2011年11月30日

障害児と問題解決学習と、(2)

kohen 前記事で紹介したように、指導主事をして《驚異的》と言わしめた授業。B小学校は、個別支援学級においても問題解決学習は可能なのだということを実証してみせた。

 それでは、さっそく前記事の授業記録を中心に考察に入らせていただこう。なお、各項目のタイトルは、前記事の文章から引用させていただいた。
 ああ。タイトルにしては長すぎるものもあります。申し訳ありません。

〇『1時間の話し合い学習が見事成立している。ある指導主事の言葉を借りれば《驚異的》である。』

 ふつう、1時間を通しての話し合い学習は、個別支援学級のみならず、低学年においても困難とされる。平たく言わせていただければ、『子どもが話し合いに飽きてしまい、友だちや先生の話を聞かなくなったり私語や手いたずらを始めてしまったりする。』ということだ。これは、授業参観等でも、多くの保護者の方が実感されているのではないか。子どもにとって切実性、必然性の乏しい話し合いならば、そうなるのがふつうだろう。
 

 しかし、このB小学校は、もう10年以上にわたり一貫して、話し合い学習の充実を目指してきた。拙ブログにおいても、何度となく、その授業の様子を紹介させていただいている。
 このB小学校のモットーは、充実した話し合い学習こそ、
・多様な意見、考えが出ることによって子どもたちは他者を尊重するようになるし、他者の意見、考えが良いとなればその考えを取り入れたり、自分の意見、考えに自信があればとことん主張したりするなどして、価値を互いに深め合うことができる。
・子どもたちは、『追求、解決せずにはいられない。』というような、切実感、必然性のある学習問題をつくるようになる。
ということである。そして、このことは、個別支援学級においても、まったく同様なのである。

〇『今年のそれ(B小学校個別支援学級の学習問題)は、もうすごいものだ。生活科としてふつうの学級の学習問題ととらえても、何らそん色がないではないか。』

 そう。ふつうの学級なら、地域のお年寄りとの交流を多くの学校が行っているだろう。
 忘れもしない。もう10年くらい前になるか。B小学校においてもそうした機会を設けていた。

 ある1年生の教室でのことだ。ちょっと印象に残る場面があった。多くのお年寄りが楽しそうに1年生と踊ったり歌ったりゲームをしたりするなかで、一人だけ、その輪のなかに入ってこられないお年寄りがいらした。教室の隅っこにじっとしていらして、遠くから無表情で眺めているだけだった。

 しばらくすると、一人の子がそのお年寄りに近づいていった。そして、心配そうに、また、気遣うように聞いたのである。
「おじいちゃん。ぼくたちがやっていること、つまらない?」
 そのお年寄りはこまったようだった。明らかに狼狽されていた。急なハプニングで返事もできないようだった。その様子を見て、1年生の子も、もうそれ以上声をかけることはなく、輪の中に戻っていった。

 しかし、それからだ。数秒間をおいて、そのお年寄りは何と輪の中に入っていったのである。子どもたちはさりげなくそのお年寄りを迎え入れた。それでも、その方の動きはぎごちなかったし、表情も決して打ち解けた感じにはならなかったが・・・、でも我々その授業を見ている者は、心にジーンとくるものを感じた。純真で飾り気のない1年生のふるまいは、人見知りしてしまう(?)お年寄りの心を解き放つ力をもつようだった。

 さて、本記事で紹介させていただくB小学校個別支援級の子どもたちも、これから数度、地域のケアプラザを訪ね、こうした交流の機会をもつことになる。きっと心温まる交歓風景がみられることだろう。そう思わせるに十分な話し合い学習であった。
 

〇『B小学校は、研究テーマに、かかわり合いを大切にした問題解決力をはぐくむ学習のあり方をさぐるをかかげ、子ども同士のかかわり合いの充実を目指している。》

それでは、いよいよ授業の考察に入るのであるが、このB小学校のテーマを再度ふり返らせていただこう。
 まずは子ども同士のかかわり合いの充実をはかることである。
 次にそのかかわり合いを大切にして問題解決力の育成をはかることである。
 また、本実践における《人とのかかわり合い》という意味では、お年寄りとの交流も大切にされなければならないだろう。
 そうした点を中心に考察していこうと思う。

・『Mさんはおじいさんやおばあさんの世話をする人』

 冒頭、子どもからMさんの存在が出された。ケアプラザでおじいさんやおばあさんのお世話をしている方だ。
 ところで、子どもたちは訪問した際、Mさんからいろいろお話をうかがったり案内してもらったりしている。それなら、本時、もっともっとMさんの存在を大切にする必要があったのではないか。
 せっかく子どもから出たのである。ここはMさんに着目させるチャンスだったのではあるまいか。
 もう一か所あるね。『H59 ケアプラザの人が助けてくれるから、大丈夫だよ。』のところだ。こういうところで、たとえば指導者が、『えっ。ほんとう。ケアプラザの人が助けてくれるの。』とびっくりしてみせるだけで、子どもたちは発言を盛んにし、大いに盛り上がったのではないだろうか。

 また、こんなことも言えるように思う。

 授業記録の最後の方で、指導者のDさんは、『それでは今度やる2つを発表します。ビンゴゲームとぬり絵です。それでは全員がやりたい方を選んでください。』と言っている。
 ここはもう少しきめの細かい配慮がほしかった。
 ケアプラザにおけるお年寄りとの交流である。それなら、子どもたちだけで決めてしまっていいのか。やはり、『お年寄りの想い、気持ちをうかがう。』という方向性をもたせないとまずいのではないか。
 そして、その際、窓口になるのはMさんであろう。そういう意味でも、Mさんの存在をクローズアップすることができたのではないか。《人とのかかわり合い》を掲げるのであれば、なおさらそうあってほしいと思われた。

 
・『中に車いすが入るようになってる。それで、押してもらって入る。ケアプラザの車。特別なの。』

 子どもたちは数回、ケアプラザを訪ねている。まして、この発言をしたLさん。座席表に書かれたことによれば、もともとケアプラザにはくわしいようだ。この発言は、そうしたLさんの面目躍如たるものがある。ますます自信をつけていくであろう。

・『それ(お風呂に入ること)、レクリエーションに入るかな。』 『お風呂のことでどうぞ。』

 子どもたちは思い思いに発言する。話があちこちへ飛んでしまうこともある。『今、話し合っていることは何か。』を見失ってしまうこともありそうだ。
 『T15 それ、レクリエーションに入るかな。』や、『T17 お風呂のことでどうぞ。』は、そうした混乱を防ぎ、子どもたちの発言を関連づけたり整理したりして、話し合いをより焦点化したり深化させたりしていくうえで、重要な投げかけとなっているように思われた。
 だから、ここのところは、お風呂がレクリエーションに入るかどうかが大切なのではない。

 それにしても、F、K、Lさんなど、実にくわしいものだ。数回訪れているとはいえ、よく見て覚えているものだと感心する。

・『学校みたいにする。』

 子どもたちの比較関連思考の力が養われていると感心する。ケアプラザの健康チェックを見たとき、自分たちの学級生活を思い浮かべ、『ああ。おんなじだあ。』と思ったのであろう。

 
・『 ええっ。できるかなあ。』

 子どもたちの発言をふり返ってみると、お年寄りへ想いを寄せ、『お年寄りのできること、できないことは何か。』ということを真剣に考えていることが分かる。他者理解への第一歩だ。『かかわり合い』を大切にする子どもたちの心情の表れだろう。
 K44の『かるたやトランプやだるまさんが転んだは、お年寄りが早く動けないから、ダメ。早くできない。』から、そうした発言が相次ぐ。
 もっとも、『G33 ぼく、だるまさん、大好き。』のように、自分の想い中心の発言もあるが、しかし、これはこれでかわいいものではないか。
 この種の発言をしたGさんにしても、友達の『人への思いやりに満ちた発言』を聴くなかで、成長していくはずである。

 また、K44からは、それまでの意見への反論が相次ぐ。それも、上述のように、お年寄りの立場に立っての反論である。ただ自分がいやだから反論しているのではない。
 そして、『K53 バクダンゲームの反対に反対。ゆっくりやったらいいんだよ。』のように、反論に対してこうすればうまくいくと、工夫改良してできるだけとり入れようとする動きをみせるようになった。ただ反対するのではなく、何とかよりよいものにしていこうとしている点、子どもたちのよさが十二分に発揮されていると感じた。すばらしい。

 
・『T40 ああ。それ、やっていたおじいさん、おばあさんがいたねえ。』『T56 そうだ。手の不自由な人もいたねえ。』

 子どもたちの想いに共感する言葉かけ。何気なく訪問のときを想起させながら、『おじいさん、おばあさん方のやれることをやるのだ。』という気分へ導く。こうしたさりげない言葉かけが、子どもたちの心を養っているのだと感じた。事実、 『H57 みんなでぬり絵ならできる。』というように、前向きな発言を引き出している。

 
・『G50 それなら、聞かせるって書いといてください。』『K65 似てないよ。カルタは厚い。』

 授業を見ていた教員が思わず笑ってしまった発言だ。
 まず、G50については、
 ふつうの学級においても、ここは、『ちゃんと友達の発言を聞こうね。』と指導者が注意して不思議はないところだ。それが逆に、子どもから注意されることとなってしまった。
 ほほえましい思いとともに、何でも言い合える雰囲気づくりが成功しているように感じられた。
 次のK65については・・・、
 指導者は、『遊び、ゲームの楽しみ』に目を向けて、『似ている。』と言ったわけだが、まさか紙の厚みから反論してくるとは、思いもよらなかっただろう。
 子どもは分類の思考をはたらかせたわけだが、分類の観点が違ってしまった。このように、いかにも個別支援学級らしいかわいい発言もいくつか目につく。自由に想いを表現できるからこそであろう。

・『J74 Lさんはどっちにするの。一緒にやろう。』

 何をしたいかというよりも、仲良しの友達と一緒にやりたいという思いを優先させている。正直といえば正直だ。自己中心性がかいまみられる。でも、指導者のDさんはこれを許容している。その子らしさ、個性とみているのだろう。そして、一見ねらいを達成していないかのように感じられる言葉だが、それを受け入れることが長い目で見た場合、子どもの想いをきたえることにつながるという確信があるのだろう。

・ 『H75 ぼくは最後に貼る。最後でいい。・・・。1年生2人だけじゃあ、ちょっとね。』

 これはもうすごい気配りだ。自分が貼るのは後回しにして、他の6人がどちらを選ぶかをみようとした。
 すると、1年生2人だけのグループができてしまった。それをみて、Hさんは、『1年生2人だけだとうまくことが運ばないかもしれない。』と考えた。そして、そちらにてこ入れする気持ちになったようだ。

 もう感動の極致。後ろで見ている教員もみんな感嘆の声を上げた。


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ninki

 

 所感を述べさせていただきたいと思います。 

  
〇問題解決学習を批判する声のなかに、『そもそも子どもが学習問題を設定することなどできるわけがない。』というものがあります。また、『高学年ならいざ知らず、低学年で、子どもが学習問題を設定するなどということはできるわけがない。』という考えもあります。
 
 しかし、はたしてそうでしょうか。子どもの目に見える社会・自然事象に対し、子どもが何の疑問も抱くことがないとしたら、そちらの方が不自然ではないでしょうか。幼児期から《なぜ、どうして》の想いはもつはずです。そして、子どもがそういう言葉を発したら、子どもの身の回りにいる大人は、その好奇心を満たしてやるべく努力するはずです。
 最初は、何の脈絡もなく、思いつき、場当たり的に問いかけてくるかもしれません。しかし、大人が、うまく意味付け、関係づけして対応するようにすれば、子どもはだんだん必然性、関係性のある質問をするようになると言えるでしょう。
 学校なら、そうした疑問等をうまく学習のまな板にのせるべく思慮していくこととなります。それが教員の役割であるように思います。

〇もう一つ。

 『ある一定の知識がないと、思考力を養えるわけがない。まずは知識の注入だ。』
 こうした考えはほんとうに根強いものがあります。逆に、『思考を十分にはたらかせるから、断片的、皮相的でない生きてはたらく知識が身につくのだ。』という考えの方はほんとうに少ないように思います。

 だいたい学習指導要領にしてからが、前者の考えにたっているようです。
 総則では『人間として調和のとれた育成』とうたうものの、『基礎的・基本的な知識及び技能を確実に習得させ,これらを活用して課題を解決するために必要な思考力,判断力,表現力その他の能力をはぐくむ〜。』となっているのです。
 ねっ。こうした考えにたてば、個別支援学級における問題解決学習などは、およそ『想定外』となってしまのではないでしょうか。

 わたしは拙ブログで何度も訴えていますが、
 思考、判断、表現力と、知識・技能の習得とは、車の両輪のごとく双方有機的な関係をもたせながら、ともに育んでいくものです。『知識・技能の習得なくして思考力を発揮することはできない。』などということはあり得ないのです。
 これも、何度もリンクさせていただいていますが、ノーベル賞を受賞した学者が3歳のお孫さんの『思考』に感動したという記事を書いています。それにまたまたリンクさせていただきましょう。
 記事の前半、『その前に、何かの本で読んだのだが、2002年にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊氏の話がある。』からがそれにあたります。
    保護者の皆さんへ(1)
 これなど、知識がないので、誤った判断を下しているのです。しかし、その思考・判断力に、その学者は感動しているのです。個別支援学級における問題解決学習も、これに似た面があると言っていいでしょう。
 

rve83253 at 23:17│Comments(12)TrackBack(0)個別(特別)支援教育 | 問題解決学習

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この記事へのコメント

1. Posted by s.t   2011年12月18日 18:55
先日は、先生が自分の勤務するH小学校にわざわざ来て下さったのに、不在で大変失礼いたしました。このブログは、教育関係者カテゴリで日本一優良なものだと確信しております。その内容が本になるとは、まさに必然的なことですし、私も先生にお世話になったものの端くれとして、この上ない喜びです。本校は朝の打ち合わせで私が先生への思いを熱く語り(笑)30冊近い注文を取り付けました!近々、連絡を取らせていただきます。記事と関係ない内容で申し訳ありません。時節柄、お体に気をつけてお過ごし下さい。
2. Posted by toshi   2011年12月19日 10:01
s.tさん
 いいえ。こちらこそ、お忙しいお時間に突然おじゃまし、申し訳ありませんでした。忘年会でお会いできたので、うれしかったです。
 H小学校へは、もう十年以上も前になりますが、数年間、校内研究会に呼んでいただき、共に学んだ時期がありました。ですから、なつかしかったです。
 拙出版本については、近日中にこのブログでもご案内させていただこうと思っています。
 来年もどうぞよろしくお願いします。
3. Posted by 伊藤   2011年12月19日 20:23
ちょうど教員採用試験の勉強中で出てきた語句なので、一言。

幼稚園から高等学校までの勉強をして、指導案を作る中でこの問題解決学習はデューイの「学校と社会」の中でも述べられていますが、私は問題意識というのは必ずしも顕在化しないだけで幼い子どもにもあるものだと思います。デューイが遊びから学ぶこともそうだと思いますし、むしろ、今の生活科の理念から照らし合わせれば、89年の改訂以降何をしてきたのかといわれてしまうかもしれませんね。つまるところは教師を媒介とするか自分を媒介として表現するかの違いであるようにも感じます。

ちょうどキャリア教育を文科省が力を入れているようですから、体験を通じた問題解決能力の育成をうまく取り入れていければこのような授業が「当たり前」に近い位置まで行けるのではないでしょうか?
4. Posted by toshi   2011年12月20日 10:47
伊藤さん
 もう、短い言葉ではあっても端的に本質を表してくださいました。ありがとうございます。
 生活科についてもおっしゃる通りです。生活科を教師主導でやっていたなら、何のための生活科かと思います。このこと、次回記事に書かせていただきますね。
《つまるところは教師を媒介とするか自分を媒介として表現するかの違いであるようにも感じます。》
 いい言葉をいただいたなという想いです。講師としていろいろな学校におじゃまします。たとえ子どもが喜々として取り組んでいても、『先生、これでいいの。』『次、何やるの。』などと言っているのを聞くと、『ああ。教師を媒介とした表現なのだな。』と感じさせられます。
 キャリア教育。問題解決学習は不可欠と思います。そして、個別支援学級の教育こそ、大事にしていかなければいけませんね。

5. Posted by minami   2011年12月20日 12:04
お世話になっております。
別の方のブログで(こちらのブログも、昔から興味深く読んでいるのですが)、問題解決学習について最近取り上げていらっしゃいました。
先生のおっしゃる問題解決学習とは違うように思いますが、ぜひお読みいただいて、解説していただけないかな・・・なんて思いました。
http://blog.goo.ne.jp/madographos/e/a6126d194529a90842c25523ebd5ae54
6. Posted by toshi   2011年12月21日 07:10
minamiさん
 お教えいただき、ありがとうございました。読ませていただきました。おっしゃるように、まったく違いますね。わたしの想いは、
・「(学校で行う)学習」は「問題解決」を目的の一つとしています。いえ。目的としてしっかり位置づけてほしいものです。
 学習指導要領総則には、『〜、課題を解決するために必要な思考力,判断力,表現力その他の能力をはぐくむ〜。』『〜問題解決的な学習を重視する〜』とあります。
 わたしは、問題解決学習は目標達成のための手段であるとともに、目標そのものでもあると思っています。
・問題解決能力は家庭や集団のなかで生活すれば自然に身につくといったなまやさしいものではありません。現にこれまでこの力を養うことをおろそかにしてきたため、付和雷同や唯我独尊の大人がいっぱいいるではありませんか。これらは社会問題になることもまれではありません。今は原発問題にこのことを強く感じています。
 過去記事(本コメントのtoshi欄にURL貼りつけ)に書かせていただきましたが、問題解決学習は、科学的、合理的な思考・判断ができるようにするとともに、その前提としては、『同調しない強い信念と変化を恐れないしなやかな柔軟性』が求められるのです。
・ですから、問題解決学習が言うところの問題は、問題集を解くような擬似的な問題ではありえないし、人生の切実な問題や社会の現実に関わる問題をとり上げるのです。いえ。『子どもの力によってそういう問題になる。』といった方が正しいでしょう。
・本ブログには、『信念と柔軟性』をはぐくみ、『人生の切実な問題や社会の現実にかかわる問題』を大切にした実践をたくさん載せています。もちろんそれを目指したがうまくいかなったという事例も載せています。指導力、実践力は永遠の課題です。
7. Posted by toshi   2011年12月21日 07:52
なお、これはminamiさんのリンク先ではふれていませんが、問題解決学習では、《未解決というかたちでの解決》も大切にします。『人生の切実な問題や社会の現実にかかわる問題』を考え合うのですから、これは当然のことと思います。
 
8. Posted by 大谷主水   2011年12月30日 19:19
小生、定年退職後にインターネットで無料で自学自習できる学習ソフトを作り公開しております。
多くの小中学校の授業で使って頂くようになりました。
ここでは、軽度の障害児にこのようなソフトを使ったパソコン学習は有効と考えておられるか、ご意見をお伺いできないでしょうか。
今後、障害児用のソフトの作成を予定しておりますが、どのようなソフトが望まれるのか参考にさせて頂きたいと考えております。
9. Posted by toshi   2011年12月31日 09:50
大谷主水さん
 ご覧いただき、ありがとうございます。
《定年退職後にインターネットで無料で自学自習できる学習ソフトを作り公開しております。》
 すばらしいお仕事をなさっていますね。お互い退職後の人生がうるおいのあるものになっているのではないでしょうか。これもネットがあればこそですね。
《軽度の障害児にこのようなソフトを使ったパソコン学習は有効と考えておられるか、ご意見をお伺いできないでしょうか。》
《今後、障害児用のソフトの作成を予定しておりますが、どのようなソフトが望まれるのか参考にさせて頂きたいと考えております。》
 有効だと思います。ただし、専門的に学んだことはないのでくわしくはありませんし、分からないというのが正直なところですが、もしかしたら以下の拙ブログ記事が参考になるかもしれません。
 『発達障害児と問題解決学習と、』という記事です。URLを本コメントのtoshi欄に貼りつけましたので、よろしければご覧ください。参考になればうれしく存じます。



 
10. Posted by 下っ端役人   2012年02月12日 20:48
4 昨年まで小学校で教頭をしていた者です。現在は、教育行政の末端(最前線かな?)で仕事をしております。
さて…。
過日、特別支援学級での問題解決学習の記事を拝謁し、大変共感いたしました。
まさに、子供たちのニーズに見合った教育活動がそこに展開されていたからです。
特別支援学級でも、あのような素晴らしい実践が展開されているところにある意味で拍手を送ります。

が、しかし…。

ということは、前年までの実践は、貴殿の言われるところの「ほほえましい」授業であり、子供たちのニーズにそぐわない内容であったということでしょうね?
しかしながら、「ほほえましい」という内容が特別支援学級の一般的学習内容であって、かつ本来的な内容だとしたら、一方で疑問点も生じました。
つまり、今回のような「問題解決学習」に取り組むことができる児童が特別支援学級にいていいのか?という疑問です。
言うまでもなく、特別支援学級在籍児童は、学籍を移すほどの特別な支援が必要な児童であって、そのニーズに応じた教育課程が編成されるべきところです。
この教育の授業でうまくいかないケースは、目標・内容があっていないか、手立て・留意点があっていないかのどちらかです。
つまり、昨年まではそのどちらもあっていなかったということですね。

特別支援学級の授業の評価以前に、果たして、この市の就学指導体制はどうなっているのか!?という疑問を抱きました。
コメントを頂戴できれば幸いです。
11. Posted by toshi   2012年02月13日 16:21
下っ端役人さん
 拍手をいただき、ありがとうございました。そして、
《が、しかし…。》以降のことについてですが、
 《前年までの実践は、貴殿の言われるところの「ほほえましい」授業であり、子供たちのニーズにそぐわない内容であったということでしょうね?》については、わたしの認識と違います。
 子どもは日々成長しているのです。学校の、子どものニーズに応じた教育課程の編成とともに、指導者の着実に子どもを育てる力によって、ここまで問題解決力を育んできました。ですから、昨年も今年もともに、すばらしい実践力の成果と思っています。
 目標・内容も手だて・留意点も、子どもの成長に合わせて日々改善していくものでしょう。ですからどちらも合っていますし、合っていたからこその成果と考えます。
 なお、どのように知的発達に遅れがある場合も、「問題解決的な学習」は大切にしたいと思います。そのために、
・子どもの理解できる範囲(これまでの体験や興味・関心から)の問題を設定すること、
・解決できるための情報(映像や写真、たとえ話等)を提供すること、
・意思決定のための手だて(選択肢を用意する等)を講じること
が大切であると思います。
12. Posted by toshi   2012年02月13日 16:21
 目の前の子ども一人ひとりに応じた「問題解決学習」ということになるでしょう。特別支援学級でも考える力を育て、主体的に自己選択・自己決定する力を養うことが、学習指導要領のいう「生きる力」につながるのだと思います。
 ただし、そうは言っても、記事にCさんの言葉として書かせていただきましたように、
《「皆さんに、『子どもが育っていますね。』と言われることは、それはうれしいことです。しかし、どんなに子どもが育ったといっても、やはりできないことはあります。できないことはどんなにがんばったってできないのですから、助けを求める。そうした力をもつことも彼らにとっては大事なのです。」》
は、現在も厳然として生きた言葉です。これも彼らにとっては生活する上で大切な問題解決力の一つでしょう。ですから、彼らは《今も特別支援学級にいていいのだ》と考えます。
 そうか。《昨年のそれは、いかにも個別支援学級らしいといっては失礼だが・・・、ほほえましい学習問題だったのに対し、今年のそれは、もうすごいものだ。生活科としてふつうの学級の学習問題ととらえても、何らそん色がないではないか。》という表記が誤解を招いたのだとしたら、申し訳なかったです。
 この場合、《ふつうの学級の学習問題ととらえてもそん色ない》は、あくまでこの授業のこの学習問題のことを言っています。
 

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