2012年01月27日

わたしたちは だれも 一人じゃない!!(5) 〜子どもたちを市民に〜

kodomo113 前記事をご覧になった方々には、本サブタイトルにかけたわたしの想いをご理解いただけると思う。
 子どもの尊厳を重んじる。子どもの人格形成を支援する。それこそが教育の根本になければならない。
 教育基本法だって改悪と言われながらも、『個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、〜。』の文言は今も大事にされている。これを単なる呪文にしてはならない。

 わたしは今ここに、そうした精神を大事にし、育む教育実践を紹介させていただいている。こうした、子どもの内面にある学びの欲求に応える実践が、小、中、高と続くようになったらと、それこそ夢見る想いである。
 でも、ほんとうは夢であってはならないのだよね。なんとかして、日本中でこうした教育が花咲くようにしなければならないと切に思う。

 とまあ、そんなことを念頭に置きながら、本記事では、まず札埜氏の実践からうかがえた、2人の生徒の育ちについて、考察していきたいと思う。そして、最後は、本実践を受けての子どもたちと札埜氏の想いにふれさせていただこう。

 
〇一人目。前記事ではふれなかったのであるが、札埜氏の『「国語」としてできること』のなかに次の文言がある。

 「古典購読」は2年選択科目(1単位)の一つであるが、ある生徒から「3単位の『古典』と『古典講読』の内容に違いがない」不満を聴いていたので、『古典講読』の担当が決まった時から教科書にとらわれず授業を進めるつもりだった。 

・こういう不満を述べる子どもが育っていることをとてもうれしく思う。たのもしく思う。自ら主体的に学ぼうとする姿勢がうかがえる。自分の学びを大切にしている。

 わたしは失礼ながらここを読ませていただいたとき、数年前の、受験本位な、単位未履修問題を想い浮かべた。それと比べると、この高校生は、自己確立に向けての確かな姿勢をもっていると感じた。『今』を大切にしている。

 そう。子どもがこうした姿勢をもつということは、やはり指導者の姿勢がいいからである。指導者の、子どもの主体性、自己確立を大事にする姿勢が、こうした子どもを育むのだ。

 これは、小学校においてもみられるところである。わたしは過去記事に書かせていただいたことがある。
    問われる。大人の姿勢も、

 このリンク先記事からうかがえるように、子どもが育ち、自ら学ぼうとするようになると、指導者側もいい加減な姿勢は許されなくなる。子どもの声に謙虚に耳を傾けざるをえなくなる。そして、それがさらなる信頼関係の構築につながる。

 この札埜氏にしても、子どもの声に謙虚だよね。応えている。だからこそ、こうした実践が可能になるのだろう。

・『教科書にとらわれない。』というのも、そうした姿勢の必然的な結果であろう。わたしはここでも思い浮かべたことがある。よく、『うちの子の先生は、教科書通りにやらない。』と言って苦言を呈する大人がいるが、
 常に教科書通りにやらなければいけないとする硬直した姿勢もいけないし、
 唯我独尊的に教科書を無視する姿勢もいけない。
 指導者は、教科書を大事にしながらも、子どもの学びの前に謙虚であるべきだ。そうすれば、おのずから選択すべき教材は決まるというものだ。

 この『子どもの学びの前に謙虚』ということの意味だが、
 子どもは何を学ぼうとしているか。何を学びたがっているか、
 子どもはどういう力をつけたがっているか。
 そういったことについて、深い洞察力をもつことが必要になってくる。

 
・話はちょっと変わってしまうが、教員のなかに、『学校や教師は子どもに対して権力をもっている。それは当然のこと。』とする主張がある。そうした考えは、『子どもの学びの前に謙虚』となる姿勢と対をなすものである。

 わたしはかつて、ある大学の教授とともに研究に励んだことがあった。そのとき、その教授の言葉に忘れられないものがある。
「子ども自ら自分の学びをつくっていくようになれば、教師の権威・権力を感じた場合、必然的にそれへの抵抗を示すようになる。自らの学びを阻害されるからだ。」
 
 この教授は、わたしたちの授業をご覧になりながら、子どもが予想外の反応を示し、それに指導者がどう対処したものかこまっている姿を見ると、『いい子どもを育てているね。』とおっしゃってそれを無上の喜びとされた。
 先のリンク先記事の『問われる。大人の姿勢も』も、そうなる可能性のある授業であろう。


〇二人目。これは前記事に書かせていただいた。今、再掲させていただこう。
「〜。この授業はとても面白かったが、少し物足りない。例えば古文書を用いたマグニチュードや震源地特定の仕方をもう少し詳しく知りたかった」

 この子も、自ら学ぼうとする姿勢が養われているなと感じる。だから、少し不満を抱いているようだ。自ら学びを求めている。そうした意味ではすばらしいと思う。

・わたしはこの子が、そうした思いを抱いた後、どうふるまったかに興味がある。それは書かれていないので分からないが、この子が自らそれを追求し出したならすばらしい。
 でも、それは、無理かもしれないね。やはり受験システムがじゃまするだろう。想いだけで終わってしまったとしても、それはいたしかたないことだ。ミニ学者さん誕生のきっかけになるかもしれないのに、おしいことだ。

・『古文書を用いたマグニチュードや震源地特定の仕方』となると、これは理科との融合が図られなければならない。総合的な学習の時間は教科横断の追求力を養うはずだから、これは、まさに総合にふさわしい学習となるだろう。
 
 ところで、子どもたちの感想を読ませていただくと、今さらながら、総合的な学びに新鮮な驚きを感じているようだ。『むかしと今』『文系と理系』『古典と科学』。そのように切り離されたものが見事に融合していることに素直に感動している。

 でもね。これって、よくよく考えるとおかしいよね。(いや。受験システムを考慮に入れれば、おかしいなどとならないのはよく分かるが、・・・)

 小学校低学年の生活科が登場して20年、小、中、高と、総合的な学習の時間がスタートして10年だ。今の高校生は、こうした教科横断型の学びをしてきたはず。自分たちの学びへの欲求に根差した学習経験もしてきたはず。
 それなのに、今さらながら、こうした学びに驚いたり感動したりしている。ほんとうならもっともっとストレートに災害にあってしまった東北の人々に想いを寄せた感想になっていいはずなのに。
 と思ったが・・・、
kodomo112


〇いやあ。後半の『現代文』になって、ガラッと様相が変わった。よかった。

 札埜氏は、2単位必修の『現代文』においても、東北を意識させる実践を行われ、そこでは、やはり教科書にない教材をとり上げられた。宮沢賢治さんの『永訣の朝』である。『万人の幸せなくして、個人の幸せはあり得ない。』という賢治さんの思想をテーマとされた。
 また、これは特にふれていらっしゃらないので教科書にあるのだと思うが、丸山真男氏の「『である』ことと『する』こと」、石牟礼道子氏の「後生の桜」も関連させながらとり上げられた。

 ここでは長くなるので、授業の流れは割愛させていただき、生徒の感想と札埜和男氏の主張の抜粋を掲載させていただくことにしたい。生徒の感想は、もう上記のようなものではなく、授業でとり上げられた人々へストレートに想いを寄せたものになっている。

・(水俣病の)話を聴いて、過去の過ちとはもう一度繰り返さないためのものなのに、今原発問題で水俣病とリンクする所があり、同じ過ちを繰り返しているなと思い、悲しくなりました。こういった被害が起こった時行政や学者の他人行儀な発表で片付くものではないし、その地域ではずっと被害が残り続けるんだとわかりました。
 水俣病への理不尽な嫌がらせやいじめの話を聴いてとても苦しくなりました。権力を持つ立場になってもこのことは忘れたくないです。

・水俣病で一番ひどかったと思うのは、人が人によって地獄を味わったことです。聴いているだけで心が痛くなる話でした。ですが私たちは最後まで聴く必要があるのだと切実に感じました。同じ過ちを繰り返さないために歴史をきちんと知らなくてはなりません。〜。
 最後に言われた言葉である『権力の使い方を間違えてはならない』、このことが私の頭に残っています。

・自分が生活を営む場所でどういう風に暮らしていけば良いのか。隣の家の人とその街の人とどんな風につながっていけばいいのか。地面に足をつけて生きること、一人よがりじゃなくて周りの自然や人々と共に生きてゆきたいと私は一学期の授業内容と研修旅行を通じて思いました。
 もし将来科学をやることがあったとしても〜、科学をそんな風に使えたらいいし、〜、大事なことは何ができるかではなく、何がしたいかで、一生懸命な気持ちがあれば、周りは助けてくれるというお話は結局人としてどう関わっていくかが、一番そこで生き生きと暮らすきっかけになっていくことを言っているのかもしれません。〜。

・福島の原発問題は水俣病問題と非常によく似ているが、いくらかタチが悪い。それは福島原発で発電された電力を享受していたのは東北の県ではなく首都圏であったからだ。〜東北の人々はその犠牲になったといえる。科学技術の恩恵と害は平等に分配されてはいない。万人が幸せになる科学とは何なのだろうか。
 〜科学はもっと人々に理解されないといけない、科学は科学者だけのものではない。

・(「学歴や資格をとって就職を争うよりこうした田舎のムラで何もない状態からここで今自分ができることを考えて直接人の役に立てることをしたかったという)話を聴いてとても宮沢賢治の思想に似ている部分があるなあと思った。人の役に立つことを生き甲斐として暮らしていらっしゃる姿は私にはとてもまぶしかった。〜。
 私は今、思うがままに生きている。果たしてそんな人生でいいのかとすごく悩まされた。そして今の自分がとても悔しくて仕方がなかった。『誰かの役に立ちたい。そういう人生を歩みたい』と強く思うようになり、〜。


 次は何やら、わたし自身をみる思いがした。読者の皆さんはどうお感じになるかな。
 でも、そうは言っても、若者に言われる場合、わたしも告発される立場になってしまう。心中複雑だ。

・国民だって、原子力発電が危険性の高い発電方法だと理解していたはずだ。国民には意思表示の自由権が与えられているにもかかわらず今更になって原発反対だの『東電もっとしっかりしろ』だの言い始める。余りに理不尽ではないか。〜たくさんの権利を日々使わず放置して自分が身の危機に迫られると必死になってその権力を使おうとする。こんな民を抱えてよく国が成り立つなあと思った。メディアが取り上げる旬の情報に左右されすぎではないか。〜。『しっかりせえよ』は私たち国民ではないか。社会をつくっているのは私たちであって、その私たちが変わらずして今の日本が良くなるなんて考えられるだろうか。


 子どもたちの感想を読んで思う。

 この子たちは理系なのかな。科学を志している子が多いようだ。そういう子たちが国語をこのように学ぶ。大変意義深いように思った。また、子どもたちの想いの多様さはどうだ。日ごろ子どもの想いを大切にして実践しているあかしのように思われた。さらに、自らの生き方をしっかり構築しているようにも思われ、将来の日本の建設で大きな役割を担うであろう。



 最後に、札埜氏のむすびの言葉を掲載させていただく。これは全文載せさせていただこう。
 

学びの思想化

 各科目で取り組んだ授業を総括するならば、「国語としてできること」とはいったい何なのか。その総括することばは「模擬裁判」から示唆を得た。8月に開催される高校生模擬裁判選手権大会(日弁連主催・最高裁、法務省共催)に向けて毎年さまざまなゲストを招くが、今年のその一人が甲山事件冤罪被害者・山田悦子氏であった。山田氏は生徒に向けて「学んだことを思想にしていかねば意味がない」と語られた。まさしく国語としてできることは、学びの思想化の手助けではなかろうか。

 研修旅行と一学期の授業を融合させて生徒が考えたことは、あり方としての「暮らし」「科学」「生き方」「市民」等多岐に及ぶ。文学や語りといった個人の言葉を媒介に学び考えたことをもとに、自分はどう生きて、どう社会に関わっていくのか、どう人々に還元していくのか。生徒の心の中に思索の芽は顔を覗かせているように思われる。
 
 学び得たことを自分の世界だけに閉じ込めるだけでなく、思想化していくには時間がかかる。募金やボランティア活動の方が素早く貢献できるであろう。しかし筆者は今回授業を受けた者の中から、自分の「思想」として血肉化し、決して「御用学者」ではない、東北の復興に寄与する「エリート」が生まれ出ずると信じている。

 
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〇本記事に教科書問題が登場しました。本記事の趣旨とは異なりますので、この欄でリンクさせていただきます。かなり長いですが、よろしければご覧ください。
分厚くなった教科書

〇受験システムを解消したら、ただちにこのような授業が全国で行われるようになるといったら、それは言い過ぎですね。やはり、そこでは、教員の研さんが必要不可欠でしょう。

 そう。受験システムは、教員をも《歯車化》していると言えないでしょうか。

〇札埜和男先生、しょうさん、そして、青木書店さん、掲載許可をいただき、まことにありがとうございました。また、本授業で多くを学んだ高校生の皆さんにも、厚くお礼申し上げます。すばらしい未来が切り開かれますよう、祈念しています。

〇一週間前、またまたすばらしい、ある小学校の取組を見せてもらいました。今回とり上げさせていただいた高校生の学びと軌を一にするものがあると思いました。小学校から高校へと、子どもが主体的に学ぶ姿の深化を感じ取っていただければうれしく思います。

rve83253 at 08:33│Comments(4)TrackBack(0)教育観 | 指導観

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この記事へのコメント

1. Posted by k1   2012年01月28日 22:40
共感します。教育とはなんぞや、今こそ考えたい。
2. Posted by toshi   2012年01月29日 09:52
k1さん
 コメント、ありがとうございます。教育は、学ぶ者が主体者なのか学ばせるものが主体者なのか、明日を担う者が明確である以上、論議を待つ必要はないと思うのですが、どうもそうなっていないようです。
3. Posted by しょう   2012年01月29日 21:05
 ひき続き札埜氏の実践を続き取り上げていただきありがとうございます。
 教育の目的、授業の本来あるべき姿、そして、高校生の感想に対するコメントなどていねいにまとめていただきました。
 このような実践の意義(それを広げていくことの大切さ)がますます伝わってくる記事だと思います。
 
 私も、ブログ記事で取り上げることにしました。(「しょう」のリンク先)特にこのたびは、注目すべき点を列挙しただけですが、toshiさんの記事にもリンクさせていただきましたので、ご了承下さい。
4. Posted by toshi   2012年01月31日 05:46
しょうさん
 いやあ。こちらこそふだんなじみのない高校の授業に目を開かせていただきました。驚いたのは、記事の末尾にちょっとふれさせていただきましたが、最近見た小学6年生の授業と、問題解決という意味での系統性が成立するのではないかと思うような、軌を一にするすばらしい授業を見せていただきました。
 次回はそれを掲載させていただこうと思っています。よろしくお願いします。
 リンクもしていただき、ありがとうございました。

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