2011年12月23日

『あきとなかよし』 〜初任者B学級の子どもたち〜

PAP_0121  A小学校一年生担任の初任者Bさん。数々の成果を上げて研究授業を終えることができた。
 生活科の単元、『あきとなかよし』である。
 この単元。A小学校においては24時間の長丁場で、本研究授業は終末に近かったから、いろいろな意味で、ご苦労が多かったことと思う。『よく、やった。』それが実感だ。

 それにしても、特筆すべきは、このA小学校の教員の皆さんの初任者を支える姿勢だ。すごいものがある。わたしは研究授業後に聞かされジーンとしてしまったのだが、研究授業に先だち、同校の先生方がB学級の子どもにふんして模擬授業を行ったようだ。
「ここは、そんな問いかけではだめよ。子どもに、『先生、何言っているのか分からない。』と言われてしまうわ。」
また、
「ああ。今のは子どもの想いを引き出そうとする、いい発問ね。」
などと助言したらしい。さらに、
「Cちゃんなら、こんな反応をしそうね。」
「わたし、今、Dちゃんになったつもりで発言したのよ。」
といった調子で、現実にB学級の子どもになり切る努力をしたようだ。

 わたしは、この話を聞いた後、Bさんに言った。
「これはすごいことだよ。A小の先生方は、B学級の子どもたちをよく把握している。そして、Bさんの力になってやりたいという気持ちでいっぱいなのだ。ありがたいね。感謝しなくては。」
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 そう。そう。こうしたときのわたしの立ち位置を説明しておかなければいけないね。
 わたしは、日ごろの授業をめぐり指導はするが、こうした研究授業に際しては一歩二歩身を引くことが多い。
 そのわけは、
 どの学校も校内全教員による授業研究によって自分たちの指導力をアップさせようとしている。だから、その研究成果は学校としての無形の共有財産になっていく。一人の指導案はけっして一人だけのものではない。多くの教員が考え合ってその授業の構想を練り、支え合っているからだ。

 
 さて、この長丁場の実践で、子どもたちは、大いなる成長を遂げた。それには目を見張るものがある。たとえば、

 Eちゃんは発表はよくするものの、性格はおとなしく無表情そのものだったが、ここのところ数人のお友達ができたようで、笑顔をたくさんみせるようになったし、
 Cちゃんの問題行動は極端に減り、逆に、『toshi先生。ぼくの〜を取ってくれてありがとうございます。』などと言うようになったし、
 Fちゃんの泣きわめくような大声もずいぶん減り、起きたとしても回復はものすごくはやくなったし・・・、

 これはやはり、Bさんのあたたかな指導とそれを支える教員の皆さんの努力の賜物と言えるだろう。そして、ここに紹介させていただく本単元の実践とも深くかかわっている。

 この変容、成長は、もとより3人だけのものではない。やはり学級集団が成長すればこそ、日々の生活が3人を包み込んだかたちで上向いていくのだ。
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 余談だが、左の写真を見て驚いたことがある。撮影したときは気づかなかった。休み時間に何げなく撮ったのだが、
 子どもたちは、任意のグループで何やら話し合っている。そばに寄ると、生活科の学習の中身にふれ、
「お店を変えようよ。そうしないと、〜だからうまくできないよ。」
「くじびきやさんがいい。それなら、〜だから、〜のように工夫できる。」
などと話し合っているのだった。(この話題は、次回詳細にふれさせていただく。)
 Gちゃんだ。不安な表情から一転、目が輝き出した。子どもたちのかかわり合う姿がそうさせるのだ。Gちゃんの目の輝きに美しさを感じた。
 先ほど、撮影のときは気づかなかったと述べたが、それは、この写真を見て、まるで中・高学年の教室をみるような感じがしたのだった。

 
 それでは、いよいよBさんの生活科『あきとなかよし』の実践に話を移させていただこう。研究授業の様子は、すみません。次回になってしまうが、よろしくお願いしたい。今回は単元を通した流れの前半になる。

 
〇『あきとなかよし』が『どんぐりとなかよし』に、

 多くの学校は、また、A小学校にしても昨年までなら、《秋の自然がもたらした宝物》をふんだんに教室に持ち込むことになるだろう。どんぐり、紅く色づいた葉、おなもみ、まつぼっくりなどなど、多彩なはずだ。しかし、今年、A小学校においては初め、ドングリしか手に入らなかった。(アサガオのツルは前単元でのリース作りに)
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 研究授業の際、講師からは慰めの言葉をいただいた。
「今年は仕方ないですね。」
 そうなのだ。我が地域も放射能汚染をまぬがれることはできなかった。校地のそこかしこに立ち入り禁止の札とロープが張られた。子どもが魅力を感じ、生活科の実践にとってなくてはならない『自然からの秋の贈り物』の多くはこうした場所に落ちているから、ほんとうに残念だった。

 幸い、ドングリは学校のお隣の工場にたくさん落ちている。毎年お世話になっているだけに、すでに安全の確認もしてくださっていた。よかった。それに工場の敷地内なので、子どもたちは思う存分拾うことができた。

 したがって教室にドングリはたくさんある。バケツに何杯分だったかな。とにかく使いきれないほどだった。しかし、当初、A小教員の皆さんはあやぶんだ。ドングリだけでは、遊びの創意工夫、多様なアイデアといっても限界があるのではないか。自嘲気味に、
「『あきとなかよし』の単元だが、これでは、『どんぐりとなかよし』になってしまったね。」
そんな声も聞こえた。

 しかし、いざフタをあけてみると、案ずるより産むがやすし。子どもたちが作りたいとしたものは実に多彩だった。ドングリゴマ、やじろべえ、ブローチ、ネックレス、腕輪、リス・トラなどの動物、ロケット、車、マラカス・たいこの楽器類など、など。それに、的当てゲーム、ドングリを並べて作る迷路など、ゲーム的なものもあった。

 わたしが、子ども達の発想に驚いたのは指輪だ。実は、これ、でき上がった作品にドングリは使われていない。なんとドングリは、子どもたちの指の代わりをつとめさせられたのだった。
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〇『行きつ戻りつ』だ。

 そんななかで、ドングリゴマは多くの子が作った。
「ぼく、かたいドングリでつくるんだ。かたいと強いもん。」
「かたいからキリがささらないよ。やわらかい方が作りやすい。」
「やわらかくったって、強いのもあるもん。よくまわるコマをつくればいいんだよ。」
作りながらそのようなことを言い合っている。それが様々な工夫を呼び、新たな動きへとつながる。

 そんなやりとりのなかで、勝負を競う楽しさもあったからだろう。さらに作る子がふえていった。
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「よくまわらないよう。」
「ようじが斜めだから、まわらないんだよ。ほら。斜めにまわっているじゃん。」
「ようじは短くした方がいいよ。長いとすぐ倒れちゃうよ。」
 そう。子どもたちは作っては遊び、遊んでは工夫、改良し、また作る。遊びと工夫・改良は何回も繰り返された。こうした活動を、たぶんこれは図工科の用語だと思うが、『行きつ戻りつ』という。
 そのようにして、子どもたちは、《太さ、長さ、重さ、まわし方》にポイントがあることをつかんでいった。
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〇ドングリゴマ大会へ、

 このような活動が、
「先生。ドングリゴマ大会をやりたいよ。ぼく、だれにも負けてないもん。優勝しそうなんだ。」
「だめだよ。作っていない子もいるもん。仲間はずれにしちゃったらかわいそうじゃん。」
「いい。わたしもやりたい。ドングリゴマ大会をやるのなら、わたしも作る。」
 けっきょく全員が作ることになり、ドングリゴマ大会は実施の運びとなった。

 わたしのいない日に行われたが、楽しくみんな興奮するものだったようだ。そして、優勝者は予想外の子だったらしい。この大会がさらなる工夫・改良を呼ぶ。そして、第2回も後日行われた。

〇『救いの神』が現れた。

 そんなときだ。なんと救いの神が現れた。地域の方が、今年はドングリしかないことを聞きつけ、なんと巨大なまつぼっくりを持ってきてくださった。ほんとうにたくさんあった。子どもたちは狂喜した。こんなときだけに、1年生の担任は涙が出るくらいうれしかっただろう。
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 そして、そのことが、子どもたちの活動の幅をさらに広げることになった。しかし、それは次回に譲らせていただいて・・・、

 最後に、ここまでのところで、考察を付け加えさせていただきたい。

◎Eちゃん、Cちゃん、Fちゃんの変容、成長

 まずは、本記事前半でふれた3人が、本単元のなかでどのような変容、成長をみせたかだが・・・、(3人それぞれ冒頭の《  》部は、先ほど書いたものの再掲です。)

 Eちゃん。《発表はよくするものの、性格はおとなしく無表情そのものだったが、ここのところ数人のお友達ができたようで、笑顔をたくさんみせるようになった。》

 本単元冒頭では、ドングリを前にして、何をしたらいいか、思いあぐねているようだった。友達のやっていることをじっと見ていることが多かった。でも、ぼおっとしている感じはなく、おもしろいことをやっていると笑顔を浮かべるし、こまっている友達から声をかけられると手を貸してやっているし、そういう意味での友達のかかわりはみせていた。
 担任のBさんには、次のように話した。
「Eちゃんのことを、『何もしていない。何をしたらいいか分からない。』と否定的にとらえるのではなく、『友達とのかかわりの芽生えがみえてきたな。』というように、前向きにとらえ声をかけてやりたい。」
 次回記事になってしまうが、Bさんのそうした声かけによって・・・と言っていいだろう。Eちゃんはさらなる変容をみせる。どうか、お楽しみにしていただきたい。

 Cちゃん。《問題行動は極端に減り、逆に、『toshi先生。ぼくの〜を取ってくれてありがとうございます。』などと言うようになった。》
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 もう、Cちゃんは単元に入ったときから積極的だった。ドングリゴマをいくつも作るし、『うまくまわらない。』とこまっている友達には、
「ほら。ようじが曲がってるじゃん。」
などと助言しているし・・・、その一方で、勝手なことをしている友達がいると、
「何。遊んでんだよ。ちゃんと作れよ。」
などとも言う。ついこの前までは、このCちゃんが勝手な行動をしていたのにと思うと、ついおかしくなってニヤニヤしてしまう。Cちゃん。ごめんね。
 こうした根気のいる仕事(?)は、心をきたえさせるのだろう。

 Fちゃん。《泣きわめくような大声もずいぶん減り、起きたとしても回復はものすごくはやくなったし・・・、》

 終始楽しそうだ。友達ともほほえましい交歓風景がよくみられた。生活科の授業のなかでは、泣きわめくような姿はなかったのではないかな。
 あっ。そう。そう。グループでの活動が中心となった後半においてはあったな。これは次回に。

◎担任の姿勢は、

 基本的には、冒頭述べたように、愛情あふれる接し方、あたたかな指導で、とてもいい。好感がもてるのだが、しかし、あえて言えば、子どもへの指示が多すぎるかな。Bさん自身は助言のつもりかもしれないが、わたしは子どもへの押し付けではないかと思うようなこともあった。

 あと、〇△カードの書かせすぎも感じた。まだひらがな一字一字を書くのがやっとという子だっているのに・・・、
「書きたい子に書かせるとか、たまに書かせるのならともかく、カードを書くために活動しているようになってしまうのはよくないよ。それより先生がまわりながら、子どもの活動の様子を見守り、子どものやっていることが分からなければ聞くとか、子どもの活動に感動したならその感動を伝えるとか、とにかくカードに書かせなくったって、子どもたちの想いは把握できるように努めないとね。
 授業の最後は、そうした先生の感動を子どもたちに話すようにするといいね。」
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 だんだん「〜をしよう。」とか「〜してください。」から脱却し、「〜をしたいの?ああ。それなら、〜。」とか「うわあ。すごい。ここがすてき。」などという言葉かけを多用するようになった。

◎《秋》は単なる素材か。

 研究授業のことは後半に譲るが、そのときの講師から、次のようなことを言われたようだ。
 「秋は単なる素材ですか。」
 そう。これはむかし、わたしの担任時代も言われたっけ。本実践ではドングリ、まつぼっくりだけだったが、いくら、秋の自然からの贈り物をたくさん集めても、ただ作り、ただ遊ぶだけでは、《秋》をどれだけ感じ取ったと言えるか。季節の変化、季節による生活の違いなどをどれだけ実感できたか。それは確かに問われるところだ。

 本単元の導入時、秋の公園を探索に出かけてはいる。そして、指導案の上では、
・様々な秋の自然にふれ、
・体全体を使って秋の様子を感じ取る。
・秋の自然とふれ合う。
とはなっている。しかし、これだけの記述では具体性に欠けると言われても仕方ないだろう。
・やはり寒くなるにつれ、着る服の枚数が増えたとか、
・食べるものも体の温まるものを多く食べるようになったとか、
・近年なら、寒暖の差が激しくて風邪をひきやすくなったから、うがい手洗いを励行しようとか、
 とにかく、何でもいい。秋を実感できる学習は大事にしたいものだ。そうした学習を大事にするなかで、秋の素材(?)とかかわらせていきたいと思う。

これは、今後、Bさんというよりも、A小学校の課題となるだろう。
 
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 すでに、記事中で予告させていただきましたが、本単元の後半は次回にとり上げさせていただきます。なにしろ24時間という長丁場だったため、とちゅう、マンネリムードも漂うようになってしまいます。

 Bさんがいかにその状況を脱したか、どうぞ、お楽しみに。
 



rve83253 at 16:48│Comments(0)TrackBack(0)生活科指導 | 授業

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