じA小学校の実践である。
 同リンク先記事では、授業実践のすばらしさはもちろんだが、研究討議の様子を通して学校全体の盛り上がりにもふれさせていただいた。
 本実践も、まさにそれをうかがわせる授業だった。今、その授業者をDさんと呼ばせていただこう。Dさんは4年生担任。授業は社会科の『郷土の開発』である。

 まず申し上げたいことだが、わたしはこの授業を見ながら、上記リンク先記事に書いた次の言葉を思い出した。
 『子どもたちは日ごろから、こうした授業に慣れているのであろう。気負ったところはなく淡々とした話し合い学習だったが、言っている内容は実に迫力あるもので、そうした子どもたちの姿に対し、目がしらの熱くなるのを覚えた。』
 本授業にも、ほとんどこれと同じ感想をもった。ただ、昨年度のBさんの学級とくらべると、『淡々とした』というところだけが違ったかな。今回は4年生ということもあっただろう。話し合い学習を進めながらみんなで価値を追求することを楽しんでいるといった感じがした。

 それでは、このあたり、担任のDさんは、ご自分の学級をどう見ているか。指導案から一部、転載させていただこう。なお、このA小学校は、今年度、『コミュニケーション力をはぐくみ、自尊感情を高める授業のあり方』を研究主題に掲げている。もちろんそれは、昨年度同様、《差別に気づき、差別と向き合い、差別を許さない心情と実践力》を育みたいがためである。それでは、どうぞ。

 明るく元気いっぱいに過ごしている。基本的な友達同士のかかわり合いが4月当初から身についていて、いろいろな場面で相手を配慮しながら声をかけたり助けたりする姿がみられた。
 授業のなかでは、グループ学習や話し合いの場面でお互いの気持ちを考えながら高め合っていこうとし、さらに自分を伸ばしていこうとする前向きな気持ちが表れていた。行事、集会、体育、帰りの会など、みんなで力を合わせて成し遂げたことを確認できると、『力が発揮できた。』『楽しかった。』などと、大喜びする子どもたちである。
また、『〜はできなかったから、次はがんばりたい。』『次は、〜のようにしたい。』など、ふり返りも冷静にできていた。

 
 指導案の引用は以上だ。


 それでは、本授業にあらわれた子どもの姿を考察してみよう。

 あっ。すみません。そのまえに、江戸時代に行われたこの地域の埋め立て事業の概要を説明させていただこう。なお、この埋め立てによってできた土地は、A小学校の敷地に接している。 

 この地域は、江戸時代まで入海が陸地のかなり奥深くまで入り込んでいた。そして、鎌倉時代以降、港や塩の産地として栄えていた。しかし、稲作への夢は捨てがたく、この地域の名家だったEさんは幕府の許可を得て入海の埋め立て事業を始めた。しかし、地震、津波、台風などによる堤防の決壊、洪水などにより、工事は失敗の連続だった。
 何度も挑戦したが、その期間は実に180年。E一族10代にわたる挑戦となった。寝食を忘れ私財をなげうち、ときには幕府の許可が取り消されそうになったり村人たちの嘲笑にあったりもしたが、ついにその努力が実り幕末になってやっと完成をみることになった。
 それでも、E一族はそこから得るものを自分のものとせず、貧しい人々に米を与えたり、学校や役所をつくるときは寄付したりすることを惜しまなかった。 

 それでは、子どもの姿だが、

〇子どもたち同士、共感し合う姿がとてもいい。一人の子の発言に対し、『ああ。ほんとうだね。』『そうか。そうだよ。』という言葉が返ってくる。
 思わずつぶやく声に、学級が一つにまとまり、価値を求めて追求し合う姿を感じた。そして、それが、あくまで自然である。気負ったところがない。

 一番圧巻だったのは、Fさんの発言のときだった。Fさんは、
「わたしは負けず嫌いだから、(この資料に書いてあるように、)村人たちに(バカにしたように)笑われたら、もうとてもやっていられない。とてもDさんのようには工事を続けることはできない。」
 このときの、多くの子が上げた共感の声はすごかった。

 わたしは思った。『この共感には、2つのことが考えられるな。』と。
・一つは、『村人たちに笑われたら、とても続けられない。』という想いに対しての共感。
・もう一つは、『そう。そう。Fさんは確かに負けず嫌いだ。』という意味での共感。
 このあたりは、よそからやってきて、一時間の授業だけ見ているわたしには分からないが、担任のDさんには察しがつくところだろう。

 しかし、この後がすごかった。共感ばかりではなかったのだ。Gさんが言う。
「Fさんに質問したいです。『負けず嫌いだから、とても工事は続けられない。』って言っていたけど、(資料に書いてあるように、)工事を続けなかったら幕府の許可が取り消されてしまうかもしれないのでしょう。取り消されたら、もう勝手に埋め立てることはできないでしょう。それでも、Fさんは続けられないですか。」
「ああ。そのことは考えてなかったです。」

 みんな仲良し。しかし、問題解決の姿勢はきびしい。すばらしいではないか。教室の雰囲気がさっと引きしまったのはいうまでもない。

〇挙手しながら、『どうしても言いたい。先生。指して。指して。』と意欲むき出しのHさん。
 『こんなことを言うと、むかしの村人の人たちに失礼なのだけど、〜。』と前置きして自分の考えを言うJさん。謙虚さを感じた。
 また、『ぼくなら、E一族のようなことはとてもできない。第一、埋め立てようなんて思いつかない。』と自分のことのように話すKさん。そう。『自分のことのように』と言えば、先ほどの『負けず嫌い』のFさんなど、面目躍如たるものがある。
 さらに、『お金をくれるっていうのならやるけれど。このEさんは自分のお金で工事をするのだから、とてもできない。』と笑いをさそうような、本音むき出しのLさん。など。など。

 もう、それぞれが個性を示しながら、A小学校の研究テーマであるコミュニケーション能力を、見事に発揮しているなと感じた。

 そうだ。ここで特にふれておかなければならないのは・・・、
 本時の学習問題は、『E一族が苦労したことは何だろう。』だった。
 どうだろう。E一族は江戸時代に生きた人たちだし、こういう場合、ふつう、『自分だったら、』という話にはならないのではないか。ただ単に、よそのこと、むかしのことといった感じで、知的に追求はしても、あくまで他人事で話し合いが進むのではないか。この学級の子どもたちの追求する姿勢に真剣味を感じる背景にはこうした姿勢が強く影響しているのではないか。そんな感想をもった。

 上記、Dさんのご自分の学級の子どもたちの分析の確かさを感じたし、それはとりもなおさずDさんが育てた力だ。そう。このことは前記事にも書かせていただいたね。

〇本時、Dさんが子どもとどのようにかかわったか。それもみていかなければならないだろう。

本時、Dさんは発問らしい発問をほとんどしていない。『発問らしい発問』とは、子どもの思考の流れに沿わない問いかけを指しているのだが、それはたった一回しかなかったのではないか。それも、子どもにとって唐突感を抱くような発問ではなかったと思われる。

 本時の初めの話し合いは、工事が何度も失敗したこと、D一族は一時財産を使い果たしたこと、村人の反対にあったこと、幕府が土地をとり上げようとしたことなどについての想いが中心の話し合いだった。しかし、少数ながら、一度とれるようになったお米が洪水や津波などによって、またとれなくなってしまったことに着目している子もいた。そこで、Dさんは、そちらにも目を向けた話し合いになってほしかったのだろう。『何人かの子が、お米のことを書いていたけれど、お米の方はどう。考えを聞きたいな。』といった具合に、話し合いの方向を変えるような問いかけをした。

 これはこれでよかったのではないかと思う。E一族の苦労を、より多面的にみられるようになったのではないだろうか。
 
 次に言えること。Dさんの子どもへの問いかけは、子どもたちの話し合いを深めようとする姿勢に徹していた。『自分ならあきらめちゃう。』という発言に対して、『あきらめる理由は?』と問い返したり、ある子の発言に対して、『それって、やれって言われたらやるっていうことなの。』と念押しをしたりした。こういう指導者の姿勢が、子ども自ら学習を深めようとする姿勢を養っているのだ。
 確かな教材分析の先にある、『子どもがこう出たらこう、ああ出たらああ。』といった柔軟な姿勢が随所にうかがえた。

 また、本時用意された資料は特にない。本時の中心資料は、E一族の苦闘を中心に、村人たちの想い、埋め立ての様子などを書いた文書資料だったが、それは前時の最後にもう子どもたちに示されていた。また、新田開発の様子を示した古地図は教室に掲示されていたが、子どもたちは完全にそうした資料を使いこなしていた。

 
 あとの研究討議の場での自評で、授業者のCさんは、
「今日の授業は、発言の得意な子ばかりの発言に限られてしまった感じです。」
と反省の弁を述べていたが、授業を見た限りでは、どうして、どうして、そんな印象は受けなかった。現にわたしの記録では、半数以上の子が発言していたし、授業の最後、新田開発に携わったDさん一族への思いについてノートに書いたが、それはもう、すばらしい記述を学級全員がしていた。なかなか書き出さず深く考え込んでいるが、一旦書き出せばほとばしるように書くといった、そんな子どもの姿が印象的だった。
 発言は限られてしまったかもしれないが、そうした印象を受けないということ、それはどの子も真剣に先生や友達の言葉に耳を傾け、首を傾げたりうなずいたり相槌を打ったりして、豊かに反応していたからだろう。

 それでは、次回は、本記事の続きになるが、ちょっと研究討議で印象に残った2点にふれさせていただこうと思う。

 
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 Dさんの指導案を読ませていただいて、拙ブログの過去記事にかかわり、とてもうれしいことがありました。その部分を転載させていただきます。

 『コミュニケーション力を高める手だて』という欄なのですが、
 〜。
 子どもたちは、便利すぎる世の中で起こっている問題や自然が壊されてきたことと開発の関係などに気づいてきている。東北の大震災のことも頭にあり、津波による生活の安全確保についての意識も社会科のどの単元を学習していても、意見の根拠として出される。
 この単元では混乱を避けるため、江戸時代という過去の出来事として、いったん現代の社会事象からは分離させるが、分離させたまま終わるのではなく、さらに今のわたしたちの生活に脈々と続いていること、今後、わたしたちの生活をどのようにとらえて変えていくべきか考えるきっかけとなるような学びとしていきたい。
〜。

 この部分を読み、うれしかったです。

 なぜか。今、過去記事の一部をそっくり再掲させていただきましょう。ある大学の学長C氏の言葉です。

 「こんな未曾有の大震災があり、連日、大変な苦難が報道されているにもかかわらず、『まったくそれはどこの世界の出来事か。何も日本には起きていない。』かのごとく、まるっきりふだんのまま、国語、算数、理科、社会などをただこなしているだけの学校が、全国には多数あります。
 こうした日本全体の苦しみから超然として、ふつうに知識をつめ込むだけで、ほんとうにいいのでしょうかね。それでは、子どもに欺瞞を教えることにならないでしょうか。
 憂慮に堪えません。これも、心を育むことなく、知識一辺倒の教育に堕してしまった結果かなと思っています。」

 ね。A小学校、なかんずくDさんの実践を知ったら、C氏もきっと喜んでくださるでしょう。

 そうなのです。子ども主体の学習なら、あれだけの大震災を子どもがとり上げないわけがないのです。『社会科のどの単元を学習していても、意見の根拠として出される。』のが当然なのです。

 もしそうならず、未曾有の大震災から超然としているのなら、それは教員の姿勢が問われるところです。

 
 もう一つ、すみません。別な話題を。

 小学校の場合学級担任制ですから、どうしても、『授業の成否は担任の指導力に負う。』と思われそう。それはそうなのですが、しかし、学校としてまとまり、研究が盛り上がると、その成果は学校の財産、教員全員のものとなります。

 話は変わりますが、昨日、退職校長・現職校長を交えた我が地域の研修会に参加してきました。ある中学校長の話が印象的でした。
 「近年、小・中一貫教育の流れのなかで、中学校も小学校の研究体制から学ぶようになりました。中学は教科担任制ですから、なかなか学校全体が一つになって授業研究を行うというのはむずかしかったのですが、だれもがやることになる道徳、特別活動、総合的な学習の時間などは、やろうとすればやれるということで、そうした体制づくりが進んでいます。」

 うれしいお話をうかがうことができました。   

rve83253 at 13:16│Comments(0)TrackBack(0)問題解決学習 | 社会科指導

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