2011年11月13日

講師間に意見の違いが、

kodomo97 初めにお詫びしなければなりません。前記事では、タイトルに(1)をつけ、次回に続く旨予告させていただきましたが、本記事は確かに続いてはいるものの、内容が《郷土の開発》だけではないため、タイトルは変更させていただきました。どうもすみません。


 本記事では、A小学校の授業実践をめぐって、講師間で見解の相違があったことを2つとり上げる。

 一つは、同校の昨年の実践の差別と向き合う授業の際に起こった。もう一つは、前記事でとり上げた《郷土の開発》単元の授業の際に起きたことである。 どちらも子どもたちの学び合う姿に大変感動した授業だったが、それだけに、講師間の見解の相違は大変重要なことのように思われた。

 ところで、具体的なことにふれる前に、お断りしておきたいことがある。

 それは、見解の相違自体は構わないし、あって当然と思っている。多様性を尊重するのが民主主義のあるべき姿だし、問題解決学習の命でもあるのだからね。だから、問題はあくまでその中身である。

 とお断りしたうえで、内容に入らせていただくが、

 その1 座席表指導案をめぐって

 座席表指導案がどのようなものであるかは、すでに過去記事で紹介させていただいた。下記リンク先記事の前半『それでは、本日の記事である、目の前にいる子どもたちの子ども研究について、それはどのようなものかを述べさせていただきたい。』からがそれにあたる。
    教員にとっての研究研修とは、(2)

 座席表指導案なるものについて概略を申せば、
 問題解決学習の基本的な流れは、前時の最後に本時の学習問題が子どもによって生み出され、子どもたちはその学習問題についての想い、考えをノートに書いて授業を終えるということになるが・・・、
 その一人ひとりの想いや考えを座席表に記入し、それをどのように本時の学習に生かしていくか、どう深めていくか、そうしたことについての指導者の考えを書いたものである。

 わたしは常々、子どもの想い、考えによって授業を組み立てていかなければいけないと、拙ブログで述べているが、それをかたちに表したものといってよいだろう。A小学校に限らず、我が地域ではこうした指導案を書く学校が多い。子ども主体の授業にするために、大変喜ばしいことと思っている。

 ところが、昨年、上記リンク先の差別と向き合う授業での研究討議の際、ある大学からいらしていた講師が、ちょっとこの座席表指導案なるものを批判されたのである。記憶のなかで書くことをお許しいただきたいが、概略次のようであった。

「子どもの想いを大事にする授業にする上で、この座席表指導案なるものは大変すばらしいと思います。子ども一人ひとりの想いを軸に本時の学習を組み立てていく方向性もいいでしょう。
 しかし、以下のような問題はないでしょうか。本(差別と向き合う)授業がそうだというわけではないのですが、
 子どもが前時の最後に書いた想いにとらわれやしないかということです。ノートに書いたものをただ読んでいるだけということはないでしょうか。それだと、発表し合いにはなっても話し合いにはなりませんね。
 前時ノートにはこう書いたが、いろいろ調べたり取材したりしたら思いが変わったとか、本時のなかでも、友達の想い、考えを聞いているうちに想いが変わったとか、そういうことはあって当然なのに、硬直してしまっているといいましょうか、そんな授業をみることがあります。
 座席表指導案を否定はしませんが、そういう点、柔軟さが求められるのではないでしょうか。」

 わたしは、この講評自体に異存はなかった。おっしゃる通りだ。わたしもそのような硬直した授業であれば、同じことを言っている。しかし、この《差別と向き合う授業》ではまったくそのような心配をする子どもを見かけなかった。それは、同授業をとり上げた記事の(2)にくわしい。お時間のある方はご覧いただければ幸いである。
 
 この授業記録(リンク先のなかほど、『T「差別されてきた人たちの、どんな行動を予想しましたか。」』からがそれにあたる。) をご覧いただければ、どなたも、発表し合いではなく話し合いになっていることをお認めくださるだろう。

〇そこで、昨年の授業ではあるが、まず、前時ノートに書いたものをよりどころとする発言がどこまで続くかを考察してみよう。

 本時の学習問題は、『なくならない差別に対して、人々はどのような行動を起こしたのだろう。』であった。
 今となっては、はっきりここまでと分かるものではないが、ひいきめに見ても、授業記録のなかほど、『沈黙が続く。そして、Bさんは、一人の子がお休みしていたため、話し合いについてきていないことを理由として、簡単にこれまでの学習のおさらいをした。』までではないか。ここまではなんとなく、『差別しているのは国、お金持ち、身分の高い人』という受け取り方をしているかのようだ。
 そしてそれ以後、『実は平民同士で差別し合っているのだ。』ということが共通理解になっていく。ここに至って、話し合いは本時の学習問題から離れ、深まりを見せ、子どもたちは悩ましくなっていったのである。思考の一大転換だ。

 では、ノートに書いたものをよりどころとする発言が続く前半において、子どもたちは、ただノートに書いたことを発表していただけだろうか。発表し合いに終始し、話し合いにはなっていなかっただろうか。

 そんなことはないよね。「でも、国は、解放令を出して、みんな平等だって認めているから、国に言ってもしょうがない。」という意見のように、賛成、反対意見はふんだんに出てくる。つまりノートに書いたことを受けてはいるが、それをそのまま読んだり言ったりはしていない。ちゃんと話し合いになっているのである。まさに同校がテーマに掲げる『コミュニケーション能力がはぐくまれている。』からこそと言っていいだろう。

 ねっ。そういう意味で、この授業に関しては、上記大学からいらした講師の方のおっしゃった内容は、半分、的外れであったと言っていいのではないか。

 もう一つ。残りの半分だが・・・、
 本話し合いによって、前時にノートに書いたことと想い、考えが変わった子がいるかどうかについて考察してみよう。だが、申し訳ありません。正直のところこれは分からない。
 もちろん、単元全体の思考の流れという視点でみれば、そういう子はふんだんにいると考えられる。だって、『強く言えばみんな黙るから。』と言った同記事のEさんが級友とのかかわりのなかで、また、差別と向き合う授業のなかで、自分の生き方を変えていくのだものね。
 だから、想い、考えが変わっていく子はいるに違いないが、この授業に限定すれば、それは分からない。

 分からないのはわたしに責任がある。それぞれ授業記録にある発言がだれのものか不明だからだ。わたしはこの反省から、この授業以降講師を務めるときは、できるだけ記録した子どもの発言に番号をふり、その番号を座席表に記入するようにした。

 そこで、授業一時間における変容については、つい先日見せていただいた、《郷土の開発》の授業で考察してみよう。子どもたちの想い、考えが硬直しているかどうかということについてだね。

 なお、あらかじめお断りしておかなければならないが、座席表に示された想い、考えにしても、わたしの記録にしても、要点のみしか示されておらず、実際の子どもはもっとくわしく言ったり書いたりしているはずである。

 それでは、ここでは3人ほど示させていただこう。

〇まず、Fさん。前記事で紹介した、『わたしは負けず嫌いだから、〜。』と言った子だ。この子の座席表には、『長い時間をかけて埋め立てをするのはすごい。わたしはいや。遊んでいたい。』と書かれている。
 その子が、『わたしは負けず嫌いだから〜。』の発言をし、多くの共感を呼んだ。しかし、『幕府の許可が取り消されるかもしれないのに、それでも、工事は続けられないですか。』という質問も受ける。そして、『そこまで考えていませんでした。』と、一面的な見方であったことを認めるかのような発言をした。
 その後、Fさんは、『みんなでやれるなら、早くうまくできそうだから、最後までやれる。』という発言をするに至る。
 どうだろう。すごいではないか。『遊んでいたい。』が、『みんなでやれるならやる。』というように変わったのだ。  なお、付言しなければいけないと思うが、前時の最後は確かに『遊んでいたい。』と書いた。しかし、本時の発言にそれはない。やはり友達の発言を聞きながら、想いが変わっていったとみていいだろう。

〇また別に、想いが変わった子もいる。Mさんだ。この子の座席表には、『(津波、台風などによって)米のとれない時代が52年も続いた。それをのり越えた村の人やE一族の7代目、8代目を応援したい。』と記されている。しかし、本時の発言は、「Lさんの『お金をくれるならやるけれど。自分のお金だから、とてもできない。』という意見に賛成で、わたしにはとても無理だ。できない。」となっている。
 『応援したい。』から『無理だ。できない。』に変わった。これを『想いが変わった。』と断定することはできないが、しかし、『このまえは応援したいと書いていたけれど、その気持ちは今どうなの。』と問い返せばよかったのではないか。

〇一方信念というか、座席表に示された考えをさらに強めて発言した子もいる。Nさんだ。この子の座席表には、「Eさんが、あきらめないところがすごい。何回も挑戦してやっと工事を成功させた。ぼくも見習いたい。」とある。
それが、本時は、「〜。一回の失敗ならまた挑戦しようという気持ちになるけれど、何回も失敗したらあきらめちゃうかもしれない。でも、Eさんが大洪水や津波にあってもがんばったように、ぼくもできるだけがんばりたい。」と発言する。

 さて、話を戻そう。

 読者の皆さんは、D学級の子どもたちが、自由に想いをめぐらせていることに気づかれるだろう。ある場合は、友達の想い、考えを聞きながら自分を変容させていく。また、別な場合は、信念をより強めていく。どちらにしても柔軟なのだ。まさに民主主義的態度、学習指導要領の言葉で言えば、公民的な資質を身につけつつある子どもたちだと言えよう。

 だから、ある大学からいらした講師の方がおっしゃったような心配は、このA小学校に関する限り無用であると申し上げたい。


その2 『Eさん一族は、村人たちに感謝されたくて工事をしたのではないか。』をめぐって、

 本、『郷土の開発』の授業の終末をみてみよう。

T「〜。Eさんにとっていいことはなんだったのだろうね。」
C「村人から感謝されたこと。」
C「Eさんのおかげで、お米がたくさんとれるようになって豊かになりましたって感謝された。」
C「感謝されたくて、初代の想いを受け継ぎ、がんばったのだと思う。」
C「村人の役に立とう。豊かな暮らしができるようにしようと思ったのではないか。」

 まだまだ続くが、資料を駆使しながらも、『村人から感謝されたくて工事を続けた。』は、学級みんなの想いであるようだった。

 そのことが、研究討議で、ちょっと物議をかもした。講師のPさんの話だ。

「『村人から感謝されたい。』という思いで工事を続けたということで、授業はまとまったようですが、それでよかったのでしょうか。感謝されるのが目的で工事をするわけではないですよね。やはり、便利な暮らし、豊かな暮らしを求めて、いつの時代の人も、それこそ、現代の人々も努力しているわけです。そこへ迫る方向性は大事にしてほしかったですね。」

 これも確かに正論だ。それは間違いない。しかし、わたしは、このA小学校に関する限り別な思いをもった。

〇一つは、前時に示された資料のインパクトだ。今、その最後の部分を示そう。
 『〜。
 九代目のEさんは、祖先のひらいた土地をふたたびつくり上げたといっても、そこからえるものを自分のものとせず、貧しい人々に米をあたえ、あるいは、学校や役所を新しくつくるときでも、自分のお金をきふすることをおしまなかったのである。』
となっている。

 ここをよりどころとして、子どもたちは、『感謝されたい。』に収束していったのではないだろうか。

 現代という豊かな社会に生き、それしか経験のない子どもたちだ。一方、寄付という行為は今の子どもたちも経験しているであろう。そのとき、どんな思いで寄付をしているのだろう。それがこのEさんの行為に投影されたとみていい。

 それがまず一点。

 次に、このA小学校の子どもたちが、今後もこの想いを持続させていくとは思えない。これだけ自由に自分の想いを出し合い、深めたり発展させたりする子どもたちだ。
 昨年の、差別と向き合う授業にしても、子ども自ら生き方を追求していく。A小学校はそうした実践を積み重ねている。

 成長し続ける子どもたち。

 その思いが強いだけに、子どもたちの今後の成長を見守り、期待し、あるいは、確信し、4年生という現段階では、『感謝されたい。』でよしとしたい。

 わたしはそのようなことを言った。

 ただ惜しむらくは、前記事、バナーの下に書かせていただいた、Dさんの指導案の文言に関してだ。今、再掲させていただこう。

 『〜。
 子どもたちは、便利すぎる世の中で起こっている問題や自然が壊されてきたことと開発の関係などに気づいてきている。東北の大震災のことも頭にあり、津波による生活の安全確保についての意識も社会科のどの単元を学習していても、意見の根拠として出される。
 この単元では混乱を避けるため、江戸時代という過去の出来事として、いったん現代の社会事象からは分離させるが、分離させたまま終わるのではなく、さらに今のわたしたちの生活に脈々と続いていること、今後、わたしたちの生活をどのようにとらえて変えていくべきか考えるきっかけとなるような学びとしていきたい。』

 わたしは、前半3行をすばらしい取組として書かせていただいたが、後半3行は、ちょっと不審の念を抱いた。『さらに、〜。』以降があるから、そのときは納得していたが、本記事を書き終えようとしている今、やはり、『なぜ分離させたか。』を問いたい気持ちだ。
 
 現に、見せていただいた授業で、『地震、津波、洪水』という言葉は何回も子どもから出ていたが、東北大震災の話はまったく出ることがなかった。この辺、ちょっと不自然さも感じた。あの数ヶ月前、繰り返し繰り返しテレビに流された悲惨な場面。あれが、子どもたちの頭のなかで江戸時代の工事の失敗と重ね合えば・・・、
 今、復興に立ち向かっている人々。それが、何度失敗してもまた挑戦し続けたE一族と重ね合わされたのではないか。そうなれば、より切実でより迫真的な話し合いになったのではないかと惜しまれた。
 
 もっとも、それは、本時以降に学ぶことになるのだろうね。そこに期待したい気持ちが強くなった。


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 座席表指導案に関する記事については、ちょっと補足したい点が2つあります。

 その1 

 『ある大学の講師』のおっしゃった言葉ですが、『ノートに書いたものをただ読んでいるだけ』に関してです。これを同講師は批判的におっしゃっていますし、わたしも同感と書かせていただきましたが、そのことに関してです。

 わたしは、前々記事に今、わたしの担当している初任者のクラスのことを書かせていただきました。
 このクラスはまさに今発展途上。話し合い学習を成立させるべく努力しています。そうしたクラスにおいての最大の努力目標は、発表する子をふやしたいということです。そういう段階においては、ノートに書いたものを読むだけでも是としてやらないと、今後の盛り上がりは期待できなくなってしまいます。あくまで、経過措置として認めなければいけない。そういうこともいえると申し上げなければなりません。

 その2

 今年のお正月、朝日新聞一面に載った、ある小学校の授業をとり上げて記事を書かせていただきました。確かにすばらしい授業だったのですが、しかし、問題点もありました。

 それは、たぶん、指導者が、『話し合い学習で友達の発言を聞き、それによって自分の想い、考えが変わっていくのはいいこと。』と、日ごろ子どもに言い聞かせているからでしょう。くわしくはリンク先記事をご覧いただきたいと思いますが、やはり真に子ども主体の授業でないと、自然体にふるまうことはできないのだと思います。
 指導者主導で子どもに言い聞かせるのではなく、あるがままの子どものよさを認め伸ばす方向でないと、多様性は生まれないようです。
 

rve83253 at 10:40│Comments(5)TrackBack(0)問題解決学習 | 社会科指導

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この記事へのコメント

1. Posted by ゆっこ   2011年11月17日 11:41
お久しぶりです

ちょっと 記事から離れるかもしれませんが
なぜ、指導主事訪問とか えらそうな(すみません)感想を言うのでしょう。
この取り組みがいいですね、ここが新しいですね、
ほめて伸ばすのは子どもも先生も同じなのにと思うのです

言われたくないから研究授業から逃げる先生が増え
せっかく取りくんだのに 揚げ足取り・罵倒されるのを見ると、第三者としても かわいそうで・・・

何か、欠点追求が指導主事・同僚の仕事と勘違いしてる先生が多いような気がします。

ボランティア教育として、アイマスクをつけたり、車椅子の補助をやらせた先生の授業を見たのですが、ウチのこの在学中ではこの1度きり!
指導主事は「せっかく外部から講師(施設職員さんを)呼んだのだから、子どもの感想なんていいから、講話を聞かせるべきだった」
と、出番の少なかった講師にゴマすっていました。

あぁあぁ。目の前で担任が怒られてる?姿を見た子どもたち。二度と画期的な授業はしませんでした。無難な国算に・・・つぶしちゃったんです。
せっかく こどもの多様性を引き出すチャンスだったのに
2. Posted by toshi   2011年11月18日 10:53
ゆっこさん
 いつもコメントをありがとうございます。こうしてコメントをいただくと、まだまだ学校現場の取組には問題ある事例が多いのだなと感じ情けなくなってしまいます。申し訳ないことです。
 子どもの前で担任批判をする指導主事とは。ちょっと驚きです。
 こういうコメントをいただくにつけ、今の日本の教育に大事なのは、やはり子ども、さらに言えば、学校現場への愛情ではないか。そう思います。
 努力を努力と認めて上げなかったら、衰退するだけではないでしょうか。
3. Posted by ゆっこ   2011年11月19日 10:13
toshi先生のブログを見にくる先生がいる限り
まだ希望は残ってると思います。
現場経験のない 他業種の若造?若くはないですが
私の意見に丁寧に返信下さる貴重な先生に出会えて感謝です。

ひとつだけ この場をお借りして言わせてもらうと
私のような水商売?の者でも教育に関心ある者はいるし、
子どもも学校で教わってない事、先生の知らない事に興味がある場合がある
生物多様性ならぬ 教育多様性・・・かな?
ことを、批判・叱責ばかりしてる先生に気づいて欲しいなぁと。

うわぁ・・・ごめんなさい。生意気ですね
4. Posted by ゆっこ   2011年11月19日 10:17
追伸  PTAに来て欲しい親は来ないのと同じで
コレ読んで欲しい先生は・・・パソコンつけないのがネックです
5. Posted by toshi   2011年11月20日 07:56
ゆっこさん
 いえ。いえ。だれもが学校教育を受けた経験があるのですから、子育て経験がある親はもちろんのこと、そうでない方も含め、教育を語れない人などあろうはずがありません。
 また、子育てのまっただかなにある方は、保護者という立場で当然のことながらお子さんの通われる学校にいろいろ物申していいはずです。そして、逆に、教育のプロならば、そうした声に対し謙虚でなければなりません。
 そうしたことは、かつてわたしも学ばせていただいたのです。そのことを書いた過去記事もあります。よろしかったらご覧ください。そのURLを本コメントのtoshi欄に貼りつけました。『初心にかえることの意味は、』というタイトルです。
 

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